第二十四話:秘密の約束



初夏に入る少し前。あの場所・・・・を見かけた。一年前のその日、五条が死にかけ、自身も死にかけたあの場所だ。
――何をしてるんだろう?
はその場に立って、ジっと地面を見つめていた。まるで何かを見ている・・・・ようだった。でもそこには何もいない。少なくとも、私には何も見えなかった。
はどこか様子がおかしかった。だから心配になって声をかけようとした時、はその場にしゃがんで、何故か石畳をそっと撫でたのだ。一年前、五条と伏黒甚爾の戦闘で破壊された場所も、すっかり元通りになっているし、が手で触れた場所にはやっぱり何も、誰もいない。なのに、はその場所を見つめ、手で触れ、そして泣きそうな顔をしてた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。声をかけなかったから、私は見ていない。でも少し、ほんの少し、肩が震えていた気がして。だから――声はかけられなかった。

「…ハァ?の様子がおかしい?」

パックのイチゴ牛乳――子供か――のストローから口を放すと、五条は怪訝そうに眉をひそめた。

「今朝、任務前に会った時はいつも通りだったけどー?」

そう言って苦笑いを浮かべた五条は、再びストローを咥えてイチゴ牛乳を堪能し始めた。夕飯前なのに、よくそんな甘ったるいもんをガブガブ飲めるな、コイツ。

「だから昨日今日の話じゃなくて…あの日だったからさ…」
「アノ日~?痛み止めでも持ってきてやろうか?」
「そっちじゃないっつーの!ってか相変わらずデリカシーないな、五条はっ」

頭に来て背中を殴ったはずが、五条の術式で触れられない。マジ、無限オートにするのやめろ。こっちのフラストレーションがどんどんたまるわ。

「っぶねーな、硝子は。イチゴ牛乳飲んでる時に暴力を振るうな。鼻から出たらどーすんだ」
「当たってないんだから出るわけないだろ」

コイツに話したのが間違いだったか?でも一応、の彼氏というポジションだし、と思って話してやったのに。だいたい五条に女の子の微妙な感傷など分かるわけないか。だって五条だし、クズだし。

「オマエ…今、とんでもなくシツレーなこと考えてるだろ」
「別に~。五条にはもったいないわーなんて思ってないよ」
「テメェ…」

五条は口元を盛大に引きつらせながら、ウゼェだの何だのとブツブツ言いながら、食堂へ入って行く。あの感じだと本当にの小さな異変には気づいてないんだろう。アイツの六眼は彼女に対して節穴すぎる。
一年前のあの日、五条にも、夏油にも、そしてにも。それぞれ違いはあれど、大きな変化があった。五条と夏油はどうか知らないが、は元々心が不安定なところのある子だから、ちょっと心配になってしまう。

(そういうとこ五条に見てて欲しいのに…ったく)

すでに食堂で夕飯を食べだした五条を睨みつつ、私も今夜のメニューから定食を選んでテーブルにつく。今は忙しい時期だからか、食堂もがらんとしていた。一人で食べるのも何となく侘しいので、仕方なく五条の向かいの席に座ると、鬱陶しいと言いたげな視線がサングラス越しからも伝わってくる。

「別にいいでしょ?一人で食事するのが嫌なだけ」
「何も言ってねーだろ」
「言いたそうな顔してんでしょーが」
「………」
「………」

しばし無言のまま、お互い食べることに集中する。

「ねえ」
「あ?」
は今日、どこまで行ってるの」
「あー…今日は千葉の方っつってたな…」
「え、一人?」
「いや、冥さんと」
「ふーん…最近、って冥さんと仲いいよね」
「まあ…懐いてっからな」

五条はちょっとだけ不機嫌そうな顔で呟いた。どうせ冥さんにまで嫉妬してるんだろう。ヤキモチ妬きめ。

「そう言えば…夏油は?昨日から見てないんだけど」
「ああ…傑は広島まで出張。明日戻ってくる」
「そっかー。まあ、呪霊の発生率はやっぱ大都市に集中するもんね。七海達も都内で泊まり込みって言ってたし」
「まあな…オレも明日はまた飛行機乗って北海道だし」
「え、じゃあお土産買ってきてよ」
「ハァ?何でオレが硝子にんなもん買って来なきゃなんねーわけ」
「どうせに買ってくるんでしょ?ついでじゃない。金払うし」
「はっ、やなこった」
「……飛行機…」
「あ?」
「………五条の席だけ吹っ飛べばいいのに」
「そんな器用な事故あるかよ」

