第二十八話:愛ほど歪んだ呪いはない



恐ろしく澄んだ海を思わせる五条くんの瞳を見た時、一瞬で飲み込まれて溺れていくように、息が止まるかと思った――。



。オマエは十年前、この高専から誰の許可を取ることもなく、無断で離反した。それは間違いないな?」
「……はい」

薄暗い室内。六枚の障子が六角形に囲む何とも奇妙な部屋。障子の向こうからは、僅かに怒りを滲ませた声が響く。彼らは呪術界の上層部に身を置く古老達らしい。わたしも今回初めて会った。といっても、相手は顏すら見せないつもりらしいけど。

「理由はそこの五条悟から聞いている。それと君の実力も考慮した上で、高専へ戻り、尽力に努める気があるのなら、今回の離反は処罰なしとするが、君の気持ちを聞こうか」

気持ち、というのは建前だろう。戻らないと答えれば、わたしは処分対象になる。とはいえ、わたしは離反したけど人を殺したわけじゃない。処刑されることはないはずだ。ただこの場合、この故老達と懇意にしている父に迷惑がかかるのは間違いない。
家の復興を、と願う父の恥を上塗りしてまで、この場所から逃げたいとは、もう思っていなかった。五条くんに見つかった時点で、彼から逃げ切ることは無理だと悟ったのだ。何を言われるのか凄く怖かったけど、でも反面、どこかでホっとしている自分も確かに存在した。
この十年、わたしは自由に生きることが出来たからかもしれない。
ただ、普通の人生を送ってみて、一つ分かったことがある。
結局のところ、普通の日常の中にも確実に呪いはいる。
会社のトイレや、取引先のビルにあるエレベーター。駅のホームに、お寺の周り。それらを見るたび、放ってはおけなくなるのだから、根っこの部分はわたしもやっぱり呪術師ということなんだろう。
五条くんに捕まった時から覚悟は出来ている。もちろん自分がどうすべきかという答えも、とっくに出ている。

「…高専に…戻ります」

静かに、でもハッキリとそう告げると、わたしの背後で見守るように立っている五条くんの気配がかすかに緩んだのが分かった。
障子の向こうからも似たような気配と共に、安堵した空気を感じる。
五条くんが言ってたように、去年、夏油くんが起こした百鬼夜行で、多くの呪術師を失ったことも関係してるのかもしれない。

「承諾しよう」
「でも戻る前に一つお願いが」

つかさず言えば、障子の向こうの気配が揺らいだ。

「…なんだね」
「今、わたしが働いている会社の、仕事の引継ぎだけやらせて下さい」

東京本社に移動して間もないけれど、これから新作を発表する段階で、その準備をしていた。今、わたしがやらなければいけないのは、まず一昨日、尋ねた羽毛業者の意向を書類にまとめて主任に伝えること。これは直接交渉したわたしの役目だ。後は新作発表前の宣伝用広告デザイン候補の中から、来週までにチームで話し合い、二つ決めてもらわないといけないし、それが終われば印刷会社との細かい打ち合わせが始まる。その全てを他の人に引き継ぎしないで辞めるのは、さすがに躊躇われた。

「それはどれくらいで終わるのかね」
「一カ月程度で終わりますが…退職願いは明日、上司に提出します」

今の会社は退職する際、その意志を一カ月~三か月前に上司に伝えることになっている。今ならギリギリセーフだと思う。
今日まで頑張って来た会社には愛着があるけど、こんな日が来ることも覚悟はしていた。決意を伝えると、障子の向こうの古老達も納得したようだ。

