第二十七話:再会の夜
梅雨入り間近、平日にも関わらず、居酒屋はどこも人で賑わっている。この店も例外ではなく、わたし達のような団体客は当然、予約をしておいた。
「さん、飲んでる?」
「あ、主任、はい。頂いてます」
久しぶり過ぎて、まだ慣れない日本の空気に戸惑いつつ、端っこの席で飲んでいると、わたしが配属されたチームの主任に昇格したばかりの、伊藤桃子さんが声をかけてくれた。
「台湾から戻って来たばかりで疲れてるところ、ごめんなさいね」
「いえ。それより、主任昇格おめでとう御座います」
「ありがとう。来て早々、飲み会なんて驚いたでしょ」
主任は笑いながらも、どこか嬉しそうで生き生きして見えた。
株式会社"アンティカ"は、東京に本社を構え、主にベッドパッドやシーツ、かけ布団など、寝具の販売製造を行っている。わたしは台湾支社に入社して五年目で、今年の秋に東京本社へ移動になった。辞令が出た時は迷ったものの、わたしが高専を離反して十年以上の月日が流れている。冥さんに相談したら「大丈夫なんじゃないか」と言われたことで、わたしは久しぶりに帰国する決心をした。
十年前、夏油くんの事件を知らされた時、わたしは言葉も出なかった。酷く混乱し、悪い夢を見ているんだと思った。あの頃の記憶は今も曖昧だけれど、冥さんに助けを求めたのは覚えている。気づけばわたしは冥さんと共に台湾を訪れていた。
冥さんには以前から相談していたこと。
もし、呪術師を続けていけないと判断したその時は、高専を出ていく。
他の人には相談できなかった。反対されると分かっていたから。
でも冥さんだけは異を唱えることもなく「好きにしたらいいさ」と言ってくれた。
――ただし、その場合は私に連絡すること。どこに行ったのか分からないんじゃ助けようがないからね。
冥さんはわたしの逃げ場所を作ってくれると約束してくれた。台湾までのチケットまで用意して「これが必要になったら連絡しておいで」とまで言って。
何故こんなことまでしてくれるんですか?と訊いても「お金の為だよ」と笑うだけで、本当の理由は分からないまま。もしかしたら、今も高専に戻って欲しいと思っているのかもしれない。時々、高専の皆の近況を教えてくれるし、海外での呪いを確認したら、わたしに祓徐を手伝わせることもあった。
もしかしたら、感覚を忘れないよう、準備をさせてるんじゃないかと思うことさえある。
そして去年、離反した夏油くんが「百鬼夜行」なるものを仕掛けて、かなり大変だったという話もチラっとされた。夏油くんの離反の理由も。わたしとは少し事情が違うけど、夏油くんも心を病んだ一人だったんだと思う。
ただ逃げたわたしと違い、夏油くんは何故か怒りの矛先を非術師に向けた。彼の心が闇に堕ちたのは何が原因だったのか。もしかしたら、理子ちゃんのことがキッカケになったんじゃないか、とふと思った。
結局、夏油くんの目論見は、生徒の一人が阻止したと聞いている。
あの五条くんが、教師という道を選んだと冥さんから聞かされた時は凄く驚いたけど、彼の生徒が夏油くんを倒したと聞いた時は、少しホっとした。二人に直接戦って欲しくなかったんだと思う。
冥さんから聞いたけど、夏油くんと決着がついた後、五条くんはどこか吹っ切れたような顔をしていたらしい。
わたしはというと、高専を離反して、五年間は冥さんのところでお世話になり――コキ使われた記憶しかないけど――その後、わたしは今の会社に入社した。理由はもちろん、お金の為だ。
高専時代に貯めていたお金はほぼ冥さんへの支払いで吹っ飛び、五年も経てば、貯金は底をついた。だから少しでもお金を稼ごうと最初はバイトで働き始め、二年後に正社員にまで上り詰めた。そこには昔、わたしが憧れた「普通の暮らし」があった。
なのに――思い出すのは高専にいた頃のことばかりだ。
