第二十九話:ただいま



「本当に急なのね…家の事情って言いにくいこと?」

先日の出張の件で主任に報告もかねて、出勤してすぐに会いに行った際、退社の意向を告げると、酷く驚かれた。それはそうだろうな、とわたしも思う。日本支社に移動してすぐの退社なんて聞いたことがない。

「い、いえ…まあ…その…」

退社の本当の理由を言うわけにもいかず、どうしても口が重くなる。でも、この数秒後、予期せぬ人物の訪問で、社内は一気に騒がしくなった。

「あら…?皆、何を騒いでるのかしら」

わたしと主任は会議室で話をしていた。すぐ隣にはオフィスがある。どうも騒いでるのは商品開発課の人達のようだ。主任が怪訝そうに会議室を出ていく。わたしもその後を追っていくと、そこで信じられなものを目にした。

「うっそー!さんの婚約者だって!超イケメンじゃないっ?」
「うわーだから日本に戻って来たんだー!いいなあ~羨ましい~!背、たかっ」
「いつもがお世話になってます。あ、これ、皆さんに差し入れ」
「わ、これサイフォンのバームクーヘン!これ個体で買うと一袋500円もするのよね」
「ありがとう御座います~!」
「いえいえ」

そんな会話が嫌でも耳に入ってくるのと同時に、見なくても分かる艶のある声。見たら見たで、女性陣より一つも二つも飛び出ている高身長の後ろ姿で、すでに誰なのかは分かるんだけど。
…眩暈しかしない。
五条くんの圧倒的存在感を前に、わたしは言葉もなく立ち尽くすしかなかった。隣で驚愕の表情を浮かべている主任にどう説明しようと、まずそっちで頭を抱える。
そんなあたしの心情など知らず、五条くんはわたしに気づくと、サングラスを外して「あ、」と何とも魅惑的な笑顔で手を振って来た。それ、わざとだろ。わざとだよね?と言いたくなるほど、予想通りの歓声が上がる。

「えー!何で目が青いの?え、ハーフですか?」
「いや、純粋な日本人だけど、生まれつきでね」
「うっそー!本当にイケメンが過ぎるんですけど!」

おかげで先輩達は大フィーバー状態だ。
脳内にパチンコ玉が大量に飛び出し、賑やかな音楽までが流れる光景を思い浮かべ、溜息をつく。いや、わたしパチンコなんてやったことないんだけども。

「…え、さん…もしかして家の事情って結婚するってこと?」
「…え?!い、いえ、まさか――」
「どうも。あなたが主任さんですか?」
「は、はい!」

ダメだ。主任まで目がハートになっている。どうせ何を言っても五条くんの顔面パワーと口の上手さで丸め込まれるに決まってる。
そして予想通り数分後には、チームの皆に「おめでとう!」とお祝いの言葉をかけられる羽目になった…。

「いったい、どういうつもり?!」

午前中は仕事にならず、一旦、五条くんを社外へ連れ出し、隣にある昔ながらの喫茶店に入った。そこで開口一番、文句を言えば、五条くんは「まあまあ、そんなカッカしないの」とシレっとした顔で「あ、カフェラテ二つ」と勝手に注文し始めた。もう溜息しか出ない。

、好きだったろ。カフェオレでいいよね」
「……」

抗議の意味も込めてジトっとした目つきで睨む。でも五条くんはこたえる様子もなく、ニコニコしながらテーブルに肘を付き、身を乗り出してきた。

「そんな唇尖らせてたら、キスしたくなるんだけど」
「……っ?」

両手で慌てて口を隠すと、五条くんは楽しそうに笑いを噛み殺しながら肩を揺らしている。絶対に確信犯だと思う。

「そのクセ、まだ直ってなかったんだ」
「……すみませんね。27になっても子供っぽくて」
「いや、可愛いけど」
「………」
「カフェオレお待たせしましたー」

そこへ間延びした声が割って入り、可愛らしいウエイトレスがカフェオレを二つ運んで来た。でも彼女もまた、五条くんを見て瞳が少女漫画のようになっている。何で皆、この人の外見に騙されるんだと思いつつ、彼の胸に引っ掛けられたサングラスへ視線を向けた。

「それ」
「ん?」
「かけておいて」
「…何で」
「何でって…目立つから!自覚してよ」

キョトンと首を傾げる五条くんにハッキリ言うと、彼は苦笑しながら、カフェオレに砂糖をサラサラ入れ始めた。それが一向に止まらない。相変わらずの飲み方に、最初からコーヒー牛乳でも注文すればいいのにと思う。まあ、喫茶店にコーヒー牛乳があるかは分からないけど。

