第四話



『今日は家に帰れるから映画の続き観よう』

そんなメッセージが届いたのはわたしがデータ化の仕事をちょうど終えた時だった。あの男から律儀にも帰ると連絡がくるとは思わず、スマホの画面を二度見してしまったけど、よく考えればこれはチャンスかもしれない。時計を見れば午後5時を少し過ぎたところで、わたしはすぐに帰る準備を始めた。

「あら、さん。もう帰るの?珍しい」
「はい。ちょっと用事が…」

同僚の事務員のオバチャン、伊達さんに声をかけられ、引きつりながらも笑顔をで頷く。この前まで家に帰りたくないと敢えて残業をしてたせいか、定時で帰るのは意外といった顔をされてしまった。

「でも良かったわ」
「え?」

伊達さんは苦笑しながらわたしを見ると「だって新婚さんなのに仕事ばっかりしてるから心配してたの」と肩を竦めた。

「あまり奥さんをコキ使ったら五条さんに叱られそうだしね」
「い、いえ、まさか…そんなことは…」

あははは、と笑って誤魔化しつつ「お疲れ様です」と早々に事務室を後にする。世間一般ではまだ自分が新婚と呼ばれる時期なのをすっかり忘れていた。普段から結婚生活という感じになっていないから実感も湧いてこない。一応、世間の目があるから形だけでも新婚のふりをしなくちゃいけないかな、とは思うけど、すでに冷え切った関係なのだから演技でもあの男とイチャつくのはムリがある。

(でも…冷え切ってようが何が何でも子供だけは作ってしまわないと…)

校舎を出ると、わたしはすぐに護衛の人達が待つ駐車場へ向かって、帰りがけスーパーに寄ってもらった。今夜帰って来ると言うなら一応、妻として夕飯の準備でもしようと思ったのだ。でもスーパーについて、いざ買い物をしようと思った時、はたっと手が止まった。

(あれ…?あの人って…何が好きなんだろう)

仮にも長いこと婚約していた相手の好きな食べ物すら知らないことに気づいて途方に暮れた。いや食事だけじゃない。他のこともわたしは何一つ彼のことを知らない。好きな音楽も、好きな映画も、どんなことに興味があるのかさえ、何一つ。

(なのに…悟さんはわたしの好きなものを知ってた…)

ふと先日の夜のことを思い出して首を傾げる。わたしがコーヒーより紅茶派なことも、アクション映画が好きなことも、彼は知っていた。高専関係者に聞いたんだろうと思ったけど、本当にそうなんだろうか。だいたい毎月読んでる雑誌とかまで知ってる人は少ないはずだ。硝子先輩にだって、そんな話はしたことがないし、まして七海先輩や伊地知くんといった男性陣に女性誌の話をする機会なんてあるはずもない。

「って…今はそんなのどうでもいいか」

まずは夕飯のメニューを決めなきゃ始まらない。とりあえず好きな物は知らないけど、誰でも好きそうなハンバーグにしようと食材をカゴへ入れて行った。きっちり子供の頃から習い事まみれの暗い青春を送って来たから、これでも料理を含めた家事全般は出来るのだ。

「あ…ハンバーグならワインでも買おう。赤ワイン好きかな、アイツ」

そうだ、お酒の力を借りてアイツを酔わせて、この前みたいにその気にさせる。今夜はこれでいこう!そう決断すると脳内でアレコレとシミュレーションしながら家路を急いだ。







「あ、ごめん。僕、お酒飲めないんだよね」
「…えっ?」

あれから帰って急いで夕飯の支度を済ませ、彼の帰りを待つこと30分。意外と早くに帰宅したことに驚きつつ、ハンバーグを焼いてからワイングラスを二つ出していると、五条悟はあっさりと言った。まさかお酒が飲めない男がいるとは思わない。いや世間には沢山いるけれども。何となく勝手な想像で、彼は飲めると思い込んでいたかもしれない。

(そう言えば…悟さんがお酒飲んでる姿を見たことないかも…?)

結婚式の時も確かジュースを飲んでいた。てっきり酔わないようにしてるだけかと思っていたけど、そうじゃなかったらしい。

「ご、ごめんなさい…。知らなくて…」
「いや何で謝るの。別に気にしてないしは飲みなよ。好きなんでしょ、お酒」
「え…っと…まあ…好きかと聞かれれば……好きだけど」
「じゃあ遠慮しないで飲んで。――それより」

と、彼は目隠しの包帯を外すと、その綺麗な碧眼をわたしに向けて、笑顔で両手を広げた。

「一週間ぶりだし、まずはお帰りのハグして」
「……は?」
「は?じゃなくてハ・グ!」

にっこり微笑みながら「ほらほら」と手を広げるから、わたしは呆気に取られてしまった。何となく気づいてはいたけど、近年の彼は昔とキャラが変わりすぎて、どう対応していいのか分からない。高専を卒業した頃から、ノリも以前より軽薄になってきた気がしてたけど、あまり関わらないようにしてたから直に対峙するのは意外と初めてかもしれない。最初はからかってるのかと思ってたけど、どうも違う気がして来た。