「ではそのように」

その言葉と同時に、室内にあった気配が消えた――。


「ちゃんと普通の社会人してたんだ」

建物を出てすぐ、五条くんが言った。再会してからはまともに話もしていないし、今は顏を見ることすら出来ない。

「…何も…気を失わせることないじゃない…」

俯きながら、背後を歩いている五条くんへ恨み言のように呟く。
あの高校で五条くんと顔を合わせてしまった時、わたしは逃げることが出来なかった。怖いと思った反面、見つかったことをどこかホっとしている自分にも驚いて、逃げることを諦めた。でも五条くんに「だよな」と確認された後から記憶はなく。次に意識が戻った時、わたしは高専の地下にある暗い部屋で寝かされていた。
どうやったのかは知らないけれど、五条くんはわたしの意識を失わせ、そのまま高専まで運んだらしい。何とも彼らしいやり方だと、気づいた時は唖然としてしまった。

「仕方ないでしょ。逃げられても困るし」
「…逃げる気なんて…なかった」
「それを信じろと?」

冷たい声。やっぱり相当怒ってるようだ。でもそれも当たり前かもしれない。それくらい、わたしは五条くんに酷いことをしたし、傷つけたはずだ。

「…もう、帰るね。明日も仕事あるし」

今日、会社には病欠扱いにしてくれたようで、高専側が家族を装い、会社に連絡を入れたようだ。行方不明だと騒がれても面倒だと思ったんだろう。本当に勝手なことを、と文句を言いたくなったけど、元々は勝手に離反したわたしが悪いのだから、それも仕方のないことだと諦めた。

「送るよ」
「いい…。一人で帰れる」

五条くんに背中を向けたまま応えると、わたしは足早に門の方へ歩き出す。だけど急に腕を掴まれ、思い切り引き寄せられた。

「な、何――」
「僕に何か言うことは?」
「……っ」

驚いて見上げた先に、五条くんの目を覆っている目隠しがあった。仙台で再会した時も驚いたけど、わたしの記憶に残っている五条くんとは、だいぶ変わっていたから戸惑ってしまう。

(身長…かなり伸びたんだな…体格も昔よりガッチリしてるし…)

久しぶりの五条くんを前にして、ふと呑気なことを考える。雪のように白い綺麗な髪も、わたしの腕を掴む長い指も昔のままなのに、空気だけがどこか冷たくて、わたしは黙って目を伏せた。でもその視線の先、五条くんの手首に、見覚えのあるブレスレットが飾られているのを見た瞬間、小さく息を飲む。

「これ…」
「何、僕が捨てたとでも思ってた?」

驚いて顔を上げると、彼の目を覆う黒い目隠しを、指がするりと下ろしていく。そこで露わになった青い瞳と目が合って、心臓が一気に動き出した。再会した夜も思ったけれど、どれだけ外見の雰囲気が変わろうとも、瞳の美しさは昔とちっとも変わらない。

「捨てるワケないでしょ」
「…五条くん…」
は?」
「……っ」
「もう、捨てちゃった?」

捨てられるはずがない。だってあれは――。
五条くんの気持ちを受けとったあの夜に貰ったものだから。
思い切り首を振ると、五条くんはかすかにホっとしたような顔で微笑んだ。再会してから、初めて見る笑顔だ。その顔を見てたら泣きそうになった。
でもこの後の五条くんの言葉に、わたしは再び驚かされることになった。

「良かった。じゃあ、まだ僕とは恋人同士のままってことだ」
「……え?」
「ん?」

驚きすぎて、溢れ出そうになった涙が一気に引っ込んだ気がした。

「何…の…話?」
「だから、僕とはまだ恋人同士だねって話」
「………」

ニッコリ微笑む五条くんを見上げながら、今度こそ絶句していると、彼は更に続けた。

「覚えてる?僕との約束」
「……約…束…?」
「そう。が僕を好きになるまで一線は超えないってやつ」
「……お…覚えてる…けど…」
「ついでに言えば、キスはOKってのも」
「……っ?」

言った瞬間、五条くんは身を屈めて、固まっているわたしのくちびるに、自分のをそっと重ねた。久しぶりのその感触に、脳内までがフリーズする。一気に熱が顔に集中して、心臓が壊れそうなほどに早鐘を打ち出した。

