第十九話:ああ、青春。


私達の通う呪術高等専門学校は、何も呪術や呪いのことばかり学んでいるわけじゃない。当然のことながら年齢に合わせた普通授業はある。この日は珍しく、クズコンビも任務が入っておらず、私と一緒に授業を受けていた。教えてくれるのは一般授業専門の教師だ。今は数学という最も興味のない分野で、眠くなるような問題を解かされている。こんな物を覚えたからと言って、将来どれほど役に立つというんだろう。そんなどうでもいいボヤきを心の中で呟きつつ、ふと右斜め前に座るクズ2名に目を向けて、少しだけギョっとした。片割れの五条が、これまた珍しく熱心に問題を解いているからだ。

(いつもはめんどくせえとか言って手も付けないのに…雨でも降るか?)

チラっと窓の外を見れば、梅雨時期にしては驚くくらい青空が広がる晴天だった。

(この時期に晴れるのもある意味、五条が勉強してるせいだったりして)

五条はバカだけど馬鹿じゃない。五条家では英才教育を受けて育ったようなガキだったらしく、勉強の類は一通りできるようだ。いや、勉強だけじゃなく、スポーツ全般もやれば何でもできると豪語するだけあって、何をやらせてもそつなくこなす。だから余計にムカつくのかもしれない。ただ、万能というだけあって何をするにも本気ではやらないので、宝の持ち腐れみたいな男だと思う。
その五条が何故、今日に限って真面目に授業を受けてるのかが謎だった。その答えは授業の終わりを告げる教師の「今日はここまで」という声と同時にわかった。

「では次は53ページのところを予習しておくように――」

と教師が言い終わる前に、教室を飛び出していった奴がいる。五条だ。

「五条くんは…トイレでも我慢してたのかな?」

すでにもぬけの殻になった机を見て、教師は顔を引きつらせつつ、教室を出て行った。

「何?アイツ…マジでトイレ?熱心に問題解いてたと思えば」

開けっ放しで出て行ったのか、後ろのドアが全開になっている。それを苦笑交じりで眺めていると、もう一人のクズ、夏油が「違うよ」と苦笑しながら窓の外を指さした。

「理由は…この梅雨の合間の晴天だろ」
「…は?」

どういう意味だと首を傾げた時だった。窓の外から「きゃー!危ないってば、五条くん!」というの声が響いてきた。驚いて窓に駆け寄り下を覗くと、五条がの乗った車椅子を押しながら凄い勢いで走ってくる。まあ五条は無限があるからが落ちることはないだろうけど、あれじゃ気分的に怖いだろうなと苦笑が漏れた。

「何あれ。リハビリ手伝ってるんだ」
「そう。今日は朝から晴れてたろ。悟がを外に連れ出してやりたいと言っていた。ずっと病室で寝てたら治るもんも治らねえとか言って」
「…へえ。五条の皮を被ったニセモノか、アイツ」
「面白いことを言うね、硝子」

夏油も私の隣に立って、校舎脇の小道でイチャつく二人を見下ろす。五条は車椅子からゆっくり立ち上がったの手を取ると、歩く練習に付き合うようだ。そこで真面目に授業を受けてた理由が分かった。

「あ~。だからサボらずやってたんだ、さっき」
「そういうこと。サボった分はどうせ後でやらされるだろ?でも悟はその時間がもったいないと思ったんじゃないかな。に付き添う時間が減るからね」
「なーる…ってか五条ってば、ホントにマジなんだ」

あの不誠実の塊みたいな男が、一人の女の子に会っただけで、ああも変わるもんなのか、と、ちょっと…いや、かなり驚かされる。そんな思いが顔に出てたらしい。夏油は苦笑交じりで私を見た。

「きっとの色のついてない真っ新な部分に惹かれたんだろう。庇護欲でも刺激されたんじゃないか?」
「アイツにそんなものがあるとも思えないけど…あんな姿を見せられたら…そうかもしれないな」

五条は足に力の入らないを支えつつ、ゆっくりと歩かせている。やっぱり中身はニセモノかもしれないぞ、あれは。

に体力が戻って歩けるようになったら、初めてのデートに行くらしい」

信じられない物を見るような目で見ていた私に、いらぬ情報を寄こした夏油は笑いながら教室を出ていく。

「デート…ねえ…。青春しやがって。ムカつく」

今度はコケそうになったを抱き留めると、五条は彼女を抱えたまま、私がいる教室よりも高い場所へ体を浮かせた。イチャつく為に術式を使うなと言いたいが、まあが悲鳴を上げながらも楽しそうだから――五条に抱き着いてるのは許せないが――今日は大目に見るとするか。



