第一話:袖振り合うも他生の縁



新宿駅西口にあるVホテルのラウンジ。
向かいに座った口ひげの男は、煙草を吹かしながら甚爾の持っていた呪具を丁寧に調べていた。本物かどうかを見定めてるんだろう、と何も言わず好きにさせておく。その間にコーヒーを勝手に注文して優雅に飲みだした。

「…どうかな。お兄ちゃん」

静寂を先に破ったのは、甚爾をここまで案内した少女だった。甚爾に声をかけてきた、例の黒スーツの少女だ。口ひげの男はこの少女の兄らしい。兄は元刑事で、今は裏専門の仲介屋だと、ここへ来る道中、教えてもらっていた。

「まあ、呪具を売りたいって話だったが…これどこで手に入れたんだ?随分と値打ち物のようだが」
「あーオレんちの呪具庫から?」
「は?やっぱオマエ、呪術師家系のボンボンなのか」
「そんな風に見えるか?」
「いや、だって着物姿だし」
「……アンタ、本当に元刑事か?洞察力が緩すぎだろ」

安易に見た目で判断され、甚爾は苦笑した。男は軽く咳払いをして「うっせぇな」と、少し恥ずかしそうに目を細めて睨んでくる。
この仲介屋は名を孔時雨こんしうと名乗った。少女は孔。時雨の義理の妹らしい。今は仲介屋の仕事を手伝っているようだ。
未成年の義妹に裏の仕事を手伝わせているということは、訳アリなんだろうと甚爾は勝手に推測していた。

「で?売れそう?」
「ああ、もちろん。これは最高級の部類に入る。欲しがる呪詛師がわんさかいるさ」

手にした呪具を見ながら、孔時雨がやっと表情を崩した。

「で…アンタ、名前は?」
「禪院甚爾」
「……は?禪院…って…あの?」
「あのってのがどれなのか知らねえけど、アンタも呪術界のことには詳しいなら、想像通りあの、で合ってるかもな」

甚爾がニヤリと笑えば、時雨も少し絶句したように手にした呪具を見下ろしている。

「何でまた…禪院の坊ちゃんが自分ちの高価な呪具を売りたいんだ?」
「別にオレは坊ちゃんじゃねえよ。あの家じゃ厄介もんだ。理由は…アンタの義妹と同じなんだから分かんだろ?」
「………」

視線をへ向ければ、彼女は表情すら動かさず、黙ってケーキを食べている。どうやら甘いものに目がないらしい。

「じゃあ…アンタも虐待を受けたクチか?」

孔時雨は少し身を乗り出すと、膝の上に手を組み、苦々しい顔で尋ねた。

「呪力のないオレを丸腰のまま呪霊の巣窟へ放り込むのが虐待っつーんなら、そうだろうな。おかげでオレの自慢の顔に傷がついた」

甚爾は笑いながら、自分の口元をとんとんと指で叩く。甚爾の唇の右端には縦に鋭く裂かれたような跡がはっきりと残っている。

「フン…名門と言われる禪院家もクソの集まりか…」

孔時雨は忌々し気に呟き、隣で未だにケーキに夢中のへ視線を向ける。その様子からすると、も元は呪術師の家系だったんだろう。時雨は韓国籍のようだが、は日本人だという話だった。

「まあ…オレみたいな、呪霊を見れるってだけで術式はねえ人間から言わせてもらうと、呪力や術式あんのがそんなに偉いのかって甚だ疑問だな」
「…あ?」
「呪力がなくてもアンタやみたいに、他のことが勝ってるなら万々歳じゃねえか」
「………」
「あ?何かオレ…おかしなこと言ったか?アンタがどんだけ強いか、オレですら一目で分かるぞ」

呆気にとられた様子で、ジっと自分を見つめる甚爾に、孔時雨は眉間を寄せた。だが甚爾は軽く吹き出すと「気に入った」と膝を打つ。

「その呪具、アンタに預ける。好きに捌いてくれ」
「…いいのかよ。会ったばかりのオレに簡単に任せて」
「いいんだよ。もし騙されたなら、そりゃオレの人を見る目がなかったっつーことだ」

何か吹っ切れたような顔で笑う甚爾を見て、孔時雨は何とも不思議そうな顔で首を捻る。職業柄、色んなタイプの人間を見てきた孔時雨は、客とのファーストコンタクトをもちろん大事にはしている。だが、甚爾のように最初から孔時雨を信用してきた人間はいない。やはり何度かやり取りして、信用を得られてからが、交渉や取り引きとして成り立つことが多いのだ。

