第二十二話:本気だからこそ



2007年――2月14日。


「はい!冥さん」
「ん?何だい?これは」
「チョコです。バレンタインの。冥さん、チョコお嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないよ。でも…女の私がもらっていいのかな?」
「だって好きな人に感謝する日でもあるって聞いたから…」
「なるほど。では…有り難く頂くとしようか」

「…………」

そんなやり取りを聞きつつ、ジトっとした目でと冥さんのイチャつく光景を眺めていると、隣で苦笑する傑の声が聞こえてきた。どうせ女にまで嫉妬してるオレが楽しくて仕方ないんだろう。

「別に悟だけもらえなかったわけじゃないんだから不貞腐れなくてもいいだろ」
「あ?フツーはこういうの彼氏のオレだけにくれるもんじゃねーの?なのにはオマエを筆頭に七海や灰原、硝子、あげくに冥さんにまで…愛をばらまきすぎだっつーの」
「夜蛾先生を忘れてるよ」
「…ぐっ…何では自分の担当教師でもねえのに夜蛾センセーにまでやるんだよ…」
「感謝してるからだろ。悟もたまには人に感謝したらどうだい?」
「オレが誰に感謝すんだよ。何もされてねーわ」
「食堂のおばさんには日頃から世話になってるだろ」
「………(確かに)」

黙り込んだオレを見て、傑は笑いながら灰原達の方へ歩いて行ってしまった。
因みに今日はクソ寒い中、二年と合同で体術訓練をやっている。この時期はまだそれほど忙しくないから、全員任務が入っていない日は体術訓練に最適だ。同じ相手と一対一でやるよりは。人数の多い方が色んな事を試せるからだ。でもそこで始まったのチョコサービスのせいで、オレの情緒が激ローになっている。からチョコをもらえて素直に喜んでいた最初の時間に戻して欲しい。

「随分と機嫌が悪そうだね、五条くん」
「…冥さん」

冥さんはちょうど任務終わりで通りかかったところをに捕まっていたが、やっと解放されたらしい。
は何故か硝子や傑達のところで楽しそうにチョコを食べている。オレだけ仲間外れみたいで更にムカつく。その念が届いたのか、がふとこっちを見ると笑顔で手を振って来た。思わずそっぽを向くオレも、なかなかにガキっぽいと思う。

「ふふ…可愛いね、は」

冥さんはオレの代わりに彼女へ手を振っている。オレが知る限り、冥さんはお金以外にあまり興味を示さない方なのに、のことはそれなりに可愛がってるようで、時々自分の任務にもを同行させることがある。

――彼女はまだまだ伸びしろがあるよ。

と、前に話していた。だからこそ、一級術師に推薦したんだろう。

「案外もってるじゃないか」
「…どういう意味っすか?」
「五条くんのことだから、すぐに飽きるのかと」
「…そんな昔のこと今更持ち出さなくても…」

ガックリ項垂れると、冥さんは意味深な笑みを浮かべながら、また視線をへと戻す。彼女が後輩にここまで目をかけるのは、本当に珍しい。

「随分と気に入ったんだ、のこと」
「そうだな…私にないものを沢山持っているから見てて面白い子だと思うよ」
「へえ…まあ…」

分かる気がする、と言いそうになり、慌てて口をつぐむ。

「金払いもいいしね」
「…は?!」

ふふふ、と笑いながらオレを見る冥さんに絶句した。後輩からも金取ってんのか、アンタ!とツッコミたいのを必死にこらえながらも、一体は冥さんに何を頼んだんだと、そこが気になってきた。冥さんはそんなオレの心情をすぐに気づいた様子で、ニッコリと微笑む。

「別に五条くんが心配するようなことでもないよ。ただの相談みたいなものかな?」
「…相談って…仕事の?」
「まあ、それもある。は呪術師嫌いのわりに根は真面目で頑張り屋なところがあるからね。周りの足を引っ張りたくないとは言ってたかな」
「…アイツ…オレには何の相談もしねえくせして…」

少し寂しい気がして、ついボヤいてしまった。出来ればもっと頼って欲しいくらいなのに、はオレより冥さんにそういう話をするのか、とまた変な嫉妬心が芽生えてくる。冥さんはそんなオレを見ながら「そりゃ五条くんには言えないさ」と笑った。

「言えないって…何で」
「彼女が一番、足を引っ張りたくないと思ってる相手が五条くんだから」
「……っ?」
「まあ…その気持ちも分からなくもない。君についていける術師なんてそうそういないからね」
「オレはが足を引っ張るなんて思ってねえし」

