第三話



――映画はまた今度ね。

なんて言って出かけた五条悟は、それから一週間、家に帰って来ていない。



「――え?特級過呪怨霊?」

あまり聞き慣れない言葉に、わたしは捲っていた資料から目を離し、後ろで盛りのついたゴリラの如く鼻息を荒くしている夜蛾学長の方へ視線を向けた。

「えっと…何でしたっけ、それ」
「はあ?仮にもオマエ、元高専生だろ!」

小首をかしげて質問をしたわたしのすっとぼけた態度がお気に召さなかったらしい。夜蛾学長は大きな鼻の穴を更に膨らませてわたしに噛みついて来た。いや実際噛みつかれてはないけど。

「すみません。呪術師になる気はなかったし、そういうレアなものはあまり熱心に学ばなかったもので」
「だからって……はあ。まあ、いい。オレもまさか特級中の特級案件に生きているうちにお目にかかるとは思ってなかったよ」
「そんなにレアものなんですか」
「レアものって…フィギュアみたいに言うな」

机をバンッと叩いて「フンっ」と更に鼻息を駄々洩れさせながら、夜蛾学長は頭を抱えている。よほど今回の任務は頭の痛くなる案件らしい。詳しく話を聞いてみれば、その"レアもの"を殺せと呪術界の上層部から命令されたのに、五条悟が勝手に高専で引き受けると言ってしまったのだから、夜蛾学長がこうなってしまうのも理解出来る気がする。

(でもなるほど…それで忙しかったのか…)

家に帰って来なかった理由が明確になったことで何となくスッキリした。そもそも外泊中、何度かどうでもいいメッセージが送られてきたものの、アイツから肝心な理由も説明もなく。もしかしたら早速愛人でも作ったかと思っていたところだ。

「学長、この資料お借りします」
「ん?ああ…好きに使え」

この高専もだいぶ近代化が進み、これまでの古い資料をデータ化することになった。その面倒な仕事を事務員のわたしがやることになっている。学長室に置いてある一部の資料は今の話みたいな特級案件のものが多く、今まとめている年代の中でも上位のものだ。一部足りないことに気づいて学長室まで取りにきてみたら、五条悟の現在の任務の話になった。だけど、何で妻のオマエが知らないんだ?と言いたいのか、夜蛾学長は怪訝そうな顔で出て行こうとするわたしを見ている。

「何ですか、その疲れ切ったゴリラのような顔は」
「誰がゴリラだっ!ったく、オマエは昔からホントに口が悪い…そっくりだな、旦那と」
「…っ一緒にしないで下さい」

聞き捨てならないとばかりに振り返ると、夜蛾学長はゴツイ顔をしかめながら、いかついサングラス越しにジっと見つめてくる。あれを外したら意外にもつぶらな瞳が隠れてるのを、わたしは知っている。

「いや…まあ…オマエら、まだそんな感じなのかと思ってな」
「…当然です。愛のない結婚なんで」
「バカっここでそうハッキリ言うな!誰が聞いてるか分からん」
「すみません」

わたし的には誰に聞かれてもいいけど、世間体は気にしないといけないようだ。まあ確かにここには大人だけじゃない。生徒達もいる。当然呪術師として任務にも行かせてるけど、思春期と呼ばれる年齢の男女には変わりない。一教師が政略結婚をした、という大人の事情的な話は知られない方がいいんだろう。特に、彼の生徒達には。

「まあ、そんなこんなで…悟は今、その生徒に付きっ切りだったんだが、明日から高専で皆と一緒に学ばせるようだ。だからそろそろ家に帰れると思うんだが――」
「そうですか」
「…は本当に悟の話に興味ないな。そんなに嫌いか」
「……愚問です」

生徒として高専に入学する前から、夜蛾学長はわたしがここへ顔を出していたことを知っている。その頃からわたしが五条悟に素っ気なくしていたことも。わたしと彼の、というよりは両家のしがらみのことを知った夜蛾先生は「オマエも大変だな、その若さで」と不憫に思ってくれたようだ。彼の担任として、わたしの運命に同情してくれた最初の大人だったかもしれない。

