第一話:花冷えのする夜に


パラドックスとは、 一見不合理であったり矛盾したりしていながらも、よく考えると一種の真理であるという事柄。また、それを言い表わしている表現法、逆説である。古代ギリシア、エレアのゼノンが提出した【飛ぶ矢は飛ばない】や【アキレウスはカメに追いつけない】などの"ゼノンのパラドックス"はあまりにも有名。

「パラドックスの具体例として最も分かりやすいのは"急がば回れ"という言葉だな。 この言葉の意味としては、困難や危険があるとわかっている近道よりも、確実に安全な遠回りの道の方が、結果的に早く目的地にたどり着く、ということだ」
「…へえ。硝子先輩って物知り…。だけど…それって…」

わたしが相談したことへの答え、なのか?果たして。
そんな思いを察したのか、硝子先輩は深い溜息をつきながら、同情するような視線をわたしへ向けた。

「つまり、五条がにしてることはそういうこと・・・・・・だ」
「えっそーなの…?」
を本当の意味で手に入れる為にしてるんじゃないのか?」
「…ってことは……あれは単なる焦らしプレイ…じゃなく…」
「本気で焦らしにかかってるんだろうな。そもそも何故はアイツにそんな条件を出したんだ」

何故って、だってそれは――。

「あ、あの時は…そう言えば諦めると思った…から…」
「でもは好きなんだよな。五条のことを」

そう、だから困っている。ちょっとエッチで口が悪くて、デリカシーの欠片もなかった男だけど、本当は不器用な優しさでわたしだけを包んで、愛して、守ってくれる彼のことを、いつの間にかこんなに好きになって――だから、こんなにも困っている。

「なら、撤回してはどうだ?その出した条件とやらを」
「そ、そんなことしたら気持ちバレちゃうし…」
「すでに付き合っているのだから問題ないだろ」
「…う…そ…そうだけど…でも…」

いつもならこんな相談、嫌がるくせに、硝子先輩は本気で悩んでるわたしをみかねてか、真剣な顔で適切なアドバイスをくれている。でも彼女が言うほど、わたしには簡単なことじゃなくて。あんな条件を出しておいて今更好きになった、なんて言えない。恥ずかしくて――。

そもそも何でこんなことになったんだろう。あんなに嫌ってた実家から逃げ出したから?高専に入ってしまったから?呪術師になんかなりたくなかったのに。
いや――そうじゃない。
彼に出会ってしまった時から、すでにこのこじれた運命は回り始めていたのかもしれない。
10年以上も前、あの花冷えのする寒い一日から、全ては始まった――。



△▼△



「いらっしゃいませー!」

長い黒髪と懐っこい笑顔が印象的な子だった。こっちまで元気になれそうな声を張り上げる彼女をコッソリと眺めながら、私は運ばれてきたコーヒーに砂糖を一杯だけ入れて口へ運ぶ。逆に、目の前の男は5段にまで積みあげられたアイスクリームを黙々と口へ入れ続けている。今日の気温は一桁だというのに正気の沙汰じゃない。この甘党の男は五条悟。呪術高等専門学校で出会った私の同級生であり、相棒であり、親友と呼べる男だ。だが何もその親友とただお茶をしにこのメイドカフェへ来たわけじゃない。私と悟の趣味、というわけでもない。私達は担任である夜蛾正道から正式な依頼を受けてここにいる。

「…傑」
「何だい?悟」
「この店の制服、どう思う?」

ラウンド型のサングラスをズラし、悟はその冬の澄み切った空のように綺麗な碧眼を一瞬だけ私へ向けた。気のせいか任務の時より遥かに真剣な眼差しに見える。

「そうだな…袖はふんわり、襟元は大胆に開いて、胸元は体のラインが出るほどにタイトなブラウス。ミニスカートがハイウエストだから胸の下での切り替えし…これはかなり…バストが強調されてるデザインだ」
「…そう…けしからん制服だよな」
「そうとも言えるね」