ついムキになったオレを、冥さんは黙って見つめていた。でも不意に笑みを浮かべると、再びへ視線を戻す。

「もちろん、もそんな風に五条くんが思ってるとは思ってない。あの子の心構えみたいなものだから、五条くんが気にする類のことじゃないよ」
「……気にするなって言われても気になるんですけど」
「はは…そりゃ悪いことをしたね。まさか五条くんのへこむ姿が見られるとは思っていなかったよ」

恋は盲目、とはよく言ったもんだ、と冥さんは楽しげに言うと、「じゃあ私は失礼するよ」と微笑みながら去っていく。その後ろ姿を見てると、冥さんでも盲目になることがあるんだろうか、という素朴な疑問が沸く。

「いや…あの人は金にしか盲目にならないな、きっと…」

そんなに金を貯めて何に使ってるのかが気になるところではある。

「悟~!休憩終わり。始めるよ」

そこへ傑の声が聞こえて、オレはやっと皆の方へ歩き出した。



△▼△



『…そんな心配しなくても彼に例の話はしてないよ』
「…すみません」
『謝ることはないさ。それにまだ答えを出す時期じゃない。その為に力をつけると決めたんだろ?やれるだけやってみたらいい。もしそれでもダメだと判断したなら――その時また考えよう』
「はい…そうですね」

冥さんに言われると何故かホっとする。素直に頷いて「それじゃまた――」と言って電話を切った時、シャワーを浴びに行っていた五条くんが夏油くんと戻ってくる声がして、慌ててケータイをスカートのポケットに突っ込む。同時に部屋のドアが開いた。

「じゃーな、傑」
「ああ、お休み」
「まだ寝ねーよ」

と笑いながらドアを閉めた五条くんは、座り直したわたしを見て「お待たせー」と隣に座って頬にキスをしてきた。いきなりのスキンシップにギョっとして体を離すと、すぐに不満そうな顔をする。

「何だよ」
「な、何でもない…ちょっと驚いただけ」
「驚くなよ。ってか、、髪乾かしてねーじゃん」

五条くんはわたしの髪に触れると、呆れ顔でわたしを見た。

「オレが風呂行ってる間にドライヤー使っていいって言ったろ。風邪引くじゃん」
「う、うん、ごめん…」

五条くんはドライヤ―を持ってくると、ベッドへ腰をかけて「ほら、ここ座れ」と自分の前を示した。

「じ、自分でやるってば」
「いーから早く」
「う…」

ぐいっと腕を引っ張られ、仕方なく五条くんの前に座ると、カチっという音と共にブォォンと熱風が吹いてくる。五条くんは指で髪に空気を入れながら、丁寧に乾かしてくれている。何となく先月硝子ちゃんに連れて行ってもらった美容室を思い出した。

「気持ちいい?」
「うん。何か美容室に来てるみたい」
「そう?んじゃーこれから毎日オレが乾かしてやろーか」
「え、毎日って…」
「まあ出張とかでいない時は無理だけど、寮にいる時はオレが乾かしてやるから、もオレの乾かして」
「え、わたしが?」
「うん。ダメ?」

五条くんが後ろからひょいっと顔を覗き込んでくるから、いきなり至近距離で目が合ってしまった。

「ダ、ダメじゃないけど…わたし、人の髪は乾かしたことないよ」
「んなの適当でいいって」

五条くんはそう言いながら今度はブラシを使って軽くブローしてくれている。手先が器用だとは思ってたけど、本当の美容師さんみたいに上手だから髪がサラサラに仕上がった。

「おし、乾いた」
「ありがとう」

指先からサラサラ零れ落ちる髪に満足して、後ろを仰ぎ見ると、五条くんが身を屈めてくちびるを軽く啄んできた。いつもの不意打ちでビックリするわたしを、五条くんが満足そうに見ている。

「鳩が豆鉄砲~って言うんだよな、今のの顏」
「だ、だっていきなりするから…っ」
「ふーん?じゃあ今度からは前もって言えばいい?」
「え…」

それはそれで恥ずかしい。そう思っていると、五条くんが「交代」と言ってベッドから立ち上がった。

「今度はオレの乾かして」
「あ、うん…」

座る位置を交代して、今度は五条くんが床、わたしがベッドへ腰を掛けた。ドライヤーのスイッチを入れて熱風を当てると、五条くんの柔らかい髪に指を通す。

「こういう感じ?」
「うん、そうそう。いい感じ」

さっき五条くんがしてくれたみたいに、髪の合間にも風が当たるように指を通していくと、あっという間に乾いていく。五条くんの髪はブローしなくてもサラサラだから、手触りが絹糸みたいで気持ちいい。

