悲しみはいつも自分の足元にあるかもしれない。
だけど目の前にあるわけじゃないんだ。
目の前にあるのは――。



「なあ…そろそろ出て来いよ」

扉を隔てた向こう側に、彼女が膝を抱えて蹲っているのが、何となく視えたオレは、これで何十回目かの呼びかけをした。
だけど未だに彼女からの応答はない。

「あ~メーデーメーデー。コチラゴジョー。術師、オート―セヨ」

ふざけたカタコトで話しかけても無反応。いつもなら「ふざけないでっ」なーんて甲高い声で怒鳴ってくるくせに。
今日の敵はかなり手強いとみた。

「ったく…たかが失恋でんなに落ち込まなくても…」

高専の古ぼけた寮の廊下。彼女の部屋のドアを背にして、踏めばギシギシと嫌な音が鳴る木床に座ったオレは、天井を見上げて溜息を吐いた。あまりの気温の低さに吐息が煙草の煙みたいにふわりと舞う。
そもそもが自室に籠城するキッカケとなったのは、三流大学に通うパンピー男のせいだ。
オレと同じくガキの頃から呪術についての勉強ばっかさせられてきたは、悲しいほど男に免疫がなかった。街でソイツにナンパされ、「可愛いね」だの「オレのタイプ」などと、安い言葉を並べ立てられ、コロッと落ちたようだ。
良く言えば素直、悪く言えば超単純。そこがのいいとこだとオレは密かに思ってるが、今度ばかりはアイツのいいところが仇になったらしい。今日その男が他の女と歩いてるのを目撃し、問い詰めたらアッサリフラれたというんだからシャレにならない。結局、遊びの女の一人にされただけで終わったんだから目も当てられないってやつだ。
だいたい、一度見かけたことがあるが、あんなチャラチャラした頭の悪そうな男に引っかかるなんて、どんだけ男見る目がないんだって話だけどな。

「っくしゅ!」

たっぷり一時間はここで粘ってるから、すっかり体が冷えてしまったらしい。鼻がムズついて仕方ねえんだけど。

「おーい、。オレが風邪引いたらオマエに看病させっからなー」
「…何でよっ」
「お?喋った」

これまでオレの独り言か?ってなくらい何の反応も示さなかったが突然怒鳴り返してきた。怒るくらいの元気は戻ったようだ。

「早く出て来いって。皆も心配してるし。傑なんかあの大学生、ボコしに行くつってるぞ。まあ、オレが止めておいたけど」
「嘘言わないでよ。夏油くんがそんな野蛮なことするとは思えないもん」
「………(案外スルドイ)」

の言う通り、ボコボコにしに行くかと言い出したのはオレの方で、傑は「気持ちは分かるがやめておけ」と止める側だった。

「どうせ五条くんが言い出したんでしょ」

しっかりバレてーら。伊達に長いこと一緒にいねえな。

「まあ…つーかマジでムカついてんならオレが行ってフルボッコにしてやろーか」
「……いい。あんなヤツ、殴る価値もないし」
「じゃあ…何でそんな落ち込んでんだよ」

その問いには何も応えない。

「まだ…好きなのかよ」
「…好きじゃない」
「じゃあ何で元気ねーの」
「だって…もうすぐクリスマスなのに」
「は?」
「今年のクリスマスは二人で過ごそうねって言われてたの!クリスマスに彼氏と過ごすの夢だったのに…きっとわたしに幸せなクリスマスなんてこないんだよ…この先希望がもてない」
「…そんなことかよ。下らねえ。つーか大げさじゃね?」

思わず笑ったら、の不興を買ったらしい。何笑ってんのよって怒鳴られた。ったく、どうして女って生き物はそういうイベントが好きなんだ?クリスマスだろうが、正月だろうが、平日だろうが、どんな日だろうが、適当な人間と過ごすより、本当に好きなヤツとなら毎日がイベントみたいなもんだ。そういうもんじゃねーの。
そう言ったら「五条くんにしたらまともなこと言うね」と驚かれた。相変わらず失礼な女だ。

「なあ…さみーから出て来いって。つーか、せめて部屋に入れて」
「何でよっ。だいたい五条くん、どうしてずっといるの?寒いなら自分の部屋に戻ればいいのに」

やっとそこに気づいたらしい。まあ言い方はムカつくけど、そうだ。だいたい何でオレが部屋に閉じこもって出てこないコイツを構ってるか。そこが一番重要だというのに、ときたらちっとも分かっちゃいない。

「何でか分かんねーのかよ」
「え?」
「…本当に?」
「……何…何が言いたいの?」

さっきより声が近くなって、すぐ傍で座るような気配がした。きっとオレと同じようにドアを背にが座ったんだ。そう思ったら、この薄いドアがやけに邪魔者に感じた。

「好きな女、心配しちゃわりーかよ」
「……は?」
「鈍いにもほどがあんだろ」

の反応を見て、思わず笑った。どうせの中のオレは、意地が悪くて、デリカシーも優しさもない最低の同級生ってとこだろう。そんなの言われなくても分かってる。けど、オレの中でコイツは同級生でも呪術師仲間でもなく――初恋の女の子だったりする。

「な…何て…言った…?」
「あ?二度は言わねえぞ。いいからここ開けろ――…っぃて」

開けろと言う前にいきなりドアが開けられ、ゴンっとオレの後頭部にドアが当たった。振り向けば案の定、驚いた顔でが立っている。

「いってーな…いきなり開けんな。つーか、のせいでケツが冷えたわ」

オレも立ち上がってケツを払うと、はムっとしたように見上げてきた。

「で、出て来いって言ったのそっち――」

とりあえずゴチャゴチャ言われる前に、目の前に現れたの腕を強引に引いて抱きしめれば、途端に静かになった。さすが単純な女だ。

「ご…五条…く…」
「喜べ。オマエにはまだ希望がある」
「な…希望って…」
「この手を取るなら…オレが最高のクリスマスを過ごさせてやるけど?」

彼女の腰だけ抱きよせ、目の前に手を差し出せば、真っ赤に充血してるの瞳が潤んできた。

「で、どーすんだよ。一人寂しく聖なる夜を過ごすか、オレと最高に熱~い夜を過ごすか」
「な…何よ、それ…」

の頬が見る見るうちに赤く染まって、オレの目を愉しませた。コイツのこういう素直なとこが、オレは可愛いと思ってるし、面白いくらいに反応するから、ついからかってしまうことも多いけど、に話しかけた数の分だけ、オレはコイツのことを好きになってる気がする。には少しも伝わってなかったのは笑うけど、オレもそろそろ本腰を入れて口説きたくなったのは、やっぱり他の男のことで泣いてる姿にムカついたからかもしれない。

「さあ、どーする?」

まあ、こうして希望の糸をたらしてくれたクソ大学生に感謝だな。
おずおずとオレの手を掴んだを見たら、ふとそんなことを思った。

「よ、宜しくお願いします…」
「素直でよろしい」

そんな甘くもない言葉を交わしたら、オレとは同級生でも、呪術師仲間でもなく、彼氏と彼女という関係に変わっていた。
とりあえずを思い切り抱きしめて、それからいっぱいキスを交わす。
そうすれば、も明日にはオレのことで頭がいっぱいになってるはずだ。

「オマエが好きだ」

ダメ押しできちんと伝えれば、の顔にやっと笑顔が戻ってきた。

悲しみはいつも自分の足元にあるかもしれない。
だけど目の前にあるわけじゃないんだ。
目の前にあるのはいつだって――小さな希望だ。