第二話:あれはキスじゃない



を半ば強制的に高専へ入学させてから、早一カ月。肌寒い日も終わりをつげ、草木が芽吹く新緑がまぶしい季節が近づいて来た今日も、彼女は悟と体術勝負をしている。太陽がまだ東の空にある頃から、もうすぐ3時間が経過する中、私と硝子は大きな桜の木に寄り掛かりながら、飽きもせず二人のケンカ(?)を眺めていた。

「そろそろ諦めろよ。オマエはオレに勝てねえって。いくら今のオレが無防備とはいえ、経験値が違うんだよ」
「…まだっ…まだ!」
「息切れてんじゃ――…ぅぁ熱っちぃ!!」

突然、悟が左手首を抑えながら叫びだし、私と硝子は顔を見合わせ苦笑を洩らした。彼女相手に油断をするなと言ったそばからこれだ。自分の術式に頼り気味なのを修正する為、悟は今、術式を解いた状態だった。そんな中で挑発ともとれる無駄なお喋りをしていたのだから、当然そうなる。

「…テメェ…少しは加減しろ!熱っちーんだよっ」
「だ…だって…五条くんが隙見せるから…」
「だーから先輩って呼べよ。オマエ、後輩。オレ、先輩な?――て、あぢぢぢっ!」
「隙あり!」

は息を切らせつつも明るい笑顔で、悟が熱がる姿を見ながら声を上げて笑っている。まあ今のは私もちょっと笑ってしまったけれど。

「あの子、ほんとやるなァ。五条が術式解いてる状態とはいえ、手数は多いし。確実に五条の隙を捉えてる」
「ほんと面白い術式だよね。悟が無防備な状態で戦えば内部破壊される恐れがあるし」
「反転術式を使えないアンタもだよ」
「確かに。極力彼女を怒らせないようにしよう」

そう言って笑ったものの、を敵に回すと厄介な存在だというのは理解している。それくらい彼女の術式は恐ろしい。

「でもさぁ。彼女の呪力が届く範囲なら全てチン出来るわけだよねー。まさに歩く電子レンジ」

そう、の呪力は熱電子のようなもので、術式は過熱に近い。電子レンジで言えばマグネトロンが発したマイクロ波が、食品内部の水分を細かく振動させ、 それによって摩擦熱が生まれて熱が広がることで、食品全体の温度が上がっていく。彼女の力を例えるなら、呪力がマグネトロン、術式が電子レンジでいうところのマイクロ波のような役割をするようだ。人体や呪霊体の中に己の呪力を忍ばせ、発動させれば、内部から破壊される。人間の身体はほぼ水分で出来ているため、血液すら沸騰させられてしまうし、呪霊は体液が過熱されるということだろう。それに呪力の見えない者なら仕込まれてもまず気づけない。呪力、術式を全て見通す六眼を持つ悟以外は――。

「おい、硝子!これ治して!」

勝負は終わったようだ。悟が真っ先に硝子のところへ駆け寄り、左手をずいっと差し出す。見れば彼の左手は……無惨にも真っ黒焦げだった。

「うわ、痛そ~」
「いいから早く治せって。ヒリヒリする」
「ヒリヒリだけじゃ済まないよ、これ。重度の火傷。でもまあ左手爆発してないし手加減されたね、五条」
「あ?うっせえよ」

悟は不機嫌そうにそっぽを向いたが、手加減したのは悟も同じだ。術式は解いていたとしても、の仕込みを悟の六眼が見逃すハズはない。きちんと手加減しながらの体術がさらに向上するよう勝負をしている。まあ、勝負と言っても後輩の練習に付き合ってあげてる優しい先輩といったところか。

「硝子がいるからって無茶はするなよ、悟」
「…いいんだよ。直に受けた方がアイツの力が分かりやすい」

私が小声で言えば、悟は苦笑を洩らしつつ硝子の治療を受けている。私達の中で唯一反転術式を使える彼女もだいぶ腕を上げたのか、みるみるうちに悟の左手が元通りに戻っていく。

