第二話



「で…何故それが私なんです?」

都内にある小料理屋さんの個室にて。向かいに座っている能面顔の先輩は、わたしの質問に対して口元を盛大に引きつらせた。彼は五条悟の一つ後輩でわたしの一つ上の先輩でもある七海健人(26)だ。

「だって…七海先輩ならアイツ…悟さんのタイプくらい分かると思って…」

言いながらも冷酒をおちょこに注ぐと、七海先輩はくいっとそれを一気に飲み干し、また注ごうとしたわたしを静止て自分で冷酒を注いだ。

「何で私がそれを知ってると思うんですか。だいたい君は新婚でしょう。こんな場所で私と飲んでていいんですか?」
「いいの。別に家に帰ったって話もしないし…っていうか普段もいることの方が少ないし」
「え、でも今日はアナタと食事に行きたいからと、出張の任務を早めに切り上げてサッサと帰りましたけど」
「…え?」
「連絡ありませんでしたか?」

そう聞かれて思い出した。

――今日は時間空いたし、今から二人で食事でも。

確かにさっき彼はそんなことを言ってた気がする。でもわたしは頭に来て一人で戻ってきてしまった。

(嘘…あれって…本気だったの…?)

てっきり適当に言ってるんだと思ってたわたしは少しだけ驚いた。けど彼と食事をしたいわけじゃない。子供を作りたいのだ。その為には五条悟がその気になるように好みのタイプを知らなければならない。これが今のわたしのミッションだ。

「い、いいんです、それは…断ったんで」
「何故。アナタと五条さんは夫婦でしょう」
「……七海先輩、意地悪ですね。気づいてるクセに」

学生の頃から知っているのだ。わたしが五条悟をどう思っているかなんて、七海先輩はとっくに見抜いているはずだ。現に今も溜息を吐いて「ええ、まあ」と苦笑気味に応えた。七海先輩は学生の時から余計なことは一切言わない。きっと気を遣ってくれてたんだと思う。わたしじゃ、どうしようも出来ない運命だから――。
何となく悲しくなって自分も冷酒をぐいっと一気に飲み干す。おちょこをテーブルに置くと、七海先輩は静か酒を注いでくれた。

「あの頃はまあ…五条さんもああいう人だからというのもあったのかと思ってましたが。ただ…好みのタイプを知りたいと言うことは少しは彼のことを――」
「ないです」

間髪入れずに応えると、七海先輩は一瞬動きを止めた。

「…では何故そんなことを知りたいんですか?」
「子供の為です」
「……ああ」

その一言で全てを理解したかのように、七海先輩は手にしていた徳利を置いた。何かを考えているのか、しばしの沈黙のあとで彼は眼鏡を手で直し、軽く咳払いをすると視線をわたしへ戻す。

「彼のタイプは……まあ…セクシーとか、色っぽければ何でも好きなんじゃないでしょうか」
「……なるほど。セクシーか」

色気なんてものはわたしに程遠いもので、つい納得してしまう。悲しいけど。

「学生の頃…彼はその…」
「ああ、女遊びのことなら知ってますのでお気遣いなく。そもそもショックなんか受けませんし」
「…そう…ですか」

さすがに呆気に取られた様子で七海先輩は軽く咳払いをした。

「あの頃、五条さんが連れ歩いてた女性はだいたいが女子大生とか年上でしたね。ただ…タイプというより、私にはアナタと真逆の人を選んでるのかと思ったことがあります」
「……どういう意味ですか?」

言葉の意味が分からずに首を傾げると、七海先輩は困ったような笑みを浮かべた。

「あまりにアナタが素っ気ないから、アテつけなのか、それとも欲求不満が爆発しそうでそっちへ逃げたのか。とにかく私にはそう見えてたんですよ」
「…………それって……アイツがわたしのことを好きだと言ってるように聞こえるんですけど」
「ええ、そう言ってます」

今度こそ、七海先輩は普段と同じく真顔で頷いた。でもそれはありえないことだ。あり得なさ過ぎて思わず吹き出してしまった。アイツがわたしを好きとか絶対に――ない。

「怖い冗談やめて下さい。あの人、わたしに一ミリも興味ないはず――」
「どうしてそう思うんです?」
「どうしてって…」
「五条さんにハッキリオマエに興味がないと言われたんですか」
「……言われては…ないけど」