「もう少し歩み寄ればいいのに」
「…悟さんにもそう言われたし、今は十代の頃より随分優しくしてくれますけど…それも本心じゃないなら意味はないです。だいたいあの人のせいで何度命を狙われたか…」
「でも寸でのところで助かったんだろ?」
「そうですけど…それは五条家の護衛部隊のおかげだし。その間、あの人は一度もわたしのところへ顔を見せなかった。婚約者が仮にも自分のせいで狙われたっていうのに。そんな人の言うこと、どう信用すればいいんですか」

腕に抱いた資料をグっと抱きしめる。あの時の孤独は言葉では言い表せない。わたしだって、これでも歩み寄ろうとしたことはある。無理やりさせられた婚約で、初対面から失礼な婚約者だったけど、それでも少しずつ大人になっていけば、それなりに考えてくれると思っていた。なのに彼は相変わらずの飄々とした態度でわたしに接して来るばかりか、下らないことでからかってくる。怖い思いをした時くらい、わたしのことを心配して欲しかった。優しくして欲しかった。なのにアイツは――。

――何だよ。優しくして欲しかったんだろ?

あの日のことは一生忘れられないかもしれない。あんな形で、ファーストキスを奪われた屈辱的な日のことは。



▼△▼



遡ること10年以上前の話だ。あれは五条悟が高専に入学して一年目の年。わたしは父に言われて"婚約者と親交を深める"為に、学校帰り、高専へと連れて行かれた。その頃のわたしは中学2年に上がったばかりだったけど、卒業後は五条悟と同じ高専に通うことが決められていた。本当は友達と同じ高校に行きたいと思っていたけど、そんな小さな夢でさえ諦めなくちゃいけない自分の運命を、少し疎ましく思っていた頃だったかもしれない。でも家に背いたところで、わたしの存在価値が消えてしまうだけ。わたしは、家族に必要とされたかった。

「あ?まーた来たのか、オマエ」

2年後には入学することになる校舎内を、五条悟の同級生である家入硝子先輩に案内してもらっていると、前から図体の大きな男二人が歩いて来た。一人はわたしの婚約者である五条悟。相変わらず真っ黒なラウンド型のサングラスで六眼を隠し、口元には小ばかにしたような軽薄な笑みを浮かべている。初対面の時はサラサラで綺麗な髪だと思った白髪も、彼の軽薄さを更に助長させてるようにしか見えなくなっていた。そして彼の隣にいる男は、五条悟の友人で夏油傑。彼と同じく高身長でいて、少し長い黒髪を後ろで一つに縛っている。でも彼はその顏にいつも穏やかな笑みを浮かべていて、「やあ、ちゃん。今日もこんな田舎までご苦労様」と労いの言葉をくれるような優しい人だった。

「ご苦労様って、コイツはウチの車でここまで送ってもらってんだし、そんな苦労してねえだろ」

夏油先輩の発言に対して五条悟はすぐに突っ込んでいる。わたしは彼のこういうところも嫌いだ。そんな気持ちがつい顔に出てしまっていたのかもしれない。五条悟はふとわたしを、見下ろして「何だよ、その顔」と文句を言ってきた。

「別に」
「…可愛くねえ」

プイっと顔を反らすと、彼は盛大に口元を引きつらせて一言呟いた。

「悟さんに可愛いとか思われたくない」
「……そーいうとこな」
「よさないか、悟。何でオマエはいちいち彼女に突っかかるような物言いをするんだ」
「あ?そんなの最初にコイツが――」

と彼が言いかけた時、夏油先輩はニッコリ微笑むと「娯楽室に行ってジュースでも飲まない?」と言ってくれた。それには今まで案内してくれていた硝子先輩も乗って「いいねー行こ行こ」と、わたしの手を繋いで歩き出す。廊下に取り残されそうになった五条悟は「おい!置いてくなっ」と叫びながら、後を追いかけて来た。

「へえ、ちゃんはこの作家さん好きなんだ。奇遇だな」
「え、じゃあ…夏油先輩も?」
「うん。デビュー作が凄く良くてね」
「あ、"天泣てんきゅうの止むころには"!わたしも好きです、あれ。主人公と不仲の同級生の男の子が、少しずつ打ち解けていくところが凄く良かったなあ。こっちまでドキドキした記憶があります」
「そうそう。二人の心情が移りゆくさまに、読んでいると歯痒いながらも応援したくなった」