「あー!また硝子先輩に治してもらってる!」

そこへが駆け寄ってきた。首には真新しいタオルがかけられ、手にはスポーツドリンクのペットボトルを持っている。大方向かい側の木の根元で休んでいる七海と灰原のどちらかにもらったんだろう。彼らは一年生の紅一点となったには特別優しい。

「うるせーなぁ。終わったんだからいいだろ。治してもらったって」
「…ずるい。わたしだって五条くんから受けた傷、そのままなのに」
「あのな。五条先輩と呼べっつってんだろ。年上を敬え」

どの口でそれを言うんだ、悟。と突っ込みたくなったが、その前に硝子がこらえきれずといった様子で盛大に吹き出した。

「ぶはは!それアンタがいっつも歌姫先輩に言われてるやつな?」
「うっせーぞ、硝子っ」

治療しながらも爆笑している硝子に、悟の目が吊り上がる。この場に歌姫先輩がいたら「私の気持ちが分かった?」と、さぞどや顔だったことだろう。

「ねー、それ治ったら、もう一勝負しよ」
「あ?まーだやりたりねえのかよ」
「だってまだ五条くんに勝ってないもん」
「ハッ。何回やったって無理だよ」
「むぅ…」

悟が軽くあしらうと、は子供のように口を尖らせた。彼女は山育ちということだが、それが頷けるほどに純朴な性格だ。何でも考えてることは顔に出てしまう。そして、それをからかうのが悟の最近の楽しみなんだろう。「タコかよ」と突っ込みながら笑っている姿は前と比べ物にならないほど楽しそうだ。

「いいもん。じゃあ七海くんか灰原くんに付き合ってもらうから」
「…あっそ」

悟がダメだと分かるとはそう言いながら立ち上がろうとした。そんな彼女の手を掴んだのは、悟の治療を終えた硝子だった。

の傷も治してあげる」
「え、いいんですか?」
「いいから、ほら」

硝子がの頬や手に触れると、アッと言う間に擦り傷や打撲の跡が消えていく。

「ほら、綺麗になった」
「うわ、ありがとう御座います!硝子先輩」
「オイコラ、ちょっと待て!何で硝子には先輩つけてオレにはつけないんだよ」
「べー」
「ハァ?」

悟の指摘に舌を出して答えたに、私もつい吹き出してしまった。さすがの悟も口元が盛大に引きつっている。まあ悟には塩対応のも硝子には懐いている。「今度コーヒー奢ります」なんて可愛いことを言っていて、悟はそれすらも面白くないようだ。だが――この後の衝撃的な光景を目にして、悟が…いや、私も目が点になってしまった。

「ん~コーヒーもいいけど、今日はこれで勘弁してあげる」
「え、またですか?」

硝子が両手を前に出し、が苦笑を零す。そんなやり取りの後、硝子は何を思ったのか、の胸を両手でつかみ、ぎゅっぎゅっと揉みだした。Tシャツの上からでも薄っすらと分かる膨らみを遠慮もなしに一頻り揉んだ硝子は「今日も弾力あって気持ちいい~」と満足そうに笑っている。そして揉まれた張本人は「そんなに?」と自分の胸を自分で触り始めた。見ているのも恥ずかしくなった私がふと視線を反らした先には悟がいたが、その表情は思い切り固まっていた。まさに信じられないといった顔ではあったが、若干羨ましそうにも見える。

「な…な…何してんだ、硝子っ」

が七海達の元へ行ってしまうと、ハッと我に返った悟が何故か硝子にキレ出した。そんなに羨ましかったのか?悟。

「何って何が?」
「い、今の……ア、アレ…揉んでたろ」
「あーあれ?パイ拶しただけだよ」
「パ…パイ拶だぁ…?」

口元を思い切り引きつらせた悟に、硝子はあっけらかんとした顔で笑っている。

「だってのオッパイ、揉むと気持ちいい感触だしさー。クセになっちゃって」
「……き、気持ちいい…感触…?アイツ、やっぱそんないいもん持ってんのか…」
「…ゲホッ…」

