第九話...休日にて⑴
おかしい。絶対におかしい。貴重な休日の朝っぱらから、どうしてわたしは海にいるんだろう?
――、今日は二人で出かけない?
朝、悟に言われて、どうせ近所で買い物だろうと思ったから承諾した。なのに蓋を開けてみれば車に乗って一時間。五条家の別荘やクルーザーがあるという横浜のマリーナへと連れて来られた。
「、おいで」
来て早々、悟はどこかへ行ってしまったから、仕方なく目の前に広がる綺麗な海を眺めていたら、悟がマリーナの方へ歩いて来るのが見えた。仕方なく彼の元へ向かうと、後ろにいたのは何故か悟の叔父さんで。たまたま彼もクルージングをしに来てたようだ。叔父さんはわたしを一瞥すると嫌味な笑みを悟に向けている。
「よく躾けてるんだな。狐憑きの娘さんを懐柔するとは…さすが若くして五条家当主になった男は違うね」
「……む」
海で偶然会ったと思ったら、こんなとこでまで来て嫌味全開か、この叔父は。結婚前に五条家で何度か会ったことがあるけど、相変わらず嫌味な性格だ。若い悟に当主の座を奪われたことが気に入らないだけなのは何となく前から感じていたけど。六眼には敵わないから渋々納得したってところか。ウチもたいがいだけど、五条家も一枚岩とはいかないらしい。
「仮面夫婦だと子作りもままならないんじゃないのか。ウチの子を養子にどうかな?ははは」
「………(ドン引き。ヌケヌケとよくもそんなことが――)」
そう思っていると、悟は「ご心配なくと、叔父にニッコリ微笑んだ。
「僕たちはちゃんと愛し合ってますから」
「……っ?(嘘つけー!)」
「夜の生活もガッツリ、たっぷり朝までコースだし。ね?♡」
「…ぶっ」
なんてこと言うの、このバカ夫は!と突っ込もうとした時、ぐいっと顎を掴まれ、上を向かされた。
「――こんな風に」
「…んっ」
叔父の前でいきなり悟にくちびるを塞がれ、わたしは完全に硬直してしまった。あげく重ねられたくちびるの隙間からぬるりとしたものがねじ込まれ、舌を絡めとられる。ぬるぬると互いの唾液を分け合うような淫らなキスに、呼吸さえうまく出来ない。人前でこんなことをされて、恥ずかしさで真っ赤になるのが自分でも分かった。
「――と、こんな感じです」
「……(し、死にたい…)」
悟は最後にわたしのくちびるをちゅっと軽く啄むと、叔父へ向かって不敵な笑みを向けている。親戚同士のケンカにわたしを巻き込まないで欲しい。悟の叔父は顔を真っ赤にしながら「そ、そうか…」と盛大に顔を引きつらせて、自分の船の方へ行ってしまったようだ。
「ん?どうした?」
「………っ(こ、このアホ旦那!!」
「ほら、そんな子供みたいにホッペ膨らませてないで少しクルーザーでドライヴしよう」
悟は何故か上機嫌で手を繋ぎ、わたしを船の方へと連れて行く。でも気のおさまらなかったわたしは出航した後で悟に罰を与えた。
「…何で僕は船上で正座をさせられてるのかな」
「あんなことをした罰です!ディープキスは人前でするものじゃないっ!」
「えー…でもあんなヤツに仮面夫婦なんて言われたらムカつくでしょ、やっぱり。と仲良しなとこ見せつけたくもなる」
「な、ならなくていいからっ!(仲良しでもないしっ)」
本当はわたしもあの叔父さんにはちょっとだけムカついた。でも仮面夫婦と言われたことは間違ってないし、悟が言ってたように愛し合ってるわけじゃない。結局のところ、何一つ間違ったことは言われてない。
「まあ…がそんなに嫌なら人前では――」
「し、しないでくれる?」
「普通のキスにしとくよ」
「ひ、人前じゃどんなキスでもダメ――」
「いやーからそんなイチャつき許可が下りるとは思わなかったなー♡」
「きょ、許可してないからっ」
相変わらず会話がかみ合わない。こういうとこは昔とちっとも変わらない。学生の頃から悟はすっとぼけたことばかり言ってたし、歌姫先輩もしょっちゅう怒ってた気がする。歌姫先輩とは大人になってからも"五条悟被害者の会"と称した飲み会を開いたりしていた。
「………」
「な、何よ…」
仏頂面で海を眺めていると、悟がサングラスをズラしてジっとこっちを見ていた。正座してろって言ったのに、もう勝手に立ち上がってる。
「いや…はやっぱりそうやって色んな顔を見せてくれる方がいいなと思って」
「…え?」
「初めて会った時のは…どこも見ていない綺麗に飾られたお人形みたいでさ。だからちょっと意地悪したくなった」
