第三十二話:過去の代償



昨夜、と一緒にテレビで放送された、ある有名な映画を観た。
タイムマシンを発明したじいさんと、仲の良かった高校生が、ひょんなことから過去へ行く羽目になり、最悪の未来を変える為、奔走するというSFコメディだ。
それを観ながら、ふと思った。
もしも、過去を変えられるとしたら――。
僕が真っ先に思い浮かべたのは、十一年前の初夏。
今でも忘れることの出来ない、呪縛のような悔恨が生まれるキッカケを作った、あの日、あの瞬間。
もう少し、自分が色んな状況を想定して動くことが出来ていたなら。
そんなことを何度も後から考えては、打ち消し、また後悔してきた。
いくら考えたところで、失った人たちは戻ってはこないのに。
結果、僕は力を手にし、代わりに親友と恋人を失った。

「これさー。過去で自分の親をくっつけようとするじゃん。ぶっちゃけ親の恋愛って観たくないよね。そう思わない?」
「もー!五条くん、またネタバレする!その癖、まだ直ってないの?」
「え、、これ観たことなかったの?そっちの方に驚くんだけど」
「だってSFって興味なかったんだもん」

彼女は拗ねたように口を尖らせ、僕を睨んでくる。その表情は大人になってもまだ、昔の面影を宿しているように見えた。
懐かしい、少女の頃のは、今も僕の中で鮮明に色づいている。
同時に、見捨てられたような寂しさも、胸にこびりついたまま。
今、こうして手元に戻ったとしても、あの頃の記憶は、傷は、消せないものなんだと実感していた。

「…どうしたの?五条くん。難しい顔して…」
「いや…の怒った顔も可愛いなーと思って」
「…な、何言ってるの…五条くん、ちょっとチャラくなってない…?」

なのに――こうして腕の中へ納めると、愛しい気持ちがこみ上げてくる。

「そんなチャラくないでしょ。僕がこういうことするのにだけだし」

あの頃のがどれだけ追い詰められていたのか、気づいていたようで、僕は何一つ、理解してあげられていなかったんだと。
今なら分かるから。

「ひゃ…キ、キスしないでよ…映画観れない…」

ただ、一つ恨んでいることがあるとするなら、それは――。

「ホッペに軽くしただけでしょ」

僕の想いを、が殆ど理解していなかったこと。
だから、それだけは分からせようと思う。
僕がどれだけ、君のことを好きかということを。



△▼△



午前七時。

「きょ、今日から、またお世話になります」

支給された制服に身を包み、少し緊張しながら頭を下げると、夜蛾学長――出世してた――は、ゴツイ顔を緩めて「良く戻って来てくれたな」と言ってくれた。
高専に戻ることを決めた時、一度挨拶に来たけれど、その時も優しく出迎えてくれたことに、わたしは感謝している。
本来なら、もっと罵倒されてもおかしくないことをしたのだから、普通はこんなに笑顔で出迎えられるものでもない。
そう、今まさに、わたしの隣でジト目を向けている、元同級生のような反応が普通なのだ。

「…ごめんね。七海くん…挨拶が遅くなって…」

一緒に学長室を出ると、前を歩く七海くんの背中へ声をかける。十年ぶりにあった七海くんは、わたしの記憶じゃほっそりした体型だったのに、今では筋肉をつけたのか、がっしりとした体つきになっていた。
それにゴーグルのような眼鏡をして、スーツ姿。
だいぶ昔とイメージが変わって、大人の男性になったなぁと感慨深く見てしまう。

「別に怒っていませんよ」
「…え?」

不意に足を止めた七海くんは、ゆっくりと視線を窓の外へ向けた。

「少し、話せますか」
「え…あ、うん、少しなら。これから五条くんの生徒さんに挨拶に行くの」

わたしのいない間に五条くんは高専の教師になっていた。普通の学校とは違い、高専では学年ごとに指導する教師が異なる。五条くんは一年生が受け持ちらしい。
五条くんは今、呪術実習をする場所の資料を伊地知さんに貰いに行っている。その中からどこの場所に誰を派遣するかを決めるそうだ。

「いいですよ。すぐ済みます」

七海くんは静かに言って、先に校舎を出ると、ゆっくりと校庭の方へ歩いて行く。わたしもその後を追って並んで歩き出すと、一瞬、昔の記憶がフラッシュバックした。

――ちゃん!今日の呪具訓練、二人で組んで七海をやっつけよう!