「…ぷ…相変わらず…キスだけで真っ赤になる子だね」
「な……っ」

散々くちびるを堪能され、ちゅっと甘い音を響かせてくちびるを放した五条くんは、昔のような意地の悪い笑みを浮かべて、わたしを見下ろしている。

「また今日から宜しく」
「……な、何考えてるの…?」

シレっとまるで当たり前のことのように、以前の関係に戻ろうとする五条くんを見て、脳内が混乱した。てっきり嫌われたとばかり思っていたのに、何で?という言葉がぐるぐる回っている。

「何って…この十年、ずっとのこと考えてたけど?」
「え…?」
「日本中探し回ったし、何なら出張で行った先のアフリカまで探して来ちゃったよ」
「……何それ…」

そんな話、冥さんから聞いていない。彼女が隠していたのか、それとも五条くんが他の人に何も言わなかったのか、どっちにしろ、わたしの想像をはるかに超えてる。

「何って…愛でしょ、これは」
「…愛って…」
「ごめんね、重くて」

五条くんは自分で言いながら笑っている。でも彼が何故わたしにそこまで固執するのかが分からない。五条くんなら、もっと他に素敵な人と縁がありそうなのに。

「…ど、どうして…?」
「ん?どうしてって?」
「何で…わたしにそこまで…」

五条くんはわたしの問いに軽く首を捻ると「好きだからとしか言えないかな」と、少し考えながら呟いた。

「こういう気持ちって理屈じゃなくない?僕はが好きで、忘れようと思っても出来なかった。あの仙台での夜も、の呪力だって一目で分かったし。まあ、一瞬幻かと思ったけどね」

苦笑気味に言いながら、五条くんはわたしの頭へ手を乗せた。

「正直…勝手にいなくなって本当はめちゃくちゃ腹が立ったし、怒ってたし、言いたいことは山ほどある」
「…う…ご、ごめ…」
「だけど、あの学校での顔を見たら…そういう負の感情がどうでもよくなるくらい――嬉しかった」
「……え」
「今も…やっと会えたって気持ちしかないよ」
「…嘘…」

思わず口をついて出た言葉に、五条くんが笑った。

「まあ…そりゃ怒りの感情も全くないって言ったら嘘になるけど、今はが戻ると言ってくれたから、嬉しいって気持ちは本当に本当」

わたしの髪を撫でる五条くんの手が優しくて、今の言葉は本音なんだと分かる。だからこそ、余計に自分がしたことへの罪悪感が増した。

「…送る」

もう一度そう言われた時、わたしは五条くんを拒めなかった。



△▼△



「まさか冥さんだったとはね」

僕が責めるような声色で言うと、彼女は妖しい笑みを浮かべただけで、カクテルをくいっと煽った。
を送った後、冥さんの宿泊しているホテルを尋ねれば、そのままバーへ連行された。下戸の僕に、こうして酒を付き合わせている冥さんは、バレることすら計算のうちなんだろう。平然とカクテルのお代わりを注文している。その少しも悪びれた様子のない態度には、こっちも苦笑するしかない。

