昔から五条くんは特別な人だった。歴史ある家柄や、世間ではあまり知られていない呪術師という職業のことだけじゃなく。神様が彼にだけ特別に与えたような類まれなる美しい瞳や、触れたら溶けてしまいそうなほどに柔らかい雪のような髪も、何もかも。存在自体が特別なのだと、最初に見た時から感じていた。
家柄のいい子供ばかりが入学できるともっぱらの噂である京都の名門中学校。その学校のクラスメートの中に、彼はいた。一際目立つ容姿のせいか、入学当初から有名で。でも誰もが恐れ多くて近寄れないといった雰囲気を纏っている人だった。五条くんとは三年間、同じクラスだったものの、言葉を交わしたことはない。ただ時折、何もない空間をジっと見つめていることには気づいていた。そこに、何がいるかということも。

「同じクラスのだよな。オマエさー…もしかして視えてる?」

あれは塾からの帰り道。珍しく星の綺麗な夜だった。道端でバッタリ会った五条くんに声をかけられた時の第一声がそれだ。これまで三年間、一度も話したことはなかったのに、わたしの苗字を知っていたことで酷く驚いた覚えがある。

「うん…五条…くんも…やろ?」
「…あ?」
「時々…アレがいる場所をジっと見てはるから…」
「あー…オレ、呪術師の家系だから」

そこで初めて彼の家のことを知った。これまで名門五条家という話は耳にしたことはあったけど、どんな家柄なのかは当然知らなかった。でもそれだけのことで何故話しかけてきたんだろうと思っていると、五条くんは「視えてるなら奴らと目を合わせるな」と渋い顔で言われた。

「前々から気になってたんだよ。オマエ、憑かれやすいタチだろ」
「え…やっぱり…そうなん?」
「ハア?視えてんじゃねーの」
「自分のはよお分からへんの…。ただ変なモノが見えた後はいつも体調悪なるから、もしかしてとは思ててんけど…」

五条くんはわたしのそういう性質に気づいてたらしい。不意にわたしの肩へ触れて一言、祓っておいたと言った。あの不気味な化け物を祓うのが彼の家の仕事らしい。その日から確実に体が楽になったから、彼の言う呪術師という存在は本物なのだと実感した。
その日からわたしは時々、五条くんに憑き物を祓ってもらうようになった。目を合わせなければやり過ごすことが出来る時もあるけど、そもそも憑きやすいと言われたように、知らない間にくっついてるらしい。いつか五条くんに「オマエ、呪霊ホイホイみたいな女だな」と笑われたことがある。

あれから10年以上経った今も、その関係は変わらなかった。中学を卒業して、わたしは東京の高校へ進学、そのまま大学も都内の学校を選んだ。その理由は親に話した崇高な理由ではなく、ただ五条くんのそばにいたかったからだ。
彼は――わたしの初恋だった。
でも、だからと言って気持ちを伝えたことはない。大学では恋人も出来た。社会人になった今でも五条くんとの関係は変わらない。元クラスメート。それだけだ。時々互いの都合がいい時に会って、憑き物を祓ってもらう。ただ、それだけの関係――。そして、わたしはもうすぐ結婚する、予定だった。



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都会の空には珍しい、星の輝く夜だった。彼女と初めて言葉を交わしたあの夜のことを思い出す。
任務からの帰り道。と待ち合わせをした都心の駅まで伊地知に車で送ってもらう。彼女と会う約束をするたび、こうして送ってもらうのも恒例となっていた。

さん、お元気ですか」
「うん、多分ね。電話の様子じゃ今回はそこまでタチの悪いもんじゃないっぽいよ。ほんと相変わらず呪霊ホイホイだよな、アイツ」
「そんな体質じゃ大変でしょうね…」

伊地知にはだいぶ前にを紹介してある。元クラスメートであり、変な縁でこれまで幾度となく彼女に憑いた呪霊を祓ってることも承知だ。

――五条さん直々に、ですか。え?10年以上も?

