序章~物怪もっけの幸い


"世界には、きみ以外に誰も歩むことのできない唯一の道がある。
その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め"

どこぞの国の偉い学者の言葉を、禪院甚爾ぜんいんとうじは思い出していた。
彼女・・に教えてもらった言葉だ。
肉体を削られ、今にも命が尽き果てそうな時、甚爾は笑うしかなかった。

(ひたすら進んで、珍しく挑んだ結果がこれだ…自尊心それは捨てたはずだろ…)

いつもの自分を捨てた時点で、すでに負けていたのだ、と自覚した。

――挫折を経験したことがない人は、何も新しい事に挑戦したことがないということだよ。
――あ?
――甚爾をバカにする古臭い考えの人間たちは、新しいものへ目を向けられない可哀そうな人達だよ。それこそ猿以下だ。
――…はっ。何だそりゃ。
――あなたは誰にも劣ってない。負けてない。甚爾の力は素晴らしい天からの授かりものだと、わたしは思う。

真っすぐな瞳を向け、そう言ってくれた。
初めて自分を"人"と認めてくれた彼女を思い出しながら、甚爾は目を閉じた。
言葉に表せない、この感謝の想いが愛だと言うなら――最期にそれを、この世へ残していこうと思う。



一.

物心をついた頃から、甚爾は自分が人とは違う存在なのだと感じていた。親や兄弟たちとはまるで違う。
呪術界を牛耳る御三家の一つ、禪院家に生まれたにも関わらず、呪力が一切ない天与呪縛。それがエリートと呼ばれるこの家で、どんな意味を持つのかなど、まだ幼い頃は分からなかった。
ただ、呪力がない猿は人間扱いされないのだと、成長するにつれ、その身をもって知ることになる。

「呪術師でない者、人にあらず。呪力のない猿は不要の産物だ」

そんな呪言を吐かれ続け、まともな食事も与えられず、厳しい修行という名の拷問にかけられる日々。
呪力がなければ呪霊は祓えない。そんな甚爾を呪霊だらけのところへ放り込むような嫌がらせも日常茶飯事だった。
そんな生活に嫌気がさしてきた頃、十八になった甚爾は禪院家から出奔した。出て行く際は、ついでに禪院家に置かれていた高価な骨董品や呪具を勝手に持ち出し、それを全て売っぱらおうと目論んだ。生まれてこの方、まともな生活をしたことがない甚爾にとって、外の世界はまるで異世界も同然。とにかく、まずは金。金を手に入れたら、次は住める場所が欲しかった。
骨董品などはすぐに売れる。だが呪具はそうもいかない。呪術界では値の張る品でも、その辺の質屋では価値が分からないだろう。価値が分からない相手に売る意味はない。裏ルートで売りさばける、その手の仲介屋が必要だった。
先ずは東京の新宿へと向かい、その手の類を探すことから始めた。
この街には相応のヤバい人種が集まるのは、甚爾も知っていたからだ。いや、むしろ京都から殆ど出たことのなかった甚爾は、東京と言えば新宿、くらいしか思いつかなかったというのが正直なところだ。

「テレビで見てた通り、人がウジャウジャいやがる…ついでに…臭ぇ…」

甚爾はまず街中を歩いてみることにした。時間は十分にある。初めて見る街並みは新鮮で、ちょっとした路地裏も迷路のようで面白い。ただ匂いだけは普段嗅いでいたものとは、だいぶ異なる気がした。
ゴミの匂いがあちこちからする。何かが腐ったような、とにかくえ臭い。
天与呪縛で五感が爆上げになっている甚爾だからこそ、普通の人間が気づかないものまで気づいてしまうことがある。もちろん呪霊は視えないが、その辺の気配だけは十分に感じていた。

「チッ…新宿辺りはウヨウヨいやがる…」

肌を刺すような気配を感じながら、人混みの中をひたすら歩き回り、それらしい裏の人間がいないかを探していく。しかし一般人を除けば、いるのは不良少年たちや、売りをしているような少女、ヤクザ方面らしき男達。不良外国人等など、甚爾の目当てとは異なるものばかりで少々ウンザリしてきた。
甚爾は元々ガッシリした体型で身長もある為、未成年と気づかれにくく、今も和装なだけに呼び込みの男達から何度も声をかけられる。
「いい子、いますよ」としつこく誘って来るのをどうにか交わし、甚爾は比較的、人の少ない西口へと向かった。

