第三十九話:今更ですが



「ったく…何でこんなことになってるんだ」
「ごめんなさい…」

硝子先輩は呆れたように気怠い視線をわたしに向けながら「はい、終わり」と言って治療を終えた。
任務中、ちょっとの油断で呪霊の攻撃を受けてしまったわたしは、左肩を大きく裂かれて大怪我を負った。でも同時にわたしを襲った呪霊はこっちの術式範囲内に近づいてきてくれたから、無事に祓うことは出来たんだけど…

――だ、大丈夫っスか!さん!

同行してくれていた補助監督の新田さんが一部始終を見ていて、慌ててすっ飛んで来てくれたのを見たわたしは、そこで気が抜けて意識を失ってしまったらしい。気づけば硝子先輩のいる医務室だった。
何でも意識を失ったわたしを、新田さんが車まで担いでくれて、高専についた後は、ちょうど居合わせた一年ズの男子二人が、ここまで運んでくれたらしい。学生たちの手まで借りてしまうとは思わなかった。

「補助監督の子、凄く心配してたよ。後で元気な顔を見せてやれ」
「そうします…」
「あーあと、虎杖くん達にもジュースくらいおごってやんな」
「うん。ついでにケーキでも買ってこようかな」

塞がった傷口を見て感心しながら、ふと駅前のケーキ屋さんを思い出す。あの店のシフォンケーキはふわふわで最高なんだと言って、五条くんも時々買ってきてくれるから、わたしもすっかりファンになってしまった。

「硝子先輩にも買ってきますね。手当てありがとう御座います」

軽く肩を回してみても違和感がほとんどない。硝子先輩は昔から凄かったけど、今は更に治療も早くなった気がする。
ただ、今日一日は負傷した方の腕はあまり動かすなと言われた。

「傷は塞いだけど一応安静だ」
「そうですね…気をつけます」

左肩で良かったと思いながら頷くと、硝子先輩はコーヒーを淹れてわたしの前へ置いた。え?と思って顔を上げると、意味深な笑みを浮かべながらわたしを見下ろしている。こういう時は休憩に付き合えということだ。
でも硝子先輩はわたしの顔をジっと見つめると「それで…」と言葉を続けた。

「その顏は何か話したいことがあるんじゃないの?」
「え、そんな顔してました?」
「まあ、今日のミスのことも合わせて考えると、何か悩んでるのかなと深読みはしたけどな」

なるほど、鋭い…と、つい苦笑が漏れた。
硝子先輩は昔からさり気なくわたしの気持ちを察してくれるところがある。あからさまに心配をするわけじゃなく、気づけばそっと寄り添ってくれているような優しさを感じることが多かった。

「で?可愛い後輩は何を悩んでるのかな?」

椅子を引いて腰を下ろすと、硝子先輩はおどけるような口調で言った。
悩み、というほどのことなのか、自分でもよく分からない。だけど確実に日々の生活には影響してるし、自分でどうすればいいのか分からないといった意味では悩みと言える。

「どうせ五条のことだろ」
「…へ?」

どういったものかと思案していると、硝子先輩が先に切り出した。しかもドンピシャでその名前を出してくるのだから、恐れ入る。

「な、何で…そう思うんですか?」
「そりゃ今のが悩むと言えば、アイツのこと以外に思いつかないから」
「はあ…そう言われれば…そうとも言える…」

この前、変なのには誘拐されたり、今日も小さなミスをしたことを除けば、まあ呪術師として任務は上手くいっているとも言える。その他、一般的に職場での悩み第一位の理由に上がる「人間関係」も、ここ高専ではないに等しい。事務職員や補助監督、教師に生徒とも、わたしなりに上手くはやれてると思う。そうなると後はプライベートしかないだろう。硝子先輩も普段のわたしを見て、一番可能性の高いものを口にしたに過ぎない。
ただ、その消去法は大正解なのだから、自分の単純さには笑ってしまうほかなかった。

「で、五条の何に悩んでる?まだ一緒に暮らしてるんだろ?」
「はあ…まあ…」

何度も寮に住むと言ってみても、五条くんに却下され続けて、いつの間にかあのマンションが我が家のようになってしまってる。五条くんは何が何でもわたしを傍に置いておきたいようだ。それはきっと、またいなくなってしまうんじゃないかという心配も含まれてるのかもしれない。

「よくあの自己中男と暮らしてられるな。ああ、でも悩んでるというなら、やっぱり何か困ったことでもあったということ?」
「え…あ…でも思ってたほどじゃ…結構何でもやってくれるし…」
「は?あの五条が?」
「え?あ、まあ…料理とか…掃除もわたしより数倍うまいですよ」