△▼△



まさか一部始終を硝子ちゃんに見られてたとは知らず、わたしは五条くんにぎゅっとしがみついた。

「そんな必死に捕まらなくても落とさないから大丈夫だって」
「で、でも…怖い」
「気持ち良くない?今日は久しぶりに晴れたし、も外に出たいって言ってたろ」
「…そうだけど…」

あまりに雨が続いていたから、今朝太陽が出てるのを見た時は思わず、そんなことを言ったけど、空中に浮かぶとは聞いてない。前の五条くんは、術式使うと操作が大変で凄く疲れると言って、任務以外でこんな風に術式を使ったことはなかった。でも今はその脳の疲れも反転術式で取れてしまうんだから凄いとしか言いようがない。おかげで贅沢な空中散歩が出来てるけど、慣れないわたしはどうしても五条くんにがっしり掴まってしまう。落とされるとは思ってないけど、要は気持ちの問題だ。

「あ、七海くんと灰原くんだ」
「おー。呪具訓練中だな」

校庭の方を見ると、同級生二人がそれぞれ違う呪具を使いながら戦っている。本当ならわたしもあれに参加してなくちゃいけないのに、未だに足に力が上手く入らず、一人じゃ歩けないのだから嫌になる。硝子ちゃんには焦らずゆっくり体力を戻せって言われてるけど、何となく気持ち的に焦ってしまうのだ。


「…え?」

ボーっと二人の立ち合いを眺めていると、五条くんの優しい声に呼ばれて、ふと顔を上げた。その瞬間に重なるくちびる。それは驚く間もなく離れて、後には熱だけが残った。

「な…何して…」
「何ってキス」
「だ、誰かに見られたらどう――」
「見えると思う?下からじゃ豆粒で何してるか分かんねーよ」

あっけらかんと言い放った五条くんだったけど、何故か怪訝そうに眉を寄せながら、わたしの火照った頬に手を添えた。

「あっつ…オマエ、熱でもあんの?」
「え、な、ないけど…」

と言いつつ、言われてみれば確かに少しゾクゾクする。今のキスで熱くなったのかと思っていたけど、それで寒気がするのもおかしい気がした。空の上だから、とも思ったけど、今日はそれほど風も強くない。五条くんは額にも触れながら、わたしの顔を見下ろすと「うーん…」と軽く首を傾げた。

「やけに顔が赤いし…ちょっと戻って熱計るぞ」
「う、うん…」

せっかく外に出られたのに戻るのは残念な気もしたけど、ここは素直に言うことをきいた方がいいと思った。
でもわたしが頷いた瞬間、五条くんは一気に地上まで下降していく。気を遣ってくれたのか、そこまでスピードは出ていないものの、気分的にはジェットコースターにでも乗ってる気分だ。乗ったことはないけど。

(スカートじゃなくて良かった…)

無事、地上に降りた時にホっと息を吐きつつ、再び車椅子へ乗せられた。そのまま病室まで運ばれると、あっという間にベッドへ逆戻りだ。せっかく晴れてるのにな、と残念に思ったけど、やっぱり少し体調が悪い。というか…下腹部が痛い。

「あ…」
「あ?」

その痛みの原因に気づいた時、微熱の意味にも気づいてしまった。体温計を探してた五条くんが「どうした?」と振り向く。

「あ、いや…あの…」

いくら彼氏とはいえ、男の五条くんに原因を話すのは物凄く恥ずかしい。つい言葉に詰まってしまった。

「何だよ。どうした?」
「な、何でも…ない…」

とは言え、ここで熱を測られても平熱か少し高いかくらいのものだと思う。アレの時は微妙に体温が上がるし――。

「あ」
「あ?」

今度は重大なことを思い出した。アレ・・がない!

「ほら、体温計あったぞ。熱計ろう」
「え、あ、ち、違うの…熱はないと思う…!」
「ハァ?こんなに熱いのに?顔も赤いって」
「えっと…だから…」
「…何だよ。注射打たれんの怖いとかそういう話?」

からかうように笑う五条くんに「違うってば」と言ったところで、五条くんはすっかり風邪だと思い込んでいる。

「ほら、脇の下にこれ入れろ」

と言いながら、わたしのルームウエアのボタンを外そうと指をかけてきた。それにはギョっとして「風邪じゃないの!アノ日だから!」と五条くんの手を振り払ってしまった。

「……え?」

急に手を振り払われた五条くんはビックリしたらしい。ズレたサングラスから覗く瞳が唖然としたように見開かれている。ただ、言ったわたしも恥ずかしいけど、何故か五条くんの頬もじわじわ赤く染まっていく。そして訪れたしばしの沈黙の後…。

「あー……硝子…呼んで来るわ…」

と五条くんは頭を掻きつつ病室を出て行ってしまった。どうやら"アノ日"で気づいたみたいだ。

(は…恥ずかしい…)