「………変な奴だな、オマエ」
「あいにく、こっちはまともな教育は受けさせてもらえなかったんでね」

皮肉交じりで笑うと、甚爾は思い切り肩を竦めて見せた。そのサバサバした様子に、孔時雨もまた、甚爾のことが気に入ったようだ。軽く苦笑を洩らすと「分かった。力にならせてもらうよ」と、甚爾の方へ手を差し出す。

「あ?」
「握手だよ」
「握手…」
「契約成立の握手だ」

孔時雨は腰を浮かせると、キョトンとしている甚爾の手を勝手に掴む。ぶんぶんと上下に振られる己の手を見下ろした甚爾は、どこか決まりの悪そうな顔で視線を反らした。
握手とは対等な相手に対してするものだ。こんな扱いをされたのは、甚爾にとっては初めてだった。

「っつーことで、禪院。アンタのケータイ番号、教えてくれ。売り手が見つかり次第、連絡するから」
「ケータイ…?あー…んなもんねえよ」
「ああ、家じゃ使わねえもんな」

ガシガシと頭を掻く甚爾を見て、孔時雨が苦笑する。ケータイ電話が一般社会に普及し始めたのは、つい数年ほど前で、一九九六年現在は、だいぶ小型化したものが出回り始めた時期だ。普通の社会人ならすでに持っている人が大半だが、甚爾のような環境では持たされていなくても不思議じゃない。

「分かった。んじゃあ、そこから協力してやるよ」
「…協力?」
「その分じゃ家もねえんだろ?」
「まあ、これから探そうと思ってたとこだ」
「よし、その辺の諸々はオレに任せておけ。まずは…」

と言いながら、孔時雨は隣へ視線を向ける。はちょうどケーキを食べ終えて満足そうにフォークを置いている。そしてセットのコーヒーを口へ運んだタイミングで――。

「おい、。オマエんとこにしばらく甚爾を置いてやれ」
「…えっ?」

孔時雨の一言に、が飲みかけのコーヒーを吹きそうなほどにギョっとして顔を上げた。

「オマエの家、オレが引っ越したんだから一つ部屋余ってんだろ?そこ甚爾に貸してやれっつってんの」
「え、ちょっと待って!あそこはわたしが使っていいって言ったよね」
「言ったが、今すぐ使うとかねえだろ。少しの間だよ。そもそも家賃はまだオレが払ってんだから文句言うな」
「…う…わ…分かったよ…」

耳が痛かったのか、は渋々な様子で頷いた。

「よし。じゃあ家も見つかったことだし、早速甚爾を案内してやれ。オレは呪具を欲しがりそうな金持ち探してみるから」
「マジでいいのかよ。オマエの妹んとこにオレを住まわせて」
「あ?いいんだよ。元々はオレの部屋だしな」

時雨はそう言って笑っているが、同じ年頃の男女ということを忘れているようだ。甚爾は多少の気遣いで聞いただけなのだが、まあ、兄貴がいいっていうなら別にいいか、のノリで、の家に世話になることにした。

「じゃあ、後で家に行くから待ってろ」

時雨はそれだけ言うと、どこかへ出かけて行き、甚爾はの案内で、新宿区内にあるという、彼女のマンションまで歩いて行くことにした。

「はあ…バカ兄貴…」

前を歩くはどこかげんなりした様子で溜息を吐いている。甚爾を間借りさせることに抵抗があるようだ。まあ普通の人間なら当たり前の反応だろうな、と甚爾は内心苦笑した。

「何か悪かったな。オレのせいで」
「…う…いや、まあ…いいんだけど…。元々は時雨の家だし」

はモゴモゴ言いながら、少しだけ歩く速度を緩めて、甚爾の方へ振り返った。釣られて甚爾もふと視線を下げると、バッチリと目が合う。すっかり夜の帳が下りた薄闇で、互いの漆黒の瞳が見つめ合った。

「…甚爾くんって呼んでも?」
「ああ。好きに呼べよ」
「じゃあ…甚爾くん…」

は甚爾に興味があるのか、未だにジっと見上げている。裏の仕事を手伝っているにしては、穢れのない澄んだ瞳をしているなと思った。多分、自分と同じような過酷な幼少期を過ごしたはずなのに、彼女の瞳には、他人から蔑まれたことへの憎悪による淀みはない。