あれほど探してもの足取りすらつかめなかったことで、誰かが関与したのでは?という疑念は常にあった。一人で痕跡も残さず、忽然と消えられるわけもない。ただ、じゃあ誰が?となった時、僕が最も怪しいと睨んだのは冥さんと歌姫だ。
最初は、普段からと懇意にしていて、かつ彼女を甘やかしていた歌姫に疑いを向けた。でも歌姫は僕に嘘をつき続けられるほど器用な人間じゃない。必ず追及されればボロが出るはずだ、と何度か探りを入れてみたけど、彼女は本当にのことを心配してる様子で、何も知らないんだと分かった。
次に、この冥さんだけど、これがなかなかに難しかった。
この金にしか執着していない彼女が、いくら可愛がっている後輩の頼みでも、高専離反に手を貸すのか?というところからして疑わしい。そんなことをしても冥さんには何のメリットもないからだ。
それでもが冥さんに金を出したのならワンチャンあるか?とは思った。でも冥さんを追求しても「知らないねえ。彼女の行き先はこっちが知りたいくらいだよ」とさらりと交わされた。
そうなると証拠もないのに、深く追求も出来ない。だから一旦保留にして――今日にいたる。
やっぱり僕の勘は半分当たっていたようだ。
冥さんの凄いところは、この十年、僕に尻尾をつかませなかったことだろう。
が行方不明だった間、何年かは一緒にいたらしいが、そんな中でも普通に高専の任務もこなしていた。時々僕に会ったりもしていたし、硝子や七海、補助監督になった、もう一人の後輩、伊地知を含めた飲み会でも顔を合わせてたってのに、の毛ほどの残穢すら残さず、僕らと会ってたんだから恐れ入る。
因みに冥さんが協力したことを知っているのは僕だけだ。が迷惑をかけたくないといって、上層部のジジイどもにも話していないらしい。

――絶対に言わないで。

送っている途中。僕に高専を離れてからのことを話してくれたは、最後にそう哀願してきた。お世話になった冥さんが、自分のことで処罰を受けるのは嫌なんだろうと思ったし、僕も当然そんなことは望んでいない。が無事に手元へ戻ったのだから、冥さんを責める気もない。
ただ、やっぱり――嫌味の一つも言いたくはなるんだけど。

「でも…何で?」
「ん?」
に協力して冥さんに何の得があったのかなと思って」

淡い水色のカクテルを口に運びながら訊ねた。もちろんノンアルコールではあるけど、見た目は普通のカクテルと何ら変わらない。
僕の問いに冥さんはふとアンニュイな視線を僕へ向けた。

「はは…私が何かすると、すぐ損得勘定だと思うんだね。まあ、それも仕方ないか。金になるかならないか。私の原動力はそれだからね」
に協力して金でももらった?」
「もちろん」
「……(マジでもらったんか、この人)」

半分冗談で投げかけた質問だったが、あっさり金をもらったと聞いて、さすがの僕も顔が引きつった。あんな年下の後輩からも徴収するとは、まさに鬼畜の所業。

「まあ、でもあの子の場合は…それだけの話でもないけどね」
「…じゃあ、どうして」
「聞きたい?」

冥さんはテーブルに肘をつき、軽く小首を傾げた。そうすることで、今では長い三つ編みで殆ど隠れている綺麗な顔が、魅惑的な笑みを浮かべているのが見える。

「まさか僕からも取り立てようとしてる?まあ、いくらでも払うけど」
「まさか。話をするだけで五条くんから金は取れないよ」

軽く笑った冥さんは、再びグラスを空にすると、バーテンに「マンハッタンを」と頼んでいる。別名"カクテルの女王"と呼ばれるカクテルで、赤褐色の美しい色合いは、その名に相応しい風格さえ感じる。ま、当然、僕は飲んだことないけど、酒好きな硝子の受け売りで知識だけはある。

「大した理由はないさ。しいて言えば…」
「…言えば?」

冥さんは再び僕へ視線を向けると、それはそれは愉快そうに微笑んだ。

「本気で慌てた五条くんを眺めること」
「……は?」
「はは、そういう顔も出来るんだね」
「…本気で言ってる?」

呆気にとられた僕を見て、冥さんは軽く吹き出している。どこまで本気なんだか、ちっとも分からない。
冥さんは一頻り笑った後で、マンハッタンを味わっている。

「まあ、冗談はさておき」
「…(冗談かよ)」
「本当のことを言えば…から相談されていた」
「相談…?」
「そう。きっと私なら変な情を入れず、聞いてくれると思ったんだろう。何せの方から相談料を払うと言ってきたくらいだし」
「…え、から?」
「いくら私でも後輩の相談に乗るだけで金は要求しない」
「……(ほんとかよ)」
「ん?」
「…コホン。それで?」