五条は笑いながら言うと「ごっそーさん」と言って席を立つ。相変わらず早食いだな、コイツ。

「ああ、硝子」

皿を下げて、歩いて行こうとした五条が足を止めて振り返る。「何よ」と顔を上げれば、五条はどこか言いにくそうな様子で頭を掻いていた。いつもは余計なことばかりペラペラ話すクセに、どうしたんだと思っていると、五条は「さっきの話だけど…」とひとこと呟く。

「さっき?」
「…だから…の様子が変ってやつ」
「ああ…そのこと」

やっと興味を持ったかと呆れながら溜息を吐くと、五条はムっとしたように口を尖らせた。

「何が変なんだよ」
「…だから…去年アンタがボロ雑巾になってた場所あるでしょ」
「テメェ、ケンカ売ってんのか」

口元をひくりと引きつらせながら、五条が文句を言ってくる。だけど私は何一つ間違ったことは言ってない。まあ、アレは五条も消し去りたい記憶だろう――。

「………」
「硝子…?」

今、私の頭の中で何かが弾けた気がした。そうか、そういうことだったんだ。

「おい、どうしたんだよ」

私が急に黙ったせいで、五条がこっちへ戻って来た。

「記憶だよ」
「あ?」
の記憶…!戻ったかもしれない…去年の、あの日の記憶が」
「………っ?」
「何で…気づかなかったんだろ…」
「おい…どういうことだよ?ちゃんと説明しろっ」

イライラしたように急かすから、私は一カ月前に見た、あの光景を五条に詳しく説明した。

「――最初は五条がそこに倒れてたのかと思ったんだけどさ。微妙にズレてたんだよ。きっとあれは…あそこには…星漿体の子が倒れてたんじゃないかと思うんだけど」
「…マジか…」

私の話に、五条は深い溜息を吐いた。多分五条は出来ることならにあの日のことを思い出して欲しくはなかったんだと思う。一年経っているとはいえ、記憶を思い出したばかりなら、きっとそれは昨日のことのように鮮明なはずだから。

「でも…はそんな素振りなかったけどな…何でアイツ言わねえんだよ」
「今更だと思ったんじゃない…?もう一年も経ってるし…そもそも伏黒甚爾も死んでるわけだからさ」
「そうだけど…でも戻ったよ、くらいは言ってくれてもよくねえ?」
なりに…心配かけたくなかったんだと思うよ。現に今の私とアンタは動揺してるわけだし。まあ、それはのことが心配だからだけど…きっとも同じ気持ちなんだよ」

五条は納得したのか、してないのかは分からないけど、それ以上何も言わず部屋に戻って行った。きっとが帰ってくるのを起きて待つつもりだろう。余計なこと言わなきゃいいけど、と思いながら、私もサッサと食事を済ませて食堂を後にする。が話したくないなら、私達は知らないふりをしていればいい。ただ理由がハッキリして、私の気持ちも少しはスッキリした。

「なーんか静かだな…」

夜の校舎は更に人気がなく、どこか寂しい空気に包まれている。私はこの時期が嫌いだった。国内に散らばった術師たちの誰かしらが重症で戻って来たり、ご遺体で戻って来たりする数が圧倒的に増えるから。
私の反転術式も全能じゃない。治せない致命的な傷もある。そのせいで術師を引退する者もいれば、心を病んで入院する者もいる。医療の現場にいると、それを目の当たりにしなくちゃいけないから、こっちまで心が削られるケースもあった。
それでも、私は仲間の為にもっと自分の力を高めたいという気持ちだけで今、ここにいる。

「どうか何事もなく、みんな無事で帰って来い…」

外に出て夜空を見上げると、一際輝く大きな流れ星が、山の向こうへ消えて行った。



△▼△



すっかり空が黒く塗りつぶされ、小さな星たちが輝き始めていた。同じ関東なのに、千葉は意外と移動時間がかかる。

「お腹空いたぁ…」

車内に情けない音が響いて思わずお腹を押さえると、助手席から「女の子がお腹を鳴らすなんて」と呆れたような声が聞こえてくる。冥さんの専属の荷物持ちだという凛々りんりんだ。見た目は小学生なのにいうことは大人のソレで、ちょっと可愛くない。いや、顏は可愛いんだけど。

「すみませんねー。お昼から何も食べてないもので」
「そりゃ悪かったね。少し休憩を入れたら良かったかな」

凛々に言い返しているわたしの隣で、冥さんがくすりと笑う。それには慌てて「だ、大丈夫です!」と笑顔を見せた。冥さんの貴重な時間をわたしごときの食事に使ったら、いくら取られるか分からない。(!)

