第十話:彷徨いの森


瑞々しい葉の合間から薄っすら太陽の日差しが零れ落ちるのを見上げながら、ふと少し後ろを歩く彼女を見た。隣には悟が寄り添うように歩き、時折、他愛もない冗談を飛ばして彼女の顔に笑顔を作っている。その光景に自然と笑みが浮かんでいたのか、私の隣を歩く硝子に「何笑ってんの」と苦笑された。

「いや…あの悟がまさか年下の女の子に本気になるなんてな、と思って」
「あー…」

硝子も同意見だったのか、軽く吹き出して後ろを振り向いている。きっと夕べのことを思い出したんだろう。

「まさか五条が救出任務を早めるよう夜蛾先生に進言するとは私も思わなかったな」

夕べ、皆で寮へ戻った後、悟は夜蛾先生のところへ行くと言い出した。理由を尋ねると、朝一で冥さんと歌姫さんのところへ行かせてくれと頼むという。珍しいこともあるものだと思った。悟は滅多なことで他の呪術師の任務に関与しない。特に冥さんのような強いと認めている術師に対してはある程度の信頼をおいている、だからこそ今回夜蛾先生に援護に行って欲しいと言われた時も「大丈夫だろ」と楽観していたのだ。なのに何故?と思った私は相当怪訝そうな顔をしてたんだろう。悟の方から理由を話し出した。

――が…やたらと心配してたからさ。無事だと分かれば安心すんだろ。

なるほど、と思わず笑ってしまったが、聞きついでに私も夜蛾先生に頼みに行くのを付き合うことにした。硝子も事情を聞いて「五条もいいとこあんじゃん。私も付き合うわ」と言い出し、結局三人で夜蛾先生のところへ行くことになった。当然、夜蛾先生は驚いていたものの、やはり少し気になっていたんだろう。朝一で行くことを許可してくれた。

「でもまさかまでついて来てたとはね」
「あーあ。授業サボっちゃって。帰ったら怒られるよ、きっと」
「まあ、その時は私達での援護をしてあげよう」
「そうだね。でも五条が真っ先に庇いそう。――ところで…その心霊スポットの洋館ってどこにあんの」

延々と森の中を歩いて来たものの、一向にそれらしき建物は現れず、硝子は溜息を吐いた。前を歩く補助監督も「あれ…おかしいなあ…」と地図を開いている。彼は後藤さんと言って今回冥さんと歌姫さんを現場まで案内した補助監督だ。洋館の中に入った二人と連絡が取れなくなり、電話をかけようとしても洋館の近くではケータイも繋がらず、仕方なく山を下りて高専に連絡を入れたらしい。

「さっき分かれ道みたいな場所があったけど、間違えたんじゃない?」
「そ、そんなはずは…あそこを左で間違いないはずなんですけど…」

後藤さんはかけている眼鏡をくいっと指で押し上げながら、地図をマジマジと眺めている。彼は昨日も来ているのだから間違えるわけもない。
目的地である洋館は森に入ってから徒歩20分くらいの場所にあると聞いていた。でもすでに30分以上は歩いてる気がする。その時、悟が「少し休憩しようぜ」と言い出した。が少しバテ気味らしい。何でも寝起きの状態で朝食抜きだという。そこで後藤さんが先ほど買って来てくれた飲み物を彼女へ渡した。

「すみません。ドリンク類しか買ってなくて…」

私達が浜松駅に到着する頃、後藤さんは迎えに行くと連絡をくれたものの、悟が「迎えはいいから何かコンビニで飲み物とか甘い物、買ってきてー」と我がままを言ったのだ。時期的に蒸し暑い中、森を移動するということで必要になると思ったんだろう。でもその我がままが役に立つとは、この時の私もまだ知らなかった。

「はあ…美味しい」
「オレにも飲ませて」
「え、」
「何だよ。それ元々オレの頼んだコーラ」
「う…わ、分かった…」

が渋々手にしていたコーラのペットボトルを悟へ渡す。それって間接キスじゃないか?と内心思いつつ、悟も確信犯的な顔でそれを飲んでいるのだから笑ってしまう。を好きになってからは、だいぶ変わったと思ってたが、ああいう意地悪気質なところは今も時々顔を出すようだ。でもまあ、この休憩もがバテているのを見て言いだしたのは明らかで。こういった優しさを持てるようになったのはいい傾向だ。