最初は入りたくもないのに無理やり入学させられ、呪術の何たるかを叩きこまれているわたしに、重複するような勉強を強いてきた。当初はいつ逃げ出そうかと、そんなことばかり考えていたし、何なら三度ほど逃亡を図ったこともある。でも敷地を出る前に捕まったけど。
その内、親しくなるのを避けていたわたしに、打ち解けようと灰原くんがよく話しかけてくるようになって、最初はウザいの一言だったけど、だんだんそれが当たり前になっていった。元々が幼馴染しかいない環境だったから、色んな人に興味があったし、本当は、わたしも皆と仲良くなりたかったのだ。
わたしを高専に連行した二人も、そしてもう一人の先輩、硝子ちゃんも、何だかんだ良くしてくれて、可愛がってくれた。
ちょっと意地悪な五条くんと、それをいつも止めてくれる夏油くん、ツッコミばかり入れて二人をけなす硝子ちゃん。
皆といると本当に笑ってばかりで、楽しかった思い出しかない。
五条くんに好きだと言われた時は、凄くビックリしたけど、初めての交際というやつまで発展して、怖いと思いながら、五条くんに流されるまま、気づけば幸せなんてものを感じてしまっていた。
あの頃のことを思い出すと、今でも胸が痛い。
冷静になった頃、後悔して何度、連絡をとろうとしたかしれない。
でも、怖くてできなかった。
逃げ出したくせに、どの面下げて戻れるんだと思うと、足がすくんで、そこから一歩も動けなくなった。皆きっと怒ってる。そう思ったら、帰りたいなんて言えなかった。
「さんも二次会、行くでしょう?」
主任が時間を確認しながら訊いてきた。
「え、いえ…例の仙台出張が明日になってしまって…」
「あ、そうなのね。なら仕方ないわ」
「すみません。せっかくのお祝いなのに」
「いいのよ、そんなの。急で悪いけど、明日は頼むわね。あそこのハーベスティングされた羽毛がやっぱり新作には必要だもの」
「はい。どうにか交渉してみます」
羽毛を採取する方法はマシーンピックが主流の中、仙台にある工場では自然と抜け落ちた羽毛を採取するハーベスティングという方法を用いている。それだとマシーンピックのように羽毛が不純物で汚れたり、傷ついたりすることなく、質のよい状態の羽毛を採取することができる。羽毛の保温性や耐久性の点で優れているので、かなり値は張るものの、高級布団には欠かせない。ただこの方法だと採取できる羽毛は数が限られてくるので、どうにか少しでも多くわが社に、という交渉をしに行くことになっている。相手方の都合で、明日の午後じゃないと無理だと言われたのだ。
帰国早々、出張はキツイけど、日本での初仕事になるから、ここは頑張りどころかもしれない。
仙台に行くのも久しぶりだと思うとあまり酒も進まず。一時間ほどで主任に挨拶をして家に帰ったわたしは、翌日――早起きをして新幹線で仙台に向かい、きっちり相手方と交渉することに成功した。
「はい…そうなんです!新作発表までには間に合わせてくれるようで。ええ、はい。分かりました。では来週すぐに準備します。はい。失礼します――」
主任に報告をしたところで電話を切り、ホっと息をつく。これでわたしの主な仕事は一つ終わった。
台湾では交渉術の能力を買われて本社に移動になったようなものなので、失敗するわけにもいかなかった。
(それにしても主任の声、ガラガラだったな…。夕べ二次会でカラオケ行くって盛り上がってたもんね…)
夕べは散々飲んだようで、わたしが電話するまで二日酔いでダウンしながら仕事をしてたらしい。でも取り引き成立の話で少しは復活したようだった。
「はぁ~。気が楽になったし、少しは観光でもしてこうかな…」
ケータイをバッグにしまうと、のんびり住宅街を歩き出す。羽毛生産業の担当者がこの辺に住んでいて、今日は有給だ言われたのもあり、どうしてもというなら直接家に来てくれと言われたのだ。来る時はタクシーで来たものの、帰りはどうしようかと考えながら、のんびり歩いて行く。近所には学校もあるらしく、元気な笑い声が聞こえてきた。
