溺愛事変

第二話:救われない話

 

第二話:救われない話



記録――。十二月一日、午後三時。この日、五条家の長女は病院へ行く途中、何者かの襲撃を受けた。現場には体を二つに裂かれた運転手の遺体と、大量の血液だけが残され、長女は忽然と姿を消した。
同行していた親族の男は現場付近で意識を失っていたのを発見されたが、幸い軽い怪我のみで、命に別状なし。

大事な跡取りを誘拐されたとして、五条家当主は秘密裏に長女の捜索を続けたものの、依然として足取りはつかめていなかった。



△▼△



「ほっほ~。この娘があの五条家本家のお嬢様か…。かなりの上玉じゃねえか。全くもったいないねえ」

目隠しを外された時、の目の前にいたのは見たこともない男だった。
あの襲撃の後、目隠しをされ、口には猿轡をはめられたは、特殊な結界の役割をしている箱へ入れられた。彼女の術式を警戒してか、その中では術式を一切使えない。その状態で長い道のりを移動させられたは、せめてもの痕跡を、と自ら残穢を少しずつ残すことだけに専念した。しかし途中で眠らされたことで、どれだけの距離を移動したのかが分からない。
今、目覚めて目隠しを外された時、は牢屋のような場所に閉じ込められていた。建物全体を見渡せば、小さな小屋のようにも見える。
を品定めするように眺めているのは長髪を後ろに一つでまとめた四十代くらいの男だ。その男の後ろには数人、ガラの悪そうな男達が控えている。

(何なの、この人達は…呪力量を考えると…呪詛師で間違いはない。でも何故、わたしを…?まだ当主にさえなっていないのに)

六眼をもって生まれた五条悟は、常に多額の懸賞金をかけられ、その命を狙われている。だが、五条悟だけではなく、五条家本家の当主もまた然り。
それは呪術界に多大な権力を持っているからに他ならない。それを疎ましく思う者は大勢いる。それらの者が呪詛師を雇い、命を狙おうと襲ってくることは、よくある話だった。しかし当主にもなっていないを殺したところで、何の意味も成さないのだ。

「おい、そこの新入り」

長髪の男は呪詛師を束ねる元締めみたいな存在らしい。後ろに立っている長身の男へ「この女、午後の九時まで見張ってろ」と声をかけた。

「依頼主からの注文ですぐに殺すなと言われてんだよ。オマエ、しばらく見張ってろ」
「分かりました」

新入りと呼ばれた男は、帽子を目深く被り、他の呪詛師同様に襟元でマスクのように口元を隠している。全員が黒づくめで、こうして見ると不気味な集団だった。
は男の"依頼主"という言葉を聞いてドキリとした。やはり、この誘拐を企てた黒幕がいるらしい。

「あーそんで九時になったら殺せ」
「はい」
「ほんともったいねえ。ここで売り飛ばせば大金になるってのに。まあ今回の依頼主はかなり太っ腹だから、しっかり仕事はしねえとな。オマエにも報酬は弾むぞ、新入り」

長髪の男はそう言って笑うと、他の男達にも声をかけた。

「おい、オマエら。女には指一本触れんじゃねえぞ!何がキッカケで依頼がポシャるか分かんねーからな!もし手ぇ出したら新入り、オマエがコイツら止めろ」

自分の部下にそう言い聞かせ、長髪の男は小屋を出て行ってしまった。その場に残ったのは、牢屋の前に新入りと呼ばれた男が一人。小屋の入り口付近に五人。外からもかすかに声がすることから、まだ他にも仲間がいるようだ。この状態では逃げ出すことも難しい。

(この牢屋からはあの結界の力は感じない…無理をすれば術式は使える…。でも…この体で難しい無下限を操りきれるか分からない…。下手をすればわたしの心臓は止まってしまう…)

と言って、ジっとしていても九時になれば殺されてしまう。絶望的な状況だ。
眠らされる前に感じた移動距離を考えても、五条家の人間がの居場所を掴んでいるかは怪しいところだ。襲撃されたことを知ってから、どれだけ早く動いたとしても、の残した残穢が消える前に追いつくのは難しいかもしれない。

「ねえ」
「……っ」

あれこれ考えていると、不意に声をかけられた。顔を上げると、新入りと呼ばれた男が牢屋の目の前に座っている。相変わらずマスクと帽子で顔すら見えない。

「アンタ、殺されるようなこと、したの?」
「……」

その問いに首を振ると、男はゆっくりと立ち上がり、先ほど長髪の男から受け取った牢屋の鍵らしきものをポケットから取り出した。何をする気だと警戒したものの、体を動かそうにも両手を後ろで縛られている。
男は牢屋の鍵を開けて中へ入って来ると、の前にしゃがんで彼女の口を塞いでいる猿轡を外してくれた。