「これかけちゃったらの顏が良く見えないでしょ」

これまたシレっとした顔で言いながら、やっと砂糖が溶け切ったのか、五条くんはカップを口へ運んだ。
彼のサングラスには特殊な加工が施されていて、かけると景色がサーモグラフィーのように見えるらしい。何でもかんでも見えやすい六眼を守る為のようだけど、それはそれで疲れそうだ。

(まあ…あの目隠し姿でいられるよりはマシか…)

サングラスよりも、目を全体に覆う方が、目への負担は軽くなるようで、あの伸縮性のある目隠しすら特注品ということだ。
綺麗な上に見えやすい眼を羨ましく思ったこともあるけど、本人なりの苦労はあるらしい。

「あ、、今日は何時まで?」

まだわたしの質問にも答えていないのに、五条くんはニコニコしながら訊いてくる。わたしは溜息交じりで、気持ちを落ち着かせる為にカフェオレを飲んだ。

「引継ぎあるから遅くなる」
「だから何時?」
「……午後8時くらいまではかかると思う。どうして?」
「迎えに来ようかと思って」
「…何で?っていうか…五条くん、任務あるんでしょ?」

わたしが高専にいた時から、五条くんは忙しかった。それは特級に上がって更に加速し、常にあちこち飛び回ってた印象がある。だからこそ、離反した時はしばらくバレずに済んでたくらいだ。

「まあ、これから名古屋だけど、ちゃちゃっと行って祓ってくるから夜までには余裕で戻って来れるよ。他の任務も入ってるけど、それは全て都内だし。だから8時に迎えに来るよ」
「え…何で?」
「何でって…そりゃに会いたいから」
「今、会ってる」
「そうじゃなくて、もっと落ち着いた場所でってこと」
「…落ち着いた場所って…?」

念の為に尋ねると、五条くんの艶のあるくちびるが綺麗な弧を描いた。

「例えば…今のの家、とか」
「は?何で…」
「だって引っ越しの準備とかしなきゃでしょ。手伝うよ」
「……う…そ、それは…」

そう。高専に戻るにあたり、わたしは引っ越しを余儀なくされた。
今のマンションは会社所有のもので、いわゆる寮として提供された部屋だからだ。日本に戻り、少し落ち着くまでの仮宿みたいなものだったから、年内には引っ越そうと考えていた。
でも今回、会社を辞めることになったせいで、すぐに出なきゃいけなくなってしまった。まあ、来たばかりで荷物もそんなにないんだけど。

「準備なんてそんなにないもん。家具設置されてる部屋だから私物は服とかしかないし…」
「ふーん。じゃあ今日中でも出れそうだね」
「……っ?」
「荷物ないんでしょ。ならトランク一つで出れるだろ」
「で、でもまだ仕事が残ってるし…」

そもそも次の部屋さえ探してないのだから、いくら荷物が少ないからと言って、今日中に出て行けるはずもない。
そう思っていると、五条くんは意味深な笑みを浮かべて小首を傾げた。

「仕事は残ってるからって今のとこ無理に住まなくてもいいと思うけど。先に住む場所を決めておいた方が、落ち着いて引継ぎ出来るだろうし」
「だ、だから今日中に住む場所なんて探せるはずが――」

と言いかけた時、目の前に可愛いキーホルダーのついた――グッチだ!――ピカピカの鍵を二つほど置かれた。

「……こ、これは…?」
「ああ、こっちがエントランスの鍵で、こっちがエレベーターや、途中のオートロックと部屋の鍵」
「…え?」

そういうことを聞きたいのではなく、と思いつつ、恐々と「…どこの?」と尋ねると、五条くんはこれまた綺麗な笑みを浮かべて、両手を組んだ。

用に作っておいてもらった僕のマンションの鍵だよ」



△▼△



「うわ…大きい…」

築二年という、その真新しい近代的なデザインの建物は、マンションというよりも、天に聳え立つ塔のようだった。
終業後、五条くんは言った通り、わたしを迎えに来た。会社の前で待っている姿を見た同僚や先輩方に、またしても散々からかわれ、おかげで逃げる予定が台なしになった。そのまま五条くんはわたしのマンションに同行。簡単な荷造りをすると、渋るわたしを自分のマンションへと連れてきたのだ。

、おいで」

ポカンと口を開けて、いわゆるタワマンを見上げていると、五条くんは苦笑交じりで手招きをした。でもすぐには動けない。ここまで連れて来られてしまったものの、本当に彼のマンションにわたしも住むんだろうかと、どうしても二の足を踏んでしまう。