悟は隣に並んで海を眺めながら、ふと笑みを浮かべた。
「の違う顔が見たくてさ。だから僕はあの時、せめて怒らせてやろうと思って――」
「化け狐」
「……ん?」
「って言ったわけ?」
「………ははは。ごめん」
ジロっと睨むと、悟は笑顔を引きつらせながら頭を掻いている。まさかそんな理由であの暴言が出て来たとは思わなかった。でも、だからって――。
「さ、悟からすればちょっとした悪戯心だったかもしれないけど…わたしは傷ついたんだから」
「…うん。ほんとにごめん」
「好きで"狐憑き"に生まれたわけじゃないし…」
「…でもが"狐憑き"じゃなければ僕らは出会ってない」
「そうね。いっそ、その方がよっぽど平和だったかも」
「………」
思い切って今まで思っていたことを口にすると、急に悟は黙り込んでしまった。気になってふと隣を見れば、悟の口が心なしか尖っている。どうやらスネたらしい。
「な…何よ、その顔…」
「………」
「さ、悟…?」
未だに口を尖らせている悟を見上げると、いきなりちゅっとくちびるにキスをされた。
「な…」
「今日はデートだから、出来れば笑ってるが見たい」
「……っ」
優しい眼差しで微笑むから、不覚にもドキっとしてしまった。あげく悟の優しい言葉にすら免疫がないわたしは、一瞬で頬が赤くなってしまう。
「まあ、でも…怒って鼻の穴が膨らんでたり、ふくれて顔がまん丸になってるも可愛いけど♡」
「……っ(ムカっ)」
何故かイラっとして悟の腰の部分をつまむと、思い切りつねってやった。
「…いてっ…何か痛いっ!…?ぃててっ」
ギリギリと力を込めてつねってやると、珍しく悟が本気で痛がっている。いつもは術式で自身を守ってるくせに、今は油断してたのかもしれない。
でも本当にああ言えばこう言う性格はちっとも変わってない。こっちが言ったことの数倍は斜めに返して振り回してくる。ほんとに何で悟はいつもいつも意地悪なんだろう。
思う存分つねったところで船内に行こうと歩き出す。近所に出かけるだけだと思っていたから、油断して薄着だし照り付ける太陽が少しツラい。でも不意に腕を掴まれた。
「な、何よ」
「ちょっとこっち来て」
「え、ちょ、ちょっと!」
グイグイと腕を引っ張られ、またしても甲板に連れ出される。護衛の人達はマリーナに置いて来たから、船上では本当に悟と二人きりだった。船舶の免許があることも、今日初めて知った。
「や、やだ。日焼けしたくないの」
「ああ、、日焼けしたら真っ赤になってシャワーも浴びるのもツラいんだっけ」
「そ、そうだけど……そんな話、悟にしたっけ」
「いや…僕にじゃない」
悟はそう言いながら、ふとわたしを見下ろした。綺麗な碧眼はサングラスに隠れて見えないから、悟が今どんな表情をしているのかは分からない。でも何となく寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。悟がこういう顔をする時は大抵――。
「…夏油先輩?」
「そ。は傑になついてたもんなー?」
「………」
悟はそう言って笑ったけど、わたしは笑えなかった。夏油先輩のことを思い出すとツラいのはわたしも同じだ。
(あれは星漿体の護衛任務で…悟や夏油先輩が沖縄へ行った時の話だっけ…)
――も来たら良かったのに。
沖縄から電話をくれたのは、悟じゃなく夏油先輩だった。その時、日焼けのことを話した気がする。
「あの時さー本当は僕がに電話しようとか思ってたわけ」
「……え?」
「お土産…何がいいか聞きたくて」
「……お土産…」
その話は初耳だ。驚いて顔上げると、悟は「何、そんなに意外?」と吹き出している。当然だ。意外すぎて言葉も出ない。あの頃の悟は、そんな優しさ見せてくれたことなんかなかった。
「まあ、でも僕もあの頃は今の数倍、素直じゃなかったし、なかなかかけられなくて。その時に焦れた傑が僕のケータイ奪ってかけようとしたんだけど、僕のケータイからじゃは出ないかもって言ったら、結局自分のケータイでかけてたっけな」
そうだ。あの時、急に知らない番号から電話が来て、最初は無視していた。でも何回も鳴るもんだから恐々出てみたら――。
――かい?やっと出てくれた。
まさかの夏油先輩で、ビックリしてしまった。あの時、お土産は何がいい?と聞かれて凄く戸惑ったけど、何となくわたしを思い出してくれたことが嬉しかった。でもあれは悟が発端だったってこと?
