第十五話:天と地が入れ替わった日...⑸


朝、真っ白い部屋の真っ白い天井が視界に飛び込んできた時、夕べのことは夢だったのかもしれないと思った。それくらい、わたしにとっては非現実的なことで、起きてしばらくはボーっとしてしまった。潮の香りがしてふと顔を向ければ、レースのカーテンが風でふわりと揺れている。砂で汚れたビーチサンダルと胸元には夜光貝のネックレス。それらが視界に入った時、ああ、夢じゃなかったんだと実感した。指でそっとくちびるをなぞれば、夕べの熱がまだ残っているような気さえして、かすかに頬が熱くなる。
隣に眠っていたはずの理子ちゃんの姿は見えない。肌触りのいいシーツに手を滑らせると、少し冷たかった。わたしが目を覚ますよりもだいぶ前にベッドを抜け出したんだろう。耳をすませばリビングの方からかすかな笑い声が聞こえてきた。明るいその声の合間に五条くんや夏油くんの声も聞こえる。聞き慣れた声のはずなのに、今朝はやけに五条くんの声だけを耳が拾うのだから嫌になる。意識しているのだという自覚はあった。

(本当に…付き合うの…?)

夕べと同じような自問自答が脳裏をよぎる。不安と恐怖。それが常につきまとう世界の人なのに。

――オレはオマエの前からいなくなったりしねーよ。

ただ彼はハッキリと言ってくれた。この時はまだ、五条くんの言葉を信じてみようという気持ちの方が強かったのかもしれない。
のそのそとベッドから抜け出し、Tシャツやショートパンツを脱ぐと、持って来たバッグの中から制服を取り出し手早く着替える。今日はこの任務も大詰めだ。理子ちゃんを午後3時までに高専へ無事に送り届けなければならない。

!何しておるのじゃ!朝食がきたぞ!」

脱いだ服をバッグに詰めていると、バタバタと走って来た理子ちゃんが寝室に顔を出す。昨日と同様に明るい表情で、元気な笑顔を見せてくれる理子ちゃんも、今日の夜にはこの世界から意識が消える。それなのに普段と変わらぬ笑顔を見せてくれる彼女のことが、無性に愛しくなった。こんないい子を犠牲にしなければ世界を守れないのか。そんな悔しさがわたしの中で暴れてしまうのは、きっと彼女と関わり過ぎたせいかもしれない。出会わなければ、きっと"星漿体"としての認識でしかなく、深くは考えずに済んだんだろう。でも知ってしまった。彼女が明るく元気な少女だということを。黒井さんのことが、学校の友達のことが大好きな、普通の女の子だということも。

(五条くんと夏油くん達はもっと思うところがあるかもしれない。わたしよりも長い時間、彼女のそばにいたんだから)

シッカリしろ、と自分に言い聞かせながら「今行くね」と彼女に笑顔で応えた。

「おっそーい。寝坊助」

帰る準備をしてからリビングに顔を出すと、五条くんがソファの背もたれに頭を乗せ、逆さまの状態でわたしを見ながら笑っている。サングラスがズレないのは未だに術式を解いていないからかな。わたしがベッドに潜り込んだ後も五条くんはここで寝ずの番をしてたはずなのに、昨日と同様、明るい笑顔を見せている。何となく照れくさくて視線を反らしながら「ごめん」と言えば、何謝ってんだよと軽く笑われた。普段と何も変わらないから、少しだけ悔しくなる。微妙に速くなる鼓動に気づかないふりをしながら、理子ちゃんに言われるまま彼女の隣に座った。

「朝飯食って、飛行機の時間まで沖縄観光してこーぜ」

護衛任務だというのに、五条くんは相変わらず呑気な予定を立てている。夏油くんと黒井さんも承知なのか、観光ガイドを捲りながら「ここ行ってみようか」なんて話していた。理子ちゃんには呪詛師御用達の闇サイトで多額の懸賞金がかけられているそうで、今日の午前11時に期限が切れるというし、このまま沖縄にいて、その時間には空の上、という方が比較的安全かもしれない。何と言っても空港には七海くんと灰原くんがいるし、今から呪詛師が沖縄に来たとしても未然に防げるはずだ。

(というか…こっちが観光してたとバレたら怒られそう…特に七海くんに)

