第十七話:天と地が入れ替わった日...⑺
好きになるなら普通の人がいいと思ってた。
平凡でいいから、わたしを安心させてくれる、ありふれた幸せをくれる人。
わたしの前から、消えてしまうかもしれないと、不安にさせたりしない人――。
それは呪術師である限り、叶わない理想なのかもしれない。
長い道のりを移動して、わたし達を乗せた車が高専についたのは午後3時ギリギリの時間だった。当然、先を走っていた五条くん達の車はとっくについている時間だ。
「本当にすみません…」
わたし達が車を降りると、運転をしてくれた補助監督さんが額の汗を拭きながら謝ってきた。でも悪いのは彼じゃなく、道中、無理な追い越しをかけて事故を起こした人だ。わたし達は事故の目撃者として交通警察隊の人に軽く事情聴取をされ、五条くん達よりも30分は遅れる羽目になった。その際、五条くんにはメールを送って説明してある。
『大丈夫か?』
そんな返信が届いて、すぐに「大丈夫」と返したあと、他にもハッキリ目の前で見たという目撃者がいたおかげで、わたし達は意外にも早く解放された。
「まあ、私達の任務はとっくに終わってるし、星漿体の方は五条さん達に任せておけば大丈夫でしょう」
七海くんはそう言ってたけど、わたしはどうしても理子ちゃんを見送りたかった。たかだが数時間、一緒にいたわたしなんかが見送ったところで、彼女にとったら何も変わらないだろう。だけど、たった一日でも一緒にご飯を食べて、一緒に海で遊んで、同じベッドで眠った子だ。
あのまま空港で別れたきりというのは嫌だった。
「ごめん、わたし先に行くね」
自分の荷物をトランクから出すと、七海くんと灰原くんに声をかける。七海くんはやっぱり複雑そうな顔をした。
「行ってどうするんです?」
「え…どうするって…」
「君までが彼女に対して責任を感じることはない。これ以上関わったら…ツラい思いをする」
何だかんだ言って、七海くんは優しい人だ。口では厳しいことを言ったりもするけど、他人の気持ちを想像して慮れる人だと思う。きっと今もわたしの気持ちを考えて言ってくれている。だけど――。
「ありがとう、七海くん。でもわたし…行くね」
自己満足かもしれない。でも、理子ちゃんが理子ちゃんとしていられる今のうちに、会っておきたかった。わたしじゃ彼女の運命を変えてあげることは出来ないけど…。でも、もしかしたら、先輩の二人が何かを企んでるんじゃないか、という期待もある。
「じゃあ先に行ってる」
二人にそう声をかけて、わたしは走りだした。30分も遅れたのだから、もう理子ちゃんは天元さまのところへ行ってしまったかもしれない。ただ本当に五条くんと夏油くんが、どうにかしてくれてるかも、という希望は捨てていなかった。これは単なるわたしの勘だ。
「はぁ…相変わらずキツい…」
長い階段を駆け上がりながら、だんだんと心臓が苦しくなってくる。いくら若いからと言っても、長い階段を一気に駆け上がるのは、さすがに無謀だったかもしれない。一度、途中で足を止めて息を整える。梅雨が近いせいで、だいぶ湿度も高くなってきたから余計に息苦しい。
「よし…行こ…」
少し呼吸が楽になったところで、再び走りだした時だった。上の方から大きな破壊音が聞こえたのと同時に、ズンっという地響きのような音と、足元からビリビリとした振動を感じた。
「え…?」
何かが爆発でもしたのかと焦ったものの、特に黒煙のようなものは見えない。ただ木々が邪魔をして、良く見えていないということも考えられる。
(まさか…ね。だってこの上は結界内だし…呪詛師が襲撃できるはずもない)
そうは思うのに、未だ聞こえる何かを攻撃するような音と地響きに不安を覚えたわたしは、気づけば地面を蹴って、長い階段を駆け上がっていた。
「はぁ…はぁ…」
息を切らしながら上がっていくたび、不安が現実のものへと変わっていく。これは爆発した音じゃない。やはり誰かが戦っている。
(理子ちゃん――!)