その記憶の中には、当然灰原くんもいる。――懐かしい。
あの頃はよく三人で集まり、遅くまで色んな話をしていたっけ。
そんな過去の時間を彷徨っていると、唐突に「すみません…」という謝罪の言葉が聞こえてきた。ふと立ち止まって顔を上げると、七海くんがわたしを見下ろしている。サングラスのせいで目が見えないから表情まではハッキリ分からない。でも何となく、申し訳なさそうにしている空気を感じた。

「え…何で七海くんが謝るの…?謝るならわたしの方だよ」
「それは…そうですね」
「……ん?」

いきなり肯定されて眉間を寄せると、七海くんは「冗談ですよ」と笑ったようだった。その笑顔を見て、少しホっとする。

「今の謝罪は……昔、私がに言った泣き言のことです」
「…え?」

そこにはもう、笑みはなく。七海くんはどこか遠い目をしながら、目の前の風に揺れる大木の葉を見上げた。

「…灰原が亡くなった時、自分の無力さが悔しくて情けなくて…どうしようもないほど、腹が立っていた。心が折れたんでしょうかね…彼の死を目の当たりにして…だから、あんなことを」

――私は…卒業したら呪術師を辞めようと…思います。

そう言われて思い出した。七海くんのあの言葉を。あの時、わたしの指を濡らした、缶コーラの水滴の冷たさまでハッキリと。

「高専からがいなくなって、君に言うべきじゃなかったと…後悔しました」

七海くんはそう呟いて、もう一度「すみません」と言った。きっとわたしが消えたせいで、ずっと思い悩んでいたのかもしれない。

「…違うよ、七海くん」
「え…?」
「わたしは七海くんのあの言葉に、救われたんだよ」
「……救われた?」

そう、わたしはあの時、絶望したんじゃない。わたしはあの時、ホっとしてたんだ。
自分だけじゃないんだと、そう思ったから。
苦しければ、逃げてもいいんだと、そう思えたから。

「どっちにしろ、私の言葉がキッカケじゃないですか」
「そうかもしれないけど、でも…あの時、七海くんすら、そうなんだから少しも変なことじゃないって思えたんだよ」
「………」

七海くんは少し呆気にとられたような顔でわたしを見つめると、「アナタという人は…」と呆れたように笑った。そしてジャケットのスーツから、あの日彼に貸したミニタオルを差し出す。

「これ、お返しします。遅くなって申し訳ない」
「え…ずっと持っててくれたの?」
「洗って返すと約束したでしょう」
「……そういうとこ変わってないね」
「人はそう簡単には変わらないこともあります。だからここへ戻ってきてしまった。もそうなんじゃないですか」

君なら、本気で逃げようと思えば逃げられたでしょう、と七海くんは苦笑いを零した。確かにあの夜、五条くんと再会しても、その後だって逃げる手段はあったのかもしれない。だけど、自由に生きることが出来た普通の生活の中で、逆に自分の運命を受け入れることが出来たのだから、皮肉なものだと笑ってしまう。

「わたしはもう逃げない。呪術師からも、五条くんからも」
「…そうですか」

七海くんはふっと笑みを浮かべて頷いた。

「でも…あの人からは逃げた方がいいんじゃないですか?」
「え…?」
「今朝、夜蛾学長に君と結婚を予定してるとか何とか、ほざいてたらしいですから」
「………えっ!」
「まあ、にその気があるなら構いませんが…五条さんと一緒になれば苦労が絶えないでしょうし、あまり私はおススメしないですけどね」

七海くんが心底同情する、といった口調で言うから、わたしの頬がどんどん引きつっていく。まだハッキリ好きだと言った覚えはないのに、結婚とか言われても困ってしまう。
ただ――もし本当にわたしが結婚を意識する日が来たなら、きっとその相手は五条くんしかいないんだろうな、とは思ってる。
この矛盾した気持ちをどうしてくれよう。

「何か悔しい」
「悔しい?」
「昔から五条くんの手のひらで転がされてる気がしてならない」

わたしのボヤきを聞いた七海くんは、一瞬キョトンとした。でもすぐに吹き出すと「私には逆に見えますけどね」と肩を揺らしている。そんなバカな。

「まあ…どっちにしろ…お帰りなさい、

と言って、七海くんは昔のように皮肉めいた顔で微笑んだ。




△▼△



午前八時。


「初めまして。と言います。十年前は皆と同じ、わたしも高専の生徒でした。今度からは五条く…じゃなくて、五条先生のサポートをすることになったので宜しくお願いします」

緊張を覚えつつも、きちんと生徒の皆に挨拶をした。一人、最近入ったという虎杖悠仁くんは「宜しく、先生!」と笑顔で挨拶してくれたけど、もう一人の釣り目の男の子、伏黒恵くんは、何となく驚いたような顔でわたしをジっと見てくる。これ、睨まれてる?
彼らはあの仙台の夜、呪霊と戦っていた男の子達だ。
そして、一昨日合流したという一年生の紅一点。釘崎野薔薇ちゃんは、伏黒くんと同じように目を見開いて――ちょっと血走ってて怖い――わたしの顔を穴が開くほどジーっと見たままだ。

「というわけでー。彼女が僕の初恋の子であり、今カノだから、オマエら失礼のないように接しなさい」
「ちょっと五条くん…変なこと言わないでよ…っ」
「変なことじゃないでしょ。こういう大事なことは言っておかないと、可愛いに手を出すバカが現れるかもしれないし」

悪びれもせず、しれっと言いのけた五条くんに、朝から羞恥心を煽られる羽目になるとは思わない。彼は生徒がいようがいまいが、お構いなしだ。
そして「え、彼女?!」と驚愕の声を上げたのは野薔薇ちゃんだった。

