第四十話:愛は矛盾している



「具合はどうだ?」

朝食を食べに食堂へ行くと、そこには硝子先輩がいた。夜勤上がりに食事を摂りに来たらしい。

「おはよう御座います。おかげ様で何とか」

そう言いながら硝子先輩の隣に座った。見れば硝子先輩もわたしと同じ焼き魚定食を食べている。「夜勤明けに重たいものは食べたくない」そうだ。
わたしもある意味、似たような感覚だった。というのも、昨夜は五条くんが「大量出血したならこれだね」と言って、あれから買い物に行ってくれた際、これでもかとレバーを買い込んできた。レバニラ炒めにレバーの唐揚げ、ペースト状にしたレバーでアレンジされた炊き込みご飯。最初は「うげ」と思ったものの、食べてみたらどれも見事に美味しかった。美味しかったけど、今朝はやっぱりシンプルなご飯が食べたくなった。

「へえ、あの五条が料理…ねえ。まあ器用な奴だから何でもそつなくこなすしな」
「そうですね」
「で、その五条は?」
「あ、何か朝早くに伊地知くんから連絡入って、緊急の任務らしいです。朝一で青森まで行きました」
「青森…?アイツも相変わらず多忙だな」

硝子先輩は苦笑交じりで言うと、食事を終えて立ち上がった。

「で、も今日は内勤だろ?」
「あ、はい。昨日のケガのことを考えて学長が今日はそうしろって。気を遣ってくれたんですかね」
「まあ、そうだろうな。じゃあ…後で私のところにおいで」
「え?」

肩をポンと叩かれ、思わず顔を上げると、硝子先輩は「相談、あるんだろ?」と苦笑した。

「昨日は邪魔が入って聞けなかったからな」
「あ…そう、ですね…」

そう言われて思い出した。確かに昨日、五条くんのことで硝子先輩に相談してみようかと思っていた。これ以上、一人で悩んでいても答えなんか出ない気がするのだ。

「じゃあ、後で。あ、その後にお酒でも行きます?」
「病み上がりのくせに、いいのかな?五条が心配するだろ」
「五条くんなら夜遅くまで戻らないと思います。青森での任務も一件だけじゃないみたいだし」
「なら、そうしよう」

硝子先輩はあっさり言うと「それまでわたしは休んでるよ」と笑って食堂を出て行った。きっとまた寮に戻らず、医務室のベッドで寝ちゃうんだろうなと思いつつ、その背中を見送った。


△▼△


「お、さーん!」

校庭で呪具訓練をしていると、遠目でさんが歩いて来るのを見た虎杖が、大きな声で叫びだした。両手まで振ってる姿を見て、釘崎が「ガキかよ」と苦笑してるのを横目に、スポーツバッグからタオルを出して額の汗を拭く。そのままチラっとさんの方へ視線を向けると、彼女も虎杖に気づいて笑顔で手を振りながら、何故かこっちへ歩いて来た。

「うわ、懐かしー!呪具訓練?」
「そ。オレがど素人だから伏黒に教えてもらってんの。なぁ?伏黒」
「…別に教えてるってほどじゃ…」
「まーた捻たこと言っちゃって」
「うるせーぞ、釘崎…。それより怪我は大丈夫なんスか、さん」

横から茶々入れをしてくる釘崎を睨みつつ、さんに視線を戻すと、彼女は「昨日はありがとう。ごめんね、面倒かけて」と言ってきた。

「はい、これ。練習後にでも食べて」

そう言って彼女が差し出したのは、五条先生が日々通っているケーキ店の箱だった。何でもシフォンケーキが絶品だとかで、五条先生がお気に入りらしい。

「えっオレ達に?いいんスか?」
「うん、もちろん」

虎杖は単純明快で素直な男だから、嬉しいといった顔を惜しげもなく披露して、ケーキの箱を受けとっている。でもそこへ乱入してきたのが釘崎だった。

「うわ、ケーキ?!やったー!」
「いや、ちょっと待て、釘崎!オマエ、昨日いなかったろ。関係ないよな?」
「ハァ?アンタ、それ伏黒とだけ食べるワケ?」
「あ、ちゃんと野薔薇ちゃんの分もあるから大丈夫だよ」

二人が揉めるのを見かねてさんが口を挟むと、案の定釘崎がどや顔で「ほーら」と何故か偉そうに胸を張る。昨日何もしてないくせに、態度だけは五条先生並みにデカい。

「皆で二つずつあるから食べてね」
「ウっス…何か…却ってすんません」

オレが軽く頭を下げると、自分だけいい子ぶるなと、またしても釘崎が文句を言いだした。コイツは何かしらケチをつけなきゃ気が済まないのか?と首をかしげたくなる。"文句だけ選手権"なんてものがあれば、間違いなく釘崎が優勝するだろう。

