第十六話:天と地が入れ替わった日...⑹


潮風が髪にまとわりつくのが鬱陶しくなって来た頃、やっと東京へ帰る時刻となり、私達は先輩の後から機内に乗り込んだ。その際、少しの騒動があったものの、今は無事に座席へ腰を下ろし、ホっとした気持ちで息を吐く。灰原は夏油さんに「お疲れ様。助かったよ」などとお礼を言われたことで舞い上がり、さっきまでは疲れた顔をしていたクセにやたらとテンションが高くなってしまった。ああ、鬱陶しい。

「あ~あ…沖縄もこれで最後か…次はプライベートで来たいな…彼女と」

離陸体勢に入った頃、窓にへばりついていた灰原が呟く。

「そんなものいましたっけ…?君に」
「やだなあ、七海。これから作るんだよ!」
「……年内にそんな暇あるのかどうか疑問ですけどね」

自分の任務や訓練、授業でも忙しいのに、こうして先輩方の任務にも駆り出される始末。なのに当の先輩2人は観光気分で土産まで買っていた。我々後輩の方が身を粉にして働いたとしか思えない。そしてもう一つ鬱陶しいのは、灰原がもう一人の先輩術師にすっかり感化されてしまったからだ。

(任務先で後輩を口説くなんて何を考えてるんだ、あの人は…)

深々と溜息を吐きながら、通路を挟んで反対側の座席に座る同級生を見た。彼女はさっきまでの騒ぎなど忘れたかのように黙って窓の外を眺めている。

――何での座席がオレらと一緒じゃないんだよ。

いざ、搭乗口へ集まった時、そう文句を言いだしたのは先輩の片割れ、五条悟だった。御三家の一つ五条家の跡取り息子で数百年ぶりに生まれた六眼の持ち主だ。当然、術師としての才能はありすぎるくらいにある男。まあ性格以外は完璧な人だ。性格以外は。※大事なことは二度いうことにしている。

その彼が、何故そんなことを言いだし、更にはゴネだしたのか最初は意味が分からなかった。だが私の同級生であると五条さんが付き合いだしたという話を、灰原が敬愛してやまないもう一人の先輩、夏油傑にこっそり耳打ちされた時、私の中の常識が一気に崩され、五条悟に軽く殺意さえ覚えた。と言っても私が同級生の彼女に対して仄かな恋心を抱いていた、というわけじゃなく。仮にも星漿体の護衛という大切な任務中に何をしてるんだ、アンタ!という感情の方が大きかった。そもそも私達に空港を見張らせていた間、彼一人が青い春を謳歌してたのが腹立たしい。あげく彼女と座席が離れてることでゴネだしたのだから何とも面倒な先輩だ。
結局、夏油さんがなだめすかし、座席は最初の予定通り、私達後輩がエコノミー。彼ら星漿体ご一行はビジネスクラス――これも若干イラっとするが――に座ることで落ち着いた。応対していたCAの引きつった微笑みが忘れられない。まあ、五条さんがサングラスを外し「ごめんね、時間をとらせて」と微笑むだけで、それは秒で解決したが。

(あの人、顏だけは無駄にいいからな…。さすが性格以外は完璧な男)

少しの私情を挟みつつ、心の中でけちょんけちょんに貶しながら「五条悟の彼女」という名詞がついた同級生を観察した。私が知る彼女は、まだまだ田舎から出てきたばかりの純朴さが残っているような女の子だ。その彼女があの・・五条さんと果たして恋人関係を築いていけるのか、はなはだ疑問ではある。さっきも五条さんが我がままを言い出した時、彼女は困った様子で真っ赤になっていた。私達にバレるのが恥ずかしかったのもあるだろうが、あの様子じゃ五条さんに振り回される未来しか見えないし、何なら初めての都会で右も左もまだ分かっていない彼女を、五条さんがたぶらかしたとしか思えない。

「七海はちゃんのお父さんかな?」

なんで機嫌悪いの?と訊いてきたので灰原に胸の内をボヤくと、失礼な言葉をぶつけられた。

「高1の年齢でお父さんと呼ばれる筋合いはない」
「だって七海、色々と老けてるから」
「………(ピキッ)」

ケラケラと笑う灰原にまで軽い殺意が沸く。でもまあ彼のこういうあっけらかんとした明るさは日々の救いにもなっているのは確かだ。

「七海はさ。生まれたてのヒヨコみたいなちゃんが突然現れたから、どうしていいのか分からずオロオロしながら成長を見守ってる感じだよね。だからお父さんタイプ」
「その例えの意味が分からないですけどね…」
「ははっ。でさ、意外だったけど五条さんはそのヒヨコを真綿で包んじゃうくらい大事にしながら自分の領域テリトリーで育てていく依存型の恋人タイプって感じ」
「……あの人がヒヨコを大事にするタイプですかね。大人になったら焼き鳥にするでしょう、きっと」
「あはは!七海、ひどっ。でも…まあ食べごろになるまで育てて、大人になったらパクッてのは合ってるんじゃないかな」
「……(ビキッ)」