「甚爾くんは家を出たこと、後悔してないの?家族は探してるんじゃない?」
「あ?まさか。さっきも聞いてたろ?オレは透明人間なんだよ。いや、あの家じゃ人間以下ってとこだな。オマエもそうだったんだろ?」
「…うん、まあ」

そこでは初めて目を伏せると「時雨がいなかったら…わたしは死んでた」と呟いた。二人の事情は聞いてはいないが、甚爾もあの家では何度も死にかけたことはある。の言っている意味が、何となく理解できた。

「オマエの家もクソみたいな場所だったんだな」
「…そうだね」
「お互い…家や家族に恵まれねえな」
「わたしの家族は時雨だけだよ」

ふと顔を上げたは、初めて甚爾に笑顔を向けた。それは年相応の無邪気な笑顔で、釣られて甚爾も笑みが浮かぶ。信頼できる相手が一人でもいる安心感が、彼女を笑顔にさせるんだろう。

「そっか…」
「うん」

甚爾が応えると、は嬉しそうに頷いて、再び先を歩いて行く。その足取りは軽く、とてもツラい幼少期を送っていたようには見えない。

(それにしても…結構体を作ってたんだな…なかなかいい素材だ)

自分と同じ天与呪縛。こんな人間がもう一人いたという事実に、甚爾は少しワクワクした。
その気になれば、自分とでこの世界を壊すことさえ可能だ。

(あー…でも六眼のガキがいたっけな…)

ふと、昨年気まぐれで見物に行った青い目の少年を思い出す。
呪力のない自分を一瞬で気取った人間は、後にも先にも五条悟という化け物だけだ。心底驚かされたものの、このガキとはいつか殺りあうことになりそうだと、何故かあの時そう感じたことまで思い出した。

「ここなの…家」
「へえ。いいマンションじゃねーか」

現在、が住んでいるというマンションは、新宿の繁華街から数分歩いた場所にあった。数年前に建てられたという新しい建物は、十五階建てだった。

「ここの十一階」
「マジ?仲介屋ってそんなに儲かるのかよ」
「仕事を選り好みしなければ」

尤もらしいことを言ってはマンションのエントランスへと入って行く。だが、、エレベーターの前で立ち止まると、言いにくそうに甚爾を見た。

「い、言っておくけど…散らかってるよ」
「別に気にしねえよ。オレがいた物置みてーなせっまい部屋も、常に散らかってたしな」

ふと、自分に与えられていた部屋を思い出して苦笑いが零れる。
そのことで何度、父親や兄に罵倒されたか分からない。別に部屋が汚かろうが死ぬわけじゃあるまいし、と、その時は甚爾も思っていた。
だが――の案内で彼女の部屋に一歩、足を踏み入れた時、甚爾はまさに目が点となった。

「……は?」

入った瞬間、饐えた匂いが鼻腔を刺激し、思わず顔をしかめると、靴で埋まっている玄関を見下ろす。

「おい、これ…この人数が部屋にいるってことか?」
「い…いるわけないでしょ。これは…わたしの靴だもん」
「じゃあ…廊下に落ちてる衣類も当然…」

と言いながら、甚爾は廊下へ目を向ける。そこにはリビングから玄関先まで、びっしりと服が脱ぎ散らかされていた。

「わ、わたしの…っていうか、仕方ないでしょっ。忙しくて片付ける暇ないんだからっ」

まだ責めてもいないのに、は逆切れのように言い返すと、靴を適当に脱いで落ちてる服を拾っていく。それを呆気にとられた様子で見ていた甚爾も、仕方ないとばかりに、靴だらけの場所で草履を脱ぎ、が拾いきれていない衣類を拾っていった。

「何でオレが…」

とブツブツ言いながらも、とりあえず世話になる家がこれでは落ち着かない。そこまで綺麗好きではないものの、限度というものがある。
ザっと室内を見渡すと、かなり広い。3LDKということで収納も沢山あるようだ。なのに、部屋にまで衣類をまき散らすほど、モノが多いと感じた。
甚爾の場合、部屋が狭くて、ついゴチャゴチャとしてしまっていたのだが、ここは逆に広すぎて物が溢れてるといった感じだ。

