溺愛事変

第七話:島の秘密

 

「ここだよ」

五条悟はそう言いながら、目の前の建物を見上げた。
そこは他の華やかな建物に比べ、いくらか質素な造りではあるものの、それが旅館ならば普通だ。しかしこの建物はどう見ても旅館などではなかった。

「あの…ここって…」

五条が泊まれる場所を遊女達から教えてもらったと言うのでついて来たは、戸惑い顔で五条を見上げた。

「ああ、ここは遊郭だよ。の想像通り」
「…え?あの…宿を教えてもらったのでは…?」
「ああ、この一帯は吉原みたいなものだから、普通の宿はないらしいんだよねー」
「は…?」

悪びれた風でもなく、五条は呑気に笑っている。あまりに驚いたは怒る気も失せてしまった。五条の話では、この遊郭の主人が泊まってもいいと言ってくれてるようだ。外装は見るからに繁盛しているようには見えない為、普通に泊まれそうな部屋が空いてるのかもしれない。
そこへ店の中から着物姿の中年男性が姿を現した。

「これはこれは五条さま、お待ちしてましたよ」
「あ…あなたは…」

その店の主人らしき人物を見て、は思わず声を上げた。

「先ほどは美しい舞をどうもありがとう」

流暢な日本語でお礼を言いながら優しく微笑むその主人は、先ほどにおにぎりを差し出した人物だった。

「さっきはウチの女の子が失礼をしたね。ささ、どうぞ、入って下さい」

主人は物腰の柔らかそうな人物で、女であるに対しても丁寧に店内へと促す。それを見たは、本当にいいのかと尋ねるように五条を見上げた。

「お言葉に甘えよう。も疲れただろ」
「…まあ…少しは…」

とは言ったものの、実際はかなり疲れが限界にきていた。監禁されていた時は食事もあまり摂らせてもらえない中で――殺そうとしてたのだから当然だが――極度の緊張が続いていたのと、薬が切れた後は何をされるか分からないといった恐怖で睡眠も殆どとれていない。五条に反論しなかったのも、する元気がないからだ。

「さあ、どうぞ。部屋は余ってるんで好きに使って下さい」

五条に続いて店の中へ足を踏み入れたは、正面階段を上がった二階からこちらを見ている三人の遊女たちに気づいた。

(彼女たちはさっきの…)

三人の女達は五条に向かって笑顔で手を振ってきた。五条も「ここに泊まることを彼女達が主人に頼んでくれたんだ」と言いながら、軽く手を振り返している。そのやり取りを見ていたはかすかに目を細めた。五条のことは良く知らないが、女にモテるということだけは分かった。

(まあ…この容姿だし当然か…。歴代の六眼は全員が眉目秀麗だと聞くし…)

隣で愛想のいい笑みを浮かべている五条を見ながら、はそれにしても…と密かに溜息を吐く。三人の女達は五条にだけ笑顔を見せているのだが、が軽く会釈をした瞬間、般若のような顔で睨みを利かせてくるのだ。歓迎されていないのは明らかだった。

「すみません。遊郭なのにわたしまで泊めて頂くなんて…」

部屋に案内されながら、は主人にお礼を言った。

「いえいえ。見ての通り、うちの店は暇でしてね。部屋をそのままにしておいてももったない。料金も普通の宿と同じで構いませんよ」
「ありがとう。いや、助かったよ。このお礼は島を出たら必ずするから」

五条も愛想よく主人に礼を述べている。しかし主人は少し驚いたように「島を…出るんですか?」と振り向いた。

「まあ、明日どうにか島を出る為の方法を探してみるつもり」
「それは…お一人で?」
「いや。彼女も一緒だよ、もちろん」

そう言って五条がの肩を抱き寄せる。その突然の接触にが睨むと、五条はシレっとした顔で微笑み返してきた。
そんな二人の空気に気づかず、主人が驚いたように「二人…ですか」と表情を曇らせた。