「じゃあ…あの時…わたしの鞄にこっそりついてた星の砂のキーホルダーは…」
「ああ、あれは僕がつけたの」
「…嘘…」
「照れ臭いから、直接渡せなかった。ダサいよね、ほんと」
悟はそう言って笑った。でもまさか、あれが悟からだったなんて思わなかった。
いつものように高専へ遊びに行った日の帰り、わたしの鞄に見慣れないキーホルダーが付けられていて。てっきり夏油先輩がくれたものだと思っていた。
"幸せの星の砂"
そう名付けられてた砂は、でも言われてみれば悟の瞳と同じような澄んだ海の色だった。
「もしかしてガッカリした?」
「…え?」
「は傑からだと思ってたろ、多分」
もう一度彼を見上げると、悟は苦笑いを浮かべながらわたしを見ている。その表情はどこか悲しげに見えて、思わず首を振っていた。
「……ご、ごめん。で、でも別にガッカリなんてしてないよ」
「そう?」
「ただ…出来れば直接…渡して欲しかった…かな」
「ごめん」
今度は悟が謝って来た。もし、あの時あれを悟が直接わたしに渡してくれていたら、少しは見方が変わってたのかな。そう思った時、夏油先輩に言われたことを思い出す。
――見方を変えてみたら違うものが見えるかもしれないよ。
あの言葉は、まさかこういうことを言ってたんだろうか。そんなことを考えていると、悟が不意にわたしの顔を覗き込んで来た。
「は…傑のことが好きなのかと思ってたから言いそびれた」
「…は?」
何を言ってるんだと驚いていると、悟は小首をかしげて「あれ、違うの?」と怪訝そうな顔をしている。いや、夏油先輩は優しくて好きだったけど。多分悟が言ってるのは男女の間の好きってことかもしれない。
「違う、けど」
「え?」
「優しくて好きだったけど、男の人としてって意味では…ないと思う。あの頃のわたしも恋愛感情に疎くてよく分からなかったし…」
そもそも子供の頃から婚約者いる身なのだ。他の男を見る余裕なんかハッキリ言ってわたしにはなかった。良くも悪くも、腹立たしい婚約者のことで手一杯だったから。
「…悟?」
「いや…ちょっとホっとしたら笑いが…」
「は?」
急に笑い出した悟が不気味で後ずさると、「何で離れるの」と腕を引っ張られた。そのままぎゅっと抱きしめてくるから更にギョっとした。本当に悟の情緒が未だに分からない。
「ちょ、ちょっと放して――」
「良かったー」
「……???」
よく分からないテンションで頭に頬ずりして来る悟に、今度はわたしが首を傾げる番だった。でも、その謎が解かれる前に、わたしはもっと驚愕するはめになった。
「じゃあ、今度は直に星の砂を見てみる?」
「え…直にって……ひゃぁぁっ」
突然、悟はわたしを腕に抱えたまま船体に足をかけると「しっかり捕まってて」とよく分からないことを口走り、ニッコリ微笑んだ後――そのまま海へと飛び込んだ。