可愛らしい笑顔が脳裏をよぎる。どうか無事でいて欲しい。そう願いながら最後の段を駆け上がる。いつの間にか、戦闘音はやんでいた。
「―――ッ」
結界内――その光景を目の当たりにした時、天と地が逆さまになったような感覚になった。豊かな緑と歴史のある建物。いつも見慣れてるはずの風景が歪んで見えるくらいに破壊されている。その荒れ果てた風景の真ん中に、真っ赤に染まった場所があった。白い石畳が円を描くように抉られたところの、ちょうど真ん中。そこに良く見知った男が倒れている。雪のように白く、やわらかな髪にはべっとりと赤い液体が付着していた。髪だけじゃない。彼の滑らかな肌も、黒い制服も、あちこちに赤いシミが飛んでいる。いつもは澄んだ青空のように美しい瞳さえ、今は濁り、空虚だけがこびりついていた。額には刺し傷、首も肩も裂け、それは脇腹へかけて走ったのか、生々しい肉の断裂面が垣間見える。赤々とした血が吹き出したことを物語るほど、辺りはまさに――血の海。
「…ご…ごじょ…うくん…?」
抉られた場所を飛び越え、ふらつく足を一歩、また一歩と進めながら、これは悪い夢だと思った。悪夢の続きを見ているのだと、思いたかった。パシャリ…血だまりに足を踏み入れた瞬間、頽れる。無意識についた手に、ぬるりとした感触。ゆっくりと裏返した手のひらには、べっとりと血がついていた。
「…や…だ…やだよ…!五条くん…!!」
縋りつきながら揺さぶっても、五条くんの空虚な瞳は何も映していない。まだ、暖かい。暖かいのに。どれだけ揺さぶっても彼は何の反応も示さない。
――オマエが…好きだ。
そう言ってくれたのはつい昨日のことだ。それから縫うようにキスを交わした。何度も。何度も。好きだという言葉を合間に紡ぎながら何度も。
――オレは死なない。
ハッキリと、そう言ってくれたのに。
「死なないって…言ったじゃない……言ったじゃないっ!」
大きな手を握り締めても、もう握り返してくれることはない。この手で、頭を撫でてくれることも。
「…やだぁ…!五条くん…!!」
頬から伝って落ちた涙が、血に染まった彼の手を濡らしていった。
――やべえ…すげー嬉しい。
そう言ってらしくないほど喜んでくれた笑顔が脳裏をよぎった。五条くんの手首に飾られたはずの夜光貝のブレスレットは、無惨にもちぎれて血だまりに落ちている。瞳の色と同じ色の貝も、今は真っ赤に染まり、元の色すら分からない。
「や…だ…」
震える手でブレスレットだった物を拾う。
「やだあぁぁ!!」
誰が、彼を、殺した。
――呪術師に絶対はないのよ、。
あれはまるで、わたしにかけられた呪いの言葉。
「――あれぇ。こんなとこに可愛い女の子の術師がいる」
「―――」
その男は気づけば背後に立っていた。何の気配もしない。しなかったはずだ、なのに、何故そこにいるの――。
「泣いてんの?もしかして…五条悟の彼女か何か?」
固まったように体が動かない。振り向けば殺されると本能で感じた。でもコイツだ。彼を、こんな目に合わせたのは。
「ごめんね。悲しいよなァ?彼氏が死んだら。でもオレも仕事なんだ――」
わたしの術式範囲内。抑えきれない怒りと共に発動したそれは、男のどこかを発火させたようだ。
「あっち!」
という声と、ドサっと何かが落ちた音がした。男が騒いでる間にゆっくりと、視線を背後へ向ける。
「り…こ…ちゃん…?」
息が止まったかと思った。布にくるまれた何か。いや、何か、じゃない。そこに倒れていたのは、もう何も映さない瞳を見開いた理子ちゃんだった。
「げえ…手が丸焦げじゃねーか…やべえな」
男は焼けた両手をプラプラさせながら笑っている。一切の呪力を感じない。話にだけ聞いたことがある。
天与呪縛――。
「オマエ…」
「あ?」
「オマエが理子ちゃんを――」
全身が燃えたような気がした。体中の血液が沸騰する。目の前の男を殺してやりたいと思った。誰かを心の底から呪ったのは初めてだ。
だけど、慣れないことはするものじゃないと身をもって体験した。男はわたしの想像をはるかに超えた超人だったらしい。術式を発動する前に、男はわたしの喉をいとも簡単に切り裂いた。
「…か…は…」