わたしの同級生の七海くんは地味に怖い。シッカリしてる分、結構お兄さん的な存在で、本人はやる気などないように見えるけど実はきっちり仕事をする人だと思う。今回わたしが五条くん達に合流すると知った時は「五条さんに振り回されそうだね」と苦笑気味に言われたけど、振り回されるどころか付き合うことになったと知ったら、絶対に驚愕されるだろうな。それを考えると少し憂鬱だ。

(五条くんはそういうの気にしなさそう…)

夏油くんと黒井さんの間で、これから行く場所を考えてる彼を見ながら考える。でもふと、あの人がわたしの彼氏なんだ…と思うと、また不整脈かと思うほどに心臓がおかしなことになって、誤魔化すように朝食のジュースを飲む。「〇〇の彼女」という名詞が自分につくなんて想像だけの世界だったから、酷く落ち着かない気分だ。

、オマエはどこ行きたい?」
「…ひゃっ」

知らず知らずボーっとしてたらしい。突然、肩に重みが加わったのと同時にすぐ傍で五条くんの声がしたからビックリしすぎて変な声が出た。我に返ったのと同時に、視界に五条くんの黒いサングラスがドアップで見える。ついでに肩には五条くんの腕が回されていた。

「な、何…」
「何って、だからはどこ行きたい?」
「や、ちょ…う、腕…外して」
「え、やだよ」
「………」

あっさり却下されて頬が引きつる。でも、それより何よりわたしの意識はすぐに他へ向けられた。夏油くんを筆頭に、理子ちゃんと黒井さんがこっちをガン見してるからだ。

「な…オマエ達…す、すでにそ、そそういう関係だったのか?」
「理子さま…あまりそういう詮索はしない方が…」

こっちを指さしながら驚愕する理子ちゃんに、黒井さんがこっそり耳打ちしている。夏油くんはすでに何かを察したのか、後ろを向いて肩を揺らしてるところを見ると、笑いを堪えてるようだ。そしてわたしの顔はすでにサウナに入ったのかと思うほどに熱い。

「ああ、まだ言ってなかったっけ。そうそう。とオレ、付き合うことになったの、夕べ。な?」
「ちょ、ちょっと五条くん…!」

あまりにあっけらかんと暴露する五条くんを見て慌てて服を引っ張ってはみたものの、本人は「照れるなよ」と笑っているんだから嫌になる。こっちはまだ昨日の今日で実感が薄いというのに。あげく理子ちゃんに「……お主、本っ当~~~にこんな男でいいのか?」と念を押される始末。そこから五条くんと理子ちゃんの言い合い――子供の口喧嘩――に発展したことで、わたしは解放されたからホっとしていると、今度は夏油くんが隣に座った。意味深な笑みを浮かべながら「付き合うことにしたんだ、悟と」と訊いてくるから余計に顔が熱くなる。

「悟が好きなの?」
「ま、まだハッキリそこまでは…。でも嫌いじゃないし、一緒にいて楽しいから」

そんな曖昧な動機は良くないかなと思ってると、夏油くんは「そうか」と微笑む。

「そういうのも大事だよ。気持ちは変わっていくものだしね。私は二人を応援するよ。まあ…どっちにしろ悟は本当にのこと好きみたいだし。通りで朝から機嫌が良かったわけだ」
「え…」
「一睡もしてないからテンション高いのかと思ったけど…どうやら違ったようだね」

くっくと笑う夏油くんも何気に楽しそうだ。よく分からないけど、誰かと付き合うということは周りにも何かしら影響を与えるんだなということは分かった。

それから皆で朝食を取り、お世話になったヴィラを出ると、時間まで沖縄の街を見て回った。そこまで時間の余裕はないということになり、特定の場所を観光することは出来なかったけど、ただ街中を歩くだけでもわたしにとったら楽しいひと時だった。東京とも違う街並みや、食べ物。どれも刺激的で、また来たいなと思わせてくれる。
道すがら、アトリエのようなお洒落なアクセサリー屋さんを見つけて足を止めた。そこには夕べ、五条くんがくれた魔除けにもなるという夜光貝のついたケータイのストラップが売っている。同じ物は二つとないと教えてもらった通り、どれも微妙にデザインが違った。

