Kiss me


恋人が出張で不在のこの日、わたしは彼と一緒に住んでいる部屋で睡眠を貪っていた。周りには散らかしたファッション雑誌、ポテチの袋、酒類と使ったまま放置したカップやお皿。酔っ払った身に寝室までの距離はキツかったらしい。わたしは力尽きてソファで寝たようだ。暖かいのは毛布がかけられているせいだけど、きっと硝子か、歌姫先輩がかけてくれたのかもしれない。
そういえば二人はいつ帰ったんだっけ?それすら記憶にない。
次第に大嫌いな朝日が室内を照らし始めた。無意識に眩しさを感じたんだろう。わたしは思い切り眉をひそめて毛布に潜りこんだ。昨夜はまだ酔う前にカーテンをきっちり閉めたはずなのに、何でこんなにも眩しいんだろう。

(…ん…?何…この匂い…)

二日酔いのお腹に良さそうな美味しそうな匂いが流れてきて、わたしの鼻腔を刺激してくる。どうにか起きようと瞼を押し上げる努力はしてみた。でも無理だった。まだ頭が完全に覚醒していないせいだ。どうにか寝返りを打ってみたらかかっていた毛布が落ちた気配と共に、冷えきった空気が肌を撫でていく。寒さを感じて子供みたいに体を丸めると、すぐ傍で人の気配を感じた。
誰よ、こんな時間に…と思ったけれど、その人物がかけてくれた毛布は温かくて、つい縋ってしまう。「ん~…」と唸りながら寝返りを打って落ち着く場所を探す。何かがわたしの髪を撫でるように動いて、ホっとするのを感じた。ああ、なんて幸せな温もりなんだろう。わたしはこの体温を知ってる――。

「可愛い。幸せそうな顔しちゃって」

誰かがわたしの髪を撫でながら呟いた。わたしの顔のすぐ近くで、誰かの動く気配がする。この声は…え?嘘でしょ?そんな言葉が頭に響いた。

「…悟?」
「起こしちゃった?」

やっぱり悟だ。そう思ったら自然と頬が綻んだ。わたしの髪を撫でる彼の手が優しくて心地いい。彼はいつ帰って来たんだろう?この美味しそうな香りはコーンスープかな。

(ああ、そうか。二日酔いのわたしの為に作ってくれたのかも…うん…?二日酔い…?)

まだアルコールの残る頭で思い出した。夕べの女子会と言う名のどんちゃん騒ぎを。そして一気に覚醒した。

「ぎゃ…ダメっ!」
「…は?ダメ?」

叫んだ瞬間、ぐわわわわーんと脳内で鐘を鳴らされたような気持ち悪さが広がった。マズい。この部屋の惨状を悟に見られてしまった!
いつも悟が不在の時、硝子や歌姫さんをこっそり呼んで遅くまで酒盛りしてるのは内緒だったのに!

「…?大丈夫?」

現実を知りたくなくて思わず耳を塞ぐと、悟が心配そうに背中をさすってくれてるのを感じた。それがわたしの良心を痛めつけるなんて、きっと悟には分からないはずだ。
つまり、そういうことね?悟は遂にわたしの悪癖を見てしまったんだ。付き合いだしてからずっと隠し続けていたのに。なんて最悪な朝なの?

「なんでいるの…」
「何でって…に早く会いたくて泊まる予定をキャンセルして帰って来たんだよ」

何で今日に限ってそんな嬉しいことをしてくれちゃうの!と責めたい気分だ。いや、でも凄く嬉しくて幸せなんだけど。

は嬉しくないの?」
「う…嬉しい…けど……ごめん…部屋汚かったでしょ…」

耳を塞いでいた手を外し、素直に謝ると、悟は軽く吹き出した。

「びっくりしたけど、すぐ片付けたよ」
「えぇっ?か、片付けたって…」

驚いて顔を上げたわたしは室内をぐるりと見渡した。ついでに頭もぐるぐる回った気がしたけど、しっかり酒瓶やゴミがなくなっている。さすが綺麗好き。あんなに荒れていた部屋がきっちり元通りになってる。驚きすぎて言葉を失っていると、悟の指がわたしの頬を軽くつまんだ。

「飲むなとは言わないけど、飲みすぎは良くないよ?」

これは悪夢だ。そう、また眠れば誰もいない部屋で目を覚ますはず。そんなアホなことを心の中で祈りながら、ガンガンと頭を攻撃してくる頭痛とは別に、胸の方から別の苦しみがこみ上げてきた。

