第十八話:あなたのキスは少し切ない


草木の匂いがする中で、わたしは一人、蹲って泣いていた。鳥達が慰めるように囀りながら、わたしの周りを旋回してる。だけど少しも気持ちは晴れない。
これはいつの記憶だろう――。
草を踏む音がする。わたしが振り返ると、そこには困ったような、それでいて優しい眼差しを向けてくれる母がいた。

――、帰りましょ。
――嫌!もう…訓練はしたくない…っ!

ああ、そうだ。この頃のわたしは父との体術訓練が嫌で嫌で、時々こうして山に隠れて、一人で泣いていた。母はそんなわたしをいつも迎えに来てくれて、駄々をこねるわたしの言葉を、うんうんと受け止めながら、父への愚痴に耳を傾けてくれたっけ。

――お母さんは何でじゅじゅ…つしになったの…?
――うーん…そうだなぁ。呪霊は視える人と視えない人がいるのはもう分かるでしょ?
――うん。栄太もトマちゃんも学校にいる呪霊に気づいてなかったもん。
――そう。栄太くん達は視えない側の人間。それが非術師と呼ばれる人達。そして私やのように呪霊が視えて、術式を生まれながらに持っている人間は、呪霊を祓うことが出来る。戦う術がある。つまりね。視えない側の人達を、視える側の私達が守ってあげないといけないの。
――どうして?
――栄太くん達は視えないから呪霊がそばにいても分からない。すると?
――襲われる…
――そう。は嫌でしょう?大切な友達が傷つくのは。
――やだ!
――だからお母さんもお父さんも非術師の人達の為に戦うの。それがお母さんの使命だと思ってるわ。大切な人を、大切な人の大切な人も、みーんな守りたいから。
――守る…。じゃあ…お母さんは絶対に死なない…?

それは素朴な疑問だった。弱い人を守る立場にいるなら、自分達は、呪術師は、死なないのかと、そう思ったから。わたしの問いに母は少し逡巡していた。でも、ふと悲しげに微笑んだのだ。

――呪術師に絶対はないのよ、
――それってどういう意味?死んじゃうこともあるの?いいことをしてるのに?
――そうね…そうならない為に、厳しい訓練が必要ってことかな?
――えー…
――ふふ…さ、もうそろそろ帰りましょうか。お父さんも心配してたわ。

結局、どんなに父に腹を立てていても、母にかかれば素直に帰らざるを得なくて、わたしは我が家の日常へと引き戻された。
そしてあの日から10日後――母は帰らぬ人となった。

任務が入り、東京へ行く、とだけ告げて、母は出かけて行った。あの頃の母は東京と家を行き来する生活で、大きな任務の時だけは東京に泊まりで行くことが多かったと記憶している。だから、あまり母とのんびり過ごしたことはなく。呪術師なんかをしてるせいだと忌々しく思ったこともある。母が亡くなった後、父はすぐに呪術師を引退して、前よりいっそう、わたしに執着するようになった。母の術式を受け継いだわたしを、母と同じ一級呪術師にする為に。

――オマエが受け継いだその術式で、母と同じ道を歩めば、アイツも喜ぶ。

今、思えば、父のあの言葉に素直に頷いてしまった自分に腹が立つ。
もう誰も、わたしの前から消えないで欲しいのに。
この世界は残酷だ。明日死ぬかもしれない人達と、毎日顔を合わせなくてはならないのだから。

――オレは死なない。

過去の時間を彷徨っていた時、不意に五条くんの声が聞こえた気がした。でもあの言葉は何の意味もなさない。

――、起きろ。

その声は深淵に落ちそうになる頃、聞こえてくる。

――!飯だぞ、飯!

まただ。また五条くんの声が聞こえる。もしかしてあの世から呼ばれてるんだろうか。
それにしても飯って…何だか緊張感がない。五条くんは死んでもあの強さと性格で、冥界の番犬、ケルベロスでさえ祓ってしまいそうだ。それで冥界の王、ハデスにまで迷惑がられて、現世に送り返されそう。

(…それはちょっと面白いかも…)

想像したらおかしくて、ちょっと吹き出した――気がした。

「……ん…」

最初に感じたのは「うるさい」だった。すぐ耳元で五条くんの声が聞こえてくる。

「あ、硝子。オマエ、今から駅前でケーキ買って来いよ」

ケーキ買って来いって、五条くんは相変わらずオレ様だ。あの世に行ってもケーキを食べる気なんだな。そう思ったら、また笑えてきて、だけど急に瞼の辺りが眩しく感じた。

「嘘…」
「あ?嘘じゃねーよ。いいから買って来いって――」
「…ご、五条…!」

二人の会話が聞こえる。硝子ちゃんは誰と話してるんだろう。呪縛霊になった五条くんだったり?
そもそも…わたしはどうしたんだっけ――?
目まぐるしく脳内に情報が流れ込んで来るせいで、頭の中もうるさい。そう思いながら急激に意識が戻っていく気がした。