言いたいことを理解して苦笑いを零せば、悟の瞳がキラリと輝き、再び視線が彼女へ戻された。

「実にけしからん…揺れ具合」
「悟…女性の胸元をそんなにジロジロ見てたら失礼だよ」
「………はっ」

軽く注意を促せば、悟は我に返ったように私へ視線を戻した。まあ男に生まれた以上、つい強調された膨らみに視線が向いてしまう気持ちは理解できるが、今日は大事な任務で来ている。相手にあまり不快な印象を与えたくはない。

「悟の"眼"に、彼女はどう映ってる?」

その問いには悟も真剣な顔に戻り、ニヤリと笑った。彼の瞳は単に美しいだけじゃない。私にも見えない相手の術式までも見通す力がある。

「なかなかいい術式もん持ってるよ。聞いてた通りな。でも…呪術師になりたくねえってことで親に嘘を言って別の高校に入ったんだろ?なのにオレ達と一緒に来ると思うか?」
「それを説得するよう言われたんだから頑張るしかないんじゃないか?」
「まあな…アイツが来れば即戦力になる」

悟がここまで他人のことを認めるのは珍しい。弱者に対しては常に辛辣、同じ呪術師でもそれは同じだ。その悟が即戦力になると思ったのだから、あの可愛らしい少女は相当に強い術式を持っているんだろう。それほど恵まれているにも関わらず、呪術師になることを拒んで普通の高校に通っているのだから皮肉なものだ。しかもバイト先はメイドカフェ。その話を夜蛾先生に聞かされた時は、私も少なからず驚いた。

――ある少女をスカウトしてきて欲しい。いや、違うな。場合によっては強制的にでもかまわん。高専に連れて来い。

そんな任務とも言えない仕事を告げられたのは今朝のことだった。ターゲットはという今年高校に入学したばかりの少女。どういうことか聞けば、彼女の実家は元々御三家にも並ぶほどの家系らしい。だが先祖である何代めかの当主が気の優しい人物で、戦闘を好まず、ある日、山奥へ隠居をしてしまった。実戦から離れたことで少しずつ威厳を失い、家は弱体化していったそうだ。だが彼女の父親が過去の栄光を再び手にしようと、歴代の中でもセンスのある我が娘を呪術師にするべくあらゆる訓練を受けさせ、教育。その甲斐あってか、父の願い通り強くはなったが、娘は呪術師になる気は一切なく。単に都会に出たいがために高専へ入ると見せかけて都内の普通の高校へ入学してしまったようだ。だがそれもすぐに発覚。高専の上層部から家の娘を強制連行するべく派遣されたのが、私と悟、というわけだ。

「そろそろ9時か…彼女のバイトが終わる」
「んじゃー行くとしますか」

残りのアイスを片付けると――寒くないのか?――悟は勢いよく席を立つ。さて、呪術師嫌いの彼女をどう説得しようか。どんな強い呪霊でも負ける気はしないが、一つ年下の少女を説得するのは、どんな任務よりも難しそうだ。

「ああ、先に言っておくけど…悟」
「あ?」
「彼女に失礼な態度はダメだよ」
「………チッ。分かってるよ」

その美しい瞳を半分にまで細め、口を尖らせた悟は不本意といった顔を隠すことなくレジへ歩いて行く。ああいうところは、まだまだ子供だなと苦笑しつつ、私もその後を追った。



△▼△


「お疲れ様でしたー」

他のスタッフに声をかけ、ロッカーで着替えたわたしは、ショールを首に巻いて従業員専用出口に繋がる通路を歩いて行く。先週まではポカポカ陽気で桜の開花も間近なんてニュースでやっていたにも関わらず、今週に入って一転。急に冷え込みだして夜は冬に戻ったかのように寒い。こういうのを花冷えと言うらしい。山育ちのわたしでも都会の寒さはちょっとだけ苦手だ。

「さぶ…」

少しドアを開けただけで冷たい空気が足元を冷やす。都会の寒さはこの吹きつける北風のせいなんじゃないかと思う。山の寒さも厳しいが、わたしの家がある場所は山に囲まれてるだけあって、ここまで冷たい風が吹きつけることはあまりない。