まさか夏油先輩と同じ作者さんファンだなんて思わなくて、凄く嬉しくなってしまった。昔から習い事に忙しく、あまり友達の出来なかったわたしが唯一ハマったのは読書だった。でもどんなに読んだ感想を話したくても、世間に認知されてるほど有名な作者さんではなく、誰にも共感してもらえず寂しい思いをしていたこともある。だけどまさか高専に共感してくれる人がいたなんて思わなかった。

「何それ。面白いの?」

コーラを飲みつつ、夏油先輩とわたしの間に割り込んで来た五条悟は、わたしが手にしていた新作の小説を勝手に奪っていく。でも中身をパラパラめくっただけで「オレ、小説とか苦手」としかめっ面で、ついでに舌まで出してわたしの手につき返して来た。その態度にムっとしたものの、硝子先輩や夏油先輩の手前もあり、グっと怒りを我慢する。

「悟は漫画やゲームの方が好きだろ」
「そっちの方がおもしれーじゃん。だいたい文章なんかで泣いたり笑ったりできる奴の気が知れねえ」
「それは想像力の問題じゃないか?」
「あ?オレが想像も出来ねえバカだって言いたいの?」
「さあ?」

五条悟をやりこめている夏油先輩は肩を竦めて笑っている。わたしは内心いいぞいいぞとエールを送ってしまった。あのオレ様の五条悟にあそこまで言える人は周りに殆どいないと思っていたけど、こんな身近にいたとは思わなかった。

「ったく五条はほーんとガキだよねー」
「は?硝子、何つった?今」
「こんな小学生並みの男が婚約者なんてかわいそう、
「テメェ、ケンカ売ってんのか?いつでも買うよ?」

硝子先輩がわたしを抱きしめながら頬ずりしているのを見て、五条悟はその黒いサングラスをズラすと、徐に青い瞳を細めた。ついでにジロリとわたしを睥睨してくる。だけど今日は味方が二人もいるから怖くはない。

「オレがかわいそーだろ?こんな色気もねえガキと婚約させられてんだから」
「……む」
ちゃんはすーごく可愛いじゃない。だいたい中学生で色気なんかあってたまるか。そんなもの大人になれば自然に出て来るもんだしねー?」

硝子先輩はわたしの頭を撫でながら優しく微笑んでくれる。それだけでわたしも笑顔になれた。でも五条悟はまだ納得いかないといった顔で「大人になっても同じだろ。ガリガリのぺったんこだし」とわたしが赤面するような言葉をぶつけてきた。

「おい、悟。今のは最低だぞ、オマエ」
「あ?」
「ほーんとにマジでデリカシー0!セクハラだわ、完璧に」
「な、何だよ、二人して…」

同級生二人から責められ、さすがに焦ったのか、五条悟は顔を引きつらせて笑っている。わたしは内心ザマーミロと思いながら心の中で思い切り舌を出した。そもそも女の子の体型のことをバカにしてくるなんて最低だ。わたしだって凄く気にしてたのに。

ちゃん、気にすることないよ。悟の言うことなんて」
「そうそう。大人になったらいい女になって、あのバカ見返してやりな」
「…夏油先輩、硝子先輩、ありがとう御座います」

励ましてくれる二人の気持ちが嬉しくてお礼を言うと、後ろでは五条悟が面白くもないって顔で舌打ちをしていた。

結局、終始そんなノリになり、五条悟との関係を深めるには至らず。でも二人の先輩とは更に仲良くなれたおかげもあり、比較的、楽しい気分のまま帰路につこうとした時のことだった。突然乗っていた車を襲撃された。相手は五条悟を狙っている呪詛師で、婚約者のわたしを誘拐し、五条悟をおびき寄せる餌にしようとしたらしい。でも五条家の護衛部隊であった彼の従妹の圭吾や、他の護衛陣に助けられ、どうにかさらわれることなく済んだ。ただ爆風で飛んで来たフロントガラスの破片で頬や手に切り傷を負い、治療の為そのまま高専に引き返すことになった。こういったケガを硝子先輩は簡単に治すことが出来るからだ。

「はい、もう大丈夫よ。綺麗に治したから」
「あ…ありがとう…御座います」
「怖かったね」

硝子先輩に頭を撫でられ、堪えていた涙が零れ落ちた。怖いなんてものじゃない。幼い頃にも何度か襲撃を受けたことがあり、その傷も癒えてないままだ。それでも最近は護衛も増えて襲撃じたいは減っていた。でも忘れた頃に襲われたことで、また恐怖が蘇ってきた。五条悟の婚約者でいる限り、永遠にこれが続くのかと思うと心が折れそうになる。