「あーマジで美容室みたいだな。人にやってもらうのって気持ちいい」
「うん、そうだね。あ、はい。乾いたよ」

ドライヤーのスイッチを切って、乾ききった髪に触れると、本当に柔らかくて猫の毛みたいだと思った。随分と大きな猫だけど。

「サンキュー」

五条くんは立ち上がると、ドライヤーを元の場所へしまって、そのままわたしの隣に座った。そして何を思ったのか「ん」と両腕を広げた。

「え?」
「来いよ」
「…な、何で」
「ぎゅーっとしたいから」
「………」

何故か急に甘えたモードに入ったらしい。五条くん両腕を広げたまま「早くー」と急かしてくる。ここで逃げたら後々大変になるのだけは分かるから、恥ずかしいのを我慢して五条くんにくっつくように体を寄せた。その瞬間背中に腕が回って、言った通り、ぎゅうっと抱きしめられる。さっきから五条くんはお風呂上りのいい匂いがしてるから、いつもの倍は照れ臭い。

「さっき、何してた?」
「……え?」

不意におかしな質問をされて顔を上げると、五条くんはちょっと怪訝そうな顔をしていた。

「オレが風呂入ってる間…ドライヤーもかけずに何してたのかなと思って」
「あ…」

まさかそこを気にするとは思わなくて、今度こそドキっとした。冥さんに電話をしてたと言えば怪しまれるかな、と思ったけど、そこは正直に答えた。

「冥さんと電話してて…」
「冥さん?」
「あ、あの…ホワイトデー何がいいかって…電話がきたの」
「…マジ?」

五条くんはさすがに驚いた様子で目を丸くした。でもそこで思い出したのか、「じゃオレも聞こうかな」と笑った。

「ホワイトデー何が欲しい?」
「え…」
もやっぱチョコがいい?」

そう聞きながら、五条くんはどこか楽しそうだ。その顏を見てたら少しの罪悪感を覚えた。でも正直に話せば、きっと五条くんにいらない心配をかけてしまいそうだから。

「っていうか、って何か欲しいもんねーの」
「え?」
「ああ、食いもん以外なー?」
「む…わたしだって別にいつも食べ物ばかり欲しがるわけじゃないよ」
「いや、いっつも硝子や傑に餌付けされてんじゃん」
「…た、確かにお菓子もらってるけど…」

硝子ちゃんも夏油くんも、娯楽室で会うたび、何かしらお菓子をくれる。わたしが甘いものを好きだからだと思うけど。

「欲しいものは…特にない…かな」
「マジで?くらいの歳だと色々あんだろ」
「うーん……ない」
「物欲ねーな、は。給料も殆ど使ってねーだろ」
「まあ…使うことないし」

高専の寮に住んでると、本当にお金を使うことがない。時々皆で渋谷に行ったりすると、全部五条くんが払ってくれちゃうから、お金を使う暇がなかったりする。

「あ、さては冥さんに貢ぐために貯金してんじゃねーだろうな」
「えっ?」

いきなり冥さんの名前を出されてドキっとした。五条くんは何となく不服そうな顔でわたしを見ている。冥さんは彼に何を話したんだろう。さっきそれも聞いておけば良かった。そう思っていたら、五条くんの方から、その話を振ってきた。

「オマエ、冥さんに相談してんだって?」
「…え、そ、そう…言ってた?冥さん」
「ああ。オマエが周りの足を引っ張りたくないと言ってたって…」
「え、あ…それは…」
「ってか、オマエさぁ、何でそういうこともオレに相談しねーの?」
「え?」
「言えよ、些細なことでもいいから。まあ…女にしか言えないようなことは仕方ねえけど…」
「う、うん…ごめん。ただちょっと…冥さんに戦闘術のこととか教わりたくて…」
「それオレでもいいじゃん」
「…だって五条くん忙しいし、わたしの下らない相談に乗ってもらうのは――」

と言いかけた瞬間、視界がぐるりと動いて、気づけば五条くんを見上げる形になっていた。ビックリしたのと同時に、ベッドに押し倒されたんだと気づいて、心臓が大きく跳ねあがった気がした。