最初は驚いていた伊地知も「五条さんにもそんなお友達いたんですね」と失礼なことを言ってきたからデコピン10回の刑に処してやったけど。
とは友達、と呼べるようなことは何一つしたことがない。ただ時々会って祓うの繰り返し。その延長で時間に余裕があれば食事に行くこともあるけど、本当にそれだけだ。僕は多忙なのだから、彼女のことは他の術師に頼んではどうだと伊地知に言われたこともあるが、僕はどうしてもそんな気にはなれなかった。

――初恋の人を他の術師には任せられないよ。
――えぇっ?五条さんも普通の男だったんですねっ。

そう言われた時はビンタの刑に処してやった。それ以来、伊地知も学習したのか、のことで僕をいじってくることはなくなった気がする。
彼女にその気持ちを伝えたことはない。言えばきっと困らせるだけだと分かっているし、僕にとっての弱点になり得てしまう彼女の存在は色々と難しいものがある。危険な目に合わせるのも怖かった。の命が脅かされるなら、一生片思いで構わないと思ったこともある。そもそも彼女は僕を選ばないであろうことも薄々分かっていて。これまでだって彼女に恋人がいたことも知っていたし、何なら一緒に歩いてる姿を見たことがある。でも彼女さえ幸せに過ごしてくれてるなら、それでいいと思ってた。僕にもこんな殊勝な一面があったんだと自分でも驚くけど。そして、彼女への僕の願いは形になって叶えられたようだ。来月――彼女は結婚するらしい。

「着きました」

車が静かに停車したと同時に、僕は目隠しを外してサングラスに変えながら車を降りた。伊地知に「お疲れさん」と声をかけると、伊地知は複雑そうな顔で帰っていく。どうせまた失礼なことを考えてたに違いない。まあそれを口に出して言わなくなったのは賢明な判断だ。
車のテールランプが見えなくなったところで、と待ち合わせをしている駅まで足早に歩いて行く。時間的にそろそろ終電だろう。駅を行き交う人はそれほど多くない。だからすぐにを見つけられた。駅を出てすぐ脇のビルの壁に寄り掛かっている彼女は、落ち着かない様子でキョロキョロと辺りを見渡している。そして僕を見つけた途端、可愛らしい笑顔で手を振ってくるのはいつものことだ。

「お待たせ」
「全然待ってないよ。久しぶり」

待ってないよ、か。は僕がちょっと遅れて来てもそう応える。待っているはずなのに、絶対に「遅い」と文句を言って来たことはない。

「ごめんね、五条くん。こんな時間に」
「いや、僕はいいけど…そっちは大丈夫なの?」
「うん。同僚と飲み会って言ってあるし…ほんとに飲み会だったから」

ああ、それでこんな時間を指定してきたのかと納得した。確かにかすかなアルコールの香りがするし、色白なの頬がほんのりと赤く色づいている。今更ながらに大人になったんだなと愚かな感傷に浸った。

「とりあえず、どこかに入ろうか」
「…でも開いてる店あるかな」
「確かに。まあ別に酒を飲むような店でもいいけど、僕は」
「え、でも…」
「ああ、それとも今日はパっと祓ってあげようか、ここで」
「え…?」

視れば下級呪霊が数体。そんなもの一瞬で祓えてしまう。ただそうすると、三カ月ぶりにようやく会えた彼女との時間はあっという間に終わりを告げてしまう。

「どうする?」
「………」

僕の問いに彼女は何も応えないまま俯いてしまった。ちょっと意地悪だったかな、と自分で自分に呆れてしまう。本当は、僕だってまだと一緒にいたいのに。
彼女が僕を好きなこと、僕は少し前に気づいてしまった。告白されたことはない。だけど、そういうものは何となく伝わってしまうものだ。彼女が僕を好きになることなんて絶対にないと思っていたから凄く驚いた。でも僕は気づかないふりをして、彼女と未だにこんな関係を続けてる。その報いを受けたのかもしれない。彼女が今の恋人と結婚すると言い出した時から、これまでの我慢という壁が脆くも決壊し始めてるのだから、伊地知の言う通り、僕も普通の男と何ら変わらないのかもしれない。

「…ここが嫌なら、僕のマンションにくる?」
「……え?」

いつまでも答えようとしない彼女を見て、遂に僕の方から誘った。は酷く驚いたような顔で僕を見上げてくる。その顏を見ていたら返事を待つ余裕がなくなった。の手を掴んで勝手にタクシー乗り場まで向かう。彼女は何も言わず、黙って僕についてきた。
待ち合わせ場所の駅から車で10分もしない場所に、僕のマンションはある。彼女の手を引いたまま、僕らは部屋に着くまで無言だった。