、何見てんの?」
「あ、五条くん、これ。夜光貝だよね?これと同じ」

そう言いながら制服の上着に隠してあったネックレスを引っ張り出すと、五条くんの口元がかすかに弧を描いた。

「何だ。つけてくれてたのかよ」
「え、そ、そりゃ…つけるよ…嬉しかったし」

そこは素直に言うと、五条くんは「良かった」と笑った。そして目の前のストラップを指でつまむ。

「で、これも欲しいの?」
「え?あ、ち、違うの。これは…お土産というか…」
「土産?誰に」
「えっと…硝子ちゃんと歌姫さんに冥さん。あ、それと七海くんと灰原くんにも」
「そんなに?」

わたしが指を折りながら名前を上げていくと、五条くんは軽く吹き出して笑っている。やっぱり皆で同じストラップはおかしいかな、と考えこんでいると、不意に頭を撫でられた。

「ケータイのストラップじゃなくてもあるみたいだぞ、その魔除け」
「え?」

五条くんの指さす方を見ると、小さなキーホルダーなども売っている。色も可愛らしいカラーが揃っているし女性陣にはコッチの方が使い道はあるかもしれない。

「じゃあ…硝子ちゃん達にはコッチにしようかな」
「つーか七海達にまで買うのかよ」

商品をお洒落なカゴへ入れていると、ワントーン低めの声が聞こえて振り返る。視線を上げていくと、五条くんの艶々したくちびるが若干尖っていた。

「え、だって…昨日からずっと空港に詰めてて七海くんも灰原くんもどこも観光できてないし…」
「それが任務なんだしよくねえ?別にさー。わざわざが買わなくても…」
「五条くん…?」

そっぽを向いてブツブツ言いだした五条くんは、どこかスネているように見えた。何をそんなにスネる必要があるのか分からない。どうしよう。買わない方がいいのかな、と思いながらカゴに入れたストラップを眺めていると、五条くんはガシガシと頭を掻きつつ、小さく溜息を吐いた。

「まあ…がどうしても買いたいっつーなら仕方ねえけど…」
「ほんと?じゃあ買う」
「………あっそ」

わたしがレジへ向かうと、五条くんは微妙な顔をして店を出て行ってしまった。何か怒らせるようなことを言ったっけ?と首を傾げつつ、ふとレジの横にあるアクセサリーに目を引かれた。

「あ、これも夜光貝ですか?」

気になってレジの店員さんに尋ねてみると、お姉さんが笑顔で頷いた。

「はい、そうですよ。綺麗でしょう。お守りとしても人気なんですよ」
「これ…綺麗」

つい手にしたのは細かい石が繋がれて、アクセントに夜光貝が使われているブレスレットだった。その貝の色は五条くんの瞳のように綺麗な碧で、気づけば「じゃあこれも」とレジカウンターに置いていた。

「全部、別々にラッピングしてもらえますか」
「はい。分かりました」

誰にどれをと分かりやすいよう、リボンの色を変えてもらい、ブレスレットだけは違うラッピングにしてもらった。それから支払いを済ませて店を出ると、入口の横の壁に五条くんが寄り掛かって立っている。てっきり先に行ったものだとばかり思っていたからちょっと驚いた。

「終わった?」
「う、うん…ごめん。待たせちゃった…?」
「いや。じゃあ…そろそろ空港に行こう」

五条くんは壁から背を離すと、わたしの方へ「ん」と手を差し伸べた。

「え…?」
「え?じゃなくて手、貸せ」
「う…うん」

素直に手を出すと、五条くんの手が伸びてきてギュっと握られる。その手の強さにドキっとした。夕べも感じたけど、わたしとは大きさも全然違う。ゴツゴツと骨ばった手が、やけに男を感じさせるから、繋がれた手が少しだけ緊張してしまう。わたしの手を繋いだ五条くんはそのまま皆のいる方へ歩き出した。

「あ、あの…何か怒ってる…?」
「別に怒ってねえよ」
「でも何か…機嫌悪いし」
「………」

五条くんの顏はサングラスで半分見えないから表情もよく分からないけど、何となく不機嫌そうだ。さっきまで機嫌が良かったはずなのに何でだろうと思っていると、五条くんが突然足を止めた。