「その後、どうっスか?」
「え?」
「五条先生と」

虎杖と釘崎が今度はどのケーキを誰が食べるかでモメだしたのを見て、こっそり尋ねると、彼女は僅かに頬を赤らめた。この手の話はよく分からないが、五条先生があれほどしつこく振られてないと言ってただけあって、彼女もやっぱりあの人のことが好きなように見える。十年も会っていなかったというのに、互いに忘れてないって、ある意味凄い。

「まあ…何とか」
「昨日、さんの容体聞いたら真っ青な顔して医務室にすっ飛んでったけど――」
「…う…き、来た…かも。虎杖くんが大げさなこと言うから」
「いや、でも大げさじゃなく、ホントに重症だったし」

新田さんに呼ばれて車が止まってるとこまで駆けつけた時、血まみれで意識のないさんを見て、オレでさえ背筋に冷たいものが走った。彼女は顔が真っ白で血の気がなく、もう死んでるんじゃないかと心臓が変な音を立てて、脳裏に眠ったままの津美紀や、さんを大事に思っているであろう五条先生の顏が過ぎった。あの人が大切な存在を失ったら、と考えたら怖くて体が動かなかった。でもそんなオレを押しのけて動いたのは、虎杖だった。

――医務室に運ぼう!

ああいう時、虎杖は目の前の現実をそのまま受け止めることが出来る男だ。何をすべきかを本能的に分かっているのかもしれない。躊躇うことなくさんを抱き上げて、医務室まで運んだのは虎杖だ。
さんはオレに「ごめんね」と「ありがとう」をくれたけど、それを貰うべきはオレじゃなく、虎杖だけでいい。

「オレは何もしてないっスよ」

彼女は柔らかい笑顔を浮かべて「大人だなあ」なんて言うけど、実際大人なのは虎杖なのかもしれない。
まあ、未だにケーキの取り合いをしている姿を見れば、ちょっと首を捻りたくなるけど。

「ほんと、無事で良かった」
「また大げさだよ」

さんはそう言って笑った。五条先生にとって、自分がどれだけ大きな存在なのかを、ちっとも分かっていないようだ。

(先生も苦労してんだろーな…)

虎杖と釘崎の間に入って宥めている彼女の姿を眺めながら、五条先生の苦労を思って苦笑が漏れた。
まあ、その気になったら全世界を滅亡させることが出来る唯一の男が、愛する彼女を失わずに済んだおかげで、どうにか地球の平和は守られたようだ。


△▼△


「………は?」

硝子先輩は、たっぷり間を空けた後、本当に乾いた音を口から吐き出した。

――後で私のところにおいで。

今朝そう言われたものの、さすがに高専内であんな相談をするのは憚られ、結局、飲みに行った時に話すことにした。
そして仕事を終えた後、硝子先輩を飲みに誘い、駅前の居酒屋にやって来た。それから恥ずかしいのを我慢して五条くんと再会してからのアレコレを順序だてて硝子先輩に話したところ、冒頭の「は?」に繋がったというわけだ。
でも硝子先輩のその反応はわたしの予想とは少し違ったようで――。

「何だ…オマエ達…本当にまだシテなかったのか」
「…ぶっ」

まさかそうくるとは思わず、つい飲みかけのビールを吹いてしまった。

「ゲホ…っな、何でそうなるんですか…違うって言ったのに…」
「コントみたいな驚き方をするな」

硝子先輩は呑気に笑いながら、新しいおしぼりを貰ってわたしへ差し出した。

「だ、だって…」
「普通、男女が一緒に暮らしてると聞けば完全に肉体関係があると思うのが普通じゃないか?」
「………」

確かに、と思わず納得してしまった。まあ世間一般で言えば間違いなく誰でもそう思うものかもしれない。
でも五条くんは約束通り、どんなにエッチなことを仕掛けて来ても、絶対に一線を越えようとはしないのだ。なのにわたしには触れたがる。一体、どういうつもりなんだろうと、最近はずっとモヤモヤしてる。ついでに言えば、中途半端に止められることで、体もおかしなモヤモヤが残るのだから嫌になる。
その辺のことを、大人の硝子先輩に相談したかった。

「単純に考えれば…五条は約束を守ってるんじゃないか?」
「…そう…なのかな」
「何だ。それ以外に何かあるように感じるとか?」

わたしがボソリと呟けば、硝子先輩は興味津々といった様子で身を乗り出してきた。すでに日本酒は数本空けているせいか、目元が更に気怠げになってきている。まあ、わたしはビールしか飲んでいないけど、すでにフワフワしてほろ酔いなのは、やっぱり少し疲れもあるのかもしれない。
昨夜は五条くんもさすがに気遣ってくれて、何もすることなく眠りについた。でもわたしは何故かあまり寝付けずに、二時間おきに起きる始末。
ついでに五条くんの腕に抱きしめられてるだけで、変に悶々としてしまった。
これって確実にわたしの体に異変が起きてるとしか思えない。
五条くんはそんなわたしを見て、何かに気づいた様子だったけど、意味深な笑みを浮かべて「今日はダーメ。体に障るかもしれないし」と言った。その意味がよく分からなかったけど、何となく恥ずかしくて、わたしは寝たふりをしてしまった。

