第二十三話:春から夏へ


ふと視線を向けた先にふわりと花びらが舞い落ちて来た。春の訪れを満開で知らせてくれる桜は、いつ見ても美しい。けれど、去年までは心を癒してくれていたはずの花も、今の私には色褪せて見える。
あれからもうすぐ一年。目に映る高専の風景は何も変わらないのに、私の心だけが置いてきぼりのままだ。

「あ~。ダメだって。走る前に着替えろ、それ」
「え、どうして?」
「今日は風が強いからスカートだと捲れる可能性がある」
「えー…面倒だよ…」
「ならオレが着替えさせてやろうか?」
「う…」

私の横ではそんな会話が繰り広げられていて、ふと我に返った。また悟が無茶を言ってを困らせているようだ。この二人を見ていると、どうしても一年前のことを思い出してしまう。
沖縄で過ごした、あの日のことを。
悟もたまには思い出したりするんだろうか、と思いながら、彼女と戯れる親友を眺める。私と出会った頃の悟は、あんな風に一人の女の子に対して夢中になるような男には見えなかった。変われば変わるものだと思いながら、どこか微笑ましく思う。あんなことがあっても、悟が強くいられるのは、大切な存在が出来たせいかもしれない。

「これでいいですか、五条先輩」
「いや、何で急に敬語?昔は散々言ってもため口で五条くんだったクセに…。ってか、他人行儀な空気、出すのやめて?寂しくなるから」
「五条先輩、今日使う呪具はこれでいいですか」
「おう…って七海までそれやめろ!」
「あ、五条先輩、今日もオットコ前ですね~!」
「だろ?って灰原もかよっ」
「五条センパ―イ。何週走ればいいですかー?」
「おい!それ流行らせる気だろ、オマエ!」

校庭を走りだしたを追いかけ、後ろから抱き着く悟と、「やめて!」と恥ずかしそうに叫んでいるを、七海と灰原が苦笑交じりで眺めている。二年との合同でやる授業は、いつもこんな風に賑やかだ。
そこだけ、まるで切り取ったように何も変わらない光景――。

(変わったのは…私、なのか…?)

去年とは何もかも違うような、そんな気持ちの揺れに気づいた時、心臓が嫌な音を立てた。

「夏油さん!お手合わせお願いできますか!」
「…っ…ああ、いいよ」

そこに灰原が明るく声をかけてきて、すぐにいつも通りの自分を見せる。

やめろ。考えるな――。

もう一人の自分の声が頭の中で叫んでいる。そうだ、考えるな。今ならまだ、引き返せる。

「夏油さん、大丈夫ですか?顔色すぐれませんけど」
「平気だよ」

心配そうに私の顔を伺う灰原に笑顔で応えて、適当な呪具を取る。心を蝕もうとする仄暗い感情に見てみぬふりをして、後輩に微笑んだ。

「さあ、始めようか」




△▼△



何となく、そう何となくとしか言えない程度のことだけれど、妙な胸騒ぎがあった。呪術界で言う繁忙期。ウジのように呪霊が沸く今時期は、目も回るほどの忙しさで、全国各地に術師が散らばっていた。でも時々、高専に戻ってくると、誰かしらと顔を合わせることもある。この日は職員室の前で夏油くんとバッタリ会った。

「久しぶりだね。も任務の報告かい?」
「うん。夏油くんも?」
「ああ。私はもう済ませたから部屋に戻るところ」
「そっか。あ、じゃあ…わたしも報告してくるね」

そう告げて職員室のドアをノックしながらも、ふと気になり、夏油の方へ視線を戻した。夏油くんは部屋へ戻る為、廊下を速足で戻っていく。その後ろ姿を見つめながら、わたしは何となく違和感を覚えた。

(何だろう…また…夏油くんの様子がおかしかった)

それは今に始まったものじゃなく。一年前のあの事件から続いている違和感。全く何も感じない時もあれば、ちょっとおかしいかな?と思うこともある。その程度のものだけど、それはきっと理子ちゃんを助けられなかった後悔からきてると思って何も言わなかった。
でもあれから一年が過ぎたのに、夏油くんは未だに少し不安定なことがある。

(大丈夫…かな…)