「……ち」
「え?」

不意に五条くんが何かを呟いた。でもよく聞き取れなくて聞き返すと、五条くんは「だーから」と少しだけ声量を上げてわたしを見下ろした。

「ただのヤキモチー」
「……ヤ、ヤキモチ…?」

そのワードは聞いたことはあるけど経験したことはない。一瞬キョトンとするわたしを見て、五条くんは大きな溜息を吐いた。

がアイツらにまでそれ買うからヤキモチ妬いたの。ごめんねー小さい男で」
「……えっ」

数秒、今の五条くんが言った言葉を反芻した後、改めてビックリした。ヤキモチって五条くんが?と驚いていると、また呆れたような溜息を吐かれた。

「オマエ…まあ…いいけど…ハァ…」
「で、でも妬くような意味はないよ、これ」
「わーかってんだよ、そんなこと。だから謝ってんだろ」
「………」

分かってるのにヤキモチを妬く意味が分からず、クエスチョンが頭に浮かぶ。でもそういうことなら、とお土産を入れてもらった大きな袋から一つだけ違うラッピングをしてもらった袋を取り出した。

「じゃあ、はい。これ」
「…あ?」
「これは五条くんに……その……ネックレスのお礼」
「………」

差し出した袋を五条くんがマジマジと見てる。でもなかなか受け取ろうとしないから彼の胸元にぐいっと押しつけると、ハッとしたように五条くんが袋を受けとってくれた。

「え…オレに?」
「うん」
「……開けてい?」

繋いでた手を一度離して、五条くんが訊いて来た。

「…うん。あ、でも気に入るかどうか分かんないけど――」

そもそも五条くんはアクセサリーの類を普段、身に着けていない。好きかどうかも分からず買ったのは失敗だったかな、と一瞬だけ後悔する。「いらねー」とか言われたらちょっと悲しいかも。
そんな心配をしていると、袋を開けて逆さまにした五条くんは、自分の手のひらに落ちて来たブレスレットを見て「え」と呟き、酷く驚いてるようだった。

「これ…夜光貝…?」
「う、うん…その…貝の色が五条くんの瞳の色に似てて綺麗だったから…お守りにもなるし――」

と言いかけた瞬間、ぐいっと背中を抱き寄せられた。

「ちょ、」
「…やべえ」
「…え?」
「すげー嬉しい」
「……っ?」

五条くんはぎゅうっとわたしを抱きしめながら呟いた。でもまさかこんな人が大勢往来している場所で抱きしめられるとは思わない。わたしは当然のように慌てて「離して」と暴れたけど、そんなのお構いなしに五条くんは「ありがとな」と言いながら喜んでいる。あげくやっと体が離れたと思ったら、素早く身を屈めた五条くんは、ちゅっとわたしのくちびるを啄んだ。

「……っな」
「つけていい?」

いきなり人混みでキスまでされて、こっちは一瞬で真っ赤になったというのに、そんなことは一切気にしない五条くんは嬉々とした顔で訊いてくる。そこまで喜ばれると怒るに怒れず「う、…うん」と頷いてしまった。弱すぎるぞ、わたし!
数秒後、わたしのあげたブレスレットは、五条くんの左手首に納まった。

「どう?似合う?」
「…に、似合う」

得意げに見せてくる五条くんにちょっと驚きながらも頷けば、やっぱり嬉しそうな顔をする。五条くんはこういうことで喜んでくれる人なんだ、とまた一つ彼のことが分かった気がした。

「帰ったら硝子に自慢しよー」
「えっ」
「あ、その前に傑だな」
「い、いや、そんなの自慢にならないってば…」
「え、何で。がオレの為に選んでくれたんだし、自慢したいじゃん」

まるで当然のように言いのける五条くんは、またわたしの手を繋ぎ直すと、さっきの不機嫌さが嘘のように機嫌が良くなった。物で釣られる辺り、五条くんも意外と単純?と思っていると、他の店を見ていた夏油くんや理子ちゃん達が「おーい」と通りの向こうで手を振っている。

「そろそろ空港行くよ、悟」
「りょーかい。ほら、行くぞ、
「わ、」

いきなり走りだした五条くんに引っ張られる形でついて行きながらも、その広い背中を見てふと思った。五条くんの機嫌がいいとわたしも嬉しい。逆に、不機嫌そうだと気になる。こういう小さな感情の積み重ねも、気持ちの変化なのかもしれないと。前のわたしならきっと、五条くんの機嫌が悪いなら近寄らないようにしよう、くらいしか思わなかったはずだから。

――気持ちは変わっていくものだしね。

さっき夏油くんに言われたように、この時すでに五条くんへの気持ちが少しずつ変わっていたのかもしれない。