「あ、あの…」
「へえ…近くで見れば、更に綺麗だなー」
「……っ」
「色が白すぎて不健康そうだけど」

かすかに男が笑ったようだった。ゾッとしたものの、男達のボスがいない今が逃げるチャンスかもしれない。この男にダメ元で助けを乞うしかないと思った。

「あ、あの…ここから出して下さい…!」

思い切って頼んでみたが、男は微動だにせず、首を振った。

「それは無理だよ。僕の仕事は君を見張ることだしね」
「…そんな…」

あっさり断られ、は唇を噛みしめた。新入りというからには、ここにいる呪詛師たちとも、それほど親密ではないはずだと思って頼んでみたのだが、そう甘くはなかったようだ。いや、でもまだ交渉の余地はあるとは思った。
こういう呪詛師たちは金のために汚い仕事をやっているのは知っている。報酬次第なら話を聞いてくれるかもしれない。

「…お金を払います」
「…金?」
「助けてくれたら…アナタの言い値を払います。だから…どうかわたしを――」
「金は…いらないかな」
「……っ?」
「おい、新入り!テメェ、何勝手に女と喋ってんだよ…!」

そこへ入り口付近を見張っていた男達が、ぞろぞろと牢屋の中へ入ってきた。

「テメェだけ抜け駆けして、その女ヤっちまおうって魂胆か?え?」
「…まさか。ちょっとお喋りしてただけですよ」
「そうかよ。じゃあテメェはどいてろ」

男の中でも一際体の大きな男が、ニヤニヤしながらに近づいて来た。

「へへ…騒ぐなよ?」
「な…なに…きゃっ」

男の手がの着ている着物へ伸び、襟元を力いっぱい引っ張られた。そのまま床へ押し倒され、巨体が圧し掛かってくる。

「やめて…っ」
「マジで綺麗だな、オマエ…オレ、金持ちの女とヤったことねーんだよ」

男が何をする気なのか理解した瞬間、の顏から血の気が引いて行く。そこへ男の仲間が「ほんとにいいのかよ。手ぇ出したらダメって言われたろ」と気持ち程度に止めに入る。

「バーカ、ありゃバレずにやれよってことだろ。あの五条家の令嬢とヤれるんだぜ?ボスの説教なんて大したことじゃねえ」

仲間の制止も聞かず、巨体の男がの着物を脱がしていく。白い肩が露わになり、は「やめてっ」と叫びながら、男の手にかじりついた。

「いてっ…このアマ…」
「…あっ…」

手をかじられ、腹を立てた男が拳での頬を殴りつける。その衝撃に一瞬だけ意識が飛びそうになった。

(最悪だ…こんなところで貞操を奪われて殺されるなんて…わたしはまだ何も残していない…夢も叶えられていない…生まれてきた…意味がない)

今では三人がかりで着物をはごうとする男達に、最後のあがきと言わんばかりに、は抵抗した。だが力にも限界が来る。もうダメだ、と体の力を抜こうとした時だった。入り口付近の方から悲鳴が上がり、に圧し掛かっていた男達が一斉に振り向いた。

「な…なにしてやがる、新入り!」

そこには、仲間の一人を引きずって歩いて来た長身の男が立っていた。

「いや~まずは外のヤツからと思ったら、オマエら何その子に手ぇ出そうとしてんの?」
「あ?テメェ…裏切る気――」

と巨体の男が立ちあがった時だった。長身の男が手をかざした瞬間、一斉に見えない力で男達が引き寄せられ、互いにぶつかり合い、床に転がった。そこまでで一秒あったかないかの時間。
それを見たは小さく息を飲んだ。今の術式はよく知っているからだ。

(今のは…"蒼"…?それもわたしにまで被害が及ばないよう最小限に抑えていた…あの難しい術をここまで繊細にコントロール出来る術師はほとんどいない…。いえ…ひとりだけ、これが出来る人はいる…)

は信じられないものを見るように、自分の前に歩いて来た長身の男を見上げた。

「アナタ…まさか…」
「やっと気づいた?」

長身の男は再びの前にしゃがむと、被っていた帽子を徐に脱ぎ去り、後ろへと放り投げた。そうすることで露わになったのは、雪のごとき白い髪と、深い海のような蒼眼――。

「ご…五条…悟…」
「せいかーい」

男はニッコリ微笑むと、口元を覆っていた襟元を指で下げ、その端正な顔立ちを惜しげもなくさらした。
もこうして顔を突き合わせるのは数年ぶりだ。

「ど…どうして…アナタがここに…」
「そりゃーオマエの残した残穢を追ってきたから?いや~コイツらの仲間と入れ替わるの苦労したよ。僕と同じくらいの身長のヤツがいて助かったけど」
「え…いつの間に――」
「ああ、そういう話は後で話そう。今は…オマエの気持ちを聞きたい」
「…わたしの…気持ち…?」
「実はこれ聞くために、あの日僕は五条家の本家を尋ねようとしてたんだよね」
「……っ?」

