溺愛事変

第一話:余命宣告

 

春のうららかな日に、二人は出会った。
桜の花びらが舞う木の下で、青い瞳の男の子と、琥珀色の瞳をした女の子。
本家の者と、分家の者。それは菅原道真公を祖に持ち、平安時代から続く呪術師の家系。呪術界の頂点に立つ御三家が一つ五条家は、本家が中心になり、その血を長らく受け継いできた。
二人は同じく無下限呪術を受け継いだ者同士。でも二人には天と地ほどの格差があった。
"六眼"を持つ者と、持たざる者。
この五条家では――それが全てだ。

「オマエ、名前は?」
「…
「オレは悟」
「さとる…」

南国の海を思わせる澄んだ蒼眼と、絹のように柔らかそうな雪のごとき白髪が春風になびく。神に愛されたその美しい容姿を目前に、は羨ましいとさえ思った。
本家の跡取りであるを圧倒的に凌駕する分家の少年は、近い将来、五条家の全てを手に入れるだろう。子供心にそれを理解したは、この日から血の滲む思いで鍛錬するだけでなく、当主としてふさわしい教養を身に着け、話し方、歩き方、座り方、表情、全てに至るまで美しく見えるよう努力をしてきた。女であることを恥じるのではなく、最大限生かすことを選び、呪術師、そして一人の女性としても認められるよう、努力をして生きてきた。
だが無常にも、その努力が実を結ぶことはなく、希望さえ費えたのは、がハタチになった頃だった。

「え…婚約…ですか?」

現当主の父に告げられたのは、分家でありながら六眼を持つ男へ嫁げという話だった。

「ご、ご冗談…ですよね。わたしはこの本家の当主に――」
「それは妹の伊織いおりに継がせる」
「伊織に?」

伊織とはの二歳下の妹だ。伊織もまた、無下限呪術を受け継ぎ生まれてきた。だが使いこなす才能はよりも下だっただけに、父の話は到底受け入れられるものではない。

「何故…わたしがあの男に嫁がねばならないのですか」
「彼が六眼である以上、本家と分家などという古臭い常識は忘れろ。オマエは五条悟と結婚して、あの男の子供を産むのだ。それがこの本家、または呪術界の為にもなる」
「そんな…」
「もう一つ名家のご子息から縁談話が来ているが、彼はこの五条家に婿に入ると言ってくれていてな。伊織の婿にと思っている」

その話を聞き、は息を飲んだ。どうせ結婚しなければならないのなら、五条悟に嫁ぐのではなく、婿に入ると言ってくれている男性に嫁ぎたいと、は思った。そうすれば本家の当主となる希望はある。
この家を継ぐのは幼い頃からの大切な夢でもあった。その為に惜しまず努力をしてきたのだ。それを父の一言で失うのはツラすぎる。

――オマエはこの本家の立派な当主になれ。

が幼い頃、父が言ってくれた言葉だ。その期待に応えるべく努力してきたはずが、六眼という異端が誕生したことで、少しずつ五条家全体、いや、呪術界そのものが変わっていったようだ。

「待って下さい。五条悟に嫁ぐのは何もわたしじゃなくてもいいのでは。わたしが婿をとり、伊織を五条悟の――」
「それはならん!」
「何故ですか!伊織はあの男に憧れを持っている。きっと伊織なら喜んで彼に嫁いでくれるはずです」

妹の伊織はよりも自由奔放な一面があった。次女ということで比較的、周りの期待も薄かったせいか、厳しい鍛錬などよりも、学校の友達と好きなアーティストのコンサートへ出かけていくような今時の女子高生だった。その伊織が密かに五条悟に憧れていることは、も気づいていた。

「それは無理だ。先方が伊織ではなく、オマエを望んでいるからな」
「…五条悟が…?」
「そうだ。是非、オマエを妻にと強く言ってきてな。こちらとしては願ってもない――」
「嫌です…」
「何?」
「わたしは…お父様の跡を継ぐために今日まで努力をして来た。それを無駄にしろとおっしゃるのですか?」
「無駄にしろとは言ってない。それは今後、彼と二人でこの呪術界、いや、世界を守る力になるだろう」

その父の言葉に心が冷えていくのが分かった。これは決定事項で反論は許されないのだ。そう理解した時、は意識が遠のくのを感じた。

「おい、…どうした?顔色が悪いぞ…」
「ちょっと…具合が…」
「何…?まさか…例の発作か?」

そこで父が初めて慌てたように腰を上げた。
は元々体が弱い方だった。幼い頃、心臓に疾患があると診断され、あまり激しい鍛錬は無理だと言われてきた。だが治療に専念し、体を鍛え、大人になってからは一度も発作を起こしたことはない。なのに何故、今頃になって胸が痛むんだろう、とは唇を嚙みしめた。

