第三十四話:思い出話


昔から、分かりにくいところがある人だった。けれども、再会したら昔以上に分かりにくい男になっていた。非術師の世界で揉まれ、自分が成長したつもりでいたけど、男女のことについては、未だに中学生のままなんだと、五条くんに思い知らされた気分だった。五条くんだけが、大人の男の人になってしまった気分だ。

「あ…いたんスか」

資料室でボーっと去年起きた大規模テロ"百鬼夜行"の資料を読みふけっていると、ドアが開いて五条くんの生徒が入ってきた。釣り目の少年、伏黒恵くんだ。昔、わたしを殺そうとした男の息子。それを知った時は凄く驚いたけど、五条くんがわたしや夏油くん離反の後、その息子に会いに行ったというのも驚かされた。多分、五条くんは会った時に彼のポテンシャルの高さに目をつけたんだろう。強引なやり方で高専に誘ったというのは硝子先輩からチラっと聞いていた。

(確かに…似てる…)

薄っすら覚えてる伏黒甚爾の面影を彼に重ねながら、わたしは「お疲れ様」と笑顔で声をかけた。
伏黒くんは軽く会釈をして中に入ってくると、資料棚の方へ歩いて行く。今日は五条くんが東北の方まで出張ということで呪術実習は休み。だから彼ら一年生は今日一日、普通授業をしていたようだ。
伏黒くんは古い資料が置いてある棚から数冊の資料を取り出し、わたしの方へ歩いて来た。

「ここ、いいスか」
「どうぞー。一人で退屈してたの。あ、コーヒー飲む?」
「頂きます。退屈って…資料読んでたんじゃないんスか」

わたしが席から立つと、伏黒くんは資料を捲りながら訪ねてきた。こっそり彼の持って来た資料に目をやれば、それはうん百年前くらいのもので、彼が何について調べたいのか分かった気がする。

「そうなんだけど、一人で考えてると悶々としてきちゃって。あ、伏黒くん、お砂糖とミルクは?」
「あーブラックで」
「お、大人~。少しは五条くんも見習って欲しい。はい、ブラックお待ち」
「どうも」

コーヒーを淹れた使い捨て用のカップを置くと、わたしは遠慮なく砂糖とミルクを入れる。伏黒くんはそんなわたしを見ながら、ふとテーブルにある資料へ目を向けた。

「…百鬼夜行っスか」
「ん?ああ…話には聞いたんだけどね。ちょっと全体的に知りたくなったというか…」
「それ、オレも高専に入って真っ先に読みました。事件のことは五条先生から聞いてたんスけど、何か深い因縁がありそうだったんで気になって。先生も…当然、知ってたんですよね、夏油傑のことは」
「…うん。よく一緒に映画に行ったりなんかして…優しい先輩って感じだった」

ふと当時の光景が浮かび、懐かしい思いが蘇る。あの頃はモヤモヤしながら呪術師をしていて、でもその中には楽しいと思える時間が沢山あった。

「っていうか、先生ってやめてよ。わたし、教師じゃないから」

前々から気になっていたことを口にすると、伏黒くんはキョトンとした顔でわたしを見た。

「じゃあ……さん?」
「うん、それでお願い」
「了解す」

素直、でいい子そう。愛想はないけども。

――恵は生意気でさ~。いちいち反抗的なんだよねー。

五条くんはそんな風に言ってたけど、こうして接してみると、そこまで反抗的とも思えない。きっと過去に五条くんが強引な何か・・・をしたことで、彼の中に小さな蟠りが残ってるのかもしれない。

「伏黒くんは?宿儺の何を調べてるの?」
「…え…」
「それ、宿儺に関する資料でしょ」
「……まあ。何か…宿儺のことで分かることがあればと思って」

伏黒くんはふと目を伏せて、資料に視線を落とした。きっと虎杖くんの今の状態は、自分のせいだと強く責任を感じてるんだろう。でもあの時の状況を見れば、どっちにしろ二人は危険な状態だった。虎杖くんの選択が、結果二人の命を救ったことになる。

――何か嫌な予感がして僕も急いで向かったんだけど、一歩遅かったんだよね。

ふと五条くんが言ってたことを思い出す。あの夜のことは考えれば考えるほど、恐ろしい偶然としか言いようがなかった。

「あの…」
「え?」
さんがいなくなって…あの人、相当へこんでました」
「…あの人?」
「…五条先生」
「あ…」

伏黒くんはふと窓の外へ目を向けると、かすかに苦笑を洩らした。

「当時、オレはまだ小学生のガキで…いきなり会いに来て訳の分からないことをいう怪しいサングラスの男に困惑しながらも、言う通りにすれば津美紀…ああ、オレの姉さんなんスけど…アイツを守れると思って、少しずつ五条先生に呪術のことを教わってたんですよ。まあ、強引に自分の任務にオレを連れて行って、無理やり戦わせたり、ムチャクチャされたんスけど…」
「…やりそう」

徐に顔をしかめる伏黒くんを見て、つい吹き出した。五条くんは予想通り、伏黒少年に過酷な経験をさせてたようだ。

「その頃に…聞いてたんです、さんのこと」
「…わたしの…」

ドキっとして顔を上げると、伏黒くんは視線をわたしに戻して苦笑いを浮かべた。

「彼女に貰ったっていうブレスレットを大事そうにつけてて、オレがフラれたクセに未練タラタラだなって言うたび、絶対フラれてないって言い張るのが面白くて、よくからかってたんスよね」
「……伏黒くんて…地味に意地悪い?」

