溺愛事変

第四話:大陸の夜

 

「まずはお風呂に入ろうか」

そう言いながら微笑む男を見上げて、は唇を噛んだ。
何故、この男とこんな場所で宿をとらなければいけないのか。
そう思いながらも、それ以外に方法はないと分かっている。だからこそ、悔しい。
まさか、ここが日本ではないなんて思いもしていなかったし、実際に町へ下りて自分の目で確かめるまでは、五条の言うことなど、信じてはいなかった。


△▼△


「日本じゃ…ない…?」

五条の放った一言に耳を疑い、思わず聞き返す。それから信じられないといった様子で辺りを見渡した。しかし二人が今いる場所は延々と続く鬱蒼とした森の中であり、五条の言ったことが事実なのかは確認のしようがない。

「じゃ、じゃあケータイを貸して下さい。わたしのは奪われてしまって…今すぐ家に電話をして迎えに――」
「あ~それも無理」

やけにハッキリと言い切る五条に、は怪訝な顔を隠そうともしなかった。

「…無理とはどういう…」
「実はさ~アイツらの仲間に潜入した時、ケータイの類は没収されたんだよねー」
「…は?」
「ま、裏切り防止なのか、それとも僕みたいに潜入してきた人間がいたら困ると考えてのことなのかまでは分からないけど。だから僕も高専の仲間に連絡が取れない」

五条の話を聞き、は軽い眩暈を覚えた。助けに来てくれたのは有り難いが、何と計画性がない男なのだと、文句の一つも言いたくなる。

「それをすんなり渡したの?アナタなら潜入しなくてもアイツらを倒せたのでは?」
「まあ倒すだけなら簡単だよ。でも主犯が知りたかった。僕と一緒にいた奴らは全員下っ端で、何も聞かされてなかったからね。それにがどこで囚われてるかも、その時はまだ分からなかったし」
「え…わたしの残穢を辿って来たんじゃないの?」
「途中まではね。でもその後にオマエは特殊な箱に入れられただろ?呪力が一切使えなかったはずだ」

そう言われて思い出した。確かに拘束された後、結界の役割をしている箱へ入れられて運ばれたことを。

「呪力が途切れてしまってはさすがに僕も追えない。そこで奴らの仲間になるふりをしようと思ったってわけ。オマエに辿りつくにはその方が手っ取り早いからね。でも結局あの小屋に連れて行かれるまで半月はかかった」
「…半月…そんなに?」

少し驚いたものの、は眠らされていたこともあり、日付の感覚が狂っている。自分で思ってた以上に、あの襲撃から日数が経っていたとしてもおかしくはない。
五条は頷きながらも「大変だったんだよ」と苦笑いを零した。

「そもそもアイツらを信用させる為に、いくつか仕事をさせられてたんだよ、僕は」
「仕事…?」
「そう。裏切者を全員始末しろってね」

五条は言いながら肩を竦めてみせた。確かにが監禁されている場所に新入りを連れてきたことを思えば、言ってることに嘘はないのかもしれないと思う。

「…始末…したの?」
「もちろん。まあ、相手は呪詛師だしね。この機会がなくてもそのうち高専の術師に殺られてたよ。そんな奴らを十人ほど片付けたら、あっさり信用された。それで腕を見込まれて用心棒的な役割として、あの小屋へ連れて行かれたってわけ」

その話を聞いて、はなるほど、と納得をした。あのリーダー格であろう長髪の男が何故新入りにの見張りをさせたのか。五条の話が正しければ、理屈は通っている。

「ま…僕のケータイはその前に奴らのリーダーに奪われてたし、応援を呼ぶことも出来ずに、国から出る羽目になった」
「本当に…ここは…日本じゃないのね」
「うん。ここは北京郊外の山奥。人のいる街まではかなり距離がある」
「ぺ…北京…?」

五条の説明には今度こそ絶句した。たかだか自分を誘拐するのにそこまで?と驚くしかない。

「な、何でそんな…」
「さあ?それも依頼に含まれてたらしいよ。日本だと邪魔が入るかもしれないからってね。依頼人はよほどオマエのことが邪魔らしい。すぐ殺すなっていう理由も、たっぷり絶望を味わわせてからということらしいから」

(絶望――?)