、どうしたの」
「…えっと…やっぱりわたし…」

戻る、と言いかけた時、五条くんは業を煮やしたように歩いてくると、わたしの手首をガシっと掴んだ。

「行かせると思う?」
「う…で、でも一緒に住むのはちょっと…早いような…」
「早くないでしょ。お互いにもういい年齢だし、昔のような学生でもない」
「そ、そうだけど…再会したばかりで、いきなり一緒に住むのは急すぎるというか――」
「まあ、からすれば急だろうけど…僕は前から考えてたんだよね」
「…え?」

五条くんはそう言いながら、わたしの手を引いてマンションへ入って行く。これ以上、マンション前でごねるのも人の目があるので気まずい。仕方なく一緒について行くと、ロビーの豪勢さにちょっとだけ目が飛び出そうになった。大きなフロントがあり、そこにはホテルの受付け?と勘違いしそうになるような装いのスタッフが三人立っている。彼らはわたし達に気づくと、丁寧に頭を下げてきた。

「お帰りなさいませ。五条様」
「ただいま。ああ、石崎さん。この子はといって、オレの婚約者だから覚えておいて。今日から一緒に住むことになったんだ」
さま、ですね。かしこまりました」

かしこまられても!とツッコミたいことは沢山あれど、そんな空気でもない。

様。私はここのフロントマネージャーを務めております、石崎と申します。お困りの際は何なりとお申し付けくださいませ」
「え、あ、あの…宜しくお願いします…」


(って、何を呑気に挨拶してるの、わたし!)

婚約した覚えもないのに、一日中、そのワードを聞きすぎて、本当に婚約したんだっけ?と思いそうになるのが怖い。これじゃ五条くんの思うつぼだ。

「ほら、行くよ。

こんな派手な出迎えも、五条くんは慣れてるらしい。サッサとエレベーターに乗りこんで手招きしてくる。わたしの荷物が入ったトランクはしっかり彼が持っているから、逃げるのはもう諦めるしかない。エレベーターに乗り込むと、五条くんは鍵を階数ボタンの版へ差し込み、それから暗証番号を打ち込んだ。その後で最上階のボタンを押している。なかなかにセキュリティが厳しそうなマンションだ。

「…凄いマンションだね。冥さんのとこも凄かったけど、ここは最新設備もあるし更に高そう」
「まあ、こんなセキュリティ、呪術師なら難なく突破できるだろうけどね」

五条くんは笑いながらわたしの頭へポンと手を置く。以前は高専の寮に住んでいたけど、忙しいこともあり、都内にも家を借りようと思ったらしい。
快適な速度で最上階まで上がったエレベーターを降りると、目の前には夜景を一望出来る大きな窓がある。その前には来客用のロビーなのか、高級そうなソファやテーブルが並べられ、観葉植物などがいいアクセントで置かれていた。

「ホテルより凄いね」
「まあ、それがコンセプトらしいからね。ホテルのように快適に生活が出来るっていう。まあ、痒いところに手が届くようなサービス満載で便利だよ。ああ、僕の部屋はこっち」

最上階は二部屋という贅沢な造りになっていて、五条くんの部屋は東南らしい。後ろからついてピカピカの床を歩いて行くと、これまた重厚な黒い扉の前で、五条くんが立ち止まった。
解錠して重そうなドアを開けば、そこは想像以上に広い空間が広がっている。かすかに懐かしいお香のような香りがした。

「え…ここが玄関…?」
「そう。無駄に広いでしょ」

そう言って笑いながら、五条くんはわたしの手を引き寄せた。そのまま額にくちびるを落とすと、ギョっとしたわたしに、ニッコリ微笑む。

「お帰り、

五条くんの長い腕が背中に回って、最後にギュッと抱きしめられた時、一瞬、過去へタイムスリップしたかのような感覚になった。
こんな風に抱きしめられたのは、本当にあの頃以来だったからかもしれない。抱きしめてくれる腕の強さが、思っていた以上に安心して、これまでわたしの中に燻っていた意地も後悔も、全てを受け止めてくれるような気さえした。

「…ただいま」

この時、五条くんと再会してから初めて、素直な言葉が零れ落ちて、自然に涙が浮かぶ。
酷いことをして傷つけたのだから嫌われたと思っていた。五条くんへの罪悪感は、十年という長い年月の中でも消えてはくれなくて。
だから再会した時も凄く怖かった。本音を言えば、今もまだ怖い。
五条くんの想いが強いからこそ、大人になった分、昔のように気軽に受け取ることは出来ないでいる。
でも一つだけ確かなのは――五条くが待っててくれたこと、わたしも本当は凄く、嬉しかったんだと思う。
抱きしめられた時、ふとそう思った。