「だ、だからが、の…」
「ハァ?が何だって――」

急に現実的な声が耳に飛び込んできて、わたしは声のする方へ視線を向けた。何故かぼやけて輪郭しか見えないけれど、薄っすら白い髪にサングラスのようなものが視界に入る。

「ご…じょ…くん…」

これは幻?それとも夢の続き?
死んだはずの五条くんがポカンとしたような顔で、わたしを見下ろしてる。そんな気がした。



△▼△


――が目を覚ました!

任務を終えて帰路についてる私のケータイに、悟からそんな電話がかかってきたのは、つい30分ほど前のことだ。長い眠りについていた彼女のことを私も心配していたが、どうやら後遺症もなく普通に会話もできるという。早く無事の顏が見たくて、出立門をくぐると真っすぐ医務室へ足を向けた。

――開口一番、何で生きてるのって言われたわ。ったく、オレがどんだけ心配したと思ってんだ、アイツ。

悟はそうボヤいてはいたものの、凄く嬉しそうだった。
がそう思うのも無理はなく。瀕死の状態だった悟を見て酷いショックを受けたんだろう。ところどころ記憶が抜けてるようだが、自分を殺そうとした男のことは覚えていたらしい。聞けばやはり、あの男だった。
伏黒甚爾――。元禪院家の人間だという。
呪力0の天与呪縛。とはいえ、あそこまで力の差があるものなのか、と驚いた。覚醒した悟の敵ではなかったようだが、それにしても強かった。

(出来ればこの手で…殺したかった)

明るい少女の笑顔と、幸せそうに拍手をしていた人間の顏が重なっては消える。

――嘘じゃ!嘘つきの顔じゃ!前髪も変じゃ!

コロコロと表情を変える明るい女の子は、もういない。あの時、涙ながらに「もっと皆と一緒にいたい」と、初めて本音を聞かせてくれたのに。
ああ…拍手の音が、うるさい――。

――いいかい、悟。呪術は非術師を守る為にある。

自分のあの言葉が嘘だったんじゃないかと思えるくらい、心が騒ぐ。
呪術師とは何だ。誰の為に、何の為に、戦う。命を削って?
この迷いは、あの子を守れなかった後悔から来ているのは分かっている。だけどブレるなという自分もまだ、いる。大丈夫だ。まだ、大丈夫――。

「お、傑!帰ったのかよ」
「…悟」

その声でハッと我に返った。悟が医務室から出てくるのを見て、何故だかホっと息を吐く。

はどうだい?」
「あー喉乾いたって言って、さっきからすげえジュース飲んでてさー。今、3本目を買いに行くとこ」
「そうか…まあ10日も飲まず食わずで点滴のみだったからな。喉も乾くさ」
「まあ、それもあるだろうけど、多分…アイツ、オーバーヒートするくらい呪力の出力をあげたんだと思う」
「…オーバー?」
「ああ。オレが二度目の対峙をした時、アイツの腕が真っ黒だったこと思い出したんだよ」
「まさか…」
は覚えてないって言うんだけどさ。あれはの術式だと思う。ったく…あんな化け物相手に攻撃仕掛けるなんて…」

その伏黒を倒した悟でさえ、あの男を"化け物"だと思ったのか、と内心苦笑した。でも確かに、が到底敵うはずもない相手だ。きっと悟の姿を見て、冷静さを失ったんだろう。
悟は自販機での好きなジュースを買うと、それを手に再び医務室の方へ戻っていく。

「ほら、傑も来いよ。が会いたがってんだ」
「…ああ。私も心配かけたんだろうな」
「そういうこと。ああ、でもさ。一つ気を付けて」
「ん?何をだい?」

悟はドアを開ける前に、私の方へ振り向き、ひとこと言った。

「天内のこと…生きてることにしておいて欲しい」
「え…」
「まだ少し記憶が混乱してるとこがあるんだ。が伏黒と対峙したのは多分、時間的にみれば傑と戦った後だ。だから、は見てるはずなんだ。伏黒が連れ去った…天内の姿を」
「………っ」
「だけどその記憶がないみたいでさ。オレに"理子ちゃんは無事だった?"って聞くんだよ。だからつい…」
「…無事だと…言ったのか」
「……仕方ねえだろ。あの状態のに本当のこと言うのは酷だ」