恥ずかしさがこみ上げて、ついそう言えば、彼は小さく吹き出した。聞けば、もっとそれ以上の意地悪を五条くんから受けてたようで、きっと子供心に意趣返しのつもりだったのかもしれない。
伏黒くんは一頻り笑うと、意味深な笑みを浮かべて視線をわたしへ向けた。

「でも…五条先生の言う通り、フラれてなかったみたいスね」
「えっ?」
「…あれ、ヨリ戻したんスよね」

当たり前のように、わたしが戻った状況を受け入れてる伏黒くんに驚きつつ、明確な答えが浮かばない。わたしは五条くんと関係を戻したいとか、そこまで考えて高専に戻ったわけじゃないからだ。
そもそも五条くんに許してもらえるとさえ思っていなかった。だから五条くんが再会当初から前のように接してくることに、まだ戸惑っている段階ともいえる。

「えっと…」
「あれ…何かオレ、マズいこと聞いちゃったスか」
「え?あ…違うの。それはこっちの問題というか…」

微妙な空気を感じ取ったのか、伏黒くんが申し訳なさそうに頭を掻いている。でも周りから見れば、一緒のマンションに住んでるわけだし、ヨリを戻したと思うのも当然だろうな。

「それ…」
「え…?」

どう応えようか迷っていると、伏黒くんはわたしの胸元を指さしていた。視線を下げると、そこにはあの夜、五条くんにもらったネックレスが下がっている。いつもはシャツの中に隠してるけど、今は制服の上着を脱いでシャツのボタンを三つほど外しているから、かすかにと見えてる状態だ。

「あのブレスレットとお揃い…スか?」
「う…ま、まあ…」

伏黒くんがニヤリとするから頬がじわっと熱くなったのが分かる。何か見られたくないところを、覗き見られたような恥ずかしさがこみ上げてきた。
伏黒くんは苦笑交じりで「残念」と呟いた。

「…残念…?」
「やっぱりヨリを戻したってのは嘘で、五条先生がまたさんにフラれたなら…からかう材料が出来たと思ったんスけどね」
「な…何、それ…」
「でもそれ付けてるってことは…五条先生の勘違いってわけじゃなさそうだ。だから…残念」
「それは…」

捨てられないから、とは言えなかったけど、でも実際はそうなんだ。捨てなくても外すという選択肢だってあったのに、何故かそれも出来なかった。これをつけてくれた時の五条くんを思い出すと、どうしても。
今じゃわたしの一部みたいになってるから、意識もしてなかった。まさか彼の生徒にバレてしまうなんて、やっぱり少し恥ずかしい。

「まあ、最近の五条先生の浮かれ具合を見てると、ちょっとウザいけど、機嫌悪い方が困るんで……あの人のこと、宜しくと言っておきます」
「伏黒くん…」
「あ、じゃあ…オレは部屋戻ります。コーヒーご馳走様でした」

資料を持ち、伏黒くんは来た時同様、軽く会釈をして資料室を出て行った。見ればカップは空になっている。

「よ、よろしくと言われても…」

これって生徒公認というやつ?と思うと、少し気恥ずかしいものがある。
伏黒くんとは初めてこんなに話したけど、芯のしっかりした真っすぐさを感じた。でも、どこか脆さを合わせ持っているような、そんな危うさも同時に感じる。

(さっきチラっと話してたけど、彼のお姉さんは現在も眠ったままだって、五条くんが言ってたっけ)

原因不明の呪い――。そんなことがあるのかと驚いたけど、この世界では解明されてないことの方が多い。原因が分からなければ、対処法もまた然り。

(ツラいだろうな…。たった一人の身内がそんな状態じゃ…)

使ったカップをゴミ箱へ捨てると、読んでいた資料を元の場所へ戻してから部屋を出る。窓から見える夕焼けが廊下をオレンジ色に染めていて、昔の光景が一瞬、脳裏を過ぎった。

――夏油が、村の人間を皆殺しにして行方不明になった。

十年前、この廊下で夜蛾先生に告げられた衝撃は、今もまだかすかに残っている。でも結局、資料を読んだところで、わたしの知りたいことは書かれていなかった。
あの頃、夏油くんが心のうちに秘めていた葛藤も、何故そんな答えに至ったのかという経緯も、何も分からないままだ。

――傑の最期は僕が覚えていればいい。の記憶にある傑を覚えててやって。

高専に戻って少しした頃、夏油くんのことを尋ねたら、五条くんにそう言われた。きっと呪詛師に堕ちた夏油くんのことは、わたしにあまり語りたくないんだろうなと思う。
だから、わたしは、大人になった夏油くんのことを何も知らない。
記憶にあるのは、今も高専の制服を着て笑っている、優しかった夏油くんの姿だけだ。

「…さよなら。夏油くん。そして…色々ありがとう」

高専の敷地で最期を迎えたという夏油くんの魂が、今は安らかであるようにと、綺麗な夕焼けを見上げながら静かに祈った。