第十四話:天と地が入れ替わった日...⑷


沖縄の夜は美しい。理子ちゃんが寝入ったのを確認したわたしは、ふらりとテラスへ出て夜風に当たる。もう少しで日もまたごうかという時刻。すっかりと夜は更け、昼間の暑さがほんの少し和らいだ空気の中を、見回りもかねてのんびりと歩く。薄っすら青みがかった空にびっしりと星の絨毯が敷き詰められている様は、何となく故郷の星空を思い出させた。かすかに打ち寄せる波の音さえ、BGMに変わる。昼間の浜辺まで歩いて来ると、わたしは履いていたビーチサンダルを脱いで、素足を海水に浸した。冷んやりとして気持ちがいい。月明りに反射する海は、まさに美ら海だなぁと感動してしまった。

「それ以上行くと危ねえぞー」
「……っ」

不意に背後から声がしてビクリと肩が跳ねた。振り返るとTシャツに着替えた五条くんが歩いてくる。

「アロハやめちゃったんだ」
「暗がりにいたら目立つだろ、アレ」

苦笑気味に言った五条くんはわたしの隣に立つと「眠れねえの?」と訊いて来た。

「うん。初めての場所だし…気分が高揚しちゃってるのかな。寝るのもったいなくて」
「ガキかよ」

五条くんはいつもの憎まれ口を叩きながらも「まあ、分かるけど」と笑った。ふと横顔を見上げると、真っ黒なサングラスの隙間からかすかに青い瞳が見える。昼間に見た時、沖縄の海を写し取ったのかと思うほどに綺麗だったことを思い出す。術式を使用している時の六眼は、いっそう濃い蒼になるから余計に美しい。

「五条くんはずっと起きてるって言ってたけど…大丈夫?」
「こんくらい平気だよ。明日高専まで無事に天内を送り届けた後は死ぬほど寝る予定だし」

両腕を伸ばしながら五条くんは笑ってるけど、術式をずっと解かないのは想像以上に負担がかかると分かってる。特に五条くんのような強い術式なら尚更。

「戻らなくていいの?」

ふと思い出して尋ねると、五条くんは苦笑交じりでヴィラの方を振り返った。

「傑が交代だっつって追い出された。まあ…気を遣ってくれたんだろうけど」

五条くんは言いながらサングラスを外してわたしを見下ろすからドキっとした。夜でも明るい星空の下で光る六眼は、見惚れるくらいに美しい。沖縄の夜が霞んでしまうくらいに。

、ちょっと海見てて」
「え?何で?」
「いいから」

わたしの肩を掴んだ五条くんは強引に海の方へ体を向けてくる。何だろうと思いつつ、海を眺めていると後ろから首に何かをかけられた。驚いて視線を下げると、胸元には見たことのないものがぶら下がっている。

「え、これ…」

下がっている硬いアクセサリーを手に持つと、それは三日月の形をした――。

「夜光貝だよ」
「夜光貝…?」
「魔除けのお守りとして使われてんだよ、それ。天然の貝を削って作ってるし、二つとして同じものはないって言うから…それにした」
「え…どうして…」
「約束したろ。土産はアクセサリーがいいって」
「あ…」

五条くんに言われて思い出した。沖縄に行くことが決まる前、五条くんと電話で話した時、確かに言った気がする。だけどあれはお土産の話で、結果わたしも沖縄に来たのだから、てっきりもらえないと思っていた。

「いいの…?わたしも来ちゃったのに」
「いいんだよ。オレがあげたいんだから」

五条くんはそう言いながら視線を反らして頭を掻いている。どこか照れ臭そうなその横顔を見上げていると不思議な気持ちになってくる。トクントクンと心臓が少しずつ速くなって、頬がやけに熱い。思わずきゅっとくちびるを噛みしめた。

「…何で?」
「あ?」
「何で…五条くんみたいな人がわたしなんか…その…」
「何だよ、それ。わたしなんかってことねーだろ」

口ごもっているわたしを見て、五条くんはかすかに目を細めた。

「だって…五条くんならもっと他にいい人いっぱいいるでしょ…」
「いねーよ、そんなの。つーかオレはオマエがいいって言ってんだから他の…とか言うなよ」
「……ご、ごめん。でも…どこをどう見て好きになってくれたのか分かんないんだもん…」

今まで誰かに好きだと言われたこともない。だからどう応えていいのかすら分からなかった。五条くんは黙ってわたしを見つめていたけど、不意にふっと笑みを浮かべた。

「バカみたいに純粋で素直なとこ」
「…え?」
「あとはー。こうと決めたら必ずやり遂げるとこだろ?それと…普段ぽやんとしてるクセに戦闘になったら強いとこもギャップ萌えだし、他にも笑顔とかー何でも残さず食うとこ――」
「な…何それ…」