「誰か!医者を呼べ!」

薄れる意識の中、父の声を遠くに聞きながら、は絶望の淵へと落ちていくのを感じていた。


△▼△


カサ…っと葉の踏む音がして、庭師が振り返ると、そこには五条家の長女の姿があった。着物姿で日傘を差しながら、綺麗な所作で歩く姿に、庭師の男達もついつい枝を切る手を止めて目で追ってしまう。

「おいおい…見てないで仕事しろ」

一人、手を動かしていた男が苦笑いを浮かべた。

「だって滅多に出てこないんだ。今しか拝めないだろ。五条家の令嬢なんて」
「おい、聞こえるぞ――」

と男が言った瞬間、ふと顔を上げたと目が合い、庭師ふたりの頬がほんのり赤く染まる。

「ご苦労様です」
「は、はい…」

軽く会釈をされ、上ずった声で返事をすると、止まっていた手を動かし始めた。

「う…美しい」
「そして優しい…」
「…まさに天使だな…」

目の保養になるどころの話ではなく、五条家の庭師になれて良かった、と男達は心の底から感激していた。

「お姉さま~」

そこにもう一人、五条家の次女が着物姿で駆けてくる。こちらも美しいが、所作は少々品がない。
庭に植えてある椿を眺めていたは、ゆっくりと立ち上がり、声のした方へ振り向いた。その瞬間、妹の伊織が自分の腕をに絡めてくる。

「何をしてるの?」

無邪気な笑顔で訊いてくる伊織を見て、はすぐに視線を戻した。

「花を見てたの」
「心臓が悪いんだから外に出ない方がいいわよー?明日の縁談中に倒れたら困るでしょ?」
「……大丈夫よ、これくらい」
「でも伊織は心配だわ。お姉さまの体のことを知っても先方がせっかく婿養子に来てくれると言ってるんだもの。万全で会って欲しいし」
「心配しなくていいわ。明日の縁談が例え破談になったとしても、五条悟へ嫁ぐことはないから」

は素っ気ない態度で伊織から離れると、再び家の方へ歩いて行く。伊織はそれを見てニヤリとしながら追いかけて行った。

「そんなの心配してないわよ。あの五条悟の妻が病弱なんて許されないもの。だからお姉さまじゃなく、私に結婚の話が舞い込んできたんだし」
「…良かったじゃない。昔からあなたは彼に憧れてたんだもの」

振り返りもせず言いのけたは、内心ウンザリしていた。
妹の伊織は昔から我がままで自己中心的、自分の思い通りにいかなければ気が済まない性格。当然、真面目なとは反りが合わず、子供の頃から不仲な姉妹だった。

「でもお姉さまもかわいそう…心臓が悪化してたなんて…きっと無理に鍛錬なんかしてたからよ。でも心配しないで。お姉さまは婿養子をとって、本家を守っていけるんだもの」
「そうね」

意地の悪い性格は大人になってますます拍車がかかっている妹を見て、はニッコリ微笑んだ。

「伊織も良かったわね。出来損ないの無下限の使い手でも、本家の娘というだけで六眼の彼に嫁げるんだもの。お父様に感謝しなくちゃね」
「…言ってくれるじゃない。やっぱり惜しくなったんじゃないの?悟さんが」

ムッとした顔で睨んで来る伊織を見て、はクスっと笑みを漏らした。

「惜しい?まさか。でも、そうね。五条悟はわたしとの結婚を望んでいたらしいし、伊織の低能ぶりを知れば即破談になってしまうかもしれないわね」
「な…」
「でも…それも仕方ないわよね。五条家本家の娘にしてはあなたの能力は…下の下だもの」
「な、何ですって…?」

ハッキリとバカにされたことで伊織の顔が真っ赤に染まっていく。それでもは言葉を続けた。

「わたしが五条悟ならあなたは絶対に選ばない。だってその性格の上に無下限の扱いが全然なってないもの。これじゃ跡取りを産ませられないと思うでしょう?」
「ふざけないで!子供を産めもしないお姉さまにだけは言われたくないわ!そっちこそ女として終わってるじゃないっ」
「………」

伊織はを睨みつけると「お母様に言いつけてやるから」と言い残し、サッサと屋敷へ戻っていく。それを見送っていると、胸の奥がズキズキと痛みだした。

(…興奮したせいかな。また痛みが出てきた…)