「はあ…」

外に出た瞬間、大きく溜息ついた。肩を落とす理由は切りすぎた前髪でもなければ、今日のチェキの指名が少なかったからでもない。前髪はいずれ伸びるし、チェキの指名だって頑張っていれば、いつかは増えていくはずだ。憂鬱な気分になっているのは、そのどちらの理由でもない。

「急に出て行けなんて言われてもなぁ…」

東京に出て来て一カ月。バイト先の店長の紹介で住まわせてもらった格安のアパートが来月には取り壊されることになり、出来れば今月中に退去して欲しいと言われてしまったのが溜息の出る理由だ。何でも大家が地上げ屋に破格の値段を提示され、それまで長いことゴネていたにも関わらず、あっさり心変わりをしたらしい。おかげで入ったばかりのアパートを出て行かなくてはならなくなった。

「…やっぱり家賃1万円とかおかしいと思った。わたしが入った時には絶対あのジイさん、売ること決めてたよね」

店長もまさかこんなことになるとは思ってなかったようだし、次の家が見つかるまでは「ウチにおいでよ」なんて言ってくれたけど、それはただの親切心じゃない気がして返事はまだしていない。

(店長、絶対下心あるよね…。他の子が店長はロリコンだって噂してたし、こういう店の店長やってるくらいだし…)

店長の舐めるような視線を思い出してゾっとした。家に行けば確実に襲われる気がしてきたのだ。と言って他に頼れる大人はいない。

(嘘言ってる手前、お父さんには相談出来ないし…夕べから鬼電かかってきてたけど怖くて出れなかったもん)

わたしの実家は元有名な呪術師の家系だ。この世に人間がいる限り、呪いというものは後を絶たず、人々の思念から生まれる呪霊を祓うのが呪術師の仕事であり、使命だと親に言われて育てられた。特にわたしは欲しくもなかった呪術師としての才能があったようで、父にめいっぱい鍛えられ、中学を卒業と共に呪術を学ぶ高専と言う学校に入れられることになっていた。でもわたしにだって他にやりたいことくらいはある。都会に住んで友達とお洒落な店に通ったり、イケメンと出会って恋をしたり。そういうことに憧れを持っていた。あんな気持ちの悪い化け物を相手にして青春を棒に振る気はさらさらない。

だから――嘘をついた。

高専に行くと父に行って上京する許可を取りつけ、東京へ出てきたのだ。でも実際は高専に入らず、こっそり受験で合格した高校に入学した。そのうちバレるだろうけど、一度東京へ出てしまえばどうとでもなる。そう思っていた。高専からの――超イケメンなお迎えが来るまでは。

さん?」

従業員出口を出て少し歩いたところで、そう声をかけられドキっとした。いつの間にか目の前には二人の男が立っている。その姿を見て店の客だと気づいた時、脳裏に"ストーカー"という文字が過ぎる。

――ねぇねぇ、あの黒づくめの二人、ちょーカッコ良くない?さっきからさんのことばかり見てるよ~。

先ほどバイト先の子に言われた言葉を思い出す。確かに視線は感じてたけど、それは気に入ってもらえたからだと思っていた。でも待ち伏せされていたのだとしたら、いくらお客様でも笑顔は作れない。

「…あの…誰ですか」

都会の人間は怖い。わたしは警戒しながら、いつでも店の中へ逃げ込めるよう意識だけはしていた。
わたしの問いに、一人が一歩前へと出た。黒い髪を後ろで縛り、前髪を少し垂らした男だ。店の中でも一度目が合い、大人びた優しい雰囲気がいい感じだと思った。イケメンと言うよりいい男、といった方がしっくりくる。その黒髪の男は店の時と同様、その整った顔に優しい笑みを浮かべていた。

「怖がらないで。私は夏油傑という者で、高専から来た」
「……高専…?」

その名を聞いてドキっとした。通りで見たことのある制服だと思った。何故、呪術師の学校の人間が?と思った時、今度はもう一人がこっちへ歩いて来た。長身に白髪にサングラス。彼もまた、店で働いてた際に何度か目が合っている。こっちの男はイケメンと言う言葉では足りないほどに端正な顔立ちをしていて、店の子達も裏で騒いでいたのを思い出す。

(彼も…高専関係者…?)