つけていたネックレスまでが切れて、カシャン…と足元に落ちたのが分かった。ガクンと膝が折れて地面に突っ伏した時、わたしの貝までが真っ赤に染まっていて、震える手をそれに伸ばした。
「ごめんな。さっきの攻撃は悪くなかったが…あれでオレを焼き尽くさなかったオマエが悪い。まだ一年生?経験不足か?にしては、一瞬だけすげー殺気だったけどな」
そこで初めて男の顔を見た。見たこともない顔だ。くちびるに縦に入った傷がある。それが喉と口から血を流しているわたしをあざ笑うかのように歪んでいた。
「よいしょっと。んじゃあ星漿体は頂いてくぜ。オレに会っちまったのが運悪かったな」
すでに男の姿は見えなくなっていた。浅く、早くなっていた呼吸も、もう出来ない。ただ空気が漏れるような音がするだけだ。
(わたしは…無力だ)
大好きな人達の為に、何も出来なかった。誰も助けられない。
(五条くん…理子ちゃん…みんな死んでしまった…夏油くんは…?黒井さんは…)
二人はまだ生きてるかもしれない――。
薄れていく意識の中でふと思った。まだ、死ねない、と。
△▼△
高専結界内での襲撃から10日が過ぎていた。遂に梅雨入り宣言をされた都内も、朝から鬱々とした曇天で止むことのない雨を降らせている。窓を絶え間なく打ち付けてくる雨粒を眺めながら、私は目の前で横たわる後輩の額へ手を置いた。
(暖かい…)
やっと人並みの体温に戻ってきている。そう感じてホっと息を吐いた。
あの日、侵入者は五条を倒し、夏油までを撃破して、星漿体である天内理子を殺害。遺体をそのまま連れ去った。でもその後に予期せぬことが起きた。五条の覚醒だ。
早い話、五条は生きていた。瀕死にされたことで奇跡的にも反転術式を習得し、負わされた傷を自ら治して、侵入者である伏黒甚爾を単独で追い、見事撃退。人生初の敗北をひっくり返すような逆転劇で今回の事件は幕を閉じた。
ただもう一つ大変だったのは、五条自ら覚醒した後、自分の傍で仮死状態になっていたを見つけた。どうやったのかは分からないが、もまた瀕死の状態で術式を反転させたようだ。この場合、治癒能力ではなく、自らの術式を反転させ、体内を氷点下まで下げたらしい。体を凍らせたことによって出血死は免れ、仮死状態で私の元へ運ばれてきた。
――死んでも助けろ!
覚醒直後でハイになっていた五条に無茶ぶりされたものの、私もあの状態の人間を診るのは初めてだ。一気に解凍すれば細胞が破壊され、確実に助からない。そこで少しずつ身体を温めていく方法を知り、試してみた。すると数時間後には肌の色が少しずつ通常に戻っていき、そのタイミングで傷の手当をしたことで命の危険はなくなった。ただ――。
「いつになったら目覚めるんだか…」
そっとの頬を撫でて、溜息を吐く。もうの体に異変はないはずなのに、何故か目覚めない。私も心配でこうして時間があればの傍についているけど、今日も変わらず、は眠り姫のままだ。
「早く起きなよ…がいないと寂しいからさ」
サラサラの髪を撫でながら呟く。雨音だけが響く静かな室内に、私も何故か泣きそうになった。だけどその感傷をブチ壊すような足音が廊下から聞こえてきた時、私の涙もウンザリしたのか引っ込んでしまった。
「おい、硝子!は…?!」
「…うるせ…」
振り返らずとも分かる声の主に、私は盛大な溜息を吐いた。
「まだ目覚めてない。っていうか何回来る気だよ、アンタは」
五条は人の話も聞かずにベッドへ歩み寄ると、さっきの私と同じようにそっと彼女の頬を撫でた。その顏を見る限り、心配なのは分かるけど、何も任務から帰って来るたび顔を出さなくても、とは思う。
「任務は?アンタ、今日は仙台じゃ――」
「…速攻で終わらせてきた」
「あ…そう。で、夏油は?」
「今日は一緒じゃねえよ」
「…そっか」
応えはするものの、五条はベッド脇の椅子を陣取り、ずっとの手を握っている。この男にもこんな一面があったなんて驚きだけど、に対する想いは認めてやってもいいかな、と最近思い始めた。いや、本音は二人の交際を認めたくはないけど。
まさか私の知らないところで付き合いだしたと聞いた時は、本当にビックリしたし、五条の勘違いかとも思った。でもお揃いとまではいかないけど、同じ夜光貝のアクセサリーを身に着けていたらしいし、信じざるを得なかった。