「ところで…最近はどうかな?少しは気持ちも落ち着いた?」
「…っ…はい」

急にその話を振られて、わたしは一瞬言葉につまったものの、小さく頷く。冥さんには先月の任務で一緒になった時、気持ちの不安定さを見抜かれてしまったから正直に話してある。

――星漿体になるはずだった人物はすでに亡くなってる。

冥さんにそう説明された時、わたしの頭に浮かんだ記憶は、夢じゃなかったんだと確信した。わたしは見ていたのに、そのことを忘れたままだったなんて。
だけど、高専の皆には心配かけてしまいそうで言えなかった。また腫物を扱うみたいにされるのも嫌だった。だから、時々こうして冥さんに聞いてもらう。冥さんは五条くん達みたいに、過度な心配をする人じゃないから、こっちも気にせず心の内を話せるところがある。聞いてもらえたら、わたしも多少スッキリするから助かっていた。凛々には「冥様に愚痴を聞かせるなど、100億光年早いわっ」と嫌味は言われるけど。

「まあ…いつでも逃げたくなったら私のところにおいで。これは肌身離さず預かってるから」

冥さんがそう言うと、何故か助手席の凛々がポケットからそれを出し、ひらひらと振ってみせる。アレを用意してもらうのに一千万払った。でもあれは限界を超えた時の逃げ場所を作っておくためのもの。今のわたしには必要ない。いや、必要になることがなければいいと願っている。
これ以上、大切な人が目の前から消えるのは耐えられないから。

「冥さんは…どうして色々と助けてくれるんですか…?」
「ん?何だい、急に」
「いえ…だって…わたしの我がままなのに…」

わたしの言葉に、冥さんはちょっと小首をかしげると、ふふっと笑みを漏らした。やっぱり金払いがいいとカモにされてるんだろうか。

「私はね。の術師としての能力をかっている。だから出来れば高専にいて欲しい。でも…の心を踏みつけてまで呪術師を続けて欲しいとは思っていない」
「冥さん…」
「続けたいなら続ければいい。やめたいならやめていい。の選んだ道なら、私はいつでも応援するよ」

冥さんはそう言いながら、柔らかい笑みを浮かべた。わたしは冥さんのこういうところが好きだ。わたしの考えを尊重してくれるから、やっぱり大人だなと思うしホっとする。感激して思わず手を握り締めた。

「……冥さん、あり――」
「冥様!私以外の人間に優しくしないで下さいっ」
「………」

冥さんファーストの凛々がつかさず助手席から後部座席に身を乗り出してくるから、つい顏が引きつった。冥さんはどうやって、こんな小さな女の子まで手なづけてるんだろうか。だいたい凛々が任務でくっついてくる時はこんな感じになるから地味に大変だ。冥さんもそんな彼女を見て「愛い奴」とまんざらでもない様子なのが、この二人のデフォルトだと、最近気づいた。

「こんなちんちくりんより私の方が可愛いでしょう?」
 「…ち、…ちんちくりんって…」
「まあ、凛々ったら。女の子にそんな言葉を使ってはいけないよ」
「私は冥様以外の女性になんか興味ないです」
「凛々…本当に愛い奴…」
「………」

二人のお約束の子弟愛を見せつけられて少しばかりウンザリしてきた頃、補助監督さんの運転する車が高専に到着した。同時にケータイが鳴って確認したら、かけてきた相手は五条くんだった。すぐに出ると『まだー?』と少しスネたような声が聞こえてくる。

「今ちょうど高専についたとこ」
『マジで?じゃあ迎えに行くわ』
「え、いいよ――」

と言った瞬間、すでに電話は切れていた。呆気にとられていると、冥さんが隣で肩を揺らして笑っている。どうやら五条くんの声がしっかり聞こえてたらしい。

「相変わらず、仲良くやってるようだね、五条くんとは」
「え、あ、あの…まあ…はい」
「それなら良かった。まあ、前に弱点がどうとか心配してたけど、そんなの一緒の任務に行かなければいいだけの話だよ。それに彼も自分で気づいてると思うしね」
「…はあ。そう、ですよね…」
「ま、そんなに気にするな。後はが強くなればいいんだから。――じゃあ、またね、
「はい、お疲れ様です」

