第十一話:天と地が入れ替わった日...⑴


その光景を目の当たりにした時、天と地が逆さまになったような感覚になった。豊かな緑と歴史のある建物。いつも見慣れてるはずの風景が歪んで見えるくらいに破壊されている。その荒れ果てた風景の真ん中に、真っ赤に染まった場所があった。白い石畳が円を描くように抉られたところの、ちょうど真ん中。そこに良く見知った男が倒れている。雪のように白く、やわらかな髪にはべっとりと赤い液体が付着していた。髪だけじゃない。彼の滑らかな肌も黒い制服も、あちこちに赤いシミが飛んでいる。いつもは澄んだ青空のように美しい瞳さえ、今は濁り、空虚だけがこびりついている。額には刺し傷、首も肩も裂け、それは脇腹へかけて走ったのか、生々しい肉の断裂面が垣間見える。赤々とした血が吹き出したことを物語るほど、辺りはまさに――血の海。

「…ご…ごじょ…うくん…?」

抉られた場所を飛び越え、ふらつく足を一歩、また一歩と進めながら、これは悪い夢だと思った。悪夢の続きを見ているのだと、思いたかった。パシャリ…血だまりに足を踏み入れた瞬間、くずおれる。無意識についた手に、ぬるりとした感触。ゆっくりと裏返した手のひらには、べっとりと血がついていた。

「…や…だ…やだよ…!五条くん…!!」

縋りつきながら揺さぶっても、五条くんの空虚な瞳は何も映していない。まだ、暖かい。暖かいのに。どれだけ揺さぶっても彼は何の反応も示さない。

――オマエが…好きだ。

そう言ってくれたのはつい昨日のことだ。それから縫うようにキスを交わした。何度も。何度も。好きだという言葉を合間に紡ぎながら何度も。

――オレは死なない。

ハッキリと、そう言ってくれたのに。

「死なないって…言ったじゃない……言ったじゃないっ!」

大きな手を握り締めても、もう握り返してくれることはない。この手で、頭を撫でてくれることも。

「…やだぁ…!五条くん…!!」

頬から伝って落ちた涙が、血に染まった彼の手を濡らしていった。



△▼△


二日前――。


ダンっとボールが跳ねる音が体育館に響く。イラついたようにバスケットボールを放り投げたのは五条だった。昨日の救出任務で帳も下ろさず建物を破壊させたことを上層部の方からもチクりとやられたらしい。朝から呼び出された五条は不愉快そうな顔を隠そうともせず、転がって来たボールを拾った。

「そもそもさぁ。"帳"ってそこまで必要?」

そのボールを天井に放り投げ、落ちて来たボールをキャッチすると、五条は不貞腐れたようにそのボールを抱きしめた。子供が駄々をこねてるみたいでウケる。

「別にパンピーに見られたってよくねぇ?呪霊も呪術も見えねぇんだし」

言いながらシュートを放つと、ゴール寸前で夏油がそれを遮り、ゴールの方までドリブルしていく。私はさっき借りた五条のサングラスをかけてると全く見えないから本人の顏に戻してあげた。

「駄目に決まってるだろ。呪霊の発生を抑制するのは、何より人々の心の平穏だ。その為にも目に見えない脅威は極力秘匿しなければならないのさ。それだけじゃない――」
「分かった!分かった!」