「学校…懐かしい…」
見れば校庭で数人の学生たちが部活の真っ最中のようだ。
わたしがいたのは普通の高校じゃなかったけど、でもよく校庭であんな風に騒いでいたことを思い出す。
「もう皆、卒業したんだよね…」
わたしの記憶にある皆は、いつだって学生の頃の姿だった。でも今は大人になり、それぞれ呪術師として、この世界を守ってるはずだ。
(五条くんも…呪術師だけじゃなく、教師として頑張ってるんだろうな…)
最後に会った時のことを思い出すと、懐かしさがこみ上げてまた胸が軋む。長い年月が経ち、とっくに色褪せてもいいはずの思い出は、今も色鮮やかに残っている。
冥さんの話だと、五年くらいは五条くんもわたしのことを探していたらしい。冥さんもわたしの行方を知らないか訊かれたようだ。でも知らないと答えた。そのうち、五条くんもわたしの話をしてこなくなったらしい。
(それから更に五年…とっくにわたしのことなんて忘れて、また別の人と新しい恋をしてるかもしれない…)
そう思うと勝手な痛みが胸に走る。彼を裏切ったのはわたしなのに。
冥さんも不思議なくらい、五条くんのその手の話はしてこないから、きっと言いにくいのかもしれない。未だに恋愛の一つも上手く出来ないわたしを見ているから。
これまで何人かの男の人から告白をされたこともあったけど、どうしても付き合う気にはなれなかった。五条くんとハッキリ別れてきたわけじゃないせいか、他の人を選ぶことは裏切りのような気がしてしまうからかもしれない。
――もいい歳だろ。そんなことしてたら行き遅れるよ。
なんて冥さんに会うたびからかわれるけど、冥さんもですよね、とは言い返せない。罰金を要求されそうだし――。
「あ…」
何となく楽しそうな声に引き寄せられ、校庭を囲むフェンスに近づいた時、気づいてしまった。
(凄い数の呪霊…地面からどんどん溢れ出て来てる…)
学生たちが部活をしている最中も、あちらこちらで浮遊する呪いを見て、わたしは思わず顔をしかめた。これだけ大量に湧いてるということは必ず意味があるからだ。
「…まさか死体でも埋まってる…?」
ジっと地面を見つめたところで地中深くまで見えるわけじゃない。だけど、この数の呪霊を放置しておくのは危険だと思った。
といって、周りに教師や学生が大勢いる中、部外者が敷地に入るわけにもいかない。それに術式の届く範囲を考えれば、校庭の真ん中で祓った方が一気に祓うことも出来る。
(仕方ない…夜にもう一度来てこっそり祓うか…)
見てしまった以上、放置することも出来ず、わたしは夜に戻ってくることにして、一旦その場を離れた。
どれも低級や、最高でも二級の呪霊ばかりだけど、ここまで増えるまで放置してるのは、高専の術師も忙しくて手が回らないということかもしれない。少しでも役に立てるなら、と思いながら、わたしは駅方面へと歩いて行った。
△▼△
「百葉箱?そんなもんに特級呪物、保管すんの馬鹿すぎるでしょ」
深夜の学校に忍び込み、言われた通りに百葉箱を探す。今回の任務は昔、この辺に置かれた特級呪物を回収する為だ。
『アハハ!でもおかげで回収も楽でしょ』
「……(他人事だと思って)」
呑気に笑っている男に対して、若干イラっとしつつ、オレは目的の物を探しながら校舎の外れまで歩いて行く。
「ああ、アレか」
『あっらぁー?』
「ありました…ってか、アンタ、何か食ってるでしょ」
『いや夕飯まだだったからお腹空いちゃって、ちょっと行きつけの寿司屋に…――あ、大将、次は大トロで』
「………(この人わ…っ)」
生徒に面倒な仕事を丸投げしておいて、自分は行きつけの寿司屋で大トロを食べているとか、本当にオレの情緒を毎回乱してくる人だと思う。
(オレも夕飯まだなのに…!)