あの日、というのはが襲撃された日のことだろう。だからこそ、いち早く襲撃の件を聞いての残した残穢を追ってこれたのだ。
六眼を持っている五条悟なら、他の術師が追えない僅かな呪力も見逃さない。
全てを理解したは、それでもこの状況で彼が何を訊きたがっているのか気になった。先ほどの男達は死んでいない。気を失っているだけだ。なのに悠長に質問をしてくる五条に、は少し混乱した。

「その質問…後にしてはダメなの?」
「んー。出来れば今、聞きたい」

五条はそう言って微笑むと、そっとの頬へ指を伸ばした。その感触にビクリと肩が跳ねる。

「コイツらに殴られた?赤くなってる」
「…そ、そんなことより…早く逃げないとさっきの男が戻ってくるわ」
「ああ、アイツね。別に戻って来たところで僕には関係ない」

シレっとした顔で言うと、五条は再びを見つめた。射抜くような鋭い眼差しに、も一瞬言葉を失う。以前に会った頃よりも比べ物にならない力を、今の彼から感じていた。

「どうして僕との婚約を破棄にしたの?」
「…え?」

不意に言われた言葉は聞こえていたが、驚きすぎて理解が追いつかない。この状況で聞くこととは思えなかった。

「応えてよ。何で?」

を見つめる五条は至って真剣な顔だ。冗談ではなく、本気で聞いているのだと気づいた。

「…聞いてないの…?わたしの病気のこと」
「聞いたけど」
「だったら…分かるでしょう?アナタにわたしは相応しくない。だから――」
「相応しくないって、何。病気だからって理由だけじゃ納得いかない」
「…な…納得いかないって、だって…」

六眼である五条は呪術界にとって貴重な存在だ。それが御三家、はたまた呪術界上層部の見解だろう。その男に病弱な女を嫁がせられるわけがない。

「アナタも五条家の人間なら分かるはず。アナタにはもっと健康的な相応しい相手がいるわ」
「それがオマエの妹ってわけだ」
「…少なくとも…伊織はわたしと違って健康だし、美人だもの。それに本家の次女。アナタともつり合いが――」
「いらない」
「え…?」
「僕はオマエ以外の女と結婚するつもりはない」

五条はそう言い切ると「そこで質問なんだけど」と前置きをして、を見つめた。

「オマエは?」
「わたし…?」
「オマエは僕と結婚するの、嫌なの?」
「……そ、それは…」

まさかそんな質問をされるとは思わず、言葉に詰まる。にしてみれば、この男に嫁ぐよりも婿を取った方が数倍いいと思っている。そして皮肉にも、心臓が悪化したことで、その願いだけは叶えることが出来た。だから五条悟との結婚を、は望んでいない。

(でもそれを今…言ってもいいのかが分からない…)

この状況でふざけた質問をしてくるような相手に、アナタとの結婚は嫌だと言えば、気まずいことになりかねない。
そこまで計算したは「嫌なわけじゃ…」と首を振った。

「お父様に反対されて泣く泣く諦めただけだもの…」
「…ほんとに?」
「ええ…」

探るように訊いてくる五条に、は敢えて悲しげな表情で頷いて見せた。とにかく今は五条だけが頼みの綱であり、は早くここから逃げ出したかった。

「それより…この縄を解いて下さい。そして早く逃げないと――」
「うーん、いまいち信用できない」
「……何のこと?」
「オマエの…の気持ち」
「そんなことを言われても…」

と言った時だった。後ろで気を失っていた男が「うーん…」と唸りながら、意識を取り戻したのを見て、は慌てた。

「や、奴らが起きる前にこの縄を外して」

呑気に「あーそろそろ起きそう」と苦笑している五条に縋るように哀願した。それを見た五条は「いいけど…」と言いながら、にっこりと微笑む。

「その前に…約束してくれる?」
「…約束?」
「そう。ここからオマエを助けて無事に家に戻ることが出来た後は…」
「あ…後は…?」
「前の約束通り、僕と結婚するって」
「…は?」
「何、その態度。やっぱり嫌なんだ」
「い、嫌なわけじゃ…」

僅かに目を細める五条を見て、は内心、この男面倒くさいと思った。だがそれを態度に出すわけにもいかない。

「じゃあ、約束できる?できるなら、助けてあげてもいいけど」
「………(この男…っ)」

ニコニコとしながら、この状況を楽しんでいる五条を見て、の額に怒りマークが浮かび上がる。とはいえ、今は五条しか頼れない。

「約束…します」
「本当に?」

何故、五条が自分に対して、ここまで固執するのか分からない。けれど、今はそう約束することでしか、前に進めない気がした。

「無事に家に帰ることが出来たら…わたしはアナタと結婚します」

はっきりと目を見つめながら言い切れば、五条は満足そうにの頭へ手を置いた。

「良く出来ました♡」