因みに二人の壊れたアクセサリーは、五条がわざわざ沖縄まで出向いて修理をしたらしい。今は五条の手首にブレスレット、の首にはネックレスが飾られている。そこだけ見ればラブラブカップルのように見えるが、互いに首輪同然の物を送りあうってどうなんだと思わないでもない。
プレゼントとしてのブレスレットは「永遠」や「束縛」を意味する。まあ、は知らないで送ったんだろうけど、五条は絶対に知ってると思う。ネックレスを送る意味もまた「あなたとずっと一緒に居たい」「あなたは私だけのもの」といった意味があるというし、思い切り束縛しあってるとしか思えない。
(まあ、五条は魔除けだと言い張ってたけど、その後に全然御利益なかったわ、と罰当たりなことをほざいてたっけ…)
女の子からプレゼントされたものを修理してまで大切にしてる五条は初めて見た。
「五条…アンタも少しは部屋で休んで来たら?ここ最近ずっとにつきっきりじゃん」
「いい…どうせ部屋に戻っても眠れねえし、ここにいた方が落ち着く」
「まあ…気持ちは分かるけどさ」
この10日、五条はずっとこんな調子だ。いくらは反転術式を回せるようになったからといって、精神的な疲れに効果はない。少しくらいは睡眠をしっかりとって欲しかった。
「ってか…、何で目覚めないんだと思う?」
ふと五条が呟いた。
「怪我も治って解凍も上手くいってんだろ?なのに何で…」
「う~ん…私もよく分からないけど…肉体的に問題ないなら精神的なものとか…かな」
「精神的…?」
「そう。誰もに何が起きたのか見た人はいないけど、アンタが意識戻った時、そばに倒れてたんでしょ?七海達の話も合わせると、がアンタのところへ駆けつけたのは伏黒甚爾との戦闘後。つまりは瀕死の五条を見たことになる」
「……まあ、だろうな」
「そりゃショックだろうし、死んだと思っても不思議じゃない」
「そ…っか…」
「その上、自分まで殺されかかって無意識で術式を反転したんだろうし…色々心身ともに負担はかかったと思う」
五条はしばらく黙っていたものの、ふと思い出したように言った。
「さ…呪術師が嫌いだったろ」
「ああ、そうみたいだね」
「その理由ってのが…死ぬ確率が非術師よりも圧倒的に多いからってのが含まれてんだよ」
「…あー…なるほど。のお母さんも亡くなってるんだよね、確か」
「ああ。それが相当こたえたらしい…だから…約束したんだ、オレ」
「え?約束って…」
「オレは…絶対死なないって…」
「……五条、アンタ…」
「だから…もしがオレの瀕死の姿を見て死んだと思ったんなら…」
「分かったよ…」
思わず五条の肩にポンと手を乗せた。確かに、仲間の死を極端に恐れていただからこそ、ショックが大きかっただろうなとは思う。でも――五条は生きてる。
(だから早く起きて…)
血色のいい頬を見てると、本当に眠っているようにしか見えず、声をかけたら起きそうな気さえする。そう言えば…よく意識がなくても声は聞こえてるっていうよな。
「五条、に声をかけ続けてやれば?」
「あ?」
「聞こえるかもしれないし…五条の声なら届くかも」
そう言うと五条はハッとしたように振り返り、すぐに視線をへ戻した。握っていた手を更に握りしめて「」と呼びかける。
「、起きろ。飯だぞ、飯!」
「ちょっと…飯って…」
「あ?だって腹減ってんだろ。ずっと点滴なわけだし…あ!ケーキ買ってきて匂い嗅がせるとかは?」
「ハァ?」
「甘いものに目がねえじゃん。食い意地も張ってるし起きるかも」
「いや、まあ…言われてみればそうかもしれない…け…ど…」
「あ…?何だよ、その目」
五条は私の表情を見て口を尖らせている。だけど、私はそんなことよりも、の瞼がピクリと動いたことに驚いていた。
「あ、硝子、オマエ、今から駅前でケーキ買って来いよ」
「……嘘…」
「あ?嘘じゃねーよ。いいから買って来いって――」
「…ご、五条!」
五条はこっちを見てるから全然気づいてないけど、の瞼がゆっくり開くのを見て、思わず五条の肩をバシバシと殴ってしまった。
「ってぇな!何だよっ」
「だ、だからが…の…」
「ハァ?が何だって――」
と私の慌てぶりに、五条も視線をの方へ戻す。そしてやっぱり――五条も固まった。
「……ご…じょ…くん…」
掠れた小さな声だったけど、目を開けたが、五条の名前をハッキリと呼んだ。