そう、ハッキリと言われたわけじゃない。だけど出会った瞬間からアイツは意地悪で、その後も素っ気なかったのは彼の方だ。まあ、わたしもかなり塩対応してたけど。でもそれは彼がわたしをいちいちからかってきたりするから腹が立って、嫌いが加速していっただけのことで、もし最初から優しければ、きっとここまで嫌いになんてなってない。そう、ちゃんと"嫌い"には理由がある。

「じゃあ五条さんが本当にさんに興味がないかは分かりませんよね」
「で、でも…結婚して一週間も経つのに手も出してこなければキスもしてこないし、それって興味ないから――」

と言いかけて言葉を切ったのは、七海先輩の顏が石化してたからだ。

「今…」
「え?」
「まだ手を出してこない…と言いましたか…?」
「う、うん…まあ…」

恥ずかしながら、と付け加えると、七海先輩は驚愕の表情浮かべて、「ありえない…」と呟きながらも手で口元を覆った。

「ありえない?」
「あの五条さんが…え、寝室は別ですか」
「え?あ…ううん…今は一応…同じだけど…」
「ベッドも?」
「べ、ベッドもキングサイズのがドーンと…」
「そこで一緒に寝たんですよね」
「ま、まあ…少し距離はあったけど」
「………」
「あ、念のために言うと…わたし、拒んでないですからね」

そう付け足したものの、七海先輩は再び石化して何やら考えているようだ。しばらくそっとしておこうと、刺身の盛り合わせへ箸を伸ばす。でも寸でのところで七海先輩は刺身の皿をサっと奪っていった。

「え、七海先輩…?」
「呑気にお刺身食べてる場合じゃないでしょう。今すぐ帰って下さい」
「え…?」
「きっと五条さん、先に帰って家で待ってるはずですから」
「ま、まさか――」
「いいえ!きっと待ってますから早く帰って下さい。そもそも新婚なのに先輩とは言え男の私と二人きりで飲んでていいわけないでしょう」
「言わなきゃ分からないし、そもそも政略結婚だし――」
さんが言わなくても護衛の人間が連絡するでしょう」
「あ、そっか…」

呪詛師を警戒して、わたしには未だに五条家の護衛が着いてくれている。その人たちがアイツに報告してるのは知っていた。ほらほら、と背中を押されて立ち上がる。何だと言うんだ、いったい。

「分かりましたよ。帰りますー!」
「とにかくさんはもう少し五条さんとの時間を作った方がいい」
「…それは嫌。あ、じゃあこれわたしの分です」

振り返ってお金を出すと、七海先輩は「いりませんよ」と苦笑した。

「え、でもわたしが呼び出したのに――」
「一応、先輩なので。ここは私が支払っておきます」
「でも…」
「まあ、その分、さんの旦那さんに何か奢ってもらいますよ」
「そ、その言い方やめてよ」

わたしが嫌がることを知っていて七海先輩はわざとそういうことを言って来る。でもこれ以上ここで問答していても仕方がないから、お言葉に甘えさせてもらうことにした。

「はあ…結局よく分からなかったなぁ…」

店の外に出て息を吐きつつ、夜空を見上げる。

――あまりにアナタが素っ気ないから、アテつけなのか…

あんなこと言われても信じられない。アイツが、あの五条悟がわたしを好きだなんて、それこそあり得ないし、あの女遊びが当てつけなんてもっとあり得ない。

「ふむ…でも…セクシー系かぁ…」

言われてみれば見かけたことのある女の人は全員大人っぽかったっけ。スラリとしたアイツの隣が似合うスタイル抜群の女性たち。わたしみたいな年下の色気もないような女が婚約者だなんて、向こうもガックリしてるかもしれない。でも、それでも。子供は作ってもらわなくちゃ困る。何の為にこんな結婚をしたんだか分からなくなってしまう。

「…とりあえずその気にさせる方法、考えよ…」

溜息交じりで呟くと、勝手について来ていた護衛の車に乗り込んで、新居のマンションへと送ってもらった。







街の夜景が遥か下方で燦然と輝きを放つ景色を眺めながら、紅茶の入ったカップを口に運んだ時、ケータイの振動音が聞こえて、ふと視線を目の前のガラステーブルへ向けた。その上で小刻みに震えているケータイは2度ほどその動作を繰り返した後でピタリと止まる。それは電話じゃなくメッセージが届いたことを示している。カップを置いて代わりにケータイを手に取ると、パスワードを解除して画面をタップする。メッセージを開けば、案の定の名前がそこに表示された。