心を見透かすように見つめられ、僕は視線を反らして軽く咳払いをした。冥さんは苦笑しながら、話を続けた。

「あの子は高専に来た時から悩んでたようだった。呪術師を続けていく自信もなく、他の仲間ともなるべく距離を置いておきたい。そう思ってた。でも無理だろう?そんなことは。だから余計にモヤモヤが溜まっていく。その溜まったものを私に聞いてもらうことで吐き出してるようだった。いわゆるガス抜きだよ」
「……ガス抜き、ね」
「五条くんからすれば、何故自分に言ってくれないんだと思うだろうね。でも君に言えば、そこには必ず感情が入る。あの頃のは悩みながらも、周りへの情を感じて、呪術師として頑張ろうとしてた。その裏腹な感情を同時に持ちながら、ギリギリで高専にいたんだと思う。でも無理な話だったんだ。呪術師を辞めたい自分、続けようと頑張る自分。相反するものを持ち続けて悩んでた時、次々に理不尽な別れが彼女を襲った。当然、十六歳の少女の心は壊れる」

冥さんは一気に話すと、小さく息を吐いた。

「手を貸したのは、あの頃の彼女の危うさを、当時の私が一番理解してたからさ。彼女は呪術師として優秀だ。だから一旦、高専から彼女を離し、私の傍で育てようと思った」
「…育てる?」
「そう依頼されたからね」
「………え?」

思わず素で驚いてしまった僕を見て、冥さんがニッコリ微笑んだようだった。

「彼女の父親さ」
「……は?父親…?」

一瞬脳がフリーズしたが、すぐに思い出す。
父親ってあれか?が離反したと聞かされ、酷く動揺してたという、あの――。
が消えてから一カ月後、僕が電話でが戻ったか聞いた時も「あんなバカ娘は知らん!」と怒鳴ってきた、あのクソオヤジってことか?

「嘘だろ…あの狸オヤジ…」
「実はの父親は私の先輩に当たる人でね。彼女の母親も良く知ってる」
「えっ?」

そんなの初耳だ。呆気にとられて言葉に詰まる。でも、そこで少しずつ、事情が見えてきた。
要するに、冥さんは最初からの父親に娘を見張るよう依頼されてたってことだ。呪術師になりたくない娘を心配してってとこだろうが、そこまでするか、と本気で怖くなってきた。

「なるほどね…そういうことか」
「ああ、でも誤解しないで欲しいんだけど、はもちろん、そんな事情は知らないし、私に心のうちを相談してきたのは偶然だ。でも彼女の様子が日に日におかしくなっていくのを見て、一度、呪術界とは距離を置いた方がいいと判断したのも私。彼女の父親は反対したが、娘の状態を知って渋々承諾したよ。娘が壊れて呪術師として使い物にならなくなるよりは、多少時間がかかっても心身ともに鍛える方が早いと理解してくれた」

私はあれで良かったと思ってる、と冥さんは静かに言った。
確かに、あの頃のはどこか不安定なところがあった。でも結局、僕は彼女の気持ちを優先しすぎて、向こうから話してくれるのを待っていただけ。僕も若かったというのもあるが、きっと忙し過ぎたんだろう。どこかで心の余裕が足りなかった。傑のことも、のことも、見ていたようで、何一つ気づいてやれなかったんだから。
とは言え、時間をかけすぎだろ。そう思いつつ、ついその気持ちを口にした。

