溺愛事変

第三話:望まぬ恩返し

 
――その前に約束してくれる?

助けに来たはずの男から、約束通り結婚をするなら助けてあげると言われ、は頷くしかなかった。ここはまず生きて帰ることが先決だ。
その時、気絶していた男達が、次々に意識を取り戻すのが見えた。

「あれ、もう起きちゃった?」
「テ、テメェ、新入り!裏切る気かこの野郎!」
「裏切るって?別に僕はオマエらの仲間じゃないけど」
「あぁ?!ぶっ殺してやる!」

男達が一斉に五条を囲み、は天を仰いだ。だから早く逃げようと言ったのだ。と言って、力の差は歴然だった。男達が術を使う前に、五条はふらりと動いた瞬間、の目でも追えないほどの素早さで男達をアッと言う間にのしてしまったのだ。

(五条悟が戦うところは初めて見た…やはり強い…)

相手が弱すぎて本気など一切出していなかった。それでも同じ呪術師のから見て、五条の体術はずば抜けている。

「ところで…」

と五条は服を軽く払いながら、の方へ振り向いた。

「僕と結婚すると言うからには、当然も僕のこと好きなんだよね」
「…え?」
「さっき泣く泣く諦めたとも言ってたし」
「あの…」

この後に及んでまだ質問をする気かと唖然とした。男達を倒したとは言え、まだ仲間はいるはずなのに、五条は一向に逃げようとしない。

「ねえ、僕のどこに惚れたの?」
「……(この男、まだわたしを試そうと…)」

ニヤリとしながら訊いてくる五条を見て、は軽く唇を噛んだ。だが腹は立つが、今は五条悟の機嫌を損ねるわけにはいかない。もし好きでもないことがバレれば、平気でを見捨てていきそうだと思った。

「えっと…こ、こうして助けに来てくれたとことか…」
「………」
「…そ、その綺麗な瞳とか…?」
「………」

五条はの言葉を、ただ黙って聞いている。それを見たはダメだった?と内心焦りつつ、あと他に惚れた理由とやらを考えたものの、そもそもは五条のことを知らないのだ。いや、六眼持ちで強いという呪術師としての情報はもちろん知っている。だが一人の男としては全く知らなかった。

「あ、あと…もちろん最強なところも」

そう付け足すと、五条は初めて口元を緩めるのが分かった。
だがその時、外から「おい!仲間がやられてるぞ!」という男の声が響いて来た。

「ちょ…」

敵の気配が近づいてくるのを感じた五条が、いきなりを肩へ担ぎ上げると、小屋の出入り口ではなく、壁の高い場所にある窓へと飛び乗った。ちらりと見れば、窓の向こうは断崖絶壁。どうやら崖のすぐそばにある小屋だったらしい。

「な、何を――」
「面倒だから一気に下りよう」
「は?」

と言った瞬間、の体は空中に投げ出され、重力に逆らうことなく、遥か下方へと落下していく。

「きゃあぁぁぁ…っ」

五条の手が離れ、は暗い夜空を見上げながら、一瞬術式を発動しようとした。だが、やはり心臓への負担を考えると躊躇してしまう。そこへ一緒に落下していた五条の手がの体を引き寄せ、自分の腕へと収めたことで、落ちるスピードが緩まるのを感じた。

「よっと」

無下限を利用し、崖下にあった森の中へふわりと着地した五条は、そこで初めての手首を縛っていたロープを外してくれた。

「大丈夫?」
「………」

放心状態で地面に座り込むの前に、五条もしゃがむと、そっと彼女の頭へ手を置く。はハッとしたように、その手を振り払った。

「わざと…落としたの?」
「……」
「わたしが本当に病気で術式を使えないか…試したのね…?」

の問いに五条はかすかに笑みを浮かべるだけで、何も応えようとはしなかった。それを肯定と受け止め、が文句を言おうとした時、五条はの体を再び担ぎ上げる。

「そろそろ移動しないとね」
「ちょ…お、下ろしてっ」
「僕が走った方が早い。それより…さっきの話の続き」
「…え?」

を肩に担ぐようにして走りながら、五条は言葉を続けた。

「あの言葉に嘘はないよね」
「…っ…わたしを助けてくれれば、結婚という形でお礼はします!」
「それって…愛のない結婚ってこと?」
「……え…?」

は内心、溜息を吐いた。

(当たり前じゃない…そっちだって…)