「ご…五条くん…?」
「下らなくねえから」
「え…?」
が真剣に悩んでるなら、ちゃんと聞く。だから、言えよ。そういうことも」

真剣な顔でわたしを見つめる五条くんは、本気でそう言ってくれてる。その気持ちが嬉しくて、目の奥がじわりと熱くなった。

「うん…ごめんね」
「謝るのなし」
「あ…そっか…こういう時はありがとうだ。ありがとう…五条くん」

五条くんはわたしの言葉を聞いて、やっと笑顔を見せてくれた。五条くんは思ってることをきちんと言葉にして伝えてくれる。それが凄く嬉しいと思うのに、わたしは半分も五条くんに本心を伝えられていない。
そういう意味ではすでにわたしは――彼女失格だ。
そもそも、五条くんは色んなものをわたしに与えてくれるのに、わたしは何か、五条くんに与えられてるんだろうか。
その時、ギシ…とベッドの軋む音がして、ハッと視線をあげた瞬間、くちびるを塞がれてビクリと肩が跳ねた。

「…ん…」

ちゅっと甘い音を奏でながら、何度も触れ合う。いつもと体勢が違うせいか、やけに心臓がドキドキしてしまう。触れるキスを繰り返され、少しずつ交わうようにくちびるを軽く吸われてビックリする。いつもより少し刺激の強いキスをされ、知らず知らずのうちに、五条くんの腕をぎゅっと掴んでいた。

「…ん…っ…」

そのうち、深く塞がれたくちびるに柔らかいものが掠めて、薄く開いた場所からぬるりとしたものが侵入してきた。それが五条くんの舌だと気づいた時、驚いたのと同時に熱が顔に集中していく。

「んん…っふ」

逃げ惑う舌を絡み取られて肩が跳ねる。こんな大人のキスは初めてで、心臓がさっき以上に早鐘を打ち出した。そしてやっぱり呼吸が出来ずに息苦しい。

「……」

僅かにくちびるを放して、五条くんが「鼻で息しろって」と苦笑している。でもそんな余裕がないほど、頭の中が真っ白だった。

「ごめん。嫌だった…?」
「……っ」

その質問に首を振ると、五条くんはホっとしたように微笑んだ。死ぬほど恥ずかしいけど、嫌なわけじゃない。ただ何もかも初めての経験で、思考がついていかないだけだ。僅かに視線を上げると、五条くんの熱の孕んだ瞳と目が合う。いつもの意地悪な表情はなりを潜めて、どこか男の人の顔をしてる。それがやけにドキドキしてしまうのは、本能的に五条くんの中にある男の欲を感じたからかもしれない。

「あ、あの…」
は…まだオレのこと好きじゃねえの?」
「……っ」

ドキっとして言葉に詰まるわたしを、五条くんはジっと見つめてくる。曖昧なまま付き合ってきたけど、そろそろ限界だとでも言うように、五条くんはわたしの頬に触れた。

「オレはオマエのこと、めちゃくちゃ好きになってんだけど」
「…五条くん…」
は…?」

答えを促すように、五条くんは軽く頬を撫でて、指先をくちびるへ滑らせた。そっと輪郭をなぞるように撫でられると、ゾクリとしたものを感じる。さっきのキスで湿ったくちびるは、五条くんの指を簡単に滑らせていく。

「ん…く、くすぐったい…」

身を捩りながら顔を背けようとした時、強引に顔を戻され、くちびるを塞がれた。最初から舌を入れられ、口内を舌先でなぞられると、今度は首の辺りにゾクゾクとしたものが走る。恥ずかしさと同時に、少し怖くなって五条くんの胸を手で突っぱねようとした。でも力では敵わない。身動きが取れずに、されるがまま五条くんのキスを受け止めてた。でもやっぱり苦しくて彼の胸を軽く叩く。目尻に涙が浮かんだ時、やっとくちびるが解放された。

「ごめん…」

浅く早く呼吸を繰り返すわたしを見て、五条くんはハッとした様子でわたしの頭を撫でた。

「怖かった…?」
「す…少し…でも…平気…」
「悪い…ちょっと…危なかった」

そう言って五条くんは上から避けると、わたしの両手を引っ張って起こしてくれた。そのままギュっと抱きしめて、もう一度「ごめんな」と呟く。わたしは首を振るだけで精一杯で、どう応えていいのかすら分からなかった。初めて男の人のそういう欲求をぶつけられそうになって、戸惑っていたのもある。

(でも…ちゃんと止めてくれた…)

きっと無理やりどうこうしようと思えば出来たはずなのに、五条くんはそうしなかった。きちんと約束を守ろうとしてくれる五条くんを見て、それが凄く――わたしは嬉しかったんだと思う。
だからこそ、これ以上、五条くんのそばにいたらダメなんじゃないかと、そう思ってしまった。