"先ほど帰しました"

彼らしい端的なメッセージを見て思わず苦笑が洩れる。すぐに"このお礼は後日"と投げキッスのスタンプを一緒に送っておく。きっと今頃、あの能面顔を引きつらせて、メッセージを速攻で削除してるだろう。想像するとまた吹き出しそうになった。その時、再びケータイが震動して画面が電話着信に切り替わる。すぐにスライドして電話に出ると、それは五条家の護衛部隊からだった。

『到着して今、上がりました』
「そ。お疲れさん」

たったそれだけの会話で電話を終了させると、ちょうどエントランスの方から解錠音とドアの開く音が聞こえて来た。ケータイをテーブルに戻すと、今度こそカップを口へ運んで香りのいい紅茶を一口飲む。同時にリビングのドアが開いて彼女が姿を現した。

「お帰りー」
「…っい、いたの…」
「いるよ、もちろん。だってここは僕との家だし」

そう返すと、彼女はぐっと言葉を詰まらせ、そっぽを向く。なかなか手強い奥さんだなと苦笑交じりで小さく息を吐いた。

「何か食べた?」
「…た、食べて来た」
「じゃあ何か飲む?の好きな茶葉を買って来たんだけど」
「え?何でそんなこと知って…」
「そりゃー奥さんになる子のことくらい知ってるよ。好きな食べ物とか飲み物とか、映画とか…」

それこそ毎月買ってる好きな雑誌のこととかも。僕がそう言うとは怪訝そうな顔で、またそっぽを向く。これが昔からデフォルトのようになっていた。そう言えば最近彼女の笑ってる顔を見ていないことに気づいた。それが僕に向けられたことがあるのは、長い時間の中でたった一度のことなんだけど。

「シャワー浴びるから――」
「え、紅茶、いらない?」
「……で、出たら飲みます」

僕の方を見ないまま、はリビングを出て行ってしまった。でも彼女が紅茶を飲むと言ってくれたことは嬉しい。早速キッチンに行って準備をする。ただ風呂上りに熱いのを飲むのか、それとも冷たいのがいいのか分からなかったから、どっちも作ることにした。

(僕ってこんなにマメだったっけ)

自然と面倒な作業をしている自分にふと首を傾げる。意外と面倒くさがりだと思っていたけど、誰かの為に何かをするのは楽しいことだと感じた。それが自分の奥さん相手ならなおさら。

「ま…僕にだけ塩対応な奥さんだけど」

そうボヤきながらも、気づけば鼻歌を口ずさんでる自分がいて、ちょっとだけビックリした。






「はぁ~気持ちいい…」

広い湯舟に足を伸ばして浸かりながらホっと息を吐き出す。さすが高級マンションのお風呂なだけに最新設備も豊富で、ジャグジーは本当に最高だった。

「あー…さっきのお酒も抜けちゃったしお風呂上りにビールでも飲みたいなぁ…」

そう言ってからふとアイツの顔が頭に浮かぶ。何故かわたしの好きな茶葉を知っていて買って来たと言っていた。何で?と驚いたけど、きっと誰か高専関係者にでも聞いたのかもしれない。それにしても、何でこんな時間に家にいるんだろう。任務も終えたならどこかに遊びに行っても不思議じゃないのに、七海先輩の言う通り家にいるからビックリしてしまった。結婚してから二人の時間があったのは初日の夜だけで、後は顔を合わせたとしても朝の出勤前とかばかり。こうして夜、一緒に部屋にいるのは初めてだった。

(何となく…気まずい…)

これが本当の夫婦ならイチャつく幸せな時間なんだろうけど、わたし達は愛のない政略結婚をした夫婦だ。そんな甘い時間なんてあるわけないし、むしろイチャつきたくもない。だから余計に二人きりという空間は気まずくなってしまう。出来れば愛人の元にでも行って欲しいと思った。今、彼女がいるかどうか分かんないけど。

(ん…?待てよ)

と、そこで思い出した。この時間、実はチャンスなのでは。イチャつきたくはないけど子作りはしなくちゃいけない。ならこの時間を利用しない手はない。普段は忙しく、そもそも二人でいる時間の方が少ないのだから、家にいる今はセックスへ持ち込むいい機会だ。ただし――。