どうせ五条悟も愛があるからとの結婚に執着しているわけじゃない。単に本家の女を嫁にしたいだけなのだ。それはの母親が、本家の女だから――。
次女の伊織ではダメだと言うのも、その辺が理由だろうとは考えていた。
その時、遠くから「いたぞー!」という追手の声が聞こえてきた。

(見つかった…!)

さっきよりも人数が多い。どうやら仲間を呼び寄せたようだ。

「あの女…!」
「死ぬまで犯してやる!」

逃げられたことで怒り心頭なのか、どの男達も目を血走らせている。それを見ては覚悟を決めた。

(愛がない結婚が嫌だと言われたら…それはそれで仕方がない。どうせ本気で結婚なんてするつもりもないんだから…)

もし五条がここで自分を見捨てたなら、その時は死ぬ覚悟で術式を使うつもりだった。
だが五条はゆっくりとを下ろし、庇うように前に立った。

「…っ何を…」
「じゃあ…愛にする為に契りでも結ぼうか」

肩越しにを振り返りながら、五条が言った。

「…契り…?」

何を?と思いながらが見上げた時、五条が少しだけ身を屈めて、自分の唇を指さした。

「キス、してよ」
「…へ?」

こんな状況の時に話す内容ではない。一瞬、何を言われたのかともキョトンとしてしまった。

「さっき僕に惚れたと言ってくれてたよね。なら問題ない」
「新入り!テメェ、ヌケガケすんじゃねえ!」

五条のことを未だに呪詛師仲間だと思っているようだ。相手の力量も分からない男達を見て、は相手がそれほど強い呪詛師ではないと確信した。

「できるだろ?僕たち結婚するんだし」
「…で、でも…(試されてる?)」

今にも呪詛師達が術を発動しようという時、押し問答をしている場合じゃない。

「あ、あの…結婚前の男女がそういうことをするのは…」
「貞操ってやつ?それって命より大事なわけ?この状況で呑気だなぁ」

かすかに笑いながら、五条は呪詛師の攻撃を片手で弾いた。と思えばの視界から瞬時に姿を消す。え?と思った時には、数十人はいた呪詛師達が、バタバタと倒れていく。
五条悟は術式を解いていた。技も一切使わない。気絶させた先ほどとは違い、今は体術だけで呪詛師を殺している。その狂気じみた戦い方は、の瞼の裏に嫌でも焼き付いた。

(…凄く静か。自分の鼓動しか聞こえないくらい…)

呪詛師の悲鳴も聞こえない。森のざわめきも。
ただただ、静かに戦う五条悟の姿は月光に照らされ、まるで悪の化身のようにも見える。でも間違いなく、この男がこの世界を救う救世主なのだと実感していた。
それが、六眼を持つ者と、持たざる者の差だ。

「そこまで渋るのは…やっぱり惚れたのなんだのは嘘だった?まあ、別にいいけど」

最後の呪詛師の男の首を折った後で、五条が振り向く。は真っすぐにその六眼を見つめて、一歩、また一歩と近づいて行った。そして五条の目の前に立つと、手を伸ばし彼の頬を引き寄せる。
澄んだ冬空のような青い瞳が、大きく見開かれた。
二人の唇が触れあい、かすかな熱が灯る。

「わたしに未来はない。この心臓がいつ止まるのかも分からない。毎日覚悟しながら生きてるの。呑気なわけないでしょ?」
「…?」
「…それでもいいなら、結婚してあげる」
「………」

言った瞬間、かろうじて生き残っていた呪詛師が立ち上がり、攻撃をしかけようとした。だが五条はその男の方へ左手のみをかざし、見もしないままに蒼を放つ。呪詛師は一瞬で形を失った。