「オマエ…これ兄貴は何も怒らねえの…?」
「し、時雨が来る時は片付けてたもん…」
「あー…そういうことか」

甚爾がここへ来ることになったのは急な話だ。からすれば内心焦っていたに違いない。

「とにかく…簡単に片付けろ。これじゃ足の踏み場もねえし、何か臭せぇから換気すんぞ」
「わ、分かってる」

はぷいっと顔を反らしつつ、落ちている服を拾っていく。だが、甚爾はふと足元に落ちていたカラフルな生地に気づき、それを指でつまんでみた。

「お♡」
「…げ…そんなの拾わないでよっ」

甚爾の手からがパっと奪い取ったもの。それは淡いオレンジ色のブラジャーだった。

「落ちてたんだから仕方ねーだろ。オレに触られたくなきゃ全部片づけろよ」
「分かってる――あ、甚爾くんは動かないでソファに座ってて!わたしが片付けるから」

ソファ、と言われても、そのソファの上にまで衣類が積まれている為、甚爾は深い溜息と共に「仕方ねえなあ…」と苦笑を洩らした。

「片付け手伝ってやるよ…めんどくせえけど」
「え、い、いいってば」
「オレが嫌なんだよ。落ち着かねえし」

甚爾は羽織りを脱いで、カウンターのスツールに引っ掛けると、まずはソファに積んである服を種類別に分けて片付けることにした。

「あーでも下着類は触らないでねっ」

十七歳の少女らしい発言に笑いながら「一回見りゃ同じだろ」と甚爾も返す。
初対面だったはずが、この騒動で何年も前から知ってるような空気になっていた。

「もう…だから嫌だって言ったのに…」

はブツブツ言いながら、担いだ服をウォークインクローゼットの中へと運んでいく。どうせ畳むこともせず、あの中へ放り込むだけだろうな、と甚爾は溜息を吐きつつ、他に散らばっている本や雑誌などを片付けて行った。
それを繰り返し、ついでに換気もしつつ、キッチン周りのゴミを片付け、掃除機をかけたりなんだりして一時間半は経った後、やっと人が寛げるスペースが出来上がった。

「で、出来た…」
「やりゃー出来んじゃん」
「分かってるけど…いつもは面倒でつい放置しちゃうの」

はグッタリしたようにソファへ座りこむと「あー疲れた…」と息を吐いた。だが甚爾は特に疲れるようなこともなく、勝手にキッチンへ行くと冷蔵庫を開ける。

「なあ。ここに入ってるもん使っていいか?」
「…いいけど…何するの?」
「飯、まだだろ。オレも腹減ってんの」
「え…甚爾くん…料理できるの?」
「料理ってもんでもねえよ。簡単なやつだけな。家じゃまともな食事もさせてもらえねえから、夜中にこっそり台所忍び込んで勝手に作ってただけ。透明人間はそういう時に便利なんだよ」

甚爾は話してる最中にも手際よく野菜を切ったり、卵を割ったりしている。は感心したようにそれを見ていた。

「できたぞ」

十分後、甚爾は勝手に出した皿にオムレツを乗せて、お椀にスープを注ぐと、それらをの前へ置いた。

「え、何これ、凄い」
「ほうれん草とツナのオムレツに、コンソメスープ。オマエ、料理しねえのに何であんなに食材あんだよ」
「ああ、あれは…時雨が来た時に作ってくれるから…」
「へえ、いい兄貴だな」

甚爾は自分の分も手早くオムレツを焼き上げると、皿に盛りつけてからカウンターのスツールに座った。

「いただきます…」
「おー」

応えながら甚爾も焼きたてのオムレツを口へ入れた。新幹線の中で軽く弁当を食べただけで、甚爾もすでに腹ペコ状態だ。

「お、美味しい…」
「だろ?」

ホカホカのオムレツを口にしたは、驚いたように甚爾を見た。

「天才…?」
「ハァ?大げさ」
「だって時雨の作ったご飯より美味しいよ」
「それアイツが聞いたら落ち込むんじゃねーの」

軽く感動してるを見て笑いながら、甚爾はの方へ体を向けた。

「まあ…とりあえず今日から世話になるわ」
「あ…うん…」
「あー…あと」
「え?」
には感謝してる」
「…感謝?」

不思議そうに首を傾げるを見て、甚爾はふっと笑みを零した。

「オレを、見つけてくれたろ」

それまで、透明人間だった甚爾を誰も気にかけなかった。
そこにいても、いないものとして扱われてきた。
でもは当たり前のように甚爾に気づき、多大なる勘違いではあったものの、気遣い、躊躇うことなく声をかけてくれたのだ。
他人からすれば、そんな些細なことで、と思うだろうが、甚爾にとっては特別なことだった。

「ま、仲良くやろうぜ」

甚爾の一言で、はハッとしたように顔を上げると、小さく頷く。
にとっても、自分と同じ境遇の甚爾の存在が、まるで救いのように感じていた。


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