その言葉を聞いて、は思わず失笑した。
そんなものは弱い心臓を持って生まれてきたことで、すでにたっぷり味わってるというのに。

「では…誰にも連絡は取れない、ということですね?」
「うん。でもまあ…僕はそれでもいいけどね」
「…いいとは…?」
とじっくり二人の時間が作れる。まあ首都に行けば何とかなるでしょ」

ニッコリと微笑む五条に、は「なんて呑気な…」と呆れたように目を細めた。だいたい山奥のここから首都までどれくらいの時間を要するのかも分からないのだ。山なので夜はかなり冷えてくるし、どんな獣がいるかも分からない。五条の傍にいれば安全なのだろうが、にとったら、それはそれで安全とは言えなかった。

(この人のこと、信用してもいいのかな…)

幼い頃に出逢い、何度か公の集まりでも顔を合わせたことはあるものの、個人的に親しいわけじゃなかった。本家のよりも、六眼を持つ五条悟の方が周りから大切にされていたのを、苦々しい思いで見ていたこともある。
その時、心臓の辺りにズキッとした痛みが走ってハッと胸を抑えた。

「…っ」
「どうしたの?心臓が痛む?」
「…い、いえ…平気です」

五条が途端に慌てた様子で身を屈めてくるのを見て、は軽く深呼吸をしながら首を振った。色々ありすぎて疲れているせいかもしれない。
五条もそう感じたのか、の頬へ軽く触れて微熱があるのを確認する。

「…街に出てどこか泊まれる場所を探そう。アイツらも諦めないと思うし」
「そんなこと言っても…ここは山なんでしょう?ホテルのある街までどれほどかかるか――」

と言ったところで言葉を切った。五条がの腰を抱き寄せたからだ。

「な、何を――」
「術式使わないからって忘れたの?僕なら近場の街までひとっ飛びで行けるよ」
「そうかもしれないけど…空中浮遊にも繊細なコントロールと大量に呪力を消費…」

そこまで言って言葉を切った。そうだ、この男は自分にないものを持っているのだ、と。ただ呪力量が多い五条でも、を抱えて街まで飛ぶとなると、それなりに呪力を消費する。その辺を指摘すると、五条は「大丈夫」と言いながら自分のこめかみを指でとんと叩いた。

「反転術式を常に回してるから」
「……反転術式まで…会得したの」

あの難しい術まで手中に収めていたとは思わず、は更に驚いた。そして昔のように憤りを覚える。そんな彼女の気持ちにも気づかず、五条は苦笑交じりで応えた。

「まあ、かなりのショック療法だったけどね」

五条が懐かしそうに目を細めたのを見て、どんな方法だったのかを知りたくなった。だがきっと自分には向かない方法なんだろうと思う。

「じゃあ急ぐから僕に掴まって」
「え…ほ、本当に飛んでくの?目立つんじゃ…」
「でもここから歩くだけの体力はにもないでしょ。いいから僕に任せて」

五条は言いながら彼女の体を軽々と抱き上げた。まさか抱えられると思っていなかったはギョっとしたように暴れ出す。

「お、下ろしてっ」
「ダーメ。この方がには楽だから。ああ、首に腕を回して」
「………」

いきなり男に抱き上げられたことでの頬が羞恥に染まる。これまで異性とこんな風に密着したことなど一度もないせいだ。恋人でも婚約者でもない男に抱きかかえられるなんて恥だと思う。

(こっちの方が心臓に負担がかかるんだけど…)