指を折りながら話す五条くんに呆気にとられていると、彼は「何って…」と視線をわたしへ向けた。

の好きなとこだよ」
「……っ」
「オレがオマエのどこを好きになったか分かんねーんだろ?だから言ってんじゃん」
「…………」

あっけらかんと言い放つ五条くんは意地悪な笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。さっき挙げてたのはわたしの好きなとこだと思うと、予想以上に恥ずかしくなってきた。知らないところで自分のことをそんな風に見てくれてた人がいたという事実が、意外にも嬉しくて、でも恥ずかしくて言葉を失う。

「…オレ、結構マジでオマエのこと好き」
「…っ」
は…?」

ハッキリ好きだと言われて顔が熱くなった。心臓がさっきから苦しいくらいに早鐘を打っていて苦しくなってきた。だけど――。

「わ…わたしは…」
「呪術師はイヤ、か?」
「―――ッ」

言おうとしてたことを先に言われてドキっとした。思わず顔を上げると、五条くんは真剣な顔でわたしを見つめている。その真っすぐ射抜くような蒼に月が映りこんでて、幻想的なほどに綺麗だ。

の境遇は聞いた。お母さんのことも」
「……」
は…大事な人を失うことが怖いって…思ってる。そうだろ」

五条くんは何でもお見通しみたいだ。あまりに真っすぐな瞳を見てると、わたしは目を伏せることしか出来ない。
――呪術師は嫌い。
そう思うことで自分の運命から逃げて来たことすら見透かされそうだから。

「バーカ」

不意に頭へ手が乗せられ、グシャグシャと髪を撫でられた。ビックリして顔を上げると、呆れ顔の五条くんと目が合う。

「呪術師じゃなくても人は毎日死んでんだよ」
「そ…それは…そうだけど…っ」

そういうことじゃなくて――。そう言おうとした時、五条くんがふと真顔で言った。

「でもオレは死なない」
「……え?」
「オレは死なない」
「五条…くん…?」
「だから…オマエの前からいなくなったりしねーよ」

心臓がその言葉に呼応するように音を立てた瞬間、腕を引きよせられて。気づけば抱きしめられていた。

が好きだ」

背中がしなるほど強く抱きしめられて、いつものふざけた声色じゃなく、真剣な声で想いを口にする。その瞬間、胸の奥がざわざわと音を立てて、次に押し潰されそうなほど苦しくなった。
五条くんはズルい。恋愛経験がなくたって、そんな風に告白されたら嬉しいに決まってる。

「オレと――付き合って下さい」

ほら、やっぱりズルい。普段はそんな言葉、使わないくせに。こんな時だけ真剣に口説いてくるんだから、思わず頷いてしまいそうになる。

「…ダメ?」

腕の力を緩めると、五条くんはわたしの顔を覗き込んできた。至近距離で見る綺麗な瞳を見ていたら、何故か涙が溢れてしまう。

「な…んで泣くんだよ…」
「わ…わかんな…い…」
「…それって…泣くほど嫌ってこと?」
「…ち、…違…」

ガックリ項垂れる五条くんを見て慌てて首を振れば、ガバっと顔を上げて「じゃあ…いいってこと?」と聞かれたら頷くほかなかった。

「え、マジで」
「え、あ、いや…」

思った以上に嬉しそうな顔をする五条くんを見てドキっとした。だけどわたしはまだ自分の気持ちがよくわからない。

「マジでオレの彼女になってくれんの」
「…う…」

追い詰められてる感満載だったけど、でも不思議なことに嫌じゃなかった。そんな自分が信じられない。あんなに呪術師と付き合うなんて考えられなかったのに――。
五条くんの言葉に素直に頷くと、その瞬間、五条くんは「やった!」と急に大きな声を出すからビックリした。