思い切り食いついている悟に思わず咽てしまった。

「ああ、は着ヤセする方だから分かんないだろーけど、年齢のわりに大きい方じゃないかな」
「…へ。へえ…全然…気づかなかったわ」
「………(嘘つけ)」

未だに引きつった笑みを浮かべている悟の目は、すでにへ向けられている。きっと以前がバイトしてた頃の制服姿を思い浮かべているに違いない。あの時もだいぶ食いついていた気がする。そもそも、私の目から見てはかなり悟のタイプに近いのではないかと思う。まあ悟は捻くれているから素直には認めないだろうが。

「あ、いけね。私、これから個別授業あるから行くわ」
「あ、ああ…頑張って」
「さんきゅー」

硝子は立ち上がると制服のスカートについた汚れを払い、校舎の方へ走って行く。彼女は将来、高専の医者になる為、私達とはまた別に授業を受けているようだ。硝子のように他人を治せる術師は少ないため、かなり貴重な人材だと思う。

「悟。そろそろ私達も次の授業に――」

硝子を見送った後で視線を戻すと、悟はまだ熱心にを見ていた。いや、正確には七海と呪具訓練を始めた彼女を。

「あ?七海のヤツ、の腰に触ってンぞ。あれセクハラじゃねーの」

その方向に視線を向けると、確かに七海が彼女の腰に手を置き、重心のズレを修正してあげてるようだ。それを見て悟はやたらとブツブツ言っている。

「…楽しそうだな。悟」
「あ?楽しくねえよ」

言いながらも視線は二人を見たままなのだから、思わず笑ってしまう。

「何がおかしいんだよ…」
「いや。悟がそこまで彼女を気にかけるようになるとは思わなかったから」
「…別にオレは気にかけてなんか…あんな生意気なコーハイ、知るかよ。オレがダメなら七海って…尻軽女め」

プイっと顔を反らしながらも視線は未だに校庭で呪具を交えている二人に注がられている。ホントに素直じゃない奴だな、と思いつつ。まあ出会いがあまり良くなかったのも関係しているかもしれない。
あの日、彼女を強引に高専へ連れて来たことでも、には第一印象が最悪だったはずだ。※その上、悟は口が悪い。

(まあ…結果的に彼女も高専入学は脅されてしたようなものだしな…)

でもそれは悟が脅したわけじゃなく。最終的にを追い詰めたのは彼女の父親だった。高専に来てから父親に連絡を取ったは、自分が呪術師になりたくないという気持ちを父親に電話で話した。でも父親は納得せず、あげくには「高専に入学しないならこっちへ戻って結婚しろ」と言い出したようだ。

『地元の名士の息子が見合い相手を探してる。ちょうどいいだろ』

そんなことを言われても「分かりました」となるはずもなく。無理やり好きでもない男と結婚させられるなら「高専に入った方がマシ」という結論を出した。彼女からすれば相当、不本意だったに違いない。ただ私達が迎えに行った時点で住む場所を失いそうだったようで、気持ちが決まったら意外と高専の寮に引っ越してくるのは早かった。あれから一カ月。こうして見ていると、少しずつ新しい生活や高専の仲間にも馴染んで来てはいるようだ。

「あーったくのヤツ、呪具の扱いだけは下手なんだよなー…」
「あれ、悟?もう彼女には付き合わないんじゃなかったのかい」

立ち上がっての方へ歩き出そうとした悟を見て、敢えて意地悪を言えば、サングラスの陰からジトっとした目を向けられた。

「下手すぎて見てらんねーだけ」
「へえ」
「チッ」

私が笑いを噛み殺していると、苦虫を潰したような顔で歩いて行く。前はそれほど面倒見がいい先輩とは言えなかった悟が、随分と親切になったものだ。でも悟が彼女に近づいた時、ちょっとしたハプニングが起きた。