「何か問題でも?」
「え?あ、ああ…いや。この島を出入り出来るのは男だけでして…女性はいかなる理由があっても島からは出られません」
「…っ?」

主人の言葉に、は驚きで言葉を失った。



△▼△


「な、何これ…」

通された部屋を見た時、は再び絶句した。かなり広い室内は客が泊まる部屋だという。その部屋の隅に、何故か布団が二つ並べられていた。

「何って…僕らの部屋だよ」

五条が制服の上着を脱ぎながら応えた。その顏はどことなく嬉々としたものを感じる。こうなることを事前から分かっていたというような顔だ。結婚前の、それも付き合ってもいない男女が、一つの部屋、それも布団を並べて寝るなんて冗談じゃないとばかりには出入り口の襖へ手をかけた。

「どこ行くの?」
「山本さんにもう一つ部屋を貸してもらえるよう頼みにいきます」

山本というのはここの主人の名だ。先ほどは北京語で話しかけられたので、てっきり中国の人かと思っていたが、実は日本人だったらしい。この島に行けば稼げると美味しい話を鵜呑みにして来たが、なかなか上手くはいっていないようだ。

「え、何で?そんなのダメだよ」

の行動に驚いたのか、五条が出て行こうとする彼女の手を掴む。

「は、放して――」
「一人でいて追手が来たらどうするの。危ないから僕の傍にいて」
「う…」

それを言われるとツラい。呪詛師集団はさっきの男達だけじゃないという話だし、いつここにいるとバレるか分からないのは事実。
そもそも、この店の人間が二人のことを誰かに話さないとも言いきれない。女連れで遊郭に泊まるなど訳アリでしかなく。退屈している遊女たちの噂話の種にくらいはなりそうだ。
と言って、一晩この男と寝床を共にするのも身の危険を感じる。

「失礼しますよ」

そこへ主人の山本が直々にお膳を運んできた。

「さっきの様子じゃお腹が減ってるでしょう。大したものはないが、どうぞ食べて下さい」
「え…」

置かれたお膳の上には、白いご飯と味噌汁。焼き魚や肉じゃがなどの日本食が乗っている。お茶は懐かしいほうじ茶の香りがした。

「あ、ありがとう御座います…本当に」
「いえいえ。私も久しぶりに日本人に会えて嬉しくてね。日本じゃこの島のことを知ってるのはごく限られた人間だけだというし、殆ど来ないんだよ」

五条が話してたことは事実らしい。はそうですか、と少しガッカリしながらも、主人の言葉に甘えて食事を摂ることにした。五条も隣に座り、一緒に食事をするようだ。

「あー匂いを嗅いだら僕もお腹空いてきちゃった」
「良かったらお風呂も好きに入って下さい。場所は五条さまが知ってますので」
「はい。ありがとう御座います」

そう言えば彼は夕べはここに泊まったんだっけ、と思いながら、は笑顔で頷いた。詳しい話は明日にでも、ということになり、山本は静かに部屋を後にした。

「はあ…久しぶりのご飯…」
「さっきおにぎり食べたのに?」
「あ、あれは…殆ど味など分からなかったわ」

五条に突っ込まれ、は頬を赤らめた。道に落ちた物を拾い食いするなど、にとっては生まれて初めて。それも五条に見られたのだから、これまた末代までの恥と言える。

「…美味しい」

温かい味噌汁を口にすると、はホっと息を吐き出した。食事をするその所作すら綺麗で、五条はかすかに苦笑を洩らす。

「凄くお腹空いてると思うんだけど…がっつかないのはさすがだね」
「……さっき恥ずかしいくらいがっついたもの」

こうなればもう恥ずかしいことはない。も開き直りで笑いながら、食事を続けている。その笑顔を見た瞬間、五条の動きがピタリと止まった。かけていたサングラスを外し、ジっとの横顔を見つめている。最初は食事に夢中だったもその視線に気づいた。

「な、何ですか…?人の顔をジロジロと…」
「笑った…」
「え?」
「今…笑ったよね」
「な…何…ちょっと近い…」

五条が驚いた様子で顔を覗き込んでくるのを見たは、思わず身を後退させた。美しい碧眼が一気に近くなったせいだ。
五条の顔には自然な笑みが浮かんでいた。

「初めて笑ってくれた」
「…は?」
「可愛い」
「な…」

ストレートに可愛いなどと言われ、の頬がほんのりと赤くなる。
これまで綺麗だ、美しい、など、本気ともお世辞ともつかぬ男達の誉め言葉を言われ慣れているにも関わらず、五条のたった一言にドキっとさせられてしまった。