「五条先生の彼女なの?」
「え…あ、いや…まあ…そうとも言うし…そうじゃない気も…」

ずいっと詰め寄られ、狼狽えつつ歯切れの悪い答えを返すと、五条くんはつかさず「そうじゃないわけないでしょ」とくちびるを尖らせた。

「イロイロあんなことや、こんなこともしてる仲なんだし♡」
「……な…っ」

こそっと耳打ちされ、一瞬で頬に熱を持つ。誤解されるような言い方しないで欲しい。いや、一部は誤解じゃないけど、でもアレだって五条くんが強引に――。
先日の夜のことを思い出し、顏だけじゃなく耳まで熱を持つ。
けど、一人焦るわたしを見て、五条くんはくちびるに弧を描いたあと、急に教師の顏に戻った。人を煽るだけ煽って飄々としてる辺り、ほんと変わってない。

「はい、じゃあ、今日の呪術実習は八王子にある廃病院だから、三人とも行くよ~」
「えー…私、東京が良かったなー!」
「え、オレ、八王子でラーメン食いたい!」
「…遊びに行くわけじゃねえんだぞ」

生徒は三人三様の反応を見せつつ、出立門の方へ歩き出す。さっきまで五条くんとわたしに興味津々だったけど、興味は任務先に移ったようだ。まるで昔の自分を見てるようで、何となく懐かしく思った。

「ほら、も行くよ」
「え、わたしも?」

五条くんは教師だけど、わたしは教師じゃない。てっきり他の任務でも振られるのかと思っていたけど、どうやら今日は彼の生徒に同行させられるようだ。

「早く生徒達と打ち解けて欲しいから」
「あ…うん、そうだね。でも…あの虎杖くんって子…ホントに宿儺の器になっちゃったの…?」

あの仙台での夜、わたしが見た異様な光景は、まさにその瞬間だったらしい。
随分と前、わたしと五条くんがまだ生徒の時に行った原宿の任務。あの時に初めて宿儺の指を見つけたけど、まさかアレをあの後も地道に探していたとは思いもしなかった。

「僕も驚いたけどね。まさかあの宿儺を抑え込める逸材が、この時代に生まれてたなんて。でも時々顔を出すから、も悠仁と接する時はそこを意識しつつ気を付けて。何が起こるか分からないから」
「う、うん…分かった」

両面宿儺。わたしも話で聞いた程度だけど、そんなうん百年以上前の呪いが、この世に復活したなんて信じられない。今、虎杖くんが宿儺に飲み込まれでもしたら、この世は終わる。それくらいヤバい存在だというのは肌で感じた。

「ほら、行くよ」
「うん」

でも――五条くんがいるから大丈夫だよね。
繋がれた手の温もりを感じながら、わたしはそっと彼の横顔を見上げる。
そこでふと気づいた。前も意識したことはなかったけど、わたしは随分と呪術師としての五条くんを信頼してるんだということに。

――呪術師に絶対はないのよ。

母の言葉に怯えていた頃の、わたしの常識を丸ごと覆し、死の淵から生還したのは五条くんだった。
当時、色んなことが起こりすぎて、あまり深くは考えていなかったけど、五条くんは生まれたその瞬間から、世界の均衡バランスをも一変させたほどの存在なんだと、今更ながらに実感している。

「ん?僕の顔に何かついてる?」

わたしの視線に気づいた五条くんが、小首をかしげて訊いてくるから、つい悪戯心が沸いた。

「うん」
「えっ?嘘!どこ?」

パっと繋いでいた手を離し、慌てて自分の顔に触れる五条くんがおかしくて軽く吹き出した。

「怪しいアイマスクと…鼻と口」
「………」

笑いを堪えて定番のやつを言えば、五条くんの口が少しだけ尖った。きっと隠れている目も、ジト目になっているに違いない。こういうやり取りが懐かしすぎて、本当はちょっとだけ泣きそうになった。

、笑いすぎ」
「だ、だって…そこまで慌てなくても」
「フーン…そういう態度なんだ」

笑われたのが癪だったのか、五条くんは不意にわたしの顎を指で持ち上げ、自分の顔を近づけてくる。キスをされるのかとギョっとして固まった時、五条くんのくちびるは口元ではなく、わたしの耳元に寄せられた。

「…今夜帰ったらお仕置きしちゃうけど、いーの?」
「……な…何それ…」
「僕、今日任務一つだけだし、帰りは早いから一緒に帰ろうか」
「…う…」

そんな意味深な言葉を吐いて、五条くんはわたしの耳にちゅっと口付けた。ゾクリとした感覚が襲い、ついでに頬が一気に熱を持つ。あの夜から弱みを握られたような気分だ。自分の意志では抗えないほど、感情が揺さぶられてしまう。

「そこー!イチャイチャしない!」

その時、遠くから野薔薇ちゃんが叫んできた。次の瞬間には五条くんも教師の顔に戻っている。「はいはい」なんて笑いながら、生徒達の方へ走って行くのだから、動揺してるのがわたしだけみたいで恥ずかしい。

「ほら、。早くおいで」

五条くんが途中で振り向いて微笑んでくる。差し出される手に軽い眩暈を感じながら、もう一度、その手を掴んでいいのかと、少しだけ躊躇してしまった。