(呪詛師くらい、いてもいいようなもんだけどな…)

適当に歩き回り、西新宿方面に来た甚爾は、青梅街道を見下ろす歩道橋の上で、ぼんやりと沈んでいく夕日を眺めていた。

(平和…だな…)

いつもなら、この時間は禪院家の者たちが祓徐を終えて帰宅する頃だ。甚爾と顔を合わせるたび、嫌味をぶつけてくる従妹や当主、その兄弟たちを思い出し、甚爾は失笑した。ストレスをぶつける相手はもういないのだと分かった時の皆の顔を想像していると、ザマーミロという思いがこみ上げてくる。
人間以下の生活を強いられ、何ひとつ自由になるものはない生活を送ってきた甚爾には、禪院家の人間がどうなろうと知ったことではない。相手も甚爾がいなくなったところで、痛くもかゆくもないだろうが、日々のストレスのはけ口が消えたのは、奴らも面白くはないだろうなとは思う。

(やっぱ皆殺しにしてやれば良かったか…?)

呪力があるというだけで、大きな顔をしてのさばっていた奴らは、甚爾が自分達より勝るとは微塵も思っていないだろう。だが甚爾は着実に力をつけ、己を鍛えてきた。バカにされ、蔑まれながらも、天与呪縛で与えられた特殊な力を何一つ、無駄にはしなかった。
今の甚爾なら、禪院家の人間を瞬殺出来るくらいの力が身についている。だからこそ、敢えて何もしなかった。
――いつでも殺せる。
その心の余裕と、今は呪術界を敵に回すのは面倒、という小さな理由で、甚爾が禪院の者を見逃したのは単なる気まぐれだ。

(ま、金がなくなりゃ、また何か盗みに入れそうだしな)

甚爾にとって、禪院家とはただの保険であり、財布変わりといった意識へ変わっていた。

(さて…今夜のねぐらはどうすっかな…)

すっかり日も沈み、薄暗くなってきた景色を眺めつつ、途方に暮れる。貴重とされる骨董品をいくつか売ったことで、高級ホテルに連泊できるほどの大金は手にしていた。ただ、そんなものに使うのも無駄な気もする。

(まずは服でも買うか…?着物じゃやっぱ目立つしな…)

「…大丈夫?」

あれこれ思案していた時、すぐ背後で声がした。自分にとは思えないその声かけに、甚爾が思わず息を飲んだのは、声を聞くまで何も気配がしなかったせいだ。
甚爾の強化された五感は、ほんの僅かな気配をも感じ取れる。なのに今、声をかけられるまで、人が近づいて来たことに全く気づかなかった。

「…着物のお兄さんのことだよ」

もう一度、聞こえた声に、甚爾は今度こそ振り向いた。
甚爾は今、禪院家から飛び出したそのままの恰好をしている為、普段から着慣れている和服姿だった。

「…あ?」

声からして女だというのは分かっていたが、甚爾は振り向いて、少し驚いた。
そこには黒髪を胸まで伸ばした、中肉中背の少女が無表情で立っている。何故か喪服のような黒いパンツスーツにネクタイ姿。歳の頃は甚爾とほぼ変わらないように見える。やや童顔の少女は首に黒いチョーカーをしている。若く見えるが学生といった雰囲気ではない。だが、甚爾が驚いたのは少女の姿かたちではなく。
自分と同じく、一切の呪力を感じなかったからだ。例え非術師だとしても、人間はほんの僅かでも呪力を持ち、それを垂れ流している。甚爾の鋭い五感はそれは感じることが出来る。だが、目の前の少女にはその微量の呪力でさえ、一切感じなかった。

「オマエ――」
「何だ…死ぬつもりじゃなかったんだ」
「は?」

何者かを訊こうとした瞬間、少女から突拍子もないことを言われ、甚爾は眉間を寄せた。

「背中だけ見れば飛び降りる気なのかなと勘違いしたくらい、寂しそうだったから。でもお兄さんの目を見て分かった。全然死ぬつもりないよね。ならいい。ごめんね、急に」

少女は一人納得したように言い終えると、甚爾に背を向けてサッサと歩いて行く。少々呆気に取られていたものの、甚爾の本能がこの少女を逃がすなと訴えてきた。
――この女はオレが探していた世界の住人だ、と。


BACK | MDS | CLAP