第二十五話:ひぐらしの鳴く頃



夏も終わりに近づいて来たある日、一年の灰原が任務先で殉職した。最初は二級呪霊の討伐任務。でもふたを開けてみれば一級案件だったらしい。最初の情報が途中で変わるなんてことは、この世界ではよくあることだ。呪霊の出現に規則性はない。そんなものは分かってる。
けれど――理解しているからといって、納得できるかは別問題だ。

…大丈夫か…?」

剖検室に寝かされた灰原の遺体の前から、全く動こうとしない後輩の肩をそっと抱き寄せると、彼女は小さく頷いた。でもそれは私の言葉に反射的に反応したに過ぎない。人一倍、身近な人間を失うことを恐れていただから、きっと想像以上にキツいはずだ。こんな時、を励ましてやれる言葉が思いつかない。ありきたりな言葉は何の救いにもならない。
七海もケガをし、治療は終えたものの、今は自室に引きこもっている。七海も相棒を失ったのだから精神的なダメージが大きいはずだ。もう一人の同級生の心のケアをしてやる心の余裕はないだろう。そして、こういう時にそばにいて欲しいであろうの恋人は、その灰原を殺した呪霊を祓いに行っていて不在。血の気の失せた顔で立ち尽くすを前に、私もどうしていいのか分からなかった。
そこでふと夏油の顏が浮かんだものの、アイツも今回はさすがにこたえたんだろう。灰原の遺体を確認した後、高専から姿を消した。灰原に懐かれ、可愛がっていたからこそ、夏油も相当にキツいはずだ。を励ませる状態じゃないかもしれない。

(こんな時…どうしたらいいんだろうな。先輩失格だ…)

「もう少しだけ…待ってあげて下さい」

担当術師にこんなことくらいしか言えない。なのには顔を上げると「…わたし、邪魔ですよね」と、ふと呟いた。

「気にしないでいいよ。まだ時間はある。ゆっくりお別れしな」
「……うん、でも…。十分、時間はもらったから…大丈夫」

は抑揚のない声で独り言のように言いながら、静かに剖検室を出ていく。その後ろ姿を見ていたら、急に不安になった。何ともいえない違和感を覚えたからだ。

(大丈夫…のはずがない…。あんなに仲良くしてた仲間が傷ついて、亡くなったのに…)

嫌な予感がしてすぐに後を追いかけると、が校舎ではなく、寮に向かって歩いて行くのが見えた。

…!」

名前を呼びながら走って行くと、はハッとしたように足を止めて振り向く。その顏に涙はない。
違和感の正体――。
灰原が遺体で戻ってきてから、は一度も涙を見せていない。

「硝子ちゃん…どうしたの…?」
「どこ…行くの…?」

少し乱れた息を整え、の腕をつかむ。何故か、目の前から消えてしまいそうな焦燥に駆られた。は分かりやすいくらい、何でも思ってることが顔に出る子だ。なのに今は、作り物の仮面のように表情がない。

「どこって…寮に行くの。七海くんの様子を見てこようと思って…」

七海のところへ行く、と聞いて少しホっとしたのもつかの間、の様子はやっぱりどこかおかしい。声に感情がないような、淡々とした物言いは、らしくない。

「アンタ…ほんとに大丈夫…?」

と灰原は仲が良かった。まるで同い年の兄妹のように、いつも二人で下らない悪戯をしては、長男のような七海に叱られる。二人もを可愛がって大事にしていた。

「…わたしだけがツラいわけじゃないから」

ぽつりとが呟いた。
それは、そうだ。わたしだってツラい。これから灰原の遺体の傷を綺麗にしてあげて、ご家族のもとへ返してあげなければいけない。医者の道を目指す私も助手として立ち会うことになっている。あんなに明るかった灰原の遺体を、あんな無残な姿になった後輩を目の当たりしなくてはいけない。ツラくないわけがない。だけど、それでもが我慢することはないし、ツラいならツラいと言って欲しかった。
この呪術界に灰原やのような"陽"の人間は珍しい。どちらかと言えば"陰"の人間が多いからだ。私も明るい後輩たちに救われていた部分があるし、あまり明るいとは言えない七海も同じだっただろう。その片割れを失い、が泣かないのは異常事態だ。ショックで感情がマヒしているのかもしれない。

「硝子ちゃんは仕事に戻って。灰原くんを綺麗にしてあげて」
「………うん。そうだね」
「じゃあ…わたし、行くね」

はそう言って再び歩き出した。

(今は…同級生同士でいさせた方がいいのかな…その方がも本音を吐き出せるかもしれないし…)

の後ろ姿を見送りながら、小さな溜息を一つ吐き、わたしはそのまま校舎へと引き返した。




△▼△



――土地神なんて…!私達には無理だ…!灰原!一旦引くぞ…!
――でもあそこに人が…!
――灰原!!