「してくれないの?」

わたしが微動だにしないせいか、不満げに口を尖らせ、「じゃあ僕からしちゃお」と言いながらガバりと抱き着いて来た。びっくりして「ひゃっ」と変な声が出たけど、彼は気にすることなく、ぎゅうっと腕に力を入れて抱きしめてくる。

「あ~仕事の疲れが癒される…」
「………」

頭に頬ずりしながらそんな嘘臭い言葉を呟く彼に、わたしはフリーズしたまま動けない。男の人に抱きしめられたのはこれが初めてで、一気に緊張してしまったせいだ。そう、すっかり忘れてたけど、わたしは男性経験はもちろん、こういったスキンシップでさえ初体験だった。

「あれ、、何か固まってる?」
「べ、べべ別に…っ。平気です…っ」
「でも顏真っ赤だけど…もしかして…」
「な…なな何ですか…っ」

ぐっと顔を覗き込まれて、わたしは体を後ろへのけ反るようにしながら顔を離した。だいたいこの人の顔を至近距離で見るのは心臓に良くない。肌なんか女のわたしより艶々してて透明感がありすぎる。っていうか、あまりその瞳で見つめないで欲しい。澄んだ青空のような青に、吸い込まれそうで怖い。
どうにか距離をとることだけに集中していると、彼はふと笑みを浮かべて、せっかく離した距離を一気に縮めてきた。

「こういうことされるの、あんま慣れてない?」
「あ…当たり前です!わたしはずっと悟さんと婚約してたんだから――」

慣れてたらそれこそ大問題だ。女をとっかえひっかえしてたアナタとは違う。そう言ってやりたかった。でも彼は一瞬止まって「悟」と自分の名を口にした。

「え…?」
「言ったでしょ。僕のことは悟って呼んで欲しい」
「…さ、悟…」

その名を口にした途端、心臓が早鐘を打ち出した。これまでテンプレの如く「悟さん」と何の感情も込めずに呼んでいたから、改めて呼び捨てにすると、かなり照れ臭い。

「よく出来ました」
「…っ」

悟は嬉しそうな笑顔を浮かべると、頬にちゅっとキスをしてきた。その行為ですら顔に熱が集中して、言葉が上手く出てこない。それくらいわたしには男の人に触れられることに免疫がなかった。

「もしかして…昔、僕が言ったこと気にしてた?」
「え…?」
と初めて会った時に僕が酷いこと言っちゃったでしょ」
「……べ、別にもう気にしてないし――」

ジっと見つめられて思わずそっぽを向く。出来れば腕を放して欲しかった。でもその時、悟が不意に「ごめん」と一言呟く。

「あの時はごめん。ムカついたよね」
「な…何…急に…」

いきなり真顔での謝罪に頬が引きつる。以前も謝ってはくれたけど、その時とは雰囲気が違う。

「前に謝った時に言えなかったんだけど…話、聞いてくれる?」
「え…話って…」

そこでやっと身体が解放されてホっと息を吐くと、悟はわたしの手を引いてソファへと座る。とりあえず話が気になったわたしも彼の隣に腰を下ろした。

「あの頃の僕も…家の事情ってやつに振り回されてるガキでね。直前に婚約者が会いに来ると聞いて結構驚いたんだ」
「…え、そんな風に見えなかった」
「まあ…生意気だったし、そういう動揺とか見せたくないから平気なフリはしてたけど、あれでも緊張してたよ、僕も」
「えっ?緊張って…」

その話には驚いた。どう考えてもそんな風には見えなかったし、場慣れしている印象を受けたからだ。ただ、今思えばあの場にいたのはわたしと彼以外、全員が大人だった。12歳とはいえ、そんな中でいきなり存在を知ったばかりの婚約者に引き合わされれば彼と言えど緊張するのは当然かもしれないとは思う。

「まあ、自分の意志とは関係なく、どんどん僕の将来は決まっていくし、ちょっとイラついてたってのもある。だからつい…可愛い女の子に八つ当たりしちゃったんだよね」

悟はそう言って苦笑いを浮かべた。でもすぐにわたしを見ると「ほんと、酷いこと言って悪かった」と真剣な顔で謝ってくれた。たったそれだけのことだけど、わたしの中にあったわだかまりが、少し解れていく気がして、心の重しが消えていく。でも気になってたのはそこではなく、やっぱり大人になってからのことだった。

「じゃあ…その後のことも…八つ当たり…ですか?」

こういう真面目な話を今まで彼としたことはない。思い切って尋ねてみた。悟は少し驚いた顔をしたけど、不意に笑みを浮かべて首を振った。

「その後のことは…まあ…八つ当たりとちょっと違うかな」
「違う…?」
「ガキだったってのもあるけどさ。いつまで経っても素っ気ないにイラついて意地悪しちゃってたかも」
「い、意地悪って…」
「ごめん。でも…僕にだけいっつも塩対応だし、そりゃスネたくもなるよね」
「だってそれは悟が…っ」

