第二十六話:君が嘘をついた


夜蛾先生から聞かされた、悪夢のような話を理解するのに時間を要した。耳からは入って来たのに、脳が理解するのを拒否しているようだった。

――傑が集落の人間を皆殺しにして姿をくらませた。

あり得ない。あり得ないだろ、そんなバカみたいな話。
高専を飛び出して、傑を探し回っている間中、ずっとそんな言葉が頭の中を埋め尽くしていて、あの時のオレは完全に冷静さを失ってた。
硝子から「夏油が新宿にいた」と連絡を受けて、すぐにその場所へ向かった時も、まだオレは半信半疑だったんだと思う。
傑のことだから、何か深い事情があったはずだと。そんな大罪を、大した理由もなく犯すはずがないと。なのに――。

――術師だけの世界をつくる。

はっ、何だそりゃ。いったい何の冗談だと耳を疑った。
いつだって常識的なのが傑で、非常識がオレ。
昨日まで普通に存在していた当たり前の日常が、オレの中で見事に崩れていって、何も考えられなくなった。
だから――気づかなかった。
こんな時こそ、彼女のそばにいてやらなきゃいけなかったのに。
オレは自分のことで精一杯で、傑に懐いていたの心がどう感じてるかなんて、考えもせず。一人で考える時間を優先して――結果…のそばにいてやろうとさえしなかった。
天内が殺された記憶を取り戻し、心を痛めている時に仲の良かった灰原までが任務で死んだ。その傷が癒えないうちに、今度は傑までが高専から離反して。きっとの心もギリギリだったはずなのに、オレは本人が話してくれるまで、と何も聞こうとしなかった。何に悩んでいたのかすら、気づいてやれなかった。
が――高専から姿を消すまでは。

傑のことで混乱した頭を落ち着かせる為、オレはしばらく高専には帰らなかった。誰とも話をしたくなくて、ケータイの電源も落としたまま。任務の連絡だけは宿泊してたホテルにしてもらっていた。
その間、のことを忘れていたわけじゃない。ただ、今声を聞いたら泣き言を言ってしまいそうで嫌だった。後から思えば、何でそんな意地を張ってたんだろうと笑ってしまうけど、その時はまだ、オレも傑のことを引きずって鬱々とした気分だった。

オレが高専に戻ったのは、傑が離反したと発覚してから五日後のこと。やっと気分も落ち着いて、無性にに会いたくなった。だから高専に戻ってすぐ、真っ先にの部屋へ向かった。
部屋の鍵は開いていた。
でも中に入ってすぐに感じた違和感。彼女の部屋の物が減っている。服もない。よく見れば、の私物が殆ど残っていなかった。

「…は?何で…」

一瞬、部屋を間違えたのかと思った。でもそんなはずはない。彼女の部屋の棚には、彼女とオレ用のグラスが二つ残されたまま置かれている。ここは間違いなくの部屋だ。なのに彼女の存在だけが消えている。また頭が混乱し始めた時、視界にあるものが入って、オレはベッドの方へ歩いて行った。
枕元に置かれた一枚のメモ。それを見た瞬間、息が止まるかと思った。

――五条くん、ごめんね。

たった一言。何も、伝わらない。たったこれっぽっちの言葉じゃ何も。
ごめんね――?
何のことだよ、とオレはすぐに部屋を飛びだした。だけど誰もの行き先を知らない。一昨日まではいたはずだと、唯一、夜蛾先生が教えてくれた。でも他には誰も、七海も、硝子も、オレから聞いて初めて知ったようだった。

オレが必死にを探している間、高専側はの実家にも問い合わせたらしいが、父親さえ、のとった行動に愕然としてたらしい。必死に捜索したにも関わらず、の足取りはつかめないまま、一カ月が過ぎて、高専上層部はが傑と共犯関係にあり、一緒に逃げたんじゃないかと言い出した。同時期に離反したのだから、当然その疑いがかけられる。でもオレを始めとした他の術師も、それは絶対にありえないはずだと押し切った。証拠もないまま共犯にされて、処刑対象になることだけは避けたかった。
結局、傑とが共犯だという証拠は見つからず、二人の離反に関係性はないと結論付けられ、彼女のことは単に呪術師を辞めたかったんだろうということで落ち着いたようだ。
そしてを見つけられないまま、時だけが過ぎていった――。



1年半後――。


「め~ぐみ。まだ~?」

ど田舎のあぜ道みたいな場所でしゃがみつつ、式神を操る伏黒少年を見上げる。小学生のくせに目つきが悪いのは相変わらずで、マジでクソオヤジそっくりだ。
黒髪のツンツン頭と性格の悪そうな鋭い瞳。目の前の少年は、あの星漿体事件の時に僕が殺した、伏黒甚爾の実子だ。
傑とが高専から離反した後、正直、僕はかなり心にダメージを受けた。大切にしてた存在が同時に消えた現実は、僕を少しだけ大人にしたようだ。
――オレだけが強くてもダメだ。
あの後、そう痛感した僕は、先ず術師として周りを強くしようと考えた。心身ともに強く、聡い仲間を育てることを目標にしたのは、この腐った呪術界を変えたいからだ。
手始めに伏黒甚爾の話していた息子のところへ会いに行った。あのクソオヤジは実の息子を禪院家に売るつもりだったらしい。そこをオレの我がままパワーで助け出し、代わりに将来は呪術師になることを約束させた。それがこの少年、伏黒恵だ。
やはり禪院家の血を引いてるだけあって、術師としての才能をすでに開花させ始めている。恵の術式は式神を操るもので、今はなかなか使えるイッヌを偵察隊として、呪霊のいる建物を捜索中のようだ。