「さ、悟…」
「え、、顔色悪いんだけど」
「…気持ち悪い」
「えっ」

悟は慌ててわたしを抱えると、トイレまで連れてってくれた。ついでに優しく背中を擦ってくれている。でも好きな男に自分が吐いているところを見られたい女はいないと思う。この涙は色んな感情が混ざった涙だ。また頭が痛くなってきた。まさか特級呪術師に、出張帰りで疲れている彼に、こんなことをさせてしまうなんて最低だし恋人失格だ。
ああ神様、仏様。もうお酒はやめるので、どうか悟に愛想を尽かされませんように。必死で願いながらもわたしの吐き気はなかなか治まってくれなかった。

「大丈夫?もう少し寝てた方がいい」

昨夜のお酒は全てトイレに流した後、綺麗にウガイや歯磨き、ついでに洗顔を済ませた。その間も悟はっせっせとタオルで顔を拭いてくれたり、化粧水や乳液まで塗ってくれて甲斐甲斐しくお世話をしてくれた。その後、悟はわたしを再び抱き上げて、今度こそベッドへ寝かせてくれる。嬉しくて抱き着きたいのに頭がグラグラして気持ち悪い上に死ぬほど恥ずかしい。

「…ごめんね」
「何が?」
「…出張で疲れて帰って来たのに…わたしのお世話ばかりか、部屋の掃除までさせちゃって。あげく背中まで擦ってもらったし…もう死にたい…」

メソメソと泣き出したわたしを見て、悟はその綺麗な形の眉をへにょりと下げた。

「死なないでよ。僕は疲れてないし平気だから。だいたいに死なれたら僕が生きてけないでしょ」

悟は本当に悲しそうな顔をして、わたしの髪を撫でる。その骨ばった大きな手がとてつもなく愛しく感じて、そっと目を閉じた。

「何を気にしてるのか知らないけど、酒好きの彼女を持った時点で覚悟はしてるよ」
「…ご、ごめん」
「悪いと思ってるならここにちゅーして」

と笑いながら悟は自分のくちびるを指さした。いつも思うけど悟のくちびるは凄く艶々で綺麗で、そしてエッチだ。ついキスを強請りたくなるようなくちびるをしてるから、その誘惑にこっちがクラクラしてしまうし、わたしのこんなダメな姿も笑って許してくれる悟が愛しくて、言われるがまま頬に手を伸ばす。でも動いたらまた気持ち悪くなりそうで、そこに気づいた時、慌ててその手を引っ込めてしまった。

「あれ、してくれないの?」
「…特級呪術師さまに、またトイレまで運んでもらうのは悪いので」
「何回でも運んであげるのに」
「え…でも…」
「何回でも運ぶし、何回でも背中を擦ってあげる。がどんなことしても僕はが好きだからねー」

朝日を浴びて優しく微笑む悟を見てたらやっぱりキスがしたくなった。せっかく邪魔な目隠しもサングラスもしてないのに。でも今動いたら目が回りそうで怖い。出来れば悟の方から近づいて欲しいと願う。

「…悟」
「ん?」

何となく分かって欲しくて視線を送ったけど、綺麗な瞳に見つめられて急に恥ずかしくなった。慌てて視線を反らすと視界の端に映った悟の唇は弧を描いていた。どうやら彼はお見通しらしい。わたしの気持ちを分かってて意地悪をしてるんだと気づいた。ここに硝子がいたら「このクズ!」なんて叫んでるかもしれない。

「僕にどうして欲しい?」

ニヤニヤと笑って悟は私の頬を軽く撫でた。わたしを押し倒すような体勢で上から見下ろす青い瞳はやけに楽しそうだ。だけどわたしから言うのは恥ずかしいし悔しい。そんな思いが溢れてしばし黙り込む。悟の綺麗なくちびるにキスしたい。そんな欲求が増すばかりで、これは半分酔っ払いの思考かもしれない。理性よりも本能の方が上回っている。

「キス…して欲しい」
「喜んで」

悟は破顔して、まずはわたしの額にキスをした。ちゅ、という音の後に離れると、悟がまた意地悪な笑みを浮かべている。この顔はわたしにもう一度おねだりして欲しいらしい。さすがに二度目は恥ずかしくて目を伏せると、悟の方が限界だったようだ。今度はわたしのくちびるを包むみたいに口付けて、味わうように舐められた。
二日酔いの寝起きには、ちょっと刺激が強いキスだけど、控えめに言って最高に甘いキスだった。
出来ればもっとして欲しい。そうおねだりしてみるのも悪くない。



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