と言って言葉を切った。もうどっちが先でとか分からない。ただ言えるのは、軽薄だと思っていた彼が、意外と繊細な部分があったのかなと思うと、わたしもつい「ごめんなさい」という言葉を口にしていた。あの頃は悟と会うたび、わたしも嫌な態度をとっていた自覚はある。どっちが先に仕掛けたとかを除けば、答えはシンプルだ。

「何でが謝るの。悪いのは僕だし」
「でも…わたしも態度最悪だったし」
「ああ、まあ…あれは酷かったな、確かに」

苦笑する彼に少しムっとしたけど、今ここで言い返せば同じことの繰り返しになってしまう。まだわたしの中にモヤモヤしたものは残ってるけど、子供を作る為には彼の言う"いい関係"とやらを保った方がいいような気がしてきた。

「というわけで…そろそろ仲直りしない?結婚もしたことだし」
「……仲直り?」
「スタートが間違ってたし、僕としては最初からやり直したいと思ってる」
「最初から…」

確かに言われてみれば、わたし達はスタートが間違えてたかもしれない。あの日、わたしも緊張はしてたけど、もし悟が優しく挨拶を返してくれてたなら、ここまで苦手意識が育ってなかったはずだ。

「…分かり…ました」

ここは少しくらい歩み寄ろうと思って素直に頷く。その時、悟がホっと息を吐いたのと同時、再びわたしを抱き寄せて来た。

「な、何…?」
「何って…この空気は仲直りのちゅーでしょ、やっぱり」
「……は?」

悟がニッコリ微笑んで顔を近づけてくるのを見てギョっとしたわたしは、つい条件反射で顔を背けてしまった。でもすぐに後悔という二文字が脳裏を過ぎる。仮にも子供を作らなきゃいけないって時にここで拒んでどうする、わたし!と恥ずかしい気持ちを封印して、今の行動を謝ろうとした。でも顔を戻した瞬間、オデコに「んー」っと擬音付きでキスをされて、文字通りビックリしてしまった。まさかオデコにされるとは思わない。

「…さ、悟…?」
「あれ、物足りなかった?」
「…は?」

いきなり子供にするみたいなキスを仕掛けて来たと思えば、すっとぼけたことを訊いて来る彼に唖然としてしまう。

「ってのは冗談でー。、あまり慣れてないみたいだから少しずつ進めようかと思って。今までのことも反省したんだ」
「え…」

悟は申し訳なさそうに言うと、「多少、僕のこと意識してもらおうと結婚式では強引なことしすぎたかなと思ってさ」と苦笑している。きっと例のディープキスのことを言ってるんだろう。あれはそういう意図があったのか、と思わず顔が赤くなった。

「ってことで…結婚はしたけど、僕とは婚約中、婚約者らしいこと何もしてないし、焦らなくていいからゆっくり関係を深めていこう」
「え、ゆ、ゆっくりはちょっと――」
「あ、ってことで僕、先にシャワー浴びて来るからは先にご飯食べてて」
「え?あ、ちょ…っ」

悟はまたしても言いたいことだけ言うと、サッサとバスルームへ歩いて行く。その場に取り残されたわたしは、しばし固まってしまった。

「焦らず…ゆっくり…?それは困る…かも」

仲直りと称して子作りの予定が、見事に覆されそうで、わたしはまたしても途方に暮れてしまった。これ以上、初夜を伸ばされてしまうのはわたしとしても困ってしまう。確かに慣れてはないし行為自体も怖いしかない。でも…。

――跡取りを頼むぞ、

わたしには大事な使命がある。"狐憑き"として、彼の全てを受け継いだ子供を産む、大事な使命が。

「何なの、アイツ…。優しいのか焦らしてるのかさっぱり分かんない…そりゃ迫られた時はちょっと怖かったけど…」

この際怖いなんて言ってる場合じゃない。慣れていなくても、強引にでもしてもらわないと――。(!)

「まさか…あんな優しいふりして実はわたしを抱きたくないことがバレないようにカモフラージュしてたり…?」

あり得る。五条悟ならあり得る。あの謝罪も今思えば唐突だった気がするし、あの性格悪い男が今さら過去のことを謝ってくる方がおかしい。

「こうなったらやっぱり……実力行使で行くしかないかな…」

まずは視覚的な誘惑でもしてみようか、と思い立ち、スマホで通販サイトを開く。それは検索するとすぐにたくさんのショップが表示された。その中から目当てのものを探していくと、なかなかに良い感じのものが売っている。

「これ…いいかな。あ、でもこっちもなかなか…」

しばらく迷ったけど、最後はきちんと理想の商品が見つかったことで速攻ポチっと購入ボタンを押す。あとはそれが届くのを待つばかりだった。