とは言え、確かにには歩いて移動するだけの体力はない。

(知らない土地でのこの状況…頼れるのはこの男だけ。騙される覚悟でついていくしかない…)

現実を見たは仕方なしに五条の首へ、恐る恐るながらに腕を回した。
が素直に従ったことが嬉しいのか、五条がその口元に緩やかな弧を描く。

「じゃあ行くよ。しっかり掴まってて」
「…はい」

言った瞬間、五条は空中高く舞い上がり、は風圧で飛ばされないよう、五条にしがみついた。逞しい肩や首の筋肉は触れただけでもハッキリと伝わってくる。それがやけに艶めかしく感じて、気を紛らわせる為に視線を周りへと向けた。

「……っ?」

夜の山奥には明かりのようなものは見られず、かろうじて月明かりが辺りを照らしている。その月光で下方にぼんやり見えるのは、確かに広大な土地にある森のようだった。それだけで五条の話が嘘ではないと信じざるを得ない。

「ここは…本当に北京なのね…」

見覚えのない広大な地を前に、は絶望的な気分になった。小屋で監禁されていた時は、あそこを出ればすぐに家へ帰れると思っていたのに。
強風に吹かれ、結っていた髪がほどけてなびいているのを見ながら、知らず知らず掴まる手に力が入る。

「大丈夫?」

ふと五条が異変に気づいたようにを見下ろした。

「……大丈夫、とは言えません。でも…置かれてる状況は把握しました」

ここで泣きごとを言っている場合でもない。どうにかして日本へ帰らなければ、と思う。
その時、五条が「大丈夫だよ」とひとこと言った。

「オマエは僕が守るから」

その言葉を聞いて視線を上げれば、夜空に輝く星よりも煌々と輝く六眼が彼女を見つめていた。

「お願い…します」

無力な女になり果てたことを心で恥じながら、はその言葉をどうにか絞り出した。
それから空中を移動し、少しすると真っ暗だった下方に明るい光の塊が見えてきた。どうやらそれが近場の小さな町らしい。

「あそこでホテルを探そう」
「…はい」

五条はスピードを緩めると、人目のつかない町はずれに降下して地面に着地した。

「はい、とうちゃ~く」

おどけたように言いながら抱えたを下ろすと、彼女は少しだけ足をよろめかせた。

「大丈夫?」
「へ、平気よ。気にしないで」

肩を支えようとする五条を制止して、は深い息を吐くと、明るい町並みをキョロキョロと見渡した。相当な田舎町らしく、あまり人は歩いていないようだ。その中を二人で歩くと、やけにジロジロ見られる気がした。

「やっぱり着物姿じゃ目立つみたい…」
「まあ、そうだよね」
「アナタも目立つし」
「え、僕?」

見上げるように言い放つに、五条が苦笑を洩らした。あまり目立つという自覚はないようだ。

「とりえず着替えやら何やらは明日にでも調達するとして、今は休める場所を探そう」

と言って、建物には色々な看板はあれど、どれも見慣れない漢字で書かれている為、よく分からない。都会では英語表記もあるのだろうが、田舎では漢字すら二人が習った覚えのないものも多くあった。その中にHOTELと書かれた看板を見つけたのは、やはり五条だった。

「あ、あれ!ちょっとボロいけどホテルじゃない?」
「そうみたいね。でもビジネスホテルとかの類じゃないけど…」

その古い建物はホテルというより、時代から取り残されたような古い旅館に近い雰囲気だった。周りに比較的新しいビルなどが立ち並んでいるせいで、その建物だけが過去を色濃く残しているように見える。