「でも…こんなに時間かける必要が?」
「もちろん。呪術師の勘を忘れさせないようにしながら、心のケアをする為に普通の生活を優先させるのは意外と大変なんだよ」

シレっとした顔で応える冥さんには、本当に苦笑しか出ない。
でも、まあ真相がハッキリして、僕の中にあったモヤモヤも、だいぶスッキリはしてきた。

「なら…冥さんの目から見て今のは…」
「今の彼女なら大丈夫だ。元々芯の強い子だしね。ただ、子供の頃から呪術師たるもの泣き言を言うなとしつけられたせいか、前は痛みを全て自分の中に抱えて消化しようとするところがあったけど、大人になった分、それがしんどいと言えるようになった。一度呪術界を離れたことで、やっと父親の呪いから解放されたのかもしれないね」
「なるほどね…。で…無事にが高専に戻ることになって、冥さんは今回そのクソオヤジから、いくらふんだくったの?」

サングラスをズラして尋ねると、冥さんは意味深な笑みを口元に張り付けたまま「ふふ…」と笑うだけだった。マジで怖い。
まあ、の家は元々名家というだけあって、田舎ではあっても地元の名士。金だけは腐るほどあるというのは調べて分かっている。その時点で冥さんが絡んでると気づくべきだったな、と内心溜息を吐く。

「もう帰るのかい?」

スツールから立ち上がると、冥さんは気怠そうな瞳で、僕を見上げた。

「これからやることがあってね」

僕は僕でが戻ったのだから、色々と考えてることがある。

「ああ、五条くん」

会計をしていると、冥さんが僕を手招きしている。何かと思って引き返すと、彼女はテーブルの上に通帳と印鑑を置いて、僕の方へ滑らせた。

「これをに返しておいてくれないか?」
「これは…?」
「色々な報酬としてが私に支払ったお金だよ。彼女が高専に戻ったら返そうと思って、彼女名義の別口座を作っておいたのさ」
「え…返す気だったのかよ」
「その分、彼女の父親からたんまり報酬は貰ってる。さすがに可愛い後輩から二重にもらえないからね」
「………」

冥さんでもそういうこと気にするんだな、と内心失礼なことを思いつつ、その通帳を受けとり胸ポケットにしまう。でもふと気になり、もう一度、冥さんの方へ視線を向けた。

「今、が高専に戻ったら…って言ったけど…今回僕が偶然彼女と会わなければ…いつ彼女を戻す気だった?」
「今年の繁忙期に入る頃、五条くんにの居場所をリークするつもりだったよ。君は必ず彼女を迎えに行くと思ってたしね。その為に彼女を日本支社に移動させたんだ」
「……え?そうなの?」
「彼女が入社した会社の社長とは懇意にしてるものでね」
「………」

ニヤリとする冥さんに、今度こそ背筋が寒くなり、僕は早々にバーから退散した。やはり冥さんは侮れない人だ。きっとにその会社へ面接に行くよう仕向けたのも冥さんなんだろう。は素直だから何の疑いもなく、今の会社に入り、日本支社へ移動になったことも偶然だと思ってる。

(まさか僕やの仙台出張も彼女が裏で手を回したんじゃ…)

と疑いたくなるほど、彼女の手のひらで転がされてる気がしてきた。

(でも、まあ…それでもいいか。が戻ってくれたなら…)

の態度を見ている限り、いきなり前のような関係に戻るのは難しいかもしれない。けど、彼女に言ったように別れたつもりもなければ、別れる気もない。
結局、十年という長い年月をかけても、消し去ることが出来なかった初恋は、今も僕の心のど真ん中に住みついたままだ。
何度諦めようと思っても、の笑顔が脳裏に過ぎるたび、恋しさは募る一方だった。

「愛ほど歪んだ呪いはない、か。僕もよく言ったもんだな」

ふと、去年憂太に言った台詞を思い出し、苦笑いが零れる。
この歪んでしまった呪いを解呪できるのは、この世でしかいない。

「さて、と。僕は僕のやり方で頑張るとしますか」

明日からはいつでもに会える。そう思うだけで、帰路につく僕の足取りは軽くなった。