「はぁ~~振られるかと思ってビビった~」
「え」

いきなりその場でしゃがみこむ五条くんに呆気にとられてしまう。普段の彼からは想像できないほど、嬉しそうな笑顔を見せられ、こっちが恥ずかしくなった。

「で、でもまだわたし…その…好きとか分かんないけど…いいの…?」

そこは正直に伝えると、五条くんはふと顔を上げてからゆっくりと立ち上がった。

「あー…まあ、そんな気はしてたし…んなの付き合ってから好きにさせる」
「えっ」

そこはやっぱり五条くんだった。何とも強気な発言で思わず笑ってしまう。でもまた不意打ちで抱きしめられて全身が固まった。

「笑うとか余裕じゃん」
「そ…そんなことは…ちょ――」

急に顎を持ち上げられてギョっとした。視線を上げると、そこにはいつもの意地悪な顔がある。

「あ、あの…ち、近いってば…」
「彼女になったんだからこれくらい普通だろ」
「え、な…何する気…?」
「え、聞きたい?」
「……っ!」

ニヤリとする五条くんを見て、脳内に少女漫画で何回も見たことのあるシーンのリフレインが何度も流れては消えていく。

「ちょ…ま、待ってっ」
「ん?何を?」

焦るわたしを楽しそうに見つめる五条くんに、何となく身の危険を感じていた時、ふとあることを思いついた。

「付き合うなら…じょ、条件がある」
「……条件?何?」
「えっと、だから……」

脳内でアレコレ考えた結果、一番効果的なものを口にした。

「…わたしが……ちゃんと五条くんを好きになるまで…エッチはしない」
「………は?」
「そ、それが守れるなら……つ、付き合う」

呆気にとられている五条くんに、もう一度ハッキリ伝えると「マジで?」という言葉が返ってきたから「マジで」と返す。五条くんの気持ちが本気なんだとは気づいたけど、でもまだ心のどこかで疑っていたのかもしれない。最悪「ならいいや」と言い出すかもと思って言ったのに、五条くんは少し考えた後、ふとわたしを見つめて「分かった」と頷く。それにはわたしの方が驚かされた。

「え…いい、の…?」
「いいよ、それで」
「………」

こんな条件を出してOKされてしまったなら、もう何も言えない。そういうこと男なら我慢出来ないと聞いたことがあるから、てっきり却下くらいはされると思ってたのに少し拍子抜けしてしまった。

がオレのことを好きになるまで一線は超えない。それでいい?」
「う、うん…」

意外にも五条くんが真剣な顔でそんなことを言うから、わたしもつい頷いたけど、この条件には穴があったことを後々気づかされることになった。

「ああ、でも…」

ふと五条くんはわたしの頬に手を添えて、かすかに微笑んだ。

「え?」
「キスは…いい?」
「……っ」
「ダメ?」
「そ…それは…」

そこまで考えていなかった、と思って焦ったけれど、五条くんに「一応付き合ってるっていう証が欲しいんだけど」と確信犯的に言われてしまうと、本当に断りづらくなってしまった。それに正直そこまで嫌じゃないと思ってしまったのと、少しの興味があったのかもしれない。わたしが「ダメ…じゃない」と呟くと、五条くんは「良かった…」と大げさなほどホっとしたように笑った。

「オレに悶え死ねって言ってるのかと思ったわ」
「え、お、大げさ…」
「大げさ?そんなことないだろ」
「わ…」

急にぐいっと腰を抱きよせられて更に体が密着する。初めての経験で心臓にぐっと負担がかかった。

「オレがどんだけに触れたかったと思ってんの」
「ご…五条…く…」

彼が身を屈めたと思った瞬間、くちびるを塞がれていて。そのハッキリとした感触に内臓が震えたのかと思うほどの衝撃に襲われた。

「ん…」

離れたと思えば、また重なるくちびるに全身が震えて、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと思うほどに体の中で暴れている。自然に後退しそうになると、五条くんの手が頭の後ろに回って固定されてしまった。そうすることで更にくちびる同士が深く交じり合う感触に顔の熱が一気に上がっていく。男の子もくちびるは柔らかいんだ、と変な感想が脳裏をよぎったけど、その柔らかさが想像以上に気持ちいいことを初めて知った。

「んん…ご…五条く…」
「好きだ…」

僅かに離れた合間に言われて、言葉を返す前にまたくちびるを塞がれる。縫うように何度も角度を変えながら触れあうキスで、目尻に涙が滲んで来た。その場所にまで五条くんのくちびるが触れて涙を掬っていく。

「…とろんとして可愛い」
「…ぇ…」

キスってこんなにも息が上がるの?と驚くくらい呼吸が乱れて苦しい。視界が滲んでボーっとしてしまうほどに身体も顔も火照ってしまう。

「…好きだ」

聞いたこともないような優しい声で紡がれる五条くんの告白は、さながら、じわじわとわたしの心を侵食していく甘い毒のようだ。震える瞼を押し上げて見上げると、五条くんの後ろで無数に光る星が瞬いて見えて、キラキラした光を放っている。
男の人を綺麗だと思ったのは、後にも先にもきっと、五条くんだけだと思う。