悟は私に責められると思ったらしい。急に仏頂面になってそっぽを向いた。でも悟が彼女の心を守るために言った嘘にまで、どうこう言うつもりは私にもない。

「それでいい。は…理子ちゃんを可愛がってた。覚えてないならその方がいいさ」
「……だよな」

悟はそう呟いて軽く深呼吸をすると、病室へ元気よく入って行く。きっと悟なりに後悔してるのかもしれない。護衛の任務で、彼女とを引き合わせたことを。
最初から知らなければ、も傷つくことはなかったと。

「おい、。傑、帰って来たぞ」
「え、あ…夏油くん…!」

私が病室に入って行くと、は泣きそうな笑顔でわたしを見た。きっと硝子辺りから私も瀕死だったと聞かされたんだろう。顔を見るなり「無事で良かった…」と言ってくれた。そんなの私の台詞でもあるのに。

こそ…無茶したんだって?」
「え…と…それがよく覚えてなくて…」
「そうか…。でも…無事で良かったよ。これで悟も十分な睡眠をとってくれる」
「え…?」
「おい、余計なこと言うな、傑」
「はいはい」

が意識のなかった間のことは、悟もあまりバラされたくないらしい。まあ、男なら誰でも好きな子には弱ってる自分を見せたくはないだろう。

「ほら、、ジュース」
「あ…ありがとう。だいぶマシになってきた」
「そんなガブガブ飲んだら後でトイレ行きたくなんぞ。急に歩けねえんだし、車椅子な?」
「う…うん…」

悟は甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いてるようだ。ここは邪魔しない方が良さそうだな。

「悟、私は任務の報告をしてくるよ」
「あー了解。あ、夜蛾センセーにオレも後で報告しに行くって言っておいて」
「まだ行ってなかったのか」
「仕方ねえだろ?の様子を見に行った後で行こうと思ってたら、コイツが目を覚ましたから――」
「はいはい。分かったよ」

その悟の気持ちは理解出来る。苦笑交じりで応えると、悟は照れ臭そうに「頼んだからな」と言って、再びにかまいだした。あれじゃも疲れるだろうにと思いながら病室を後にすると、ゆっくりと廊下を歩いて行く。

(思ったよりも元気そうだったな…)

当然、少しは痩せてたものの、血色も戻ってるようだし安心した。それに一部でも記憶がないなら、ないままでいて欲しい。あんな思いをするのは私達だけで十分だ。
ふと、外を見れば、一度止んでた梅雨の雨がポツポツと窓を濡らしていった。




△▼△



「あ…雨…」

ふとが窓を見て呟いた。見れば窓に雨粒が当たっている。

「寒くねえ?」
「うん…平気」

ベッドの脇の椅子に腰をかけて彼女の顔を覗き込めば、は「ホントに大丈夫」と笑みを浮かべた。
長い眠りから目覚めたを硝子が色々と調べた結果、どこも異常はないと分かって心底ホっとした。ケガも治ってはいたが、あんなに意識が戻らなかったのはやっぱり心配だったからだ。

――体に異常はない。きっと精神的なものだろうな。

硝子もそう言ってたし、の記憶が一部欠けてることも、きっと精神的なショックを与えられたからだろう。

は身近な人の死を極端に恐れてる…)

さっきオレが生きてると分かった時、は安心したように泣き出した。あんな思いをさせたことは、後悔しかない。

(死なないって…約束したのにあれじゃな…情けな)

結果、あの男を倒せたが、一度敗北したのは変わらない。あの屈辱を糧に、オレはもう二度と誰にも負けないことを誓うことになった。

が動けるようになったら…二人でどこかに行かねえ?」
「え…?」
「デート…しようぜ」

星漿体の任務が終わったら誘おうと思っていたことを言うと、は僅かに目を伏せた。でもすぐに笑顔を見せて「うん」と頷いてくれる。一瞬、断られるかと思ったからホっと胸を撫でおろした。そんな気分じゃなくても、いつまでも引きずって欲しくはない。オレや傑のことはもちろんショックだったのかもしれないが、彼女自身も殺されかけたんだから、そのショックだってあるだろう。だからこそ、どこかへ連れ出して、彼女の望む普通のデートに連れてってやりたいと思った。

はどこに行きたい?」
「え…どこと言われても…デートしたことないから」
「どこでもいいんだって。別にオマエの行きたい場所なら。憧れの東京でしたいことねぇの」
「…あ、そっか。えっと…」