「適当に座って」

制服の上着を脱いでシャツの袖をまくると、邪魔なサングラスを外してカウンターに置く。それから冷やしておいた紅茶を冷蔵庫から出して氷の入れたグラスに注いだ。リビングに戻ると、は借りてきた猫のようにちょこんとソファに座り、室内をキョロキョロと見渡していた。

「はい。残念ながらアルコールはないけど」
「あ…ありがとう…。アイスティー好きなの」
「うん、知ってる」

会うたび、彼女はどこでもアイスティーを注文していた。ジュースでもコーヒーでもなく。だからなのか、僕も家でそれを飲むようになったのはいつからだろう。まあ僕の場合、ガムシロップをたっぷり入れてしまうのは変わらないけど。

「何か五条くんらしい部屋だね。綺麗に片付いてる」
「部屋にいる時間が少ないだけだよ」
「そっか…。あ、今日も任務だった?」
「うん。さっき東京についてその足で待ち合わせ場所に行った」
「え、じゃあ疲れてるでしょ…ごめんね、そんな時に…」
「いいよ。僕も久しぶりにに会いたかったし」

ウォールライトの明かりに照らされた彼女のまつ毛が顔に影を作って、それがかすかに揺れたのが分かった。もう数センチ近づけば触れ合える距離で見つめ合うのは初めてかもしれない。先に視線を反らしたのはの方だった。

「……わたしも。五条くん元気かなって思ってたの。最近変な事件も多かったし…もしかして関わってるのかなぁとか思って。ほら…映画館での変死事件とか。あれって…」
「うん、そう。呪霊の仕業。でもアレは僕の後輩と生徒の担当」
「え、そうなんだ。五条くんの生徒さんなんて…凄いね。ちゃんと教師してるんだ」
「もちろん…って、は今まで僕を何だと思ってたの」
「ごめん…」

不満げに口を尖らせると、は慌てたように謝って来た。でも目を合わせると、お互い同時に吹き出した。何かこういうのも懐かしいとさえ思う。まだ二人とも学生の時は、何でも言い合えてた気がするのに。

「…何か…五条くんと親しくなってからあっという間だったな」
「そうかな」
「10年以上も経ったなんて…信じられない」
「うん…」

まるで独り言のように話す彼女の横顔を見ていると、出会ったばかりの彼女の姿が浮かんだ。まだあどけない表情で、どこか不安そうな頼りなげなところが印象的な子だった。

はすっかり標準語に慣れたしね」
「そりゃ…ずっと東京にいたらそうなるよ」
「京弁を話す、可愛かったのに」
「か、かわいいって…嘘ばっかり。東京に来た当時は五条くん、よくからかってきたじゃない。まーだ抜けないの?って」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「まあ…きっとのスネる顔が見たくて意地悪してたんだろうね」
「…え?」

苦笑してたがふと顔を上げて僕を見た。ほのかに赤い頬と唇に、潤んだ瞳が揺れている。その表情が素直に綺麗だと思った。ソファに置いていた彼女の手に、気づけば触れていた。指先だけを絡め合うと、は僅かに肩を揺らした。今まで混ざり合うことのなかった体温が触れあう。このままを抱き寄せ、メチャクチャにしたい衝動に駆られた。言葉に出さなくても、伝わってしまうことはある。互いの目を見れば、それはごく簡単に。

「…結婚、しないで」

そう囁くように呟けば、指先から彼女の震えが伝わった。酷いことを言ってると理解してても、理性を取っ払ってしまえば人は簡単に残酷になれる。

「…うん」

消え入りそうな声とともにが頷いた瞬間、唇同士が重なった。吐息ごと舌に乗せて口内へ滑り込ませると、艶のある声が洩れる。絡めていた指先は更に深く繋がった。10年分の想いをぶつけ合うよう、唇を求めあう。きっとこうなることを望んでいた。僕も、彼女も。初めて言葉を交わした、あの星の綺麗な夜から、ずっと。
一生愛すと誓った、その心に偽りなく。
カーテンを開け放した窓から見える夜空には、散りばめられた小さな星が、遠い過去から光を降らせていた。