(前の悟ならもうバテたのかよ、だっせーと一笑に伏して終わりだったろうな)

そんなことを考えていると、後藤さんが「夏油くん、これちょっと見て欲しいんだけど…」と声をかけて来た。後藤さんは手にしていた地図を私に見せると「今この辺りだと思うんですけど…どう思います?」と尋ねてくる。確かに地図だけを見れば正しい道順に思える。そもそも洋館までの道のりは一本道だと聞いていた。分かれ道はあったものの、片方はいわゆる獣道と呼ばれるような代物で、とても人が歩ける道ではなかった。

「…道は合ってると思います」
「ですよね。昨日もそれほど時間もかからずついたはずなんですけど…」

後藤さんも首を捻りつつ、うねっている前方の道へ視線を向けた。

「とりあえず、もう少し先を行ってみましょうか」
「…そうですね。では10分休憩してから出発しましょうか」

硝子もその案に賛成して、後藤さんから飲み物を受けとっている。

(それにしても…暑いな。このまま迷ったなんてことになれば少しマズいかもしれない)

私は近くの大木に寄り掛かりながら、木々の合間から覗く太陽を見上げた。ケータイを出して見てみると、なるほど。アンテナが一本と二本の合間を行ったり来たりしていた。それほど田舎ではないが、呪霊が近くにいると電波障害を起こしやすい。これ以上、先へ行けば繋がらなくなる可能性が高いなと思った。

「悟」
「あ?」

と談笑していた悟を呼び「何か周りに怪しいものは見えるかい?」と尋ねる。この不可思議な迷い道は、何かしらの力が働いてる気がしてきたからだ。悟は察してくれたのか、サングラスを外すと、目を凝らして辺りを確認してくれた。

「うーん…低級呪霊の陰が森のあちこちに視えるけど、特に怪しい呪力は感じねえな」
「だよな。まあいい。私も呪霊を数体ほど飛ばして偵察させるよ」
「ああ、頼む。オレも多少温存・・しておきたいし」

悟はそう言ってのところへ戻っていく。悟の六眼は酷使すると非常に疲れるようで、術式もそうそうONの状態にはしておけないと前に話していた。以前、二人で一級相当の呪霊討伐任務の際、その呪霊が特級近くまで育ったことがあった。その時は二人で倒せたものの、力を使いすぎた悟はその後にぶっ倒れ、三日間目を覚まさなかったことがある。本人曰くオーバーヒートを起こしたそうだ。それだけ無下限呪術のコントールは難しく、だからこそ六眼や脳への負担は尋常じゃないらしい。

――反転術式さえ使えるようになりゃーマシになりそうなんだけどなー。

悟がそうボヤいていたが、負の力である呪力をかけ合わせ、正の力を生じさせる呪力操作は言うほど簡単ではなく。緻密な呪力コントロールが必要だ。唯一それが出来る硝子に説明されたことがあれど、私もさっぱりだった。

「さて、と。辺りを偵察させるか…」

柔らかい湿った風が吹き、穏やかな風景を眺めながら、私は自身の呪霊操術を発動し、何体か森へ放った。



△▼△


「暑い…。はあ…森って涼しいんじゃないのー?」

硝子はブツブツ言いながら木に寄り掛かって座り込んだ。確かにこの時期ともなると湿度が高めで空気が重い。じっとりと肌にまとわりつくような蒸し暑さはオレでもウンザリする。

「…。大丈夫か?オマエ、顏赤いぞ」
「大丈夫…ちょっと寝不足と空腹なだけ」

そう強がってはいるものの、やっぱり少しバテているのか、木陰にある岩に座り込んだままグッタリしている。確かに寝不足で空腹じゃ、この山登りはキツいかもしれない。幸い補助監の後藤さんが飲み物だけは行き帰りの分を合わせて多めに買って来てくれたことで水分補給は出来ているものの、空腹だけはしのげない。

(何か食うもん…か)

飯の類を頭に浮かべていたものの、制服のポケットに手をつっこんだ時、何かが手に触れた。

「あ…!」
「え?」

すっかり忘れてたが先ほど新幹線に乗る前、駅のコンビニでオヤツを買ったことを思い出した。

、これしかないけど食う?」
「……え、チョコ!」

移動中に食べようと思って買ったアーモンドチョコの箱を振って見せると、の瞳が一気に輝きだした。気のせいかのケツにぶんぶんと振っている尻尾が見える気がする。新幹線に乗ったらついつい車内販売で色々と買ってしまった。そのおかげか、このチョコの出番はなく。丸ごと残っていたのは良かったかもしれない。