夏油の説教じみた話にウンザリした様子の五条は彼のボールをカットし、ドリブルしながらシュートを放つ。ボールはゴールの淵をゆっくりと回って吸い込まれた。

「弱い奴らに気を遣うのは疲れるよ、ホント」

五条は溜息交じりで言いながら、跳ねて来たボールを片手でキャッチし、そのまま夏油へ放り投げる。夏油もそれを何なくキャッチした。

「"弱者生存"。それがあるべき社会の姿さ。弱気を助け、強きを挫く。いいかい、悟。呪術は非術師を守るためにある」

普段は五条と並ぶクズでも、術師としては優等生の夏油らしい言葉だ。夏油の放ったボールはゴールに弾かれ、床へ落ちた。

「それ、正論?」

五条は含みのある笑みを浮かべて小首を傾げた。こうなるとこの先の展開が手に取るように分かる。

「――オレ、正論嫌いなんだよね」
「……何?」

たった一言で不穏な空気が二人の間に流れるのはいつものことだ。些細な討論からケンカ勃発といった流れは今までも嫌になるほど見て来た私は「また始まった…」と溜息を吐いた。これから後輩三人が来るというのに、先輩であるコイツらが子供じみたケンカをしていたら、それこそ後輩に示しがつかないのでは?という思いが過ぎる。

呪術ちからに理由とか責任とか乗っけんのはさ、それこそ弱者のやる事だろ」

五条は足元に転がって来たボールを、天井高く放り投げた。と思ったら夏油側のゴールに勢いよくシュートをした。アイツ、力使ったんでは?と思ってしまうほど不自然なゴールだ。

「ポジショントークで気持ちよくなってんじゃねーよ。オ"ッエー!」
「………(逃げるか…)」

私はとりあえず体育館の外へ避難してドアの隙間から中を覗いた。五条悟という男はこういう物言いしか出来ない。故に敵も作りやすい。案の定、夏油の殺気が漂ってきて。夏油の背後から彼の操る呪霊が沸き出てきた。(※高専敷地内で夏油が術式を使う場合、許可申請が必要です!)

「外で話そうか、悟…」
「寂しんぼか?一人でいけよ」

まさに一触即発。その時――背後から「硝子ちゃん?何してるの?覗き?」と、今の状況を考えると、天使の声のように心地よく響く声が聞こえた。

…!ちょうど良かった!」
「え?」

私がに縋りつくと、彼女の後ろから歩いて来た同じく後輩の七海と灰原が不思議そうな顔で足を止めた。でも七海はすぐに中の気配を察知したらしい。徐に「うげ…」という顔をした。

「中で五条と夏油が戯れてんの。でもが行けば収まるから」
「え…え?」

戸惑うの背中をグイグイと押して体育館の中へ彼女を放り込む。バスケで言えば秘密兵器投入だ。すると全く状況を理解していなかったらしいが「夏油くん!何か洩れてる!」と背後に現れた呪霊を指さして騒いでいる。どうやらは夏油がうっかり呪霊を駄々洩れさせてると勘違いしたらしい。盛大に吹き出す五条の声が体育館から響いて来た。

「ははっ、洩れてるってよ、傑」
「……はあ。そんなお漏らししたみたいに言われると落ち込むよ」
「ぶはははっ」

の一言ですっかり興が削がれたのか、夏油は深い溜息を吐いて項垂れ、五条は五条で腹を抱えて笑っている。さっきの殺伐とした空気が一変したのはさすがだ。そして秘密兵器のを投入した私って天才?

「狙い通り…!」

どこぞの新世界の神の如くニヤリと笑みを浮かべれば、背後から「ハァ?」と呆れた七海の声が聞こえて来たけど、それはまるっと無視だ。

「何でそんなに笑ってるの…五条くん」
「いや…ぶは…サイコー♡」
「ひゃっ」

五条は笑いながらキョトンとしているを両手でぎゅーっと抱きしめた。いや、そこまでやれとは言ってない。はビックリしたのか顔を真っ赤にして固まっている。その時だった。反対側の扉がガラッと開き、ゴツイ顔が覗く。

「ん…?!いつまで遊んでる!硝子はどうした!」

げ…っと思ったものの、ここで顔を出したら私まで説教されそうだ。スルーしておこうと思っていると、クズ二人は「さあ」「便所でしょ」と屈伸しながら適当な返しをしている。思わずムっとしたものの、ここは我慢しておく。