スマホを握る手に力が入り、ミシっと嫌な音を鳴らす。でも壊れる前に目的の百葉箱からサッサと回収してしまおう、と扉を思い切り開ける。そして…絶句した。
「……ないですよ」
『え?』
「百葉箱、空っぽです」
『マジで?ウケるね』
「ぶん殴りますよ…」
『それ回収するまで帰って来ちゃダメだから』
「……(今度マジで殴ろう…)」
そこで通話を終えると、目の前の空っぽな箱を見下ろす。そもそもの話。こんな誰も簡単に開けられる場所に置いていい代物じゃない。
「ったく…誰だよ…持っていったの…」
イライラしながら頭を掻きつつ、ケータイメッセージを確認する。先週までは確かにここにあったというのだから、本当に最近、誰かがここを開けて中の呪物を持っていったということだろう。
「仕方ねえ…明日、学生を探ってみるか…」
あんなヤバい物を手にしたのだから、盗んだヤツと会えば必ず気配で分かる。とりあえず一泊することにして――。
次の日の昼間、もう一度この高校へとやって来た。
とりあえず学生に交じるよう、高専の制服を脱ぎ、敷地を歩き回る。そこで分かったのが、この高校の周りは低級を始めとした二級相当の呪霊までウジャウジャいることだ。
(何だ、このラグビー場…)
その場に立って見上げると、大きな呪霊が器具の上に乗っかっている。
「死体でも埋まってんのか…?」
(だとしても、このレベルがウロつくなんて…おそらく二級の呪い…。例の呪物の影響か…サッサと回収しないとな)
とは言って、呪物の気配を探ろうと意識を集中させると、今度は大きすぎて分かりにくい。
「クソ…気配がデカすぎる…!」
すぐ隣に在るようで、はるか遠くにあってもおかしくない。
「これじゃ潜入した意味がまるでねー…。特級呪物…厄介すぎだろ」
とにかく、このウジャウジャいる呪いもどうにかしねえとな、と辺りを見渡しながら、校庭の方へ歩いて行く。
(気が進まないが、一度学校を閉鎖。呪霊を全て祓った後、隅々まで探すしか…)
アレコレ考えながら歩いていると、校庭がやけに騒がしくなった。ふと視線を向ければ、砲丸投げの勝負をしているようだ。片や教師、片や…小学生がそのまま高校生になったようなノリの生徒。
勝負はその生徒の圧勝だった。
(凄いな、アイツ…呪力なし。素の力でアレか。禪院先輩と同じタイプかな…)
砲丸を投げて、サッカーゴールの枠を思い切りへこませていたのを見て、少し絶句する。
(って、見てる場合じゃなかったな…)
とっとと呪物を探さないと、五条先生にどんな嫌味を言われるか分かったもんじゃない。
溜息交じりで校庭を後にしようと歩きだす。その時、さっきの砲丸投げをしていた生徒とすれ違った。
「―――ッ?」
すれ違った時、僅かに呪物の気配が大きくなった気がした。慌てて振り返り「おい、オマエ!」と呼んだものの、その生徒はとっくに豆粒になっている。
「って、早すぎんだろ!」
思わず一人ツッコミしていると、近くの生徒が「アイツ50m3秒で走るらしーぞ」「車かよ」という会話が耳を掠めていく。
「…3秒…何つー足してんだよ、アイツ」
けど放っておくわけにはいかない。呪物の残穢を追いつつ、オレは今の生徒を追いかけて行った。
△▼△
「何…この気配…」
夜、昼間の学校に戻ってきて驚いた。校内の方が異様な空気に包まれていて、酷くざわめいている。昼間に感じたものと明らかに違う気配だ。それに――。
「…さっきの子は…ここの生徒?」
校舎を見上げながら突っ立っている男の子を見かけた。その子は突然、物凄い速さで走って行ったと思えば、校舎の窓から中へ飛び込んだ。それも4階の窓だ。
「凄い身体能力…」
だけど術師じゃない。呪力は感じなかった。そんな普通の子があの呪霊の気配が増幅しつつある学校に行くなんて危険すぎる。わたしもすぐに後を追いかけると、一階廊下の窓を割って、中へ侵入した。