急に訊かれたせいか、はうーんと唸りながら首をかしげている。その様子を見てたら、これまで我慢してたものが溢れてしまった。

「わ、ご、五条くん…っ?」

ベッドの端に座り、起こしてる上半身を抱き寄せると、はビックリしたように肩を跳ねさせた。それを無視して抱きしめると、今度こそ本当に安心することが出来た気がする。

「…無茶してんじゃねーよ」
「え…」
「オレもオマエに心配かけたから言う権利ないかもしれねえけど…マジでキツかった…」
「……ごめん」
「良かった…ほんとに」
「ごめん…」

はもう一度そう呟くと、控えめにオレの背中へ腕を回してきた。密着することで互いの心音が重なるように鳴っているのが分かる。

「オマエはオレが守るから…。今以上に強くなれ」
「え…?」
「鍛えてやるって言ってんの」

驚いたように顔を上げるの鼻をぎゅっと摘む。守ると言っても色々な意味がある。オレは特級になった時点で忙しくなったし、四六時中、彼女のそばにいてやることは出来ない。なら彼女自身を強くすればいい。

「今回オマエは新しい術を覚えただろ。それを自由に使えるようにしろ」
「…う…」
「何だよ、その顏」
「だ、だって…どうやったか覚えてないし…」
「だーから、それを思い出す特訓しようぜ」
「…五条くんの鬼…」

スネたような口調で呟くが可愛くて、思わず吹き出す。でも鬼になるくらい、今回の件はオレも懲りた。

「鬼で結構。オマエを失う方がよっぽど嫌だわ」

そう言いながら顔を傾けて唇を近づけると、は驚いたようにぎゅっと目を瞑った。それをOKと受け取って、そっと唇を重ねる。久しぶりに触れた彼女の唇は、やけに甘ったるく感じた。




△▼△


五条くんのキスを受け止めながら、背中に回した手でぎゅっと制服を掴んだ。久しぶりに感じる五条くんの体温と、トクントクンと鳴っている心音が心地いい。
ああ、本当に生きてるんだな、と実感した。
目を覚ました時、まだ夢を見てるんだと思った。意識はなくても、血だまりで倒れている彼の姿がずっと頭にこびりついていたから。恐怖と混乱に満ちた、あの場面も。

(でも…反転術式を使えてなかったら、五条くんはあの時死んでいた…)

まさか術式強制解除を出来る呪具があるなんて思わなかった。五条くんも初めて見たらしい。だからこその、油断。
でも――五条くんは生きてる。そしてあの伏黒とか言う男を倒したと聞いた時は、心底ホっとした。あんな思いはもう二度としたくない。

(だけど…何かを忘れてる気がする…)

伏黒甚爾に会った前後の記憶が曖昧だった。

(わたしは…いつあの男に会ったんだっけ…。あの場所に行ったらいたんだった?)

その辺がよく思い出せない。そこを思い出せないと、自分で発動したらしい新たな力も思い出せない気がした。
ちゅ…っと音を立ててくちびるが解放された時、美しい蒼と至近距離で目が合う。さっきから早鐘を打っていた心臓に、また負担がかかって顏がじわりと熱くなる。

「…はすーぐ赤くなるな。まだ慣れねえの?」
「…そ、そんなすぐは慣れないもん…」
「ま…そういうとこも可愛いけど…」

ぼそりと呟く五条くんの言葉で更に頬が火照ってしまう。五条くんはわたしをドキドキさせる天才かもしれない。そんなことを考えてたら、またくちびるを塞がれて、その不意打ちのキスに心臓が拍動した。触れるだけのキスを、角度を変えながら何度もされてるうちに息が苦しくなっていく。

「鼻で呼吸しろ」
「ん…む、無理…」

僅かにくちびるが離れた合間に言われてカッと顔が熱くなる。でも無理なんて言ってる間にまたキスをされて言葉が飲み込まれた。そのうちくちびるの隙間を五条くんの舌がぬるりと舐める。初めての感覚にビクンと肩が大きく跳ねてしまった。これってもしかして大人のキスなのでは…と乏しい知識の中から思い出す。でも実際どうするのかはあまり分かっていない。その戸惑いが五条くんにも伝わったらしい。くちびるがゆっくりと離れて、やっと呼吸を再開することが出来た。

「ぷ…」
「…な、何で笑うの…」
「いや…可愛いから」
「…???」

こんなにもドキドキさせておいて笑うとか信じられないと思っていると、優しい眼差しが降ってきた。愛しい、と言いたげな熱っぽい瞳は、やっぱり沖縄の海のような美しさだ。その瞳に見つめられると、何故か胸が苦しくなった。これ以上、心を乱さないで欲しい。

「早く…オレのこと好きになれよ」

ぎゅっとわたしを抱きしめた後、耳元で小さく呟かれた言葉は、怖いくらいストレートに、心を揺さぶってきた。