「おい、!オマエ、そんな大振りじゃ当たるわけない――」

は長物と呼ばれる長い槍を扱っていた。そのせいで彼女の攻撃範囲に入ってしまった悟に気づき、当たるのを避けようとが身を捩ったように見えた。でも急な方向転換はバランスを崩す。案の定、の身体は傾き、ちょうど歩いて来た悟の方へと勢いよく倒れ込んでしまった。ドサッカランカランっという嫌な音が校庭に響く。だが私が目を見張ったのは、校庭に重なるような体勢で倒れ込んだ二人に、ではなく。ちょうど二人の唇同士が重なっている光景を見たせいだった。

「…………」
「…………」

しばしのフリーズの後、先に動いたのは悟に覆いかぶさるような形で上に乗っていただった。

「……ぎゃっ!」

猫が尻尾を踏まれたのかと思うような声を上げたは、真っ赤な顔で悟の上から飛びのき、口元を震わせて悟を睨んでいる。

「な…なな何で急に近づくのっ?」
「……あ?んなの…避けられんだろ、余裕で」

悟にしては声のトーンが小さい。はそんな悟に向かって「は、初めてだったのに…」と呟いた。アクシデントとは言え、初めて男と唇を合わせたのがショックだったようだ。そのまま校舎の方に走って行ってしまった。その場に取り残された悟や、後輩の七海と灰原も唖然とした顔で彼女を見送っている。

「…悟…唇切れてるけど大丈夫かい…?」
「……初めて……?」
「……(ダメだな、あれは)」

放心してる悟の姿を見て、私は苦笑しつつも盛大な溜息を吐いた。



△▼△



一気に校舎を駆け抜けて女子トイレへと飛び込むと、個室に入って思い切り扉を閉めた。未だに心臓が体内で飛び跳ねるようにバクバク鳴っている。頭の中では何で?とどうして?が入り混じって、ちょっとしたカオス状態だ。

「わたしのファーストキス……」

そっとくちびるに触れてみると、ぬるっとした感触。指先には赤い血がかすかに付着していた。五条くんの歯に当たって切れたようだ。思い出してみるとぶつかった時、痛みを感じた気がする。でもくちびるがくっついた時の衝撃で痛みなど吹っ飛んでしまったのかもしれない。

「あ…あんなの…キスじゃないよ…そうだ…そうに決まってる…ぶつかっただけ。うん、そうだ。キスじゃない」

心を落ち着かせようと、一人で口に出して否定する。そもそも、あんなちゅって掠ったようなものがキスであるはずがない。くちびるの感触だって本当に一瞬だった。

「……っていうか…五条くんのくちびる、柔らかすぎじゃない…?」

何となく覚えてる感触を思い出す。でも思い出した瞬間、顏からボっと火が出たように熱くなった。自分で自分に術式を使ったのかと思うくらい体内の血液が沸騰してる気がする。

「あーダメだ!違う。あれは事故だしキスじゃない…向こうだってすんごくビックリした顔してたし…」

たまたまぶつかった場所がくちびるだったと言うだけの話だ。

「そう、そうだよ…。わたしはまだファーストキスを奪われてない。だから彼氏が出来たとしても問題ない…はずっ」

わたしには東京に出て来たら夢があった。それはドラマの中に出て来るような都会のカップルになること。その為に普通の恋人を作ること。そして彼氏と夢の国デートをして、デート帰りの夜道で路チューという名のファーストキスをする。これが目下のわたしの夢だった。だから呪術師の男なんて論外だし、まして意地悪な五条くんに初めてを奪われるわけにはいかない。

「…そりゃ…顔はすんごく好みだけど…五条くんは絶対ダメだもん」

動揺した心を落ち着けるように深呼吸をする。次に五条くんと顔を合わせても普通にできるよう、脳内シミュレーションをしておかなければ。そう心で念じながら、たびたび脳内の浮かぶ、さっきの光景を追い出すように、わたしは思い切り頭を振った。

「あれは…キスじゃない」