「何が…起きてる?」
一階の廊下も呪いで溢れている。何かの力に操られてるかのように、上へ上へと向かってる気がした。
「やっぱ上か…さっきの子が入った辺り…そこに何かあるのかな…」
薄暗い廊下を走り、階段を見つけると一気に駆け上がっていく。呪術師を辞めたといっても、冥さんのおかげで実戦だけは積んでいる。前と同じとまではいかなくても、多少なら体も動く。上に向かいながら途中でうろついている呪霊を全て蒸発させていった。
結局、呪霊を祓いながら一番上の階までもう少し、といったところで、派手な戦闘音が聞こえてきた。壁を破壊するような音と「伏黒!」という男の子の声。
「え、もう一人誰かいる…?」
ちょっと驚いたものの、急いで階段を上がっていくと、暗い廊下にさっき見かけた男の子、その近くに意識のない女の子が横たわっている。そして大きな呪霊。その呪霊の手が誰かを掴んでいた。
「……あれは…」
黒い制服、特徴的なボタン――。
「高専生…?!」
そこに気づいた時、一瞬、体が強張った。その直後、呪霊に捕まっていた黒髪の男の子は、凄い力で壁に放り投げられた。
「…がはッ…」
壁に激突したその男の子の血が飛び散るのが見えて、ハッと我に返った。あのままじゃ彼が危ない。見たところ術師は黒髪の男の子だけだ。すぐに近づこうと、固まった足を動かす。でも次の瞬間、呪霊が男の子を攻撃した。ドゴォっという物凄い音と共に壁が吹き飛び、男の子も外へ吹き飛ばされ、向かい側校舎の屋根部分に落ちたのが見えた。
「マズい…!って、でもあんなとこ、どうやって行ったら――」
微妙にわたしの術式が届かない範囲であり、あんな場所は空中散歩出来る彼じゃなければ無理な話だ。なのに、術師じゃない方の男の子が何のためらいもなく、物凄いジャンプ力で飛んでいくと、上から呪霊を素手で殴りつけたのが見えた。
「な、何…あの子…無茶だよ」
呪いは呪いでしか祓えない。呪力もない彼じゃ、どれだけ凄い身体能力があっても無理だ。
「ど、どどどうしよう…!」
こんな状況、久しぶり過ぎて頭がパニックになる。その絶望的な状況を一変させる出来事が起きたのは、血だらけの男の子二人が何やら話していた直後だった。非術師の子の方が何かを飲み込んだように見えた刹那――物凄いエネルギーを感じたかと思えば、男の子の体に紋様が現れ、襲い掛かった呪霊を一撃で消滅させた。
「……は?」
自分の見たのものが信じられなかった。あの男の子は呪力がなかったはずだ。なのに、今は全身に呪力が漲っているのを感じる。しかも――。
「な、何…あの模様…」
男の子の上半身には不気味な紋様が浮かび上がり、あげく、彼は突然ゲラゲラと笑い出した。
「え…何が起きてるの…っていうか…この異様な呪力…」
ビリビリと痛いくらいの力を感じて、全身鳥肌が立った。
違う。あの男の子はさっきまでの子とは別人だ。本能がそう言っている。でもあれが何なのか説明しろと言われても分からない。彼は何かブツブツ言っているが、よく聞き取れない。けれど、最後の言葉を聞いて、わたしは息を飲んだ。
「――鏖殺だ」
邪悪――。そうとしか言いようのない殺意が充満していた。でもその瞬間、黒髪の術師の子が、手印を結ぶのが見えた。彼もあの子の異様さに気づいて祓おうとしている。だけど、驚いたのは、今まで殺気を垂れ流していたはずのその男の子が、一瞬のうちで元の彼に戻ったように見えたからだ。
「…何…あれ…」
まるで悪霊に取りつかれたみたいに豹変した男の子を見て唖然とする。
だけど――その時だった。
酷く、懐かしい呪力を感じた。
「今、どういう状況?」
「な…っ五条先生?!」
「――――ッ」
思わず廊下の壁に張り付いた。心臓が壊れそうなほどに、早鐘打っている。
息が、止まるかと思った。
(……五条くん?!)