「ああ、彼は五条悟。私と同じく高専の二年だ」
「…二年って…生徒?」

少し混乱したあとで軽い眩暈がした。高専の人間がわたしのところに尋ねてくるということは、父に嘘がバレたことを意味している。

「もしかして…お父さんから頼まれたの…?」
「まあ、君のお父さんというよりは高専の上層部に、だけどね」

やっぱり父にバレてしまったようだ。父と高専の上層部は蜜月な関係だったのは知っている。先祖のせいで家は弱体化したものの、父は復興を目指して再び高専の上層部とパイプを繋げたんだろう。わたしという餌をちらつかせて。

「オマエを迎えに来たんだよ」

と白髪の男が言った。――ああ、やっぱり。と、元々低かったテンションが更に落ちていく。

「オレ達と一緒に来てもらおうか」
「…イ、イヤだって言ったら…?」

一応、抵抗の意を見せると、白髪の男は笑ったようだった。

「オマエに拒否権はねーの。無理やりにでも来てもらう」
「な…」
「悟。そういう言い方は良くない。彼女の意見も聞かないと」

黒髪の男が白髪の男を窘めるように言った。どうやら彼は白髪の男より話が分かる人のようだ。少しホっとしていると、白髪の男――五条悟は鼻で笑い、その黒いサングラス越しにわたしを見下ろした。

「意見なんて聞いても最終的には連れてくんだから同じだろ。そもそも高専に入学が決まってたのに逃げ出したのはコイツだ」

その言い草にはさすがにわたしもムっとしてしまった。わたしだって好きで呪術師の家に生まれたわけじゃない。

「に、逃げたわけじゃないもん。何も知らないくせに勝手なこと言わないでっ」
「あ?オマエ、そんないい術式もん持ってるクセして普通の高校入るとか…逃げたんじゃねーなら何なんだよ」
「それは…」
「オレが何を、知らないって?」

まるで挑むように睨んで来る五条悟にイラっとした。呪術師の家系に生まれたからって何でわたしまで呪術師にならなきゃいけないんだろう。もっと他にやりたいことがあるのに。

「術式とか関係ない…わたしは…ただ普通の高校生になりたいだけだもん…」
「ハァ?普通って何だよ」
「悟…いい加減にしろ。彼女を責めに来たわけじゃないだろ」
「あ……そーだった…」

黒髪の男、夏油傑と名乗った人は優しい眼差しをわたしに向けながら、困ったように微笑んだ。

「ごめんね。悟も悪気はないんだ。君の術式があまりに強いから術師にならないのはもったいないと思ってるだけで」
「…い、いえ…その…わたしも…ごめんなさい…。高専に行くこと決まってたのに行かなくて…」

本当は分かってる。わたしが悪いんだって。逃げたって言われて腹が立ったのは図星だったからだ。わたしの我がままで彼らの手を煩わせてるなら、それはわたしが逃げたせいだ。

(やっぱ…逃げ切るのは無理だったか…。まさかお父さんがここまでするとは思わなかった…)

ここで同行を拒否したところで、どうせまた次も来るのは目に見えている。潮時かな、と思ってしまった。

「あの…とりあえず高専には一度顔を出します。それで父ともきちんと話すので、それでいいですか」

そう尋ねると、夏油という人は一瞬だけ困ったような表情を見せた。でも次の瞬間、五条悟という男がわたしの腕をガシっと掴んだ。ビックリして顔を上げると、黒いサングラスの奥の強気な瞳がわたしを射抜く。

「ダーメ。オマエはオレ達と一緒に高専に来るんだよ」
「……っ?」

東京での快適な生活が、終わりを告げた瞬間だった。