(アレする雰囲気に持って行くにはどうしたらいいのか分かんない……)

子供の頃から婚約していたのだから、当然リアルな恋愛はしたこともなく。もちろん性的な行為は一切したことがない。キスだって学生の頃、アイツにファーストキスを奪われた事件はあったけど、その時にされたのと、あとは結婚式でのふざけたディープキスをされたので2回。何とも乏しい経験値だ。こんなド素人の女が、経験豊富であろうアイツを誘惑出来るのか不安だった。だいたい今日まで手を出されないのも色気が足りないとか、元々わたしのことを女として見てないとか、そんな理由かもしれないし、乗って来てくれるかどうかも分からなかった。

(でもこのままじゃいつまで経っても子供なんて出来ない…)

家の為にもしっかり子供は作らないといけない。じゃなければ"狐憑き"の女なんて存在価値すらなくなってしまうんだから。

「よし…今夜こそ絶対その気にさせなくちゃ」

お風呂から出ると早速準備に取り掛かる。バスローブのまま自分の部屋へ行って、なるべくセクシーに見える下着を身につけ、露出高めの部屋着に着替える。この際ブラジャーはつけない。長い髪を緩くアップにして、薄っすらとメイクをした後は軽くChloéの香水を耳の後ろにつけた。

「こ、これでどうだ…」

鏡の前で確認しつつ、我ながら色っぽいのでは?と自分でも思った。これならさすがにアイツもその気になってくれるはず。そう思いながら深呼吸をしてリビングに向かう。何となく足が震えてるけど、あんなもの誰もが一度は経験することだ。怖いなんて言ってられない。

(最初のキッカケが大事よね…嫌だけどこうなったらアイツの隣にベッタリ座って、まずは匂いで誘ってみる…?)

男をベッドへ誘うスキルなんてゼロのわたしが、百戦錬磨であろう五条悟を上手く誘えるのかどうか。これはもう未知の世界だ。

「あ、。上がった?」
「え、あ…うん…」

並々ならぬ気合を入れてドアを開けた瞬間、五条悟は笑顔で振り向いた。

「じゃあここ座って。あ、紅茶、ホットがいい?それともアイス?」
「え…?じゃ、じゃあ…アイス…って、アイスティーもあるの?」
「ああ、風呂上りなら冷たいのがいいかもって思って一応作っておいただけ。ちょっと待ってて」

彼は機嫌の良さそうな顔でキッチンへ行くと、グラスに氷をたっぷり入れた琥珀色のアイスティーをわたしの前へ置いた。

「はい」
「あ…ありがと…」

ついお礼を口にしてしまった。というか何?この穏やかな空気は。これまでこの人とこんな時間を過ごしたことないから変に緊張する。

「どう?」
「ん、お、美味しい…」
「そ?良かった」

わたしがアイスティーを飲むのを心配そうに見ていた彼は、美味しいというわたしの一言で嬉しそうな笑みを浮かべた。普段目隠しをしている目元もさすがに家ではサングラスをかけるだけだから、時々見える淡い青が優しい眼差しを向けて来るのが分かる。

(彼はこんなに優しかったっけ――?)

ふとそんな思いが過ぎった。わたしの知ってる五条悟は、唯我独尊で口が悪くて、デリカシーもなくて、優しさなんて感じたこともない。いつも冷たい印象しか持てなかった。ハタチを超えてから、関係を深めろと言われたのか、何度か会いに来た時はかなり雰囲気は柔らかくなってたし、一度昔のことを謝罪してきたこともあったけど、そんなものは親に言われたからに違いなく、全く信用出来なかった。それくらいわたしの中の五条悟は最悪な男だ。なのに今、目の前にいる彼はわたしの知らない顔を見せて来る。この変わりようはいったいどうしたんだろう。

「あれ、、香水つけてる?いい匂い」
「……そ、そう?」
に合ってる」
「………」

隣に座ってサラリと褒めて来る辺り、さすが五条悟だ。でも欲しかった反応じゃない。少しはムラっとして欲しいだけだ。でも彼は楽しげに鼻歌なんか歌いながら立ち上がると、テレビ横の棚から映画のDVDをいくつか持ってきて、また隣へと座った。

と映画観たくて買って来たんだけど、これから観ない?」
「えっ」
「そんな驚く?、映画好きでしょ。特にコレなんか」

そう言ってアクション映画のパッケージを見せて来る。確かにアクションは好きだし面白そうと思ってしまった。というか映画の好みの話なんかしてないのになぜ知ってる?