硝子先輩が唖然とした顔をするから、つい笑ってしまった。五条くんはよっぽど怠慢に思われてるのかもしれない。まあ学生時代のことを思えば仕方ないことだけど。

「へえ…変われば変わるもんだな…そろそろ地球も破滅に向かってるかもしれないぞ」
「そんな大げさな…」

コーヒーを飲みつつ、真顔でそんなことを言うから、つい窓の外を見てしまった。今朝は晴れてたのに、午後からは雲が増えて、今はすっかり曇天空になっている。この様子だと夜には雨が降り出しそうだ。
早く梅雨明けしないかな、と思っていると、硝子先輩が再び「じゃあ何に悩んでるんだ?と訊いてきたから、ハッと視線を戻した。

「えっと…悩んでると言うか…よく分からないと言うか…」
「…もっと分かりやすく言ってくれ」

長い髪を掻き上げながら、小首をかしげる硝子先輩はすっかり大人の女性そのものだ。絶対に恋人の一人や二人いるだろうし、わたしより経験値がある気がする。なら今のわたしのモヤモヤの答えを、硝子先輩がくれるかもしれない。

「あ、あの…ですね」
「うん?」

思い切って五条くんとの今のよく分からない関係を硝子先輩に相談しようと思った。でも覚悟を決めた途端、何の前触れもなくバンっという音を立ててドアが開く。ギョっとしたのはわたしだけじゃなく、硝子先輩も同じだった。

「おい、ノックくらい――」
!ケガして運ばれたって?!」
「ご…五条くん…っ?」

医務室に勢いよく飛び込んできたのは五条くんだった。
五条くんは「勝手に入ってくるな」という硝子先輩の文句を軽くスルーして、唖然としているわたしの前にあっという間に歩いて来た。

「どこ怪我したの。治療は?」
「え?あ、あの…か、肩を…治療はしてもらったよ…」

身を屈めてわたしの両肩を掴んでいた五条くんは、ケガした場所が肩だと分かると、慌てたようにパっと手を離して硝子先輩の方を見た。きっと容体を聞きたいんだろう。それに気づいた硝子先輩は、突然の乱入者に溜息を吐きつつ、「大丈夫だ」とひとこと言った。

「私が治療したんだから、五条が心配するほどじゃない」

それを聞いた五条くんはホっとしたように「良かったー…」と言いながら、その場にしゃがみこんでしまった。まさかこんなに心配されるとも思っていなかったから、やけに照れくさくなってきた。

「ったく…アイツらが大げさに騒ぐから…」
「…アイツら?」
「…補助監の新田とか、悠仁や恵も…"五条先生!大変です!さんが大怪我を!"って新田から聞かされて、その後に会った悠仁からも"顔なんか真っ青で血がドバーッ!でさー!全然意識なかったんだよ!"とか言われちゃ~いくら僕でも焦るでしょ…」
「……ご、ごめん」

合間にいちいち新田さんや虎杖くんのモノマネを織り交ぜるから、ちょいちょい吹きそうになったけど、五条くんは本当に心配してくれたらしく、げんなりしてるから必死で笑いを堪えていた。
それにしても、そんな大ごとにされてるとは思わなかった。ただ彼らが話したのはあながち嘘でもなく、ケガ自体は重症だったのだ。硝子先輩が優秀なだけで。

「で…何でそんな怪我を負ったわけ?」
「う…」

五条くんはアイマスクを下ろしながら立ち上がると、ジトっとした目で見下ろしてきた。
怪我の理由を聞かれると言葉に詰まってしまう。任務中に一瞬だけ考え事をしてたなんて言えば、絶対に怒られるからだ。それに何を考えてたんだと追及されても、まさか五条くんのこと、とは口が裂けても言いたくないと思った。

「ちょ、ちょっとよそ見を…」
「一級相当の呪霊を前に?」
「……ごめん」

今日、対峙した呪霊は知能が高く、わたしの術式を見て咄嗟に距離を取って攻撃してきた。どちらかと言えばわたしは接近戦タイプだ。
五条くんとは違って術式の範囲が狭く、体術なども駆使して戦うので、距離を取られ、かつ遠距離攻撃を仕掛けてくる敵に対しては、かなり相性が悪い。だからこそ余計に集中しなければいけない案件だったのにも関わらず、寝不足が祟って、一瞬だけ集中が途切れてしまった。そこを狙われて攻撃を受ける羽目になったのだ。まあ相手はわたしが倒れたのを見て近寄って来たから、意識が朦朧としたけど、すぐに術式で内部破壊をして祓うことが出来たのは良かった。あのまま遠距離から攻撃されていたら、避けられたかどうかも分からない。