脳内で自分の声が木霊するように響く。頭の中で何度繰り返し、あの場面に戻ったところで、そこから先はない。結果は同じだ。
もっと早い段階で避難命令を出せていれば、もっと早く退いていれば――灰原が犠牲になることはなかった。

「…クソッ」

拳を膝へ振り下ろし、真っ赤になるまで握りしめる。体の傷は治してもらったけれど、中にある見えない傷まで元通りになることはなく。今もダラダラと血を流し続けていた。

――何、大した任務じゃない。二級呪霊の盗伐だから、オマエ達二人で十分だ。

今回の出張を言い渡された時、も行きたがったが、担当教師はそう言って笑った。なのに行ってみれば、二級どころか一級案件。まだ私達の力では討伐など無理な話だ。

――任務は悟が引き継いだ。

最初からあの人が行っていれば。
或いはが同行してくれていたら――。
どうしても思わずにはいられない。
だが一番、腹立たしいのは、どうにも出来なかった、灰原を救うことが出来なかった、自分自身――。
ぐっと拳に力が入り、また体のどこかから血が流れた。
コンコン――。
ふと静寂を破るようにノックの音が室内に響いて、ビクリと肩が揺れた。

「七海くん…わたし…」

だった。その声に僅かながらホっと息を吐き、ゆっくりとベッドから立ち上がる。ドアを開ければ、色白な顔を更に白くさせたが、表情のない顔で立っていた。きっと任務から戻り、灰原に会ってきた帰りだろう。顔に泣いた後は見られないが、ショックを受けているのは明らかだった。

「…どうぞ」

わたしは彼女を部屋の中へ招き入れた。本当ならば一人でいたい。しかし、ツラいのは私だけじゃない。彼女もまた、大きな傷を身体のどこかに受けたはずだ。

「…はい、これ」

彼女は手に持っていた缶コーラを差し出した。

「暑いから途中の自販機で買ってきたの」
「………」

差し出されたそれを黙って受けとると、水滴が私の手を濡らしていく。

――この暑さじゃ買ったそばから温くなるよなー!

缶コーラは、灰原が好んでよく飲んでいた。
は無言で床にあるクッションへ座ると、自分の分のコーラを開けて飲みだした。

「ぷは…やっぱ少し温くなってるかも」
「……この暑さだからね」

言いながら、私も再びベッドへ腰をかけると、普段は飲まないそれを開ける。だが少し警戒するべきだったかもしれない。プシュっという小気味いい音と共に、中の炭酸が吹き出して私の顔に跳ねた。

「あははっ引っかかった!」
…振ったでしょう、これ」
「ちょっとだけだよ。ごめんね、はい」

はそう言ってポケットからミニタオルを出して、わたしの濡れた頬へ当てる。素直にそれを受けとり、頬に飛んだコーラを拭くと、タオルからはかすかにお香の香りがした。これを好んで焚くのはあの人しかない。すっかり彼の匂いが馴染んでる彼女を見て、何故だか急に、距離を感じた。その瞬間、予期しない涙が、私の頬を濡らしていく。

「これ、よく灰原くんも引っかかった――…七海…くん…?」

私の涙に気づいたが、小さく息を飲むのが分かった。

「すみませ…ん…。これは洗って返すので」

彼女のタオルを目に当てて、顔を見られないように俯く。この時、私の気持ちはもう、半分以上この世界から離れていたんだと思う。

「私は…卒業したら呪術師を辞めようと…思います」

まだそう決心をしたわけじゃなかった。けれど、そんな言い方をしたのは、この先にも似たような死が待ち受けている気がして。だからつい、断言するような言い方をしてしまった。
は何も言わなかった。ただ黙って、コーラの缶を握り締めていた。
何故、こんな泣き言のような言葉を吐いたのか。それはきっと、呪術師嫌いの彼女なら、理解してくれると思ったのかもしれない。でもこの時の言葉を、私はのちに後悔することになる。
彼女に言うべきことでは、なかったと――。




