第十話...休日にて⑵



太陽の光が海の底まで届いてるなんて知らなかった。海底なんて薄暗くて不気味なイメージしかなかったのに、昼間だと意外に明るい。
最初、悟に抱えられて海へ飛び込まれた時はプチパニックになったけど、彼の術式のおかげでわたしは濡れずに海底散歩を楽しめてる。360度全てが海で、色んな魚が泳いでるのを見るのは、水族館みたいで、それ以上に贅沢な時間のように思えた。海なんて初めて潜ったけど、想像以上に楽しめてる。

「どう?気に入った?」
「凄い…服のまま海の中なんて不思議な気分…」
「沖縄の海だともっと綺麗なんだけど」

悟はそう言いながらサングラスを外して海の中を見渡してる。不本意ながら、わたしは悟に触れていないと濡れてしまうから、と言うよりは溺れてしまうから、これでもかというくらい密着してしまっている。でもこんなにくっつかなくてもいいような気もしてきた。

「あ、あの悟…」
「ん?」
「こんなにくっつかなくてもいいのでは…手…手を繋ぐとか――」
「ダーメ。何かあって手が離れたら危ないし。、泳げないでしょ」
「…う…そ、そうだけど…っていうか、そんなことまで知ってるの?あ、わたしの資料にでも載ってたとか」

婚約が決まった時、互いに互いのプロフィール的なものを両家で交換したと聞いている。わたしの手元にも悟の当時の好きな物だったり苦手な物が簡単に載ってた記憶があった。でも悟はわたしの言葉を聞いて一