「え、いいの…?食べて」
「いいから出してんだろ。あ、でも一気に食うなよ?この先すぐ山を下りられる保証はねえから少しはとっとけ」
「うん、ありがとう」
「………(可愛い…)」

よほど嬉しかったのか、はとびきりの笑顔でオレを見上げた。やっぱり元気のない顔より、には元気な笑顔が似合う。

「ん~!美味しい…!チョコの甘さが身に沁みるーっ」
「…まあアーモンドも栄養価が高いし、オレのチョイス最高だろ?」
「うん!五条くん天才。イケメン!チョコ王子!」
「……オマエ、バカにしてんだろ」
「してないよ!」

はチョコを口内で味わいながら首をぶんぶん振っている。チョコ王子の意味は分からないが、まあが褒めてくれるのは何でも嬉しい。

「はい」
「え」

その時、がアーモンドチョコを一粒つまむと、オレの口へと運んできた。見上げてくる瞳は控えめに言っても超可愛い。よって、オレの心臓がド派手な音を立てた。

「…オレはいいって。が食えよ」
「だって五条くんが食べようと思って買ったんでしょ?はい」
「…………(コイツ…わざと煽ってんのか…?)」

この時、オレの脳内に"わざとだよ?"という、少女漫画史上、伝説の名台詞が浮かぶ。硝子の本を暇つぶしで借りて読んだ時、あのシーンはあざとすぎてオレは盛大に突っ込んだ記憶がある。でもにこんな顔でチョコを出されると、わざとでもいいかなくらい思うんだから不思議だ。
自然と身を屈め、差し出されるチョコを唇で挟むと、は満足そうな笑みを浮かべた。

「美味しい?」
「……まあ、いつも食ってる味だけどな」
「そこは美味しいでいいじゃん」

素直じゃないなーとは笑ってるけど、ぶっちゃけチョコの味なんか分からなかった。口内より、胸の奥が甘たっるい気がする。

「おーい!、五条!出発だってー!」

そこで硝子の声が飛んできて。それを聞いたはチョコの箱をポケットにしまうと「行こっか」と立ち上がった。だいぶ太陽も高くなり、春から夏に移り変わろうとしているせいか、やたらと日差しが強い。

「大丈夫か?」
「…うん。水分補給も出来たし甘い物も食べたから少し楽になった」
「ならいいけど。キツくなったらちゃんと言え」
「うん…ありがとね」

そう言って笑みを見せるは確かにさっきよりは顔色がマシになってきた。でもこれ以上長引くと空腹でダウンするかもしれない。

「とっとと終わらせて、皆で飯でも食って帰ろうぜ」
「うん。あ、せっかく浜松に来たんだから何か名産がいいなあ」
「あーだな。うな重食いたい…やべ、頭の中がうな重食いたいで埋め尽くされてきたわ」
「…うな重って美味しいの…?」
「え、食ったことねえの」
「…ない」
「…だ……」
「え?」
「いや…何でもねえ」

つい昔の習性で「だっせー」と言いそうなり、ギリギリで止める。ここで言い合いになっても体力の無駄遣い。の腹が減るだけだ。

「んじゃー帰りはうな重な」
「えっいいの?」
「仕方ねーから先輩が奢ってやるよ」
「やったー!」
「………(喜び方素直かよ)」

子供みたいに喜んでるを見て、つい顔がニヤけそうになる。やっぱり素直なは可愛い。でもそうと決まればサッサとこの怠い任務を終わらせるに限る。

「…傑!何か異変あったか?」

前を歩く傑に尋ねると「いや今のところは」と返って来た。特に異変もないとなると、やっぱり道を間違えたか、それとも呪霊が多すぎて軌道にズレが生じているか、それともすでに――。

「オレちょっと上から見渡してみるわ」
「ああ、そうだな。頼むよ」
「りょーかい」
「あ、五条くん!」

術式を発動し、自身の周りを無限で覆う。それを上手く操作しながら空中に浮かぶと、後藤さんが走って来た。

「帳、下ろしますか?」
「ん?あーいいや。オレが下ろすし」
「分かりました!お願いします!」

後藤さんはそれだけ言って手を振っている。軽く手を上げて応えると、まずは六眼で辺りを見渡した。この操作だけでも結構しんどいが、六眼があるだけマシだ。ただ、疲れるだけで。