「…結婚して、
「え…?」
「こんな状況でキスしてくる子は初めてだよ」
「…は?」
「度胸がある子は嫌いじゃない。本家のお嬢様はもっとプライドが高いかと思ってたけど…は僕が最悪な態度をとっても拒否しなかった」
「な…何言って…」

どこか高揚した様子の五条を見て、は呆気に取られていた。その時、不意に手を両手に包まれ、ドキっとした。視線を上げれば、先ほどよりも表情の柔らかい五条と目が合う。

「僕、ちょっと愛が重いけど…幸せにするよ」
「………」

の手を自分の頬へ摺り寄せながらニッコリと微笑む五条を見て、は小さく息を飲んだ。その手にはかすかに血が付着している。思わず手を引っ込めると「…本当に…?」と五条を見上げた。本気とも冗談とも取れるようなプロポーズをする五条が、いったい何を考えているのか分からない。

「本当に結婚するつもりなの?わたしと…」
「もちろん」
「……」

ニコニコとしながら頷かれ、は言葉に詰まってしまった。助けてもらう為だけの方便なのに、五条はそれを信じているようだ。でも脅威は消えて、は今、自由の身だ。撤回するなら今か?と思ったものの、今いる場所が分からない。出来ればこの森からも無事に脱出したかった。

(そう、それに本人が望んだところで彼の家がわたしとの結婚を許すはずがない…病弱でいつ死ぬかも分からない女を、この男の嫁にはしたくないはずだ)

一先ず結婚の話はおいておいて、この先どうするのかを考えなくてはならない。

「そろそろ、ここを離れた方がいいかな」
「…まだ危険が?」
「多分、追手はまだまだいる」
「…まだ…?」
「僕がアイツらの中に潜入した時、かなりの数がいたからね」
「そんな…何故わたしは狙われたの?まだ当主にさえなっていないのに――」
「さあ。僕が聞いたのは依頼した人間がいること。その人物については聞かされなかった」

五条はそう言いながら肩を竦めた。この様子だと本当に知らないんだろう。

「誰かに狙われる心当たりは?」
「…ないわ」
「本当に?誰かに恨まれたりとか」
「恨み…?」

驚いて顔を上げると、五条は首を傾げつつ「これは僕の勘だけど…この誘拐殺人は個人的な恨みの気がするんだよね」と言った。

「まさか…単に五条の家の者を殺したいだけじゃ…」
「それなら、こんなまどろっこしいやり方はしない。襲撃した時に殺せばいいだけだし」
「……」

その話を聞いても納得した。襲われた時、護衛はほぼいなかったのだ。それも病院へ行く時にわざわざ襲ってきたのも気になった。もし病気のことを知っていたなら、あの時に簡単に殺せたはずだとも。

「それに本家のオマエを見張らせておくには、コイツらは雑魚すぎた。僕の術式を見ても最後まで五条家の人間だと気づかなかったしね。相手はきっとが病気で今は術式が使えないと知ってる。でもオマエの病気のことは五条家の中でもトップシークレット扱いだ。外部に漏れるのは、まずありえない。本当に自分を恨んでいる人物に心当たりはない?」

改めてそう訊かれた時、の脳裏にある人物が二人過ぎった。
継母と、妹の伊織だ。常に悪態をつき、蔑むような目で見てくる二人なら、呪詛師を雇ってもおかしくはない。

(でもまさか…いくら何でもここまではしないはず…)

そうは思っても完全に否定は出来ない。あの母娘にとっては邪魔な存在なのは分かっているからだ。

「ん?誰かいる?」
「……いえ。そんな人に心当たりはないわ」

ここは敢えて言わないでおいた。証拠もないのに本家のゴタゴタを分家の五条に話すべきじゃない。
五条はそれ以上、追及はしてこなかった。

「そっか…まあ、それは後で調べるとして…今はここを離れようか。無理をして連れて来られたんだから疲れたでしょ」
「へ、平気です…それより今すぐ家に――」
「あー…それは無理」
「…無理?」

五条はの乱れた着物を簡単に直しながら、苦笑いを浮かべた。

「ここ、日本じゃないから」

その時、ざわりと音を立てて、冷たい風が周りの木々を揺らしていった。