「ったく…あんまり心配かけないでよ」

五条くんはわたしの頭に手を置いてポンポンとしてくれた。それだけで容易く心臓が反応するんだから、地味に重症だ。

「硝子、もうは連れて帰っていい?」
「ああ。でも今日一日は安静にしてやれ。傷口が塞がったと言っても血を流したことには変わりない」
「分かってるよ。じゃあ、行こうか、
「う、うん。じゃあ…硝子先輩、ありがとう御座いました」

最後にもう一度硝子先輩に頭を下げると「今度、酒でも奢って」という言葉が返ってきた。何とも硝子先輩らしいなと思っていると、五条くんが「うわ、後輩にたかるなよ」と突っ込んでいる。こういうやり取りを見るのは久しぶりだ。

「ったく。高専の女術師たちは冥さんを筆頭に後輩でも関係なくたかるのが多くて参るよな~」
「またそんなこと言って…。それにたかられたじゃなくて、お礼やお願い事を聞いてもらっただけだし」
「でもお金を取る必要なくない?そこは後輩なんだし無償でいいでしょ」

五条くんは口を尖らせながらブツブツ言っている。その横顔が学生の頃の五条くんと重なって見えて、軽く吹き出してしまった。

「何笑ってんの?」
「だって…五条くんが怒ることないのに」
「何で?は僕の婚約者なんだから、先輩のカツアゲにあってたら、そりゃ怒るでしょ」
「……カ、カツアゲって…」

婚約者、と言われて頬が熱くなった。ついこの前までは「また勝手にそんなこと言って」と文句を言ってたはずなのに、今はそのワードを聞くだけで心臓がぎゅっと変な音を立てる。

「あ、伊地知」
「え?」

顔を上げると、確かに伊地知くんが前方から歩いて来るのが見えた。五条くんを送ってきたはずだから、様子を見に来たのかもしれない。

「あ、五条さん!さんも!ケガの具合は大丈夫なんですか?」

伊地知くんが心配そうに走ってくるから「もう平気だよ」と答えた。伊地知くんは一瞬だけホっとした笑顔を浮かべたものの、つかさず五条くんが「伊地知~」と肩に腕を回すから、口元がすぐに引きつっていく。きっと何か無茶な頼まれごとをするのでは?という恐怖からかもしれない。
そんな伊地知くんの心を知ってか知らずか、五条くんは案の定、お願い事をし始めた。

は安静にしなきゃいけないから、やっぱマンションまで送って」
「えっ?で、でも私、これから学長の用事で出かけないと――」
「あ、伊地知~。ジュース買って。これとこれ。僕との分。道中で飲むから」

途中、自販機の前を通りかかると、五条くんが伊地知くんにたかりはじめるから、こっちがギョっとした。

「えっ?私が奢るんですか?」
「当たり前じゃん。僕、先輩だし、オマエ後輩でしょ。先輩のお願い聞けないっての?」
「い、いえ…そういうわけでは…」

まるで「焼きそばパン買って来い」とパシリに行かせるヤンキーみたいなたかり方だ。というか、五条くんは昔から高専のジャイアン的な立ち位置だったことを思い出す。そしてさっきの言葉が脳裏を過ぎった。

――後輩にたかるなよ。

特大ブーメランでも彼には関係ないらしい。人はダメでも自分がたかるのはいいなんて、やはりリアルジャイアンな五条くんらしいなと苦笑が漏れた。
結局、伊地知くんはジャイアンから逃げられないのび太くんだったようだ。しっかりマンションまで送らされて、ジュースも買わされてた。だからコッソリ「ごめんね。今度ご飯奢るね」と伝えたら、更に青い顔で「五条さんに殺されるのでご遠慮します…」とあっさり拒否られてしまったけど、硝子先輩を餌にしたら手のひら返しですぐに釣れた。伊地知くんもなかなかに素直な男だと思う。