「あー…洋館は見えねえな…」

広大な森を上から見ても、どこにも建物らしきものがない。夜蛾先生の話では結構デカい屋敷だということだった。上から見えないはずがない。

「つーことは……やっぱ呪霊の影響か」

さっき傑には特に気になるものは視えないと言ったが、呪霊の気配は感じていた。ただ低級呪霊が多数辺りにいることで、そのせいかとも思ってたが、どうも違う気がする。

「上じゃなければ…下か…」

そう呟きながら視線を真っすぐ下へ向けると、地面の中、それも遥か地中深くに呪霊の存在を確認できた。

「チッ…そこかよ…」

足元深くにいるとは思わなかった。仕方なく傑に電話をして、その場から離れるように指示を出した。これは蒼を使って地面をえぐり取り、おびき出す必要がある。

「出て来たら傑、頼むな」
『了解』

そこで電話を切り、術式を発動させた。地中にいる呪霊はデカいものの、せいぜい三級がいいところだろう。呪力をあまり消費しないで済む。

「…んじゃーやるか。――術式順転・蒼」



△▼△



ゴゴゴという地鳴りと、辺りの景色が歪んでメリメリメリッという音が響く中、わたしは硝子ちゃんや後藤さんと五条くんの技が影響しないところまで避難をしていた。

「凄い…」

五条くんの任務を何度か手伝わされたことはあれど、ここまでの規模の攻撃は見たことがない。竜巻のように渦を巻いて辺りの木々を場ぎ倒し、地面を抉って削っていく。それが風に煽られ天高く舞い上がるさまは大きな塔のようにも見える。でもその時だった。今まで木しかなかったはずの場所。舞い上がる大木に交じって屋根のような瓦礫が頭上からバラバラと降ってくる。

「え、あれって…」

と呟いた瞬間、えぐり取られた地面の辺りから人影のようなものが飛び出してきた。あれは――。

「冥さん!」
「…おや?」

何故か五条くんの削った場所から冥さんが現れた。それを頭で理解するよりも先に走り出していた。

じゃないか。まさか助けに来てくれたのかな?」

わたしが駆け寄ると冥さんは優しい笑みを見せて頭にポンと手を置く。その感触で本物だと理解した。

「け、ケガは?大丈夫でしたか?」
「私は大丈夫だよ。それより…あれは五条くんか」

冥さんは手で太陽光を遮りながら空を見上げた。釣られてわたしも見上げると、五条くんはすでに状況を理解しているらしい。そのまま勢いよく地面に下りて来た。

「なーんだ。冥さん達、そこにいたのかよ」
「…そこ?」
「いや、全然、洋館が見つからないから呪霊の仕業かと思ってこの辺削ってみたんだよ」
「なるほど」

冥さんも事情を理解したのか、軽く苦笑している。どうやら見えていなかっただけで実際はここに洋館があったらしい。わたし達はちゃんと辿り着いていたものの、延々と屋敷の周りをただグルグル回っていたようだ。

「で?歌姫は?」
「ああ、無事だよ。あの子のことだ。五条くんの攻撃を避けられずにその辺で埋まってるかもね」
「えっ?」

冥さんの言葉に驚くと、五条くんは笑いながら「大丈夫だって」と自分の空けた大きな穴の方へ近づいて行く。わたしも慌てて後からついて行った。

「助けに来たよ~。歌姫、泣いてる?」

「泣いてねぇよ!!敬語!!」

五条くんがふざけた言葉をかけた瞬間、穴の下の方からそんな返答が聞こえてきた。歌姫さんが無事だったと分かり心底ホっとする。二人もわたし達みたいに呪霊のおかしな力で迷わされてたのかもしれない。

(でもその呪霊はまだ姿を見せてない…)

夏油くんも同じことを思ったのか「そろそろ来そうだな」と言って穴の方へ歩きだした。
それにしても――。

「はぁ…こんなに破壊しちゃって大丈夫なのかなぁ…」

今ではここに洋館があったとは思えないほどに見晴らしが良くなった場所を見て溜息をつく。そんな中、冥さんと五条くんは楽しげに話をしてた。冥さんもこういう事態には慣れてるらしい。