「…見つけた」

不意に恵が言葉を発し、僕を見下ろす。どうやらイッヌが呪霊を見つけたようだ。

「…祓っていい?」
「もちろん」

僕の言葉に無言で頷いた恵は、式神のイッヌを操って呪霊を喰わせたようだ。なかなか筋もいいし、大人になれば更に恵は強くなる。そう期待させてくれるクソガキだった。
この田舎の集落に、一年も前から呪霊が潜み、村の子供を操って供物を運ばせてたらしい。そのせいで発覚が遅れたものの、少しずつ、でも確実に人が消えていくという噂を聞いて、"窓"が調べた結果、呪霊を確認。僕のところへ任務が回ってきた。そこで思い出したのが恵の存在だ。時々こうして勝手に任務に連れて来ては実戦させている。その甲斐あってか、恵も着実に経験をつめているはずだ。

「玉犬」

恵みがふとその名を呼ぶと、砂利道をデカい真っ白なイッヌが走ってくる。これが恵の式神"玉犬"の片割れだ。因みに玉犬はもう一匹、黒いのがいる。

「お…生き残りか」

イッヌが走って来た方角に、一人の女の子が立っていて、ジっとこっちを見つめている。恵の式神が助けてくれたと気づいたのか、その視線はやけに熱い。

「モテちゃうかもよ」

戻って来た玉犬を抱きしめて優しく撫でている恵をからかう。まあ、軽くスルーされたけど。
ムカつくから頭をぐりぐり撫でくり回してやった。

「痛いって。ブレスレットが髪に引っかかるんだよ」
「…ああ、ごめんごめん」

見れば手首につけたままのブレスレットに、恵の髪がしっかりと絡まっている。苦笑しながら外してやると、ジト目で睨まれてしまった。ほんと可愛くない。

「そんなチャラチャラしたもの付けて…ホントにアンタ、最強の術師なわけ」
「いや、チャラチャラしたくてつけてるわけじゃないからね?そして僕は本当に最強だから」
「………」

(あ、この目は疑ってるな、相当)

更に目を細める恵を見て、ついつい苦笑いが零れる。ふと手首のブレスレットに視線を落とせば、恵の髪が一本絡まっていた。それを取って、吹きつける北風と共に流す。

「これはねー。彼女に貰った大切なお守りなんだよね」
「…彼女って…高専から消えたって人?」
「うん」
「フラれたクセに、まだ未練たらしく付けてるってわけだ」
「……(殴りてえー)」

口元が自然とヒクつくのは、古傷に塩を塗りたくる恵のせいだ。そもそもフラれたとは思ってないし。だから思ったことそのまま口にした。

「フラれてないから」
「でも黙って出て行ったなら、アンタのこと嫌だったんじゃないの」
「……」
「いてっ!何でデコぴんすんだよっ」
「ムカつくことばっかいう恵が悪い。僕はね。こう見えてデリケートだから」
「……どの口が」
「え?何か言ったー?」

耳に手を当てて訊く素振りをすれば、恵はそっぽを向いて「別に」と吐き捨てた。どこぞの女優か、オマエは。って、もうこれも去年の夏の話題だっけ。時が経つのは本当に早い。
がいなくなってから、もうそんなに経つのかと実感しながらも、未だに心がその事実を受け入れてない。傑のこともあって心があちこち揺らいだりしてた時に急に消えたから、今もどこか夢を見ているような気分だ。
という女の子は、本当に高専にいたんだろうか。
そんな気持ちにさえなっている。だけど、こうして彼女からもらったブレスレットがある以上、彼女は実在していたと思えるから、だから外せないんだ。どうしても。
恵の言った通りだ。未練タラタラで悪かったな。

高専を辞めて、実家にも戻っていないは、もしかしたら憧れてた普通の生活をする為に、都心で働いてるんじゃないかと今も探している。だけど未だに足取りはつかめず、地方にいることも考えると探すのは容易じゃない。任務であちこち出張へ行くたびに、を探して回る日々だった。
――五条くん、ごめんね。
あんな一言で納得できるわけがない。あんな紙切れ一枚で、諦められるはずもない。もう一度、彼女に会ってちゃんと聞きたかった。

――きっと…失いすぎて耐えられなかったんだと思う。元々そんな理由で呪術師を嫌ってた子だしね。灰原が亡くなった時、様子がおかしかったから、もっとちゃんと話を聞いてあげれば良かったよ。

硝子はそう言って理解を示していたが、僕には無理だ。
いや――理屈ではの心が壊れかかっていたんじゃないかと想像は出来る。だけど、一言くらい僕に泣き言を言って欲しかった。
ツラいならツラい、苦しいなら苦しいって、言って欲しかった。あんな一言で消えるなんて、そんなの勝手すぎるだろ。

「ハァ…寒…」

こんな寒い日に山岳地帯は来るものじゃない。吐き出すたびに息が白く煙って、ピンと張りつめた空気に溶け込んでいく。

「…泣くなよ」
「泣いてねーよ」

不意に僕を見上げる恵を見下ろし、もう一度頭をグリグリしてやった。今度は、ブレスレットに髪は絡まなかった。

――あたしは大丈夫だよ。

最後に会話をした時、確かにはそう言ったのに。

「……嘘つき」