「…か、可愛いなんて子供じゃないんだから…」
「え、子供じゃなくても言うでしょ、全然」
「………」
「あれ…、もしかして照れてる?顔が赤い」
「て、照れてませんっ」

ひょいっと顔を覗いてくる五条にギョっとして思い切り顔を背けてみたものの、頬がじわじわと熱くなってくるのは止められない。隣で笑いを噛み殺している気配を感じながら、は軽く咳払いをした。

「…それにしても…女は島から出られないって…どうするの?」
「んー?まあ、どうにかなるでしょ」
「またそんな呑気な…」

は溜息交じりで息を吐くと、先ほどの山本の話を思い返していた。
この特殊な島は、秘密主義が徹底してることを売りにしているという。その為、自由な出入りは出来ず、特に女はこの島から出ることを禁じられているらしい。

「まあ明日、明るいうちに島を色々探索してみよう。もちろん変装して」
「…何か楽しんでる?」
「そう?と一緒だからじゃない?」

五条は澄ました顔で言いながら食事を続けている。本気なのかどうかも分からず、は気にせず、自分も食事を続けた。
一時、会話も途切れ、静かな時間が訪れる。

(何か…変な感じ…)

隣で静かに食事をしている五条を見てふと思う。先日まで良く知りもしなかった五条と、こうして肩を並べて食事をしているのはおかしな気分だった。前に婚約をした時も、会う前にが倒れた為、結局は顔を合わせることなく、婚約破棄をした形だ。

(なのにこの人は何故、こんな場所までわたしを助けに…?)

聞けば本家の者に頼まれたわけじゃないという。呪詛師が絡んでいると知って、呪術師としてきたと言われるなら、まだ納得が出来るが、五条の口ぶりだとそんな感じでもない。やはり目的は自分との結婚?と考えたが、そこまで熱心に求婚される理由は思い当たらなかった。本家の長女を嫁にもらえば分家である五条の家も更に力をつけるのだろうが、この五条悟は家のことなど特に気にしてないようにも感じる。
そもそも六眼持ちというだけで、本家を上回るほどの力はすでにあるはずだ。

(となると…やはりわたしとの子供…?)

本家の者は呪力量や質が分家とは異なるので優秀な子供が生まれやすい。それ目当てで見合いを申し込んでくる輩は後を絶たず、五条からの求婚の理由もそれしか思いつかなかった。

「ご馳走様~。あー美味しかった」

が食事を終える頃、五条もちょうど食べ終わったようだった。

、先にお風呂入って来たら?さっき入れなかったんだし」
「…そうね。そうしようかな」

お腹が満たされると、次に気になるのが自身の汚れだった。出来れば服も着替えたい。そう思っていると、山本に頼まれたと年配の女性が顔を出し、お膳を下げるついでに新しい着物や下着類を持って来てくれた。

「すみませんね。洋服なんて気の利いたものはなくて」
「いえ、助かります。何から何までありがとう御座います」

女性から着替えを受けとり、お礼を言うと女性は嬉しそうに部屋を後にした。

「ではお風呂に行ってきます」
「ああ、待って。僕も一緒に行くよ」

着替えの中にバスタオルなどもあり、はそれを手に風呂へ行こうと立ち上がった。それを見て五条も後からついて行く。

「え、一緒って…」
「場所、分かんないでしょ。それに近くにいないと心配だし」
「…じゃあ…お願いします」
「うん。風呂はこっち」

先を歩く五条の後をついていくと、一階の奥に大浴場があった。風呂独特の匂いに何故か気持ちがホっとする。

「じゃあ僕はここで待ってるから」

風呂の入り口前に立ち、五条が微笑む。いつ追手が来るか分からない為、見張っていてくれるらしい。

「ありがとう…」

思わずそんな言葉が口から零れたのは、五条のおかげでここまで来れたという気持ちがあったからだ。未だによく分からないところはあれど、助けてくれたことは感謝していた。

「いいよ。奥さんの安全を守るのも夫の役目だし」
「………」

ニコニコしながら夫の立場として物を言う五条に、の頬もかすかに引きつる。感謝はしてるが本当に結婚をする気はない。
とりあえず、今夜この男と二人きりの夜を迎えるということが、の頭を悩ませていた。

(貞操帯が欲しい…そんなもの、この時代にあるかどうかも分からないけど)

少しの不安と操の危機を感じながら、は風呂場へ入って行った。