「泣いたら慰めてくれるかな?是非お願いしたいね」
「冥さんは泣かないでしょ。強いもん」

五条くんは軽く嫌味を言いつつ笑っていて、それに歌姫さんがすぐに反応した。

「五条!私はね!助けなんて――」

そう叫んだ瞬間だった。瓦礫の中から大きな呪霊が姿を現した。どうやらコレが今回の祓徐対象らしい。

「―――ッ?」

歌姫さんが声を上げるより早く。大きな呪霊がモグラの如く顔を出したのとほぼ同時。もう一つ巨大な蛇のような呪霊が同じく地面から現れ、大きな口を開けたかと思えば最初の呪霊をばくりと口の中へ入れて飲み込もうとしている。

「飲み込むなよ。後で取り込む」

そう言ったのは夏油くんだった。

「悟。弱い者イジメは良くないよ」

夏油くんがそう言うと五条くんが苦笑いを浮かべながら、徐に舌を出した。

「強い奴イジメるバカがどこにいんだよ」
「…ぐっ」(歌姫)
「君の方がナチュラルに煽っているよ、夏油くん」
「あ”……」

冥さんに冷静な突っ込みをされ、夏油くんはしまった、という顔をした。普段は優しい一面ばかり目につく夏油くんも、なかなかどうして。五条くんと親友なだけあって、地味に辛辣だったりする。まあそれが向けられるのは殆ど敵らしいけど。
そこへ硝子ちゃんがやってきて大きくえぐられた穴の中を覗き込んだ。

「歌姫センパ~イ…無事ですか~~?」
「硝子!!」
「心配したんですよ~。二日も連絡なかったから」

どうやらわたし達が森に入って数時間ほどしか経っていないと思っていたら、半日以上も経っていたようだ。それが一番驚いた。
歌姫さんは硝子ちゃんの言葉に感動したのか、瓦礫の中から勢いよく走ってきた。その勢いのまま硝子ちゃんに思い切り抱き着いている。

「硝子!あんたはあの二人みたいになっちゃダメよ!!」
「あはは。なりませんよ。あんなクズども」
「…って…二日?」

硝子ちゃんを抱きしめながら、歌姫さんが訝しげに顔を上げると、五条くんが気づいたように二人を見た。

「やっぱ呪霊の結界で時間ズレてた系?珍しいけどたまにあるよね。冥さんがいるのにおかしいと思ったんだ。オレらも迷わされたし」
「そのようだね。あ~ところで君たち…」

冥さんは相槌を打つと、少し微妙な顔で五条くん達へ気怠そうな瞳を向けた。

「"帳”は?」

「「「あ……」」」



△▼△



『続いて昨日、静岡県浜松市で起きた爆発事故――原因はガス管の経年劣化?!』

静かな部屋に、テレビニュースの音声が流れている。それを重苦しい気持ちで聞いていた。
五条くん、夏油くん、硝子ちゃん、そしてわたしの四人は床に正座をさせられ、目の前に置かれた椅子には怖い顔――元々怖いけど――で俯く夜蛾先生が座っていた。
そしてこの静寂を最初に破ったのは、やはり夜蛾先生だった。

「…この中に"帳"は自分で下ろすから、と補助監督を置き去りにした奴がいるな。そして"帳"を忘れた」
「………」
「………」
「………」
「それだけじゃない。任務とは関係のない一年生を現場まで連れて行った奴がいる。――名乗り出ろ」

静かだけど、とても迫力のある声で言って夜蛾先生が顔を上げた。すると夏油くん、硝子ちゃん共に無言のまま五条くんを指さした。この三人の友情は意外と脆い。

「先生!犯人捜しはやめませんか?!」

「悟だな」(!)

手を上げ、元気よく発言した五条くんを見て、口元を引きつらせた夜蛾先生は拳を振り上げ、頭頂部へゲンコツを落とした。あれは確実に脳みそが揺れたと思う。次はわたしか?と本気でビビっていた。

「ってぇ…」
「あ、あの…夜蛾先生!着いて行ったのはわたしの独断で、皆は関係ないんです…!」

まさか殴るとは思わず、誤解を解こうと夜蛾先生の前へ立った。勝手に着いて行ったせいで五条くんが怒られるのは申し訳ない。怖いけど、出来ればわたしを叱って欲しかった。そう思いながら夜蛾先生の前へ立つと、それを見ていた五条くんが慌てたように立ち上がり、わたしと先生の間に入った。