「まあいい。この任務はオマエ達二人に行ってもらう」
「………ハァ」
「………ハァ」

「……(ぷぷ。ザマーミロ)」

二人は途端に虚ろな生気の抜けた顔で夜蛾先生から顔を反らした。

「…何だ、そのツラは」
「「いや別に」」

二人は諦めたように言うと、夜蛾先生に促され、足取りも重く歩いて行く。でもその時五条がの方へ振り返った。

「バスケはまた今度教えてやっから。わりーな」
「…うん。任務頑張ってね」

なんてに言われたもんだから、五条の顏の筋肉がスライムみたいに緩くなった。本当に分かりやすい男だ。
因みに今日は午後の合同体術訓練の時間をバスケに変更して遊ぶ予定だった。がバスケをしたことがないと言い出したのがキッカケだ。灰原から某有名なバスケ漫画を借りて読んだはすっかりハマったようで、あの名台詞「先生!バスケがしたいです!」とふざけて言ったら、五条が「まっかせなさ~い」と張り切って答えたことで、勝手に授業内容を変更したのだ。でもまあ、それも今の夜蛾先生の乱入でお預けになってしまった。

「どうする?僕達でにバスケ教える?」
「いや…やめておこう。それをすると……あの人絶対スネるから」

七海は何かを察したのか――小動物が危険を察知するかのようだ――ウンザリ顔で首を振った。ということは…急にやることがなくなってしまった。

、ジュース奢ってあげる」
「えっいいの?硝子ちゃん!」
「いいよー。談話室でお喋りしよ(可愛い…)」

瞳をキラキラさせて素直に喜ぶを見てると、私まで顔がほころぶ。この時の私はまだ、五条と夏油に任された任務内容を知らなかった。まさかその任務がキッカケで、あんな事態になろうとは、想像すらしていなかった。



△▼△



「星漿体の護衛…?」
「おー」

談話室で硝子ちゃんとお喋りをしていると、そこに五条くんと夏油くんが顔を出した。何でも今からある女の子の護衛に行くのだという。わたしは星漿体と言われてもピンとこなくて、夏油くんが詳しく説明してくれた。

「というわけで…今日中に終わりそうにねーんだ。だからバスケはこの任務が終わった後な?」
「うん、それはいいけど…大丈夫なの?今回は相手が呪霊じゃなくて呪詛師って…」

呪詛師の存在はわたしも父から聞いてよく知っている。でも未だに対峙したことはない。呪霊と違ってれっきとした人間だからこそ、何を仕掛けてくるか分からない分ちょっと怖い。でも五条くんも夏油くんも余裕の顔だ。

「平気だって。片方は非術師集団だしな。まあ、何か変なの雇ってるかもしんねーけど、オレ達にかかれば楽勝だよ」
「そっか…でも気を付けてね」
「あれ、心配してくれんの」
「そ、そりゃ…」

最初二人が迎えに来た時は苦手だった。わたしを呪術界に引き戻そうとする人たちだから。でも今は大切な仲間で先輩で、友達だ。彼らに何も起こって欲しくない。
五条くんはかすかに微笑むと、くしゃりとわたしの頭を撫でた。

「ちゃんと帰ってくっからはいい子で待ってろよ」
「…む、また子供扱いして」
「してねーよ。心配してくれんの嬉しいなーとは思ってるけど」
「………」
「あ、赤くなった。かーわいい」
「おい、悟。あんまりをからかうな。そろそろ行くぞ」
「からかってねーって。ああ、んじゃ行って来るわ」

五条くんはそう言って笑うと、夏油くんと二人で護衛任務に出かけて行った。

「心配すんなって。あのクズ二人なら大丈夫。だってクズなんだから♡」
「…硝子ちゃん。それ理由になってないよ?」

二人を見送っていると、肩をポンとされて小さく吹き出す。そうだ。あの二人が揃えば最強だもん。きっと大丈夫。そう何度も繰り返しながら無事に帰って来ることを祈った。
でもまさかこの後、わたしまで護衛任務に駆り出されることになるとは、この時はまだ想像すらしていなかった。