布団に潜りつつ、何でこんな時になるんだ…と恨めしく思う。彼氏ができると、こういう女の子の秘めた部分すら隠せないらしい。
結局、五条くんが硝子ちゃんを呼んでくれたおかげで、どうにか事なきを得た。

「ごめんね、硝子ちゃん…。今度買って返すね」
「いいって、そんなの。女同士、こういう時は助け合いだから」
「…うう…ありがとー硝子ちゃん…」
「まあ、高専は圧倒的に男が多いからさ。こういう時は苦労するよね、お互い」

硝子ちゃんは苦笑しながら、ドアの方へに視線を向けた。五条くんは気を利かして廊下で待っててくれてるらしい。
その時、硝子ちゃんが突然吹き出した。

「さっき五条が私を呼びに来た時さー。何か言いにくそうに"あ~"とか、"う~"とか言って、なかなか言おうとしなかったんだよねー。ちょっと赤くなってるし、あんな五条初めて見たわ」
「え…」
「アイツでも照れることあるんだーってマジでウケた――」
 「へえ…そりゃ良かったな」
「……っ」

いつの間に入って来たのか、硝子ちゃんの背後に口元を引きつらせた五条くんが立っている。

「あ、あら、いたの?五条くん・・・・
「あ?オマエがなかなか呼びに来ねえからだろ」
「………」

硝子ちゃんがわたしの方に顔を向けて思い切り舌を出すから思わず吹き出してしまった。

「おい、硝子。オマエ、今、何かしたろ」
「別にぃ~。じゃあ私はそろそろ退散しようかなー」

見事に満面の笑みを向けて五条くんの方へ振り返った硝子ちゃんは「じゃあ、お大事に。あと体は冷やさないようにね」と言ってから、五条くんにもすれ違いざま「冷たい物は飲ませないように」とお医者さんっぽい口調で言って病室を出ていく。五条くんは軽く舌打ちすると、ベッドの方へ歩いて来た。

「大丈夫か…?痛みは?」
「ちょっと鈍痛がある…でも硝子ちゃんに薬を飲ませてもらったから、そのうち効いてくると思う」
「そっか…」

五条くんはホっとしたように息を吐き出すと、椅子に座ってわたしの頬へ触れた。まだどこか心配そうだ。

「やっぱ、あっちーな…」
「平気だよ…ちょっと寒気あるくらいだし」
「でも痛くて寒気あんなら、もうそれ病気と変わんねえじゃん」
「…そ、そうかも」
「…そんなのが毎月くんだろ?大変なんだな、女子は…」

五条くんは顔を反らしながら溜息交じりでブツブツ言っている。言われてみれば男の子にはないものだから、理解はされにくいかもしれない。

「何か…欲しいもんある?」
「え…?」

ふと思い出したように五条くんが身を乗り出してきた。

「食いたいもんとか…あー…冷たいもんはダメだっつってたよな。何が欲しい?」
「え…でも…」
「いいから言えって。どうせ今日は任務ねえし買って来るから」
「任務ないけど授業あるでしょ…?」
「んなもん、パっと行って帰ってくりゃ問題ない」

五条くんは本気で買いに行ってくれるみたいだ。時計を見れば次の授業まで残り15分。コンビニなら間に合いそうだ。なら五条くんの言葉に甘えようと思った。

「えっと…じゃ…プリン…」
「プリン?そんなもん食って平気かよ。もっとあったかいもんがいいんじゃねーの?」

…つって、あったかいもんって何だよ、と五条くんが苦笑した。

「あ、じゃあ…コーンスープ…」
「コーンスープ?カップのでいいのかよ」
「うん」
「分かった。他には?」
「…ない」
「ん。じゃあプリンとコーンスープな?って、変な組み合わせだな」

そう言いながら笑うと、五条くんは一瞬腰を浮かしかけた。でもすぐに座ると、わたしの方へ身を乗り出し、ちゅっとくちびるを啄む。またしても不意打ちを喰らってギョっとしたわたしを見ると、意地悪な笑みを浮かべるんだから困ってしまう。

「ちゃんと腹あっためて寝てろよ」
「う…うん…」

最後にわたしの頭を一撫ですると、五条くんは病室を出て行った。一人になった瞬間、ホっと息を吐いたのは緊張が解けたせいだ。さっきのキスで一気に心臓が動き出したせいで余計に顔が熱い。

(でも…五条くん優しい…)

こういうこと面倒臭がりそうなのに、体調を心配してくれたりして意外…なんて言えば怒るだろうけど、でも少しだけ驚いた。

(ほんとに…わたしのこと…好き…なのかな)