は悪くねえ。オレがちゃんと帰せば良かったのに、あの洋館まで連れてったんだから」
「五条くん…」
「だからのことは殴んなよ?」

そう言って怖い顔で夜蛾先生を睨む。そんな二人をハラハラしながら見ていたら、夜蛾先生は意外にも薄っすら笑みを浮かべて立ち上がった。

「こんな可愛い子、殴るわけないだろうが。今のゲンコツで済んだことだしな」

夜蛾先生はそう言うと五条くんの額を指で小突く。五条くんはホっとしたように息を吐くと、「ったくビビらせんなよ…」とその場に座り込んだ。

「あ、あの…夜蛾先生――」

「は…はい」

不意にわたしを見た夜蛾先生にドキっとしながら返事をすれば、「ケガはしなかったか?」と優しい言葉をかけてくれた。

「…はい。建物の近くまでは行きましたが、五条くんに言われて離れた場所で待機してたので…」
「そうか。何だ、優しいじゃないか、悟」
「危険だと思った場所にを連れていく気は元からねーよ」
「減らず口め。まあ、いい。でも二度はないぞ?」
「ああ」
「分かったならもう帰っていい」

夜蛾先生のその一言でお説教タイムが終わり、五条くんは「あ~!腹減ったぁぁぁ」と大きく伸びをしている。あの洋館から高専へ戻って来た時にはすでに夜になっていて、それから夜蛾先生に呼ばれて今に至る。外はすっかり暗くなっていた。結局、時間が遅くなってしまうという理由でうな重もお預けになってしまった。

「はあ~あれだけで済んで良かったな~?五条」
「あ?何がいいんだよ。こっちはゲンコツ食らったっつーの」

皆で寮までの道を歩きながら、五条くんは目を細めた。彼の術式なら回避できるはずなのに、先生からの説教は甘んじて受けたようだ。普段は反抗的だったりするのに、ああいう時はきちんと先生をたてる姿は意外だった。きっと五条くんなりに夜蛾先生を教師として認めるんだろうな。

「あの…ごめんね…わたしがくっついてったせいで余計に怒られて…」
「あ?別に気にしてねーよ。も終わったこといちいち気にすんな」
「……うん。ありがとう」

わたしの我がままみたいなものだったのに、五条くんは何でもないことのように言って笑っている。その気持ちが嬉しかった。ただ、冥さんも歌姫さんもケガ一つなく無事だったことでホっとしたら、急に疲れが出たようだ。ふっと足の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。

「っぶね!大丈夫かよ?」
「え…?あ…ご、ごめん」

気づけば五条くんの腕に支えられていてビックリした。慌てて立ち上がろうとしたけど、足に力が入らない。寝不足の上に空腹すぎて少し気持ち悪かった。

「時間のズレのせいで私達も丸半日近く彷徨ってたんだ。無理もない…悟。を部屋へ運んでやれよ」
「えっ」
「ああ…そっちの方が早いか」

夏油くんの言葉に五条くんが応えた瞬間、わたしの体がふわりと浮いて、ぐっと視界が高くなった。ビックリして顔を上げると、すぐ目の前に五条くんの顔がある。

「え、ちょ、ちょっと!」
「こーら、暴れんなって。落っことすぞ」
「だ、だって…自分で歩けるっ」

いきなり、横向きに抱きかかえられたわたしは軽いパニックに陥った。人生初のオヒメサマ抱っこは恥ずかし過ぎて今すぐ死ねる。

「お、下ろしてよっ」
「ダメ。フラフラじゃん。このまま部屋に直行な?飯は食堂のオバチャンに作ってもらって運んでやっから」
「え、い、いいってば…そっちだって疲れてるクセにっ」
「そー。疲れてるからオマエが大人しくしててくれるとありがたい」
「……う」

ごもっとも、と思わされてしまった時点でわたしの負けだ。これ以上ごねると五条くんにまで負担をかけてしまう。五条くんは大人しくなったわたしを見て、ふと笑みを浮かべたように見えた。サングラスで澄んだ青空のような瞳は見えないけど、艶々したくちびるが綺麗な弧を描いてるからだ。

「素直でよろしい」
「……偉そうに」

悔しくて言い返すと、五条くんだけじゃなく、夏油くんや硝子ちゃんも、どこか満足そうに笑っていた。