△▼△



灰原が殉職し、迎えた9月初旬のある日。校庭でを見かけた。よく皆で訓練をしていた時、一年が好んで座っていた大木の根元付近に腰を下ろし、ボーっと草木が揺れるのを眺めている。手には缶コーラと、もう片方の手には報告書らしき書類。任務から戻ったのだろうが、報告書を提出にも行かず、一人でいるのが気になった。



だから、久しぶりに彼女へ声をかけた。

「夏油くん…?」
「やあ、何してるの。こんなところで」

問いかけながらの隣に腰を下ろすと、彼女の見ていたものに気づいた。そこには小さなヤブサメがいて、私達が腰をかけているすぐそばの木に巣を作っている。ウグイス科のヤブサメは5月から7月までに繁殖期を迎え、今は子育ての真っ最中らしい。私とに気づいて「チャッチャッ」と独特の警戒音を出している。

「あの子、去年もあそこに巣を作ってたなぁって思い出して見てたの。別の個体かもしれないけど」
「そうか」
「最初は灰原くんが見つけて、わたしに教えてくれたの。山にもいたからヤブサメだよって教えたら、灰原くん、スズメじゃないの?って驚いてて笑っちゃった」
「はは、確かにまあ…知らないとスズメと間違えるかもしれないね」

隣で思い出したように笑うの表情は、少し柔らかくなったように見える。灰原が亡くなった後、少し元気がないように見えたが、悟も「ちょっとずつ元気は戻ってきてる」と夕べも話していた。身近な人の死に敏感なところがあるから心配していたが、この様子だと時間と共に立ち直ってくれるだろう。

「ところで悟は?また出張かい?」
「ううん。今日は都内で15件の祓徐依頼だって。大きいのや小さいのも含めて、ぜーんぶ任されたーってブツブツ言ってた」
「そう…まあ悟なら時間もかからず終えて戻ってくるさ」
「そうだね…」

は再びヤブサメを見上げながら頷いた。
特級になった悟が小さい規模の任務儲けざるを得ないのは、圧倒的に術師不足だからだ。灰原が亡くなり、またそれが加速した。七海も先週からすでに復帰して、今は無心で任務をこなしてるようだが、今時期は祓っても祓っても、ウジのように呪霊が湧いてくる。私もこの後すぐに関東近辺に数か所、そして明日は地方の山岳地帯へ任務に出かける予定になっていた。

「私はそろそろ行くよ。今から横浜なんだ」

言いながら立ち上がり、制服についた草を払う。はふとわたしを見上げながら、かすかに笑みを浮かべた。

「そっか…。気を付けてね、夏油くん」
「…ありがとう」

軽く手を上げ、その場を後にすると、出立門の方へ歩き出す。でも途中、ふと振り返ると、の姿はそこになかった。

(元気そうではあったが…どこか少し様子がおかしかった気もするな…)

少しの違和感を覚えつつ、私は任務へと出かけた。
身近な仲間を失った痛みは、私でも慣れはしない。特に彼女にとって、仲間の死は初めての経験だ。

(周りに心配させまいと普通に振舞っているのかもしれないな…)

灰原の死は、私にも重く圧し掛かっている。無責任な任務の振り分け。何のために、誰のために、危険な場所へ私達は身を投じるのか。前なら迷わず"弱者"のためだと答えただろう。でも今は、それを言い切る自信はない。
弱者こそ、純粋な悪。
そんな思いがこの1年、何度も私の中に芽生え、その都度バカな、と振り払ってきた。けれど、大切な後輩さえ失い、私もまた心が迷い始めた。

――君がこれから選択するんだよ。

灰原が亡くなる日の前日、突然現れた先輩の言葉が頭から離れない。
この先、私は何を選択することになるんだろうか。
今はまだ、自分でも分からなかった。




△▼△



「あー疲れた…」

シャワーに入り、に髪を乾かしてもらったあと、彼女の膝に頭を置いて寝転がった。は「重たい」と文句を言ってきたけど、連続15件の任務を終えて帰って来た時くらい、甘えさせて欲しい。