「どう?」
「う…ま、まあ…好き…だけど」
「じゃあコレ見ようか」

つい頷いたら彼はDVDをセットし始めた。マズい。映画を観ている場合じゃないのに。というか嫌いな人とこんな穏やかな夫婦タイムは必要ない。

(なのに…ハッキリ断れなかった…。あまりに嬉しそうな顔をするから…)

彼はまたわたしの隣に座ってリモコンで再生ボタンを押している。チラっと隣を見れば二人の距離は真ん中一人分くらいは空いていた。これでは誘惑できる気がしない。いや、そもそも気合を入れてお風呂上りにメイクまでしたっていうのに、褒められたのは香水だけ。これって殆ど脈なし?せっかく露出の多い部屋着にしたのに、わたしだけやる気満々みたいで恥ずかしくなって来た。

、どうした?」
「え?」
「何かここ、こーんなに寄って難しい顔してるけど」

彼は自分の眉間を指さして笑っている。指摘されて慌ててそこを手で隠した。ダメだ、映画に集中できていない。こうなったら思い切って口でハッキリ言ってみるとかした方がいいのかなと思い始めた頃、ふと彼がわたしを見た。

「そう言えばさっき思ったんだけど…」
「…え?」
「その部屋着、めちゃくちゃ可愛い」
「……ど、どうも」

あまりに不意打ち過ぎて顔が赤くなったのが自分でも分かった。慌てて俯くと、膝の上でぎゅっと手を握り締める。こうしていないと恥ずかしさが広がって、もっと顔が赤くなってしまう気がした。大嫌いな男にちょっと褒められたくらいで赤くなるなんて、自分の免疫のなさに呆れてしまう。その時だった。彼がもう一度わたしを見た。

「もう少し…近くにいってもいい?」
「……え?」
「ダメ?」
「………」

甘えるようなその表情にドキっとさせられた。でもこれはチャンスかも、とそこは「いいけど」と応えておく。すると彼は一気に距離をつめて来た。

「ち…ちか」
「あ、ダメだった?」
「べ、別に…いいけど…」
「そう?じゃあお言葉に甘えて」

五条悟はにっこり微笑むと、互いの膝が触れあうくらいに密着してきて、左腕は何気なくわたしの背後の背もたれに回されている。手足が長い分、触れてもないのに後ろから抱きしめられてる感覚になって、変にドキドキしてきた。大嫌いなはずなのに、やけに頬が火照ってしまう。ハッキリ言って映画に集中できる気がしなかった。その時、膝の上で握り締めていた手に、彼の大きな手が重なって、心臓が驚くほど跳ねた気がした。

、何か…緊張してる?」
「……ま、まさか」
「ならいいけど…肩にも力入ってるし…」
「そんな…ことないから」
「あー…やっぱ近すぎた?もう少し離れた方が――」

といきなり腰を浮かした彼に、わたしは焦って「ダメ!」としがみついてしまった。その行動に自分でもビックリした。

「え……?」
「い、いいから…このまま座ってて」
「いや、でも何か顔も赤いし…」
「こ、これはお風呂上りだから…」
「うん、いや、だから…」

と彼は困ったように笑うと、不意にわたしの顔を覗き込んで来た。

「このままだと…キスしたくなっちゃうし」
「……っ?」
、さっきからいい匂いするし、その恰好も可愛すぎて変な気分になりそうだから」
「………」

こ、これはもしや誘惑が上手くいっている?そう思った時、不意に彼と目が合った。ズレたサングラスの奥の蒼い瞳が、戸惑うように揺れたのさえハッキリと分かる。その瞬間、彼は身を屈めて顔を近づけて来た。遂に誘惑成功かもしれない。そう、思ったのに。五条悟は何故かハッとしたようにわたしから離れると、「ごめん」とひとこと呟いた。

「え…?」

どうして?と聞こうとした時だった。テーブルの上のケータイが震動して彼がすぐに電話に出た。

「はい。え?…分かった。すぐ行く」

それだけ言うと、彼はもう一度「ごめん、任務が入ったから行って来る」とだけ言って、わたしの頭をくしゃりと撫でた。

「映画はまた今度ね」

そう言いながら上着を羽織って出て行く彼を、わたしは黙って見送ることしか出来なかった。