何故、彼がこんな場所に?
軽く脳内がパニックになり、手足が震えてくる。一つだけハッキリしているのは。この場所にいてはいけない、ということだけ。
(…早く…行かなくちゃ――!)
震える足を何とか動かし、暗い廊下を戻っていく。何度も転びそうになりながらも、この場所から――ううん。五条くんから離れようと、必死に足を動かす。
失敗した。高専生がいると分かった時点で帰れば良かったのだ。手を貸そう、なんておこがましいことを考えたのがいけない。
わたしはもう、呪術師じゃない。
あの場所から、逃げた人間なんだから。
だけど、わたしはとことん甘かったようだ。彼の六眼から逃げることなんて、出来るはずがなかった。
「―――、か?」
もう少しで校舎から抜け出せると思った瞬間、物凄い速さで目の前に現れたのは、高専で別れたきりの五条くんだった。
△▼△
「――でも死なせたくありません!」
突然現れた担任に、今の自分の思いを訴える。
オレを助けるために宿儺の指を飲み込んだコイツを、このまま処分するのは違うと思った。
オレの担任――五条先生は口元に弧を描き、どこか楽しげにオレを見つめた。
「…私情?」
「私情です。なんとかして下さい」
キッパリ言い切ると、五条先生はくっくと含み笑いをしてから、ニヤリと笑みを浮かべて親指を立てた。
「可愛い生徒の頼みだ。任せなさい――」
「…五条先生…?」
不意に五条先生が小さく息を飲んだように見えた。目隠しで分かりづらいが、視線がオレの後ろへ向いてる気がする。そこには破壊された校舎しかない。
「どう…」
したんですか?と尋ねようとした時、五条先生が物凄い速さで担いでいた虎杖をオレに押し付け、校舎の方へ飛んでいく。その速さに一瞬呆気にとられたものの、オレも慌ててその後を追いかけた。といっても大怪我をしている上に、肩に虎杖を担いでいる。どうにか時間をかけて一階まで下りると、五条先生の気配を探しながら、校舎の中へ戻る。申し訳ないが、虎杖は窓の下へ寄り掛からせて置いてきた。
「先生!どうしたんすか!」
前方に五条先生の背中を確認した時、ホっとして足を緩める。でもその時、五条先生が「……か?」と誰かに話しかける声が聞こえた。よく見れば五条先生の前に誰かが立っている。
(…女…?)
この学校の生徒でもない。月明りしかない廊下で、あまり良くは見えないが、女は長い黒髪を胸元まで垂らし、OL風のスーツを着ている。
(…この学校の…教師…?)
いや――違う。よくよく気配を探れば、彼女からは強い呪力を感じる。
女は驚愕に満ちた表情で、五条先生だけを見ていた。
大きな瞳が印象的な、可愛らしい女性だ。呪術師かとも思ったが、これまでオレは会ったことがない。
「先――」
「…だよな」
声をかけようとした時、五条先生がもう一度その名を口にした。
――?
その名には聞き覚えがあった。
「……五条…くん…」
女が遂に口を開いた。五条先生を「五条くん」と呼ぶ人間は、オレが知る中で一人もいない。でもこの感じは同級生のような響きがあった。そこで思い出した。
オレがまだガキだった頃、五条先生から聞かされた恋人の話を。
まさか、と息を飲んで、五条先生の前に立つ女を見る。彼女はどこか怯えたように震えていた。