そう思った瞬間、またしても心拍数がおかしなことになった。

――早く…オレのこと、好きになれよ。

この前、そう言われた時、胸がぎゅーっと苦しくなったことを思い出す。
人を好きになるって、どういうものなんだろう。五条くんみたいに常に触れていたくなるのかな。いつもそばにいる時、五条くんは手を握ったり、キスをしてきたり、どこかしら触れてくる。わたしがそう思う前に触れてくるから、ドキドキさせられて何も考えられなくなるし、まだ分かんないよ。
五条くんといると、前は楽しいとか、意地悪で腹が立つとか色々あったのに、今はひたすらドキドキしてしまう。

(また熱が上がってきたかも…)

さっきのキスを思い出して、慌てて布団をかぶる。こんな時、お母さんがいたら相談できるのに――。
そんなことを考えていたら痛み止めが効いてきたのか、お腹の痛みが和らいできた。ついでに布団の中はポカポカして眠くなってくる。

(寝ちゃダメ…五条くんが買い物に行ってくれてるのに…)

そう思えば思うほど瞼がくっついてしまう。頑張って開けてたものの。努力の甲斐なく、この数分後、わたしは夢の中へと旅立ってしまった。



△▼△



「あれ…冥さん?」

コンビニから戻ると、病室の前に冥さんが大きな花束とフルーツの盛り合わせを持って立っている姿に驚いた。

(この金の亡者が花とフルーツ持参でお見舞い?!)

と思ったのは内緒だ。

「おや、五条くん。授業じゃないのかい?」
「あー…ちょっと買い物行ってて。冥さんこそ…まさかのお見舞い?」
「何だい。私がお見舞いに来たらおかしいのかな?」
「い、いや…」

いつものテンションなのが逆に怖い。つい笑顔も引きつってしまうが、の様子も気になった。

「アイツ、ちょっと今、体調悪いんだけど冥さん来てくれたなら喜ぶ――」
と付き合い始めたって?」
「………」

ドアを開けた瞬間、背後からニヤニヤしてそうな声が聞こえて心臓がおかしな音を立てた。隠してるわけじゃないから別にいいが、普段そんな話に興味のなさそうな冥さんから聞かれると、どういう反応をしていいのか分からない。

「いや、まあ…」
「へえ。もついに決心したんだね」
「いや、決心って…」

そういや前にが冥さんに相談したとかいう話だったな、と思い出し、余計に恥ずかしさが増していく。ここはに冥さんの相手でもしてもらって、オレは教室に戻ろうと思った。でも病室に入ると、肝心のが眠っているのが見えて苦笑が漏れる。きっと薬が効いたんだろう。

「おや、眠ってるね。体調が悪いって…まだ完治してないのかい」

病室に入ってきた冥さんは、の顔を覗き込むと、ふとオレの方へ振り向いた。が意識のなかった時も冥さんは来てくれて、その時は酷く心配そうだったのを思い出す。

「ああ、いや…そっちじゃなくて…」
「そっち?どっち?」
「…いや…まあ、今日のは前のと違うと言いましょうか…」

さすがにオレの口から"アノ日"だとは言いづらい。言えばまたデリカシーがどうとか言われそうだ。

「ふーん。まあ残念だけど、顔色はいいみたいだし、また来るとしよう」

冥さんはそう言って微笑むと、手にしていた花とフルーツの入ったカゴをオレに押し付け「看病してあげてるなんて、五条くんも優しいとこあるじゃないか」と笑いながら帰って行った。何かとてつもなく弱みを握られた気分なのは何なんだろう。

「それにしても…冥さんに金を使わせるとか…って案外、人たらしか?」

手に持たされた花とフルーツを交互に見ながら、苦笑いが零れる。

「しっかし…オレにプリン買わせて寝るとか…」

買ってきたものと、冥さんから受け取ったものをソファの方へ置くと、ベッドに近づき、の寝顔を覗き込む。あまりに無邪気な顔で寝てるから笑いがこみ上げてきた。

「いつまでも見てられるな」

そっと額にかかった前髪を避けて、そこへ口付けると、最後に唇にもキスを落とす。
この時――オレはすっかり失念していた。次の授業が、夜蛾先生だということを。
しばらくの寝顔を堪能していると、廊下の方から猛獣のようなデカい声が響いて来た。

「悟ー!!いつまでの病室に入り浸ってる気だ!」
「…げ、やべ…」

時間を見れば30分は過ぎている。慌てて廊下へ飛び出すと、オレを迎えに来た夜蛾先生に思い切りゲンコツをされたのは、内緒の話だ。

「いちいち殴るなよ…」
「うるさい!一人で青春するな!恋愛なんぞ10年早いわっ」
「ふ…自分がモテないからって邪魔しにくるとか…野暮だね、センセー」
「………(ビキッ)」

だいたいさぁ、若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ。――何人なんびとたりともね。