わたしだけ車を下りると、凛々は早速冥さんの隣に移動し、最後はわたしに「べ」と舌を出して――憎たらしい――帰って行った。今日は疲れたから真っすぐホテルへ直行のようだ。

「ハァ…わたしも疲れたしお腹空いた…」

門をくぐって長い道のりをトボトボ歩いて行くと、正面から「!」と五条くんが走ってくる。その姿を見たらホっとして、疲れてるのに自然と笑顔になった。

「お帰り!」
「ただいま、五条く――ひゃっ」

わたしの前に走って来るなり、ぎゅうっと抱き着いてくるからビックリした。出張先から帰って来た時はよくされるけど、今日は普通に朝も会ったのに。

「五条くん、どうかした?」
「…いや。ただ抱きしめたくなっただけ」

そう言いながら、五条くんは身を屈めると、頬に軽くキスをしてくる。朝から今まで長い一日だったけど、最後にこうして出迎えてもらえるのは幸せかもしれない。疲れも和らぐ気がする。
その時、またしてもわたしのお腹がぐうっと音を立てて、五条くんに「だっせ」と笑われてしまった。

「だ、だってお昼抜きだったんだもん…」
「…げ、マジで?じゃあ、すぐ食堂で何か食えよ。オッパイ痩せる前に」
「な、何それ、セクハラっ」
「いや、オレはオマエの彼氏だろ」

真っ赤になって文句を言うと、飽きれたように五条くんは笑っている。でも彼氏とはいえ、体のことを言われるのは恥ずかしい。最近また少し育った気がしてるから、むしろ痩せて欲しいのに。

「何だよ、オッパイがどうかした?」
「な、何でもない!」

ジっと胸元を見てたせいか、五条くんがニヤニヤしながらわたしの顔を覗き込んでくる。何で男の子はこういう時、めざといんだろうか。

「ほら、行くぞ」

ジトっとした目で見てるわたしに笑いながら、五条くんは手を繋いで歩きだす。前に比べたら自然と手を繋げるようになったかもしれない。こうして誰かに手を引いてもらえるのが安心するなんて、わたしはどこまで行っても子供のようだ。

「硝子ちゃんは?」
「あ?硝子?アイツならさっき食堂で一緒になったわ」
「そっか…何か…話した?」
「……いや。いつもの暴言吐かれただけ。何で?」
「ううん。ただ最近時間なくて話してないから…元気かなと思って」
「硝子はいつも元気だろ」
「そっか…。ならいいけど…」

そっと五条くんを見上げると、特別変わったところはない。少しホっとして手を握り返した。
あの日、一年前の事件があったあの場所にいたら、硝子ちゃんを見かけた気がした。色んなことを思い出して、再びあの場所に立っていたわたしを、もしかしたら彼女は見かけたんじゃないか、と思った。それ以来、わたしの様子を伺ってるような時があるから、泣いてる姿を見られたのもしれないと。五条くんに言われたら、また心配かけてしまうんじゃないかと、明るく振る舞ってきたけど、何も話してないなら良かった、と安堵した。こんな弱い心を皆には知られたくない。

「なあ、繁忙期が終わったらさ。ちょっと遅めの夏休みでも取らねえ?」
「え…?夏休み…?」
「そう。まあ、つっても九月過ぎるだろうけどさ。一緒に泊まりでどっか行きたいなと思って」

五条くんが突然そんなことを言いだしてビックリした。しかも泊りなんて心臓に悪い。

「あ、いや…別に変な意味じゃなく。部屋も別々でいいから」
「う、うん……」

五条くんの焦った様子を見て余計に照れ臭くなったけど、でもそれなら行ってみたいとも思う。東京はあちこち連れて行ってもらったけど、他のところはまだ任務でしか行ったことがない。知らない街をのんびり探索するのも楽しそうだ。

「ダメ?」

わたしの顔を覗き込みながら、五条くんが訊いてきた。校舎までの道のりは暗いのに、彼の瞳だけが明るく輝いている。それはまるで、わたしを照らしてくれる光みたいだ。

「ダメじゃない…」

そう応えたら、やっぱり五条くんは嬉しそうな笑顔を浮かべて、わたしのくちびるに優しいキスを一つ。
その時、五条くんの後ろで小さな流れ星が、綺麗な弧を描いて落ちていくのが見えた。

「今日も一日、お疲れ様」