何となく足元から這い上がってくる不安。笑顔だったのに、夏油くんの暗い表情が気になった。
夏油くんは呪術師の中でも皆より優しすぎるところがある。五条くんと一緒にクズなんて言われることもあるけど、実際は根が凄く真面目な人だ。きっと五条くんよりは、理子ちゃんのことを引きずっているはず。わたしや五条くんとは違う。目の前で彼女が殺されるのを見たんだから当然だ。
報告書を提出すると、わたしはすぐに寮へと足を向けた。部屋に戻ると言っていた夏油くんのところへ行くためだ。

この違和感に気づいているのはわたしだけかもしれない。夏油くん心の傷に触れることになるから、誰にも話したことはなかった。五条くんも硝子ちゃんも、きっと気づいていない。夏油くんは皆の前じゃそういう顔を見せないからだ。なら何故、わたしが気づいたのか。自分でも分からないけど、きっと自分と似たようなものを抱えているように見えたからかもしれない。

わたしは母を呪霊に殺され、この世界が嫌いになった。夏油くんが抱えてるものとは違うかもしれないけど、でも夏油くんが何かに憤りを感じているのは分かる。

(本当にそうだとしても、わたしに何が出来るわけでもないけど…)

何となく放っておけなかった。夏油くんは気づかれたくないのかもしれない。だから今日まで何も気づかないふりをしてきた。でも、やっぱり心配だった。
なのに――夏油くんの部屋の前に立って、ふと迷いが生じた。夏油くんの問題に、わたしが深く関わっていいものなのか。
出来れば、あまり関わらない方がいいのだ。この世界にいるべきか、出ていくべきか、未だに迷っているわたしは特に。

(帰ろう…)

声をかけることもなく、わたしは夏油くんの部屋を後にした。
後に、この時の判断を後悔することになる――。

(もう…夏になるんだ…)

強い日差しに目を細めながら、青々とした木々を見上げた。この高専に来てから、もう一年以上になる。あんなに呪術師になるのは嫌だったのに、結局、続けているんだから笑ってしまう。そして相変わらず、迷っているのだから成長しないな、と自分に苦笑が漏れた。

前のわたしならきっと何も迷わなかった。理由があるとするなら、それはやっぱり五条くんの存在だと思う。最初は強引さに負けて、受け入れる形で付き合いだした感じだった。でも実際は、五条くんの気持ちが嬉しかったからだ。そして、わたし自身、付き合いだしたら意外にも楽しくて、知らなかった世界にいつも驚かされて、それは今もあまり変わらないけれど、大事にしてくれる五条くんに少しずつ心を開き始めてる自分がいた。
何をする時でもまず、五条くんのことが浮かぶ。これをしたら怒られるかな、とか、心配かけるかな、とか。それまでにはない心の動きをするようになった。誰かと付き合うのはこんな感じなのかと、自分の心の変化が新鮮だった。一年前、五条くんを失ったと思った時、あんなに自分が取り乱すとは思わなくて。生きてると知った時は大泣きするくらい、嬉しかった。
そんな風に日々の積み重ねで、わたしはいつか五条くんのことを好きになる。そう思い始めた時、あの原宿での任務があった。
わたしが人質にとられたくらいで、まさかあの五条くんが躊躇するなんて思わなくて。五条くんならきっと呪霊を祓うことを優先する。そう、思っていたのかもしれない。星漿体事件のあと、五条くんは自他ともに認める"最強"になり、自分がそんな彼の弱点になるなんて思いもしなかったのだ。
だから――また迷い始めた。わたしは何か間違いを犯したんじゃないかと。危険な目に合って欲しくはないのに、自分が彼を危険にさらす存在になるなんて、こんなに怖いことはない。なのに、迷いながらも未だに五条くんのそばにいる。それはきっと――。

!」

その声に弾かれたように振り返れば、鳥居の向こうで手を振っている五条くんが見えた。自然に笑顔が浮かんで、わたしも手を振り返す。

 ――ああ、今日も無事に帰って来てくれた。

ホっと胸を撫でおろす瞬間だ。
わたしは多分、とっくに彼のことを好きになっている。でもそれを五条くんに伝えないことで、気持ちをセーブしていた。
わたしが今以上に力をつけて、自分に自信が持てた時、無事に高専を卒業することが出来た時。そして、その時に、呪術師を続けて行く覚悟が出来た時――。
わたしは初めて、五条くんにこの気持ちを伝えることができるんだと思う。