溺愛事変

第八話:あなたが優しいから

 

一カ月前――。

「この愚か者がぁ!何故、様の護衛を連れて行かなかったのだっ」
「も…申し訳…ございません…。様が…あまり大げさにはしたくないと仰られて…」
「それならバレないよう護衛を動かすことも出来ただろう!」
「申し訳…御座いません…」

五条家の護衛長に胸倉を掴まれ、五条学は息も絶え絶えで謝罪した。体が動くのであれば、今すぐにでもを探しに行きたいと思う。
を医者へ連れていく道中、何者かに襲われた学は、重症ながらも一命をとりとめた。今は五条家の管理する病院で治療を受けている最中だ。しかしが攫われたという一報を受け、護衛長が怒り心頭でやって来た。

「ああ…さまに何かあれば我が五条本家は終わりだ…」

頭をかかえ、護衛長が真っ青になっているのを見て、学はただ目を伏せて謝罪するしかない。

「その辺でやめておけ」
「は…だ、旦那様…しかし…!」

治療室へ顔を出したのは現当主であるの父だった。

なら大丈夫だ」
「は…何故そのような…」
「先ほど五条悟が私のところへ来た」
「…ご、五条悟…六眼ですか」

その名前を聞き、周りが驚きの声を上げた。六眼を持つ五条悟なら、の残穢を追っていけると、希望すら口にする者もいる。
当主である父もまた、同じ思いだった。

「彼は必ずを助けると、それだけ言って姿を消した。後は…信じて待つしかない」
「は…」

一人の呪術師に一縷の望みをかけた当主の言葉に、その場にいた護衛長がかしずく。そこで「待って…下さい…」と口を挟んだのは、五条学だった。

「…治療を終えたら…私も後を追わせて頂きたい…」
「…何?しかし…」
「お願いします…五条悟からの報告を待つだけでは気がすみません…」
「……」

哀願するように言葉を紡ぐ学を見て、当主はさてどうしたものかと考えを巡らせた。この学も一度、の相手にどうかと名の上がった男の一人だった。遠縁ではあるものの、本家に最も近い血族であり、本家に入るにふさわしいと言う理由からだ。そして学本人もまた、に想いを寄せているのは知っていた。だが結局は五条悟との縁談が決まり、その話は立ち消えになっていた。
五条悟との婚約解消を聞いて、本当なら再び自分が、という想いもあったのだろうが、学の両親がそれを良しとしなかった経緯がある。
一つはの体のこと、そしてもう一つはやはり我が息子よりも六眼をとったという理由だろう。
しかし親がどうであれ、学の方は今もに未練があるようだ。
だが当主にも少しの思惑があった。

――彼女は僕が必ず助け出す。その暁には…

五条悟と交わした密約はまだ誰にも話していない。

(あの男、本家当主の私に取り引きを持ちかけるとは…図々しいのか、度胸があるのか。しかし…の夫としては…)

思いがけない申し出ではあるが、当主としては出来ることならと六眼を結婚させたかった。の病気のことがなければ、そうなるはずだったのだ。
もし今回の救出が上手くいけば、そしてが無事に戻ってくるなら…その夢が叶うかもしれない。
だがここで学が二人の間に割って入るようであれば、どんな支障が出るか分からなかった。

「お願いします…旦那様!私に名誉挽回の機会を…っ」
「…うむ」

いつもは即決の当主にしては珍しく、心に迷いが生じていた。


△▼△



「うわ~聞いた通り、やっぱり見張り凄いねー」

日よけ代わりに手をかざし、五条が溜息交じりで笑った。
次の日の朝、五条とは身元がバレないよう街の人間を装い、島の一番高い場所までやって来た。そこから見下ろした港付近は、びっしりと見張りらしき男達が守っている。その光景を改めて見せつけられ、は唇を噛みしめた。

――この島から出られる女性は男に身請けされた遊女だけです。ここは島の秘密を守る為なら平気で人の命を奪うような場所なので。

夕べ、宿の主人の山本にそう説明され、まさか…と思ったものの、見張りの数を見て、あの話は事実なのだと悟った。彼らは実弾入りの銃を持っているという話だ。

「どうすれば…」

この島の港はあそこ以外にないという。他の海へ続く場所は到底、船を止められるような平地ではなく、殆どが断崖。やはり港から船を使って脱出し、日本の領域まで逃げ切るしかない。

「いっそ、あそこにいる人間、全員殺しちゃう?」

五条が変装用に被っていた帽子を指で押し上げながら、港へ向けて指をさす。その顏はどこか楽しそうだ。しかしは慌てて首を振った。

「そ、それはダメです…!呪詛師ではなく彼らは民間人でしょう?国同士の揉め事に発展してしまう…」

五条の力をもってすれば皆殺しにして突破するのは容易い。しかし一般人、それも他国の人間を大勢手にかけたとあれば大ごとになってしまう。いくらここが秘密の島だと言っても、中国政府にバレない保証はなく、明るみになれば二人は即刻逮捕、拘束されてしまうだろう。
それとも、この男は一国相手でもその力を振るうと言うんだろうか。
は五条を見つめながら、その人物像を測りかねていた。