「いいじゃん…今日は呪い祭りかなってくらい祓ってきたんだし…」

15件といっても数が15体というわけじゃなく。一つ一つの場所には複数の呪霊が沸いていた。それを綺麗さっぱり片付けて、休む間もなく次へ移動。この疲労は祓徐で出たものじゃなく、殆ど移動が原因かもしれない。といっても別に肉体が疲れてるわけじゃなく、この場合は精神的な疲労だけど。

は?今日は…何してた?」

言いながら仰向けになると、下からを見上げる。この角度だと強調された胸のふくらみが邪魔になって、あまりの表情は見えない。そして何気に…エロい。

「今日は…朝一で小田原に行って二級の呪い祓ってきた…のは電話で話したっけ」
「うん、聞いた。じゃなくてーその後は久しぶりに何も入ってないって言ってたろ。何してたんだよ」

灰原がいなくなったことで、1年に振り分けられる任務はと七海の二人で対応しなければいけなくなった。前より更に忙しくなり、も今は休み返上であちこち飛び回っている。一級に上がってくれたのは嬉しいが、こうもお互い忙しいと、寝る前のこうした時間はかなり貴重だ。

「高専に帰って来たよ、もちろん」
「へえ、珍しい。前なら時間空くたび渋谷とかに遊びに行ってたろ」
「…そんな気分じゃなくて。それに一人じゃつまんないもん」
「そっか……」

しまった。余計なことを言ってしまったかもしれない。の少し寂しげな声に、オレは内心舌打ちをした。
はよく任務の後の空き時間、灰原や七海を誘ってスイパラに寄ったり、買い物に行ったりしてたからだ。不用意な発言でに思い出させてしまったか?と焦ったものの、は特に何を言うでもなく、そっとオレの髪に触れてくる。前に「五条くんの髪、気持ちいい」と言って、時々こうして膝枕をしてもらう時は髪を撫でてくれるようになった。それが想像以上に気持ちが良く、オレにとってはホっとする時間になっている。しばしの手の動きを堪能していると、彼女が「そう言えば…」と思い出したように口を開いた。

「わたしが帰って来た時、夏油くんに会ったよ」
「…傑?ああ、今日は午後から横浜って言ってたな」
「うん、そう言ってた。でも久しぶりにちょっとだけ話したんだ。ヤブサメ見ながら」
「…ヤブサメぇ?ああ、校庭の木に巣を作ってるスズメみたいなやつか」
「もう、五条くんまで灰原くんみたいなこと言う」

は山育ちだから野鳥なんかにも詳しい。以前、灰原がスズメだと騒いでたのを、が先生宜しく違いについて丁寧に講義してたことを思い出した。

「傑、ちょっと痩せてたろ。夏バテっぽいけど」
「うん…それに…」

はそこで言葉を切った。視線を上げたが、やはり胸が邪魔で表情は見えにくい。っていうか、こうして見てると触りたくなるのは、男の性かもしれない。つい手を伸ばしてしまそうになるのを、どうにか堪えた。

「それに…何だよ」
「…うん…何かちょっと様子がおかしかったから」
「…まあ、傑も灰原を可愛がってたし…アイツもキツいんだろ…きっと」

そう話しながら、ふと脳裏に明るい笑顔が過ぎる。傑には礼儀正しいくせに、オレのことはたまにいじってくる生意気な後輩ではあったけど、オレだって灰原のことは可愛がっていた。将来も有望だった。だけど呪術師をしている以上、死はいつだって隣合わせだ。常にそういう覚悟をしていなければならない。傑も心の中じゃそう思っているはずだ。

(ただ…には酷だったな…)

仲良さそうにじゃれ合っていたと灰原を思い出して、ガラにもなく胸の奥に痛みが走った。
――皆、無事に帰って来て欲しい。
そう願うの気持ちが、今なら理解出来る。
オレだって、大切な子にはいつも笑顔でいて欲しいから。
体を起こしての首へ腕を回すと、そっとくちびるを重ねる。彼女の肩がビクリと跳ねて、重ねたくちびるに力が入るのが分かった。それを無視して少しだけ深く口づければ、の体からゆっくりと力が抜けていく。
だけど、この時のオレはまだ何も分かっちゃいなかった。
人の悲しみは、理屈じゃないんだということを。