「今、五条と夏油が残党狩りしてくれてるから、もう大丈夫だよ」
「は、はい…」
「あ、温かいもの飲む?買ってきてあげる」
「あ…すみません…」
「ちょっと待ってて」

硝子先輩は笑顔で言うと、そのまま医務室を出て行った。静かな部屋に一人になると、やっぱり恐怖で手足が震えてしまう。体の傷は治っても、心の方はどうしようもない。つい窓の方に目がいってしまう。今この瞬間、また呪詛師が襲って来るんじゃないかと思うと、いっそう身体が冷えていく気がした。

(大丈夫…高専の敷地内は結界が張られてるって言ってたし…)

膝の上でぎゅっと手を握り合わせて、どうにか心を落ち着けようとした、その時。背後でドアの開く音がしてビクリと肩が跳ねる。

「おい」
「…あ…」

その素っ気ない声に振り向けば、五条悟が医務室に入って来た。一人で戻って来たようだ。

「全部…片づけて来たから」
「……え」
「今、傑が自分の呪霊を放って他にまだいないか確認してるし、それが済んだら帰っていいぞ」
「…うん」

こんな時でも「大丈夫か」の一言もない。昔から彼はそうだった。わたしが何度呪詛師に襲撃されようと、その後に見舞いすら来てくれたことはない。なのに何を期待してると言うんだろう。わたしは本当にこんな冷たい男と結婚しなくちゃいけないんだろうか。そう思うだけで、また膝の上の手に力が入る。

「あのさ」

その時、五条悟は目の前の椅子に座ってわたしの顔を覗き込んだ。

「オマエ、一応、術式あんだろ」
「え…?」
「戦闘力は弱くても、オマエには特殊な術が使えんだろーが。何でそれ使わねえの?」

五条悟は真っすぐわたしを見つめながら訪ねて来た。彼が言ってるのは家の術式のことに他ならない。我が家はだいだい対象に幻影を見せることが出来る。でもあまりに突然の襲撃ですっかり忘れていた。そして今、彼に言われたことは前にも言われたことだ。確かに襲われた時、敵に術を使えば護衛の人達もアッサリ奴らを倒すことが出来たはずだ。でも…

「ったく…せっかく術式いいもん持ってんのにもったいねえ」

彼に溜息交じりで呆れたように言われた時、わたしの中で反撃しようと思えば出来たはずだという事実を反省する前に、これまで彼に対して思ってきた本音が溢れ出てしまった。

「…によ」
「あ?」
「……こんな時くらい…優しくしてくれたっていいじゃない」

言った後にしまったと思った。でも言わずにはいられなかった。例え親の決めた婚約者でも、怖い思いをした時くらいは意地悪なことを言わずに、優しい言葉をかけて欲しい。そう伝えたかっただけ。たったそれだけでも、心が落ち着く気がしたのだ。でもこんな人に言ったところで無駄だというのも分かっている。現に彼は何も言ってくれない。深い溜息と共に、わたしは「ごめん。今のは忘れて――」と顔を上げた時だった。不意に視界を遮る影が落ちて、気づけばくちびるに柔らかいものを押し付けられていた。それはほんの数秒で離れていく。いやもっと短かったのかもしれないけど、わたしにはそう感じられた。何をされたのかも分からず、2、3度瞬きを繰り返す。すぐ目の前には幼い頃に見惚れた綺麗な双眸が、わたしを見下ろしていた。

「何だよ。優しくして欲しかったんだろ?」
「……は?」
「こうすれば女の子はだいたい喜ぶ――」

へらっと彼が笑って肩を竦めた瞬間、わたしの中で何かが切れて。思わずその綺麗な顔に思い切りビンタをかましていた。ばちんっと渇いた音が医務室に響く。叩かれて頬を赤くしている五条悟は、一瞬何が起きたのか分からないといった顔でわたしに視線を戻した。

「…いて…」

呆気に取られた顔でわたしが殴った頬へ手を添えている彼を見て、わたしは勢いよく立ち上がった。

「最低!悟さんなんか大嫌いっ」

確かそんな感情的な言葉をぶつけたと思う。そのまま医務室を飛び出した記憶がある。
こうして、わたしのファーストキスは、あっさり何のムードもないまま、五条悟という最低最悪の男に呆気なく奪われて終わった。