「やだなぁ。冗談だよ、冗談。いくら僕でも民間人は殺さない」
「……」

ジっとを見つめた後、五条はへらっと笑い、肩を竦めてみせた。その様子だけでは、今の言葉がどこまで冗談なのかは判断できない。

「でもリアルな話。この島から脱出するのはかなり大変そうだ。やっぱ山本さんの言うような方法しかないかもしれないね」
「そんな…」

五条の言葉にが動揺した。ここには政治家や警察官、さまざまな他国の宗教のおかげで女遊びが難しくなった立場ある男達が御用達の島だという。その男達に遊女として身請けされれば、安全にこの島から出られるというのだ。

「そんなこと言われても…わたしはまともに知らない男性と話したこともないのに…身請けとは…その…男性と肉体関係を持つ…ということですよね…」
「………」

恐る恐る尋ねると、不意に五条の顏から笑みが消えて、これまで見せたこともない冷たい表情にドキリとする。

「まさか。そんなことしたら僕、相手の男やっちゃうよ」
「……え?」

何の感情も見えない顔で恐ろしいことを口にする五条に、の心臓が小さく跳ねた。どこまで本気で言っているのか分からない。

「もしその方法しかないとしても、はそんなに綺麗なんだし、普通に話すだけでも気に入ってもらえると思うけどね」
「……」

例えそうでも、五条が言うほどそんなに簡単にいくとは思えない。
が黙ったまま海を眺めていると、五条の手が彼女の肩を抱き寄せた。

「ごめんね、…怖くなった?」
「…別に…ただ、ここが本当に島なんだと分かって良かった。まだどこかで半信半疑だったので」

真っすぐ五条を見上げながら応えると、はやっと覚悟が出来た気がした。

(自分の置かれてる状況が分かって吹っ切れた…。もっと情報や協力者を得る為に動かなくちゃダメだ…)

どうにか誰も殺さず、あの港から船を出してもらえる方法がないか。
そんなことを考えていると、隣に立っている五条が大きな欠伸をしだした。その眠そうな姿を見て、ほんの少し罪悪感を覚える。

「あ、あの…」
「ん?」
「夕べは…すみませんでした」

欠伸を連発している五条を見て謝罪すると、五条がキョトンとした顔でを見下ろした。

「何が?風呂で桶を投げつけたこと?それとも…布団に入れてくれなかったこと?」
「…………」

ニコニコしながら話す五条に、の頬も次第に引きつって変な汗が額に浮かんだ。
夕べは風呂に入った際、ドアのところで見張りをしてくれていた五条が、着替えを忘れたの為に、部屋へ取りに行った替えの着物や下着を置いておいてあげようと風呂場の中へ侵入。驚いたが「いやぁぁぁっ!」と叫び、思い切り近くにあった桶を五条の顔面に投げてしまった。もちろん無限のおかげで当たってはいない。
そして夜、並んで寝るのはダメだと言って一人離れて寝ていたのところへ、五条が「怖いだろうから添い寝してあげるね」と布団の中へ入ろうとした。それに驚いたが「いやぁっぁ!」と大声で叫び、五条を思い切り突き飛ばしたのだ。
その一件を持ち出され、は僅かに顔を反らした。

「いえ…。一晩見張りをしてくれていたことに対して言ったんですけど――」
「全然、気にしてないよ。僕はの照れ屋なところも好きだから」
「………(照れたわけじゃないんだけど)」

がそんな行動をとったのも、五条の中ではあくまで照れてしまっただけ、と受け取ったようだ。
その時、かすかに胸の奥がチクリと痛み、は無意識に手を胸元へ当てた。その様子に五条がすぐ反応する。

「どうしたの?痛い?」
「い、いえ…平気です…」
「ごめん…朝からこんな場所まで歩かせちゃったから…」

五条は心配そうな顔での頬を手で包み、熱はないなと呟いた。その真剣な顔と手の温もりに、自然と頬が熱くなる。少なくとも、五条は演技をしているようには見えなかった。

「…行きたいと言ったのはわたしなので悟さんのせいじゃ…」
「いや…僕ももう少し気を付けるべきだった。は長いこと命の危険に晒されてたんだし、精神的にも参ってるはずだから。ごめんね」

五条はもう一度謝ると、何を思ったのかの体を抱えるように持ち上げた。

「ちょ、ちょっと…っ」
「帰りは僕がを運ぶから、肩に掴まってて」
「い、いいです…歩くから下ろして」
「ダーメ。少しでも負担かからないようにしないと…こんな場所で発作でも起きたら大変でしょ」
「それは…そうだけど…重たいのでは」
「全然。空気みたいに軽いよね、は」

五条はそう言って笑いながらを見上げた。まるで子供を抱きかかえるような体勢だ。恥ずかしい、と思いながら視線を下げると、五条の青い瞳が頭上にある青空とリンクしてキラキラと反射している。素直に美しいと思った。

「で、では…お言葉に甘えて…」
「うん。いつでも甘えて」
「………」

恥ずかしさを堪えて覚悟を決めると、五条は優しい眼差しで優しい言葉を吐く。の鼓動が不覚にも反応したように早くなってしまった。
筋肉質な肩にそっと掴まると、何故だか心がホっと安堵するのを感じた。