「まあ、本家のお嬢様を招待するには少し気が引けるけど…」

と言いながら五条がを見下ろす。その言い方に何を今さら、とは笑ってしまいそうになった。

「いいの…早く休みたい」
「分かった」

そう言って五条がの手を取ると、彼女は驚いたように顔を上げた。

「旅行に来た夫婦ってことで部屋をとろうか。念のため」

追手を気にしてるのか、五条がそんなことを言いだしたが、は何でもいいから早く体を休めたかった。空中を移動してきたせいで、体もすっかり冷えてしまっている。心臓に負担がかかっているのは確かだ。
ホテルに着くと、五条は最初、流ちょうな英語で話しかけたが、ホテルの受付にいた男にはさっぱり通じず、今度は更に流ちょうな北京語を話し出した。
それも当然で、五条家では幼い頃から色んな語学も強制的に習わされる。各国の主な言葉はだいたい頭に入っていた。
そしては支払いはどうする気なのかと心配していたが、五条はちゃっかり財布だけは死守していたようだ。中には現金とカード類が入ってるので安心してと言いながら、部屋をとってくれた。

「最初から北京語で話せばいいのに」

部屋に向かいながらが言えば、五条は軽く笑っている。

「いや、英語で通じるならその方が便利かなーと。でもこの辺じゃあまり通じないみたいだな」

確かにどちらかと言えば英語の方が馴染は深い。中国では日本よりも英語に馴染みがあるはずなのだが、それは都会に限っての話なのかもしれない。

「ああ、ここだ」

ギシギシと軋む音を立てる廊下を歩いて行くと、受付の男に渡された鍵と同じ番号の部屋を見つけて、五条は立ち止った。だがそこでは鍵が一つしかないことに気づく。

「ちょ、ちょっと…何で一つなの…?」
「ん?あーだって夫婦ってことで部屋とったし、別にいいでしょ」
「な…」

いいでしょ、と軽く言われ、は「いいわけないでしょっ?」と怒鳴ってしまった。結婚前の男女が同じ部屋で寝泊まりするなど、言語道断。の中ではそれが普通だ。しかし五条の方はそうでもないのか「いいだろ?どうせ僕たち、結婚するんだから」と笑いながら鍵を開けている。それにはも言葉を詰まらせた。
助けてもらう為、そんな約束を交わしたのは事実だ。

「ほら、早くおいでよ。休みたいんでしょ?」
「ちょ、ちょっと…っ」

強引に手を引かれ、も室内へ足を踏み入れる。中は予想以上に古く、あまり綺麗とは言えない部屋だった。
五条は室内を見て回り「あー…やっぱり風呂がない」とボヤいている。

「え、ない?」
「んー多分、ここ風呂は別にあるんだよ、きっと」
「そ…それは銭湯…と同じということ?」
「いや…個別では入れるっぽい」

五条が部屋にあった案内を見つけて、ペラペラとめくっている。
それを見ていたは風呂よりもまず、どうやって日本へ戻る気なのかを知りたかった。

、体調はどう?」
「…だ、大丈夫です。それより日本へ帰るには――」
「あ~の体も冷えてるし、話はそれから」
「でも――」
「じゃあ、まずは風呂に入ろうか」
「…は?」

さも当然のように風呂へ誘ってくる五条に、の目が点になる。

も汚れただろうし、僕たち夫婦になるんだから何も問題はないよね」

そう言いながら微笑む男を見上げて、は唇を噛んだ。
何故、この男とこんな場所で宿をとらなければいけないのか。
そう思いながらも、それ以外に方法はないと分かっている。だからこそ、悔しい。

「…っい、いえ、わたしは別に汚れては――」
「そう?じゃあ…僕は行くけど…ここに一人で残って大丈夫?」
「………」

いつ追手が来るか分からない。そのことを思い出し、の思考がハタっと止まった。確かにもし一人残って再び奴らに襲撃されれば、また面倒なことになってしまう。

(な、何でこんな人と一緒にお風呂なんて…)

頭ではそう思うのに、はハッキリ断ることが出来なかった。

「ご、ご一緒させてもらうわ」
「そう?じゃあ、行こうか」

高専の制服のボタンを外し、意味深な笑みを浮かべながら五条はの手を取った。