手で胸を抑えつつ、は軽く深呼吸をした。

――子供を産めもしない。

そんな無神経な言葉までぶつけてくる妹には失笑しか出ない。伊織は昔からをライバル視しているせいか、姉を姉とも思っていないようなところがある。でも仕方がないとも言える。本当の母はが幼い頃に病で亡くなり、父が伊織の母と再婚したので、二人は母違いの姉妹だった。そして伊織以上にを疎ましく思っているのは伊織の母親だろう。さえいなければ伊織を五条家当主にしたかったに違いない。
ふと屋敷を見上げれば、その継母が伊織を抱きしめながらを冷たい目で見下ろしていた。

(…どうやら怒らせたようね)

酷く冷めた表情の継母に、は内心苦笑した。どうせ早く死んで欲しいと思ってるはずだ。

(でも…まだ死ねない…結果的にわたしはこの家に残ることが出来たんだから…)

倒れたあの日、は医者から余命宣告を受けた。このまま呪術師として生きれば、心臓は数年も持たないと。
それを聞いて父はを五条悟に嫁がせるのをやめた。出来損ないの娘を六眼の嫁にするわけにはいかないからだ。
すぐに縁談の申し出を断り、代わりに妹の伊織を、と売り込む辺りはさすがとしか言いようがない。そしてには伊織の婿養子にするはずだった名家の男を宛がった。その男はの体のことを聞いてもなお、婿養子に入りたいと言ったそうだ。

(どうせ五条家本家に入りたいだけだろうけど)

それを分かっていても、にはどうすることも出来ない。これ以上、父の期待を裏切るわけにはいかないからだ。

(そこにわたしの意志はいらない…)

五条家に生まれた者の宿命には、誰も逆らえないのだから。

さん」

家に入ろうとした時、中から顔を出したのは本家に仕える親族の男だった。

「あ…学さん」
「あれ、どうかしました?顔色が悪い」
「いえ…少し息苦しくて」
「…それはいけない…僕で良ければ医者に連れて行きますよ」

のかかりつけの病院は、家から車で三十分ほどの場所にある。は逡巡したものの、病院に連れて行ってもらうことにした。今は家にいたくなかったのもある。

「では…お願いします」
「いいですよ。僕で良ければ」

五条学は遠縁にあたる人当たりのいい男だ。すぐに車を手配し、病院へ同行してくれた。

「もしかして…また伊織ちゃんと揉めたとか?」
「…そんなのはいつものことです」
「まあ、そうかもしれないけど…今は極力ストレスは受けない方がいい」
「そうしたいんですけどね、わたしも。大事な縁談前なので」
「ああ、そうでしたね。いや、相手の男性は運がいい。さんの婿養子なんて」
「そうですか?体の弱い女との結婚なんて、本心で望んでくれる人なんていないでしょう」
「また、そんなこと言って…」
「本当のことです」

自嘲気味に言いながら、は窓の外へ視線を向けた。本当なら、立派な呪術師として当主になりたかった。力のない者は必要のない世界なのだ。どれだけ頑張ろうとも、呪術師としての自分はもういない。後はどれだけ体に負担をかけないよう生きるかを考えなければならない。

(…何もかも…欲しいものは全てこの手から零れ落ちていく…)

流れる景色を見ながら、は学にバレないよう小さな溜息を吐いた。
その時だった。車が急ブレーキをかけ、の体は前のめりになった。

「きゃ…な、何事?」
「す、すみません、お嬢様…!何者かが道を塞いでいて――ぐぁぁ」
「な…」

急停車した瞬間だった。大きなカマのような武器が運転手の胸元を車体ごと切り裂いた。

さん、伏せて!」
「は、はい…っ」

隣にいた学が車を飛び出していく。だがすぐに悲鳴が上がり、の肩がビクリと跳ねた。

(誰…?これは…五条家の車と知っての襲撃かもしれない…)

そこで護衛もつけずに来てしまったことを後悔した。学がいたのと、ちょっと近くの病院へ行くだけだと油断していた。

(逃げなければ…でも、どうやって?)

今のに戦う体力はない。もし無理をすれば心臓がいつ止まるかも分からない。
いったい、どうすれば――。
一瞬の迷いでは動けずにいた。その時、大きな爆発音とともに車体が激しく揺れて、の体は開いたドアから外へと放り出された。

「…っ…」

地面に体が叩きつけられた痛みに顔をしかめる。だが目の前に誰かの足が見えた時、ひゅっと喉が鳴った。

「五条…だな」

その低い声に顔を上げれば、そこには黒装束の男達が数人、を取り囲んでいた。