「まあ、わたしの思い過ごしかもしれないんですけど…」

と前置きをして、五条くんは約束を守ってるのではなく、わざと手を出してこないんじゃないかという話を伝えた。硝子先輩も茶化すことなく真剣に聞いてくれている。そして、ある可能性の話を始めた。

「それはある種のパラドッグスだな」
「…パラドッグス?」

聞きなれない言葉にわたしは首を傾げた。
パラドックスとは、一見不合理であったり矛盾したりしていながらも、よく考えると一種の真理であるという事柄らしい。また、それを言い表わしている表現法、逆説である。
古代ギリシア、エレアのゼノンが提出した【飛ぶ矢は飛ばない】や【アキレウスはカメに追いつけない】などの"ゼノンのパラドックス"はあまりにも有名だ、と硝子先輩は説明してくれた。でも話が難しすぎて頭に入って来ない。
そんなわたしを見かねてか、硝子先輩は分かりやすい話をしてくれた。

「パラドックスの具体例として最も分かりやすいのは"急がば回れ"という言葉だな。この言葉の意味としては、困難や危険があるとわかっている近道よりも、確実に安全な遠回りの道の方が、結果的に早く目的地にたどり着くことができるという意味だ」
「…へえ。硝子先輩って物知り…。だけど…それって…」

わたしが相談したことへの答え、なのか?果たして。
そんな思いを察したのか、硝子先輩は深い溜息をつきながら、同情するような視線をわたしへ向けた。

「つまり、五条がにしてるのはそういうこと・・・・・・だ」
「えっそーなの…?」
を本当の意味で手に入れる為にしてるんじゃないのか?」

わたしを手に入れる為?あの行為が?と首を捻ったものの、何となく言いたいことが分かってきた。

「…ってことは……あれは単なる焦らしプレイ…じゃなく…」
「本気で焦らしにかかってるんだろうな。そもそも何故はアイツにそんな条件を出したんだ」

何故って、だってそれは――初めて告白をされた時は、まだ自分の気持ちが曖昧だったからだ。

「あ、あの時は…そう言えば諦めると思った…から…」
「でもは好きなんだよな。五条のことを」

そう、だから困っている。ちょっとエッチで口が悪くて、デリカシーの欠片もなかった男だけど、本当は不器用な優しさでわたしだけを包んで、愛して、守ってくれる彼のことを、いつの間にかこんなに好きになって――だから、こんなにも困っている。

「なら、撤回してはどうだ?その出した条件とやらを」
「そ、そんなことしたら気持ちバレちゃうし…」
「すでに付き合っているのだから問題ないだろ」
「…う…そ…そうだけど…でも…」

いつもならこんな相談、嫌がるくせに、硝子先輩は本気で悩んでるわたしをみかねてか、真剣な顔で適切なアドバイスをくれている。でも彼女が言うほど、わたしには簡単なことじゃなくて。あんな条件を出しておいて今更好きになった、なんて言えない。恥ずかしくて――。

「やれやれ…どうにも拗らせてるな」

呆れたように硝子先輩は苦笑いを浮かべて言った。まあ自分でもそう思うのだから、周りから見れば余計だろうし、歯がゆく見えるのかもしれない。

「五条と離れた後、ろくに恋愛経験も積まずに大人になったせいだろうけど」
「…そ、それも…あります」
「それも五条しか知らないんだから、不幸だな」
「そんなハッキリ言わなくても!」

ガバっと顔を上げて文句を言えば、硝子先輩は楽しげに笑いだした。わたしはちっとも笑えないというのに。

はどうしたいんだ?それ次第だろ」
「わたしは…」
「というか、五条の気持ちは分かってるんだから、今更恥ずかしいなんて言ってないで、きちんと伝えてやれ。アイツがどんな思いでこの十年を過ごしたと思う?」

頬杖をつきながら、硝子先輩はかすかに微笑んだ。いつもは五条くんのことをクズだなんだと言ってるけれど、そこにきちんと愛情はあるんだと気づかされる。

「……そう…ですね」
「まあ、それを伝えない限り、五条の復讐は終わらないだろうな」
「えっふ、復讐って…」

驚いて聞き返すと、硝子先輩は「何だ、気づかなかったのか」と苦笑した。

「どうせ焦らしてから自分を求めるように仕向けたいんだろ、アイツは」
「……わたしから…求める?」
「ん~例えば…最後まで抱いて…とか?」
「…な…」

ふふっと意味深な笑みを浮かべる硝子先輩を見て、顏が一気に熱くなった。
五条くんの本音がどうとかではなく――まだそうとは分からないし――自分の本音を見透かされた気がして恥ずかしくなったのだ。
最近、五条くんに触れられるとそんな思いが過ぎることが増えて、だからきっとモヤモヤするんだと思う。

「たまには自分から素直になってみたら?」

真っ赤になって黙ったわたしの頭を、硝子先輩は優しく撫でて、今一番わたしに必要な言葉を与えてくれた。