ニヤリとする灰原の言葉の意味は私でも理解できる。あの五条さんが純粋無垢な彼女を組み敷いてニヤついている姿を想像した時、本気で祓って(!)やりたくなった。まあ、私の実力では到底無理だけれど。

「でも五条さんも可愛いとこあるじゃん」
「……あの人が…可愛い?」
「ぶっ。七海のその顏!おじいちゃんの呪怨霊かと思ったよ」
「………」

げぇ、と心底げんなりしただけなのに、相当老け込んだひどい顔だったんだろう。灰原は人の顔を"おじいちゃんの呪怨霊"などとほざいて一人で腹を抱えて笑っている。どうも灰原のノリにはついていけない時がある。

「君があの人を可愛いなどと称するから信じられないという気持ちを現わしたまでですよ…」
「分かるけどさ。でも考えてみなよ。あの五条さんがちゃんと一緒に座りたいから駄々こねるとか可愛いだろ?」
「………君の可愛いの基準が私には理解しかねますね」

と言いつつ、まあ女性に不誠実な印象しかなかったあの五条さんが、に対してあれほどの熱量を見せるのは確かに意外性はある…か?そう思ってしまう時点で、私もだいぶ灰原のお花畑理論に感化されつつあるようで軽く落ち込んだ。

(ま…がどこまで五条さんについていけるのか…少しの間は見守ることにするか…)

こういう思考こそ父親っぽいのかもしれないな、と灰原に言われたことを思い出し、少々げんなりしつつも苦笑いが零れた。



△▼△



「オマエ、ほんとに一緒に来ねえの?」

機内に乗り込む時同様、羽田空港に到着して迎えの車に乗り込む時も、五条くんは不満そうな声を出した。南国の海のような蒼は、きっとサングラスの奥で不機嫌に細められてるんだろうなと想像しながら、わたしは視線を左右へ泳がした。

「だ、だって…乗れないじゃない。定員オーバーだもん」
「…んなの一人が後ろの車に移動すりゃ――」
「悟。我がまま言わない」

夏油くんの冷静なツッコミに、五条くんのくちびるがますます尖っていく。こうして見ると駄々っ子みたいでちょっと笑ってしまう。でもそれは失敗だった。わたしの額に五条くんの長い指が伸びてトンっと押されてしまった。

「なーに笑ってんだよ」
「な…何でもない」

緩みかけた頬を引きしめて姿勢を正すと、今度は五条くんが吹き出した。良かった。少しは機嫌が上昇したみたい。

「早く高専に戻って任務を終わらせれば、好きなだけとの時間を取れるよ、悟」

夏油くんが歩いて来て、五条くんの肩をポンと叩く。その理由が恥ずかしくてわたしは俯いてしまったけど、五条くんは「わーかったよ」と返事をしつつ、ついでにわたしの頭を一撫でしていった。

「んじゃあ高専でな」
「う、うん」

素直に頷くと、五条くんは歩きながら片手を上げて前の車に乗り込んだ。それを確認した夏油くんは一人楽しげに肩を揺らしている。朝から地味に彼も機嫌がいい。

「ごめんね、悟も別にを困らせたいわけじゃないから」
「え、あ…うん…」

この場が丸く収まったことでホっとしたのを見抜かれたのか、夏油くんが苦笑気味に肩を竦めてみせた。

「ただと付き合えたばかりだから少しでも一緒にいたいんだと思うよ」
「……え」

ドキっとして顔を上げると「ま、任務が終わった後は思う存分かまってやって」と笑いながら夏油くんも前の車へ歩いて行く。かまってやってと言われてもわたしに五条くんを転がすスキルはないし、どっちかと言うと構われてるのはわたしの方だから困ってしまう。ただ、五条くんは思っていたよりも"彼女にベッタリするのが好き"なタイプということは分かった。

(わたしの心臓…大丈夫かな…)

