溺愛事変

第九話:恋い慕う

 
『な、何?島から出られない…?な、そ、そもそもオマエは勝手に何をしてんるんだっ』

通話口の向こうから相手の激怒している声が響き渡り、五条は思わずケータイを耳から離した。相変わらず説教魔だなと苦笑しつつ、夜空に浮かぶ白い満月を見上げる。気持ちのいい夜風が、五条の柔らかい髪をさらっていった。

「んな大声出さなくても聞こえてるよ、夜蛾センセー」

電話の相手は高専で世話になった元担当教師の夜蛾正道だ。を探す為、何も告げずに来てしまったことで、一応事後報告という形で電話をかけたのだ。因みに、持っているケータイは五条本人のものだ。一度呪詛師のリーダーを名乗った男に没収されたのだが、後でコッソリ取り戻しておいた。に言わなかったのは本家の人間に助けを求められるのを避ける為だ。
ただこの島でケータイを使うのは禁止されている為、あまり長話は出来ないと呪詛師達が話していた。妨害電波も飛んでいるようで、ところどころノイズが入っている。その上、夜蛾に怒鳴られてノイズがいっそう酷いことになってきた。ただでさえ野太い声が、怒鳴ったことで音割れして聞くに堪えない音になっている。

「あのさ~時間もないから端的に話すけど、このことは本家の人間に言わないでくれる?僕がどうにかするから」
『な、何?どうにかって…どーするんだ。そんな国が把握してないような島で五条家の令嬢を守れるのか?というか他国の一般人を傷つけるようなことは――』
「分かった分かった…目立つような真似はしない。とにかくしばらくは日本に戻れないから、任務は出来ないよーって報告だから。じゃあ、切るよ。電波もそろそろ危ないし傍受されても困るから。また連絡する」
『は?おい、悟――』

夜蛾はまだ何か言いたそうではあったものの、五条はサッサと通話を終わらせ、電源さえも落としておいた。充電は出来ない為、少しでも電池は残しておきたい。

「ハァ…とりあえず一安心」

五条はその場に寝転ぶと、真上に浮かぶ月を再び見上げた。宿泊している遊郭の屋根の上は、なかなかに見晴らしもいい。が眠ってしまった後でこっそり抜け出してきたのだ。

「とりあえず、これでしばらくは邪魔も入らず、この島でノンビリできるかな」

妖しい笑みを浮かべながら独り言ちる。
そもそも五条にとってはこの状況も困ることはない。男の出入りは厳しく監視されていない為、いつでも脱出しようと思えば出来るのだ。その分、よりは気持ちの余裕もあった。
ただ戻るならも一緒でなければならない。

「現金が手元にあれば僕が身請けしても良かったんだけどね…」

カードはあれど、島には銀行がない。遊女を身請けする金額は少なくても一千万以上。今の状況では無理に等しい。
いっそ後輩の七海に身請けさせようか、という、七海にとってハタ迷惑な考えが頭の隅を掠めた。嘘でもを遊女にするのは嫌だったが、日本に戻らなければ結婚が出来ないのは困るところだ。

(やっと…オマエを手に入れられそうなのに)

大きな月に向かって手を伸ばすと、満月の引力に吸い込まれそうな感覚になる。遠い昔、と出会った時にも感じたものだ。
元々、五条にとっては疎ましい存在だった。本家に生まれたというだけで、五条家一族のトップに立つ少女だ。六眼の自分よりも優位に立っているのが許せなかった。何より、自分よりも弱い人間なのだから、到底その存在を認めたくもなかった。
でもと初めて会ったあの日。一瞬、穏やかな陽気の合間に春の嵐のような強風が吹いたあの瞬間、五条の時間が止まった。あれほど綺麗な少女を、五条は他に知らなかった。

――初めまして。悟くん。

自己紹介の後、穏やかな笑みを向けられただけで言葉を失ったのは初めてだった。は覚えていないだろうが、その日の花見は随分と長い時間を一緒に過ごした。満開の桜を愛でて、その花びらが舞う下で食事もした。その際、綺麗な所作で食事をするに、五条は思わず見惚れてしまった。
それから五条家の集まりでことあるごとにと顔を合わせたものの、互いに五条家を支えて立つ者同士、何となく意識をしたのか最初のように言葉を交わすことはなく過ぎ、互いに十六歳を迎えた年。秋の紅葉を愛でる観楓会かんぷうかいのような集まりがあった時のこと。親戚連中の一人がのことを陰で揶揄ったことがあった。

――本家の長女と言っても六眼に恵まれなかったのは痛いよな。何だかんだ言って、やはり今後は五条悟が上に立つのがふさわしいだろ。そもそも女性上位なんてオレはごめんだね。
――でもいい女に育ちそうだろ。オレは女性上位でもいいけどな。
――バカ言うな。これまで女の当主なんか聞いたことないだろ。女の身でオレ達の上に立とうなんて終わってる。

五条の耳に何とも下世話なコソコソ話が聞こえてきて、耳障りだった。当時、高専では問題児扱いされるほどに粗暴だった五条は、一言文句を言ってやろうと二人の方へ歩き出した、その時。

――終わりなのはアナタ達でしょう?他人を揶揄する暇があるのなら少しでもご自分の術式を使いこなす鍛錬をなさっては?今の力量では二級呪霊にさえ勝てないでしょうね。

何とも気の強い、と思いながら、五条はが言い返すのを見ていた。凛とした姿で、堂々二人を見据えるが、とても美しかったのを今でも鮮明に覚えている。五条はその時初めて「この子しかいない」と思った。
自分と共に呪術界を支えていける女だと思った。群がってくる自分を着飾ることしか考えていない女達にウンザリしていたのもある。
それまで女は暇つぶし程度にしか考えていなかった五条の意識が変わった瞬間だった。

――五条が欲しい。

この時、そんな思いが溢れ、それから四年後――五条悟は本家の長女を嫁に迎えたいと当主に打診した。

(ま…少々手強いけどねー。そこがたまらないんだよな)

延々月を眺めながら、過去に想いを馳せていた五条は、徐に体を起こして部屋へと戻った。部屋の隅に敷いた布団にはが静かに眠っている。彼女の寝顔を飽きることなく眺めながら、五条は少し距離を取って座った。

「寝顔もかわい…」

僅かに頬を綻ばせた五条は、この夜も寝ずの番をしながら、早く自分の方を見て欲しい、と願っていた。


△▼△



次の日の朝、は小鳥のさえずりで自然と目が覚めた。何とも可愛い目覚まし時計だと思いながら、目を開け、ゆっくりと体を起こす。
大丈夫。心臓は痛くない。いつもの確認をしてホっと息を吐き出した。
その時、視線を感じてふと横を見れば、壁に背を預けて座っている五条が自分の方をじっと見つめている姿にギョっとした。

「な、何してるんですか。そんなところで…」
「おはよう。見張り終わってが起きるの待ってた」
「だ、だからって…何でそんな隅っこに――」
「近づくと、怒るから」

意外にも真顔で言いのける五条を見て、は一瞬だけ言葉に詰まった。

「……わたしが…怒るから…そんなところに?」
「そうだよ」

再び真顔で応えると、五条は不意に柔らかい笑みを浮かべた。

「嫌われたくないから」
「………」

その一言にトクン、と心臓が音を立てた。頬がじわりと熱くなり、慌てて視線を反らす。つかみどころがなく、の調子を狂わせる男だと思った。

は寝顔も可愛いよね」
「……見ないで下さい」

いちいち情緒を乱してくる男だと思いながらも、案外それも嫌だと感じていないがいた。