「じゃあ、は何もしないで大人しく休んでて。僕が全部やってあげるから」

マンションに戻って来たら、早速五条くんが張り切りだして、部屋着に着替えた後に、すぐキッチンへ立った。それを見てたら、ただ座ってるのも気が引けてしまう。

「でも…痛みはないし大丈夫だよ」

というか五条くんが全部やってくれるのは今日に限っての話じゃないけど。

「いいって。安静にしてろって言われたでしょ」

五条くんはそう言いながら、まずは紅茶を淹れてくれると、わたしの隣に座ってニッコリ微笑んだ。何か凄く嫌な予感がする。

「あまり肩は動かしちゃいけないって言ってたし、お風呂も僕が入れてあげるから」
「……えっ?」
「だって髪を洗うの大変でしょ。だから――」
「い、いい!お風呂くらいは自分で入れるし…っ」

いくら何でもお風呂は嫌だ、煌々と明るい場所で見られると思うと、恥ずかしさで死ねる。わたしが速攻で拒否ると五条くんは「えー…」と不満そうに口を尖らせたけど、これだけは譲れない。わたしが頑なに拒否をしていると、五条くんは「つまんないなー」とブツブツ言いながら、隣で紅茶を飲み始めた。この様子だと諦めの方向へ向かってるようだ。

(よ、良かった…)

内心ホっとしながら、わたしも紅茶を口へ運ぶ。五条くんが淹れてくれた紅茶はいつも凄く美味しくて、飲むと気分が落ち着くのだ。

「美味しい?」

温かい紅茶の香りを楽しみながら飲んでいると、五条くんが微笑みながらわたしの顔を覗き込んできた。いつも半分は顔を隠しているサングラスも、とっくに外してるから、綺麗な瞳にわたしの顔が薄っすら映っている。

「うん、美味しい…疲れた体に沁みる…」
「そのことなんだけどさ~」
「…え?」

五条くんは身体ごとわたしの方へ向くと「最近、忙し過ぎでしょ」と不満そうに目を細めた。忙しすぎるとはきっと任務のことだろう。ここ最近はあまり休みも取れず、常に国内を駆けずり回ってる気がする。だから今日みたいに近場の任務は楽な方だ。

「そっちこそ…忙しいでしょ」
「僕はまあ疲れないし。でもは長いブランクがあって復帰したばかりなんだし、少しは任務も考えて受ければいいのに」
「それは…」

五条くんの言いたいことも分かる。でも本当に人手不足のせいで術師が足りないのだ。わたしで役に立つならと、つい何個もかけもちしてしまってるのは分かってる。そのせいで今日の小さなミスに繋がったことも。

(まあ…寝不足は半分、五条くんのせいもあるんだけど…)

と思いつつ、そこは敢えて黙っておく。
すると五条くんは「ん」と言って、いきなり両手を広げた。

「え…?」
、ちょっと疲れてるだろ。だからおいで」
「……な、何…?」
「ぎゅーってしてあげる」
「……っ」

ドキっとして身を引くと、五条くんは「ほら、早く来て」と急かしてきた。こんな改まって抱きしめられるのも、かなり照れ臭い。

「疲れてる時は誰かに抱きしめられると癒されるって、恋愛系ユーチューバーが言ってたんだよねー。だからも癒してあげるよ」
「え、そ、そうなの…?」

っていうか五条くん、そんな動画を見てるわけ?まあ出張で移動中は暇だから色んな動画を見るとは言ってたけど…と頭でアレコレ考えていると、焦れた五条くんの腕が伸びて、強引に抱き寄せられてしまった。

「ちょ、ちょっと…」

言った通り、本当にぎゅーっと抱きしめられて、ちょっと苦しい。
だけど――何故か本当に心が満たされて癒されてるような感じがした。

「どう?癒される?」
「…そ、そんなの訊かれても…応えなくちゃいけないの…?」
「だって本当に効果があるか知りたいし」
「…何それ」

五条くんの言葉に思わず吹き出してしまった。でも五条くんの香りに包まれて、体温を感じていると、自然に脱力するのを感じた。どうやら自分で思ってるよりも、わたしは本当に疲れていたらしい。
きっと任務のことだけじゃなく、この10年、こんな風に誰かに抱きしめてもらったことはなかったから。

「……安心する」
「ん?何か言った?」
「……何でもないよ」

昔、当たり前のようにあったこの腕を手放したのはわたしの方だった。
そのことを今更ながらに後悔して、少しだけ泣きそうになる。
わたしはきっと、昔から五条くんを好きだったんだ。
ちょっと意地悪で、口が悪くて、デリカシーの欠片もない。
だけどわたしのことを凄く大切にしてくれた。今ならハッキリとそれが理解できる。
わたしはもっと早く、そのことに気づくべきだった。
今は心から、再会できて良かったと、そう思うことが出来た。