昨日からだいぶ酷使しているせいか、一気に寿命が縮まってる気がしないでもない。とりあえず何度目かのバクバクを沈める為に深呼吸をしていると、灰原くんが「ちゃん、行くよ~」と助手席の窓から身を乗り出して手を振って来た。慌てて後部座席へ乗り込むと、補助監督さんが静かに発車させて、前を走る五条くん達を乗せた車の後を追う。これから高専までの道中もいつ襲撃にあってもいいように警戒しておかないといけない。懸賞金は期限が終了したけど、誰も襲ってこないとは限らないからだ。

、あまり五条さんの言うことをまともに聞かない方がいい。疲れるだけだろうから」
「え?」

窓の外を眺めながら怪しい車はないか確認していると、不意に隣の七海くんが言った。七海くんは五条くんのことをあまりいい先輩とは思っていないようで――無理難題を押し付けられるから――わたしと付き合いだしたことも心に引っかかってるような口ぶりだ。

「そもそも…何故あの人なんです?」
「何故…って…」

またそんな質問をされてしまった。五条くんとは趣味が合うし、一緒にいて楽しいから。嫌いじゃないから。そんなありきたりな理由が浮かぶ。

「それなら夏油さんでも良いでしょう。あの人なら君を振り回すようなことはしないだろうし」

七海くんはそんなことを言いながら溜息を吐いている。何かとてつもなく心配されてるらしい。灰原くんが「七海はちゃんのお父さんの気分なんだよ」と笑っている。七海くんはますます渋い顔になった。
でも確かに夏油くんとも趣味は合うし、話していて楽しい。嫌いじゃない。条件は――同じだ。
なのに何で五条くんなんだろう?その理由があるとしたらそれは――。

「…夏油くんはわたしのこと好きなわけじゃないし…」

今はそんな答えしか見つからない。七海くんはキョトンとした顔をしたけど、すぐに苦笑いを浮かべた。

「それじゃは自分のことを好きな相手なら誰とでも付き合うんですか」
「え、まさか…」
「なら夏油さんがのことを好きになったら付き合う?」
「…い、いやいやいや…ないよ、そんなの」
「どうして?条件は五条さんと同じでしょう」
「まあ………確かに」

そうだ、夏油くんでも同じだ。でも夏油くんなら五条くんみたいにグイグイは来ないだろうと思う。最初から優しかったし、きっと付き合っても同じ感じで大事にはしてくれそうだけど。

「でも何でそんなこと聞くの?そんなに五条くんと付き合うことが心配…?」
「……そりゃ、安心ではないね」
「…何で?」
「……いや。がいいなら…それでいいけど」

七海くんはそれだけ言うと黙ってしまった。何をそんなに心配なのかが分からないけど、わたしの知らない五条くんを七海くんは知ってるのかもしれない。

(そう言えば硝子ちゃんが前に五条くんは女の子に対して誠実なタイプじゃないとか言ってたっけ…)

もしかしたら七海くんもその話を知っていて、わたしが遊ばれてると思ってるのかもしれない。わたしもそれを考えなかったと言えば嘘になるけど、いざ付き合いだしたら五条くんは不誠実とは程遠い感じだったし、さっきも思ったようにベッタリしたいタイプだった。免疫のないわたしからすれば戸惑うことも多いし、男心もよく分からない。でも今の五条くんは嫌いじゃない、と言うより好きだなと思うことも多くなった。思っていることをハッキリと口にしてくれるのは、恥ずかしいけど安心する。ただ一つ言えるのは、五条くんと付き合っていると周りがやけに心配性になるらしい。

(そんなに騙されやすそうに見えるのかな、わたし…)

ちょっと複雑な気持ちになりながら胸に下がった夜光貝に触れる。わたしの言った些細なお願いを覚えていてくれた五条くんが買って来てくれたもので、すでに宝物になりつつあるプレゼントだ。
もし、わたしの知らない五条くんがいたとしても、これをくれた時の気持ちは本当だったと思えたから、きっと彼の手を取ることが出来た。恋愛のれの字も知らないわたしだけど、その何も描かれていない真っ白な心に色を与えてくれるのは、五条くんなのかもしれない。
あの夜、ほんのりと色づき、揺さぶられた感情を思い出しながら、ふとそう思った。

(この任務が終わったら……デート…してみたいかも)

お願いしたら五条くんはどこかに連れてってくれるかな。
窓の外を流れる景色を眺めながら考えていると、だんだんと東京に近づいてきた風景にドキドキしてくる。
まさかこの後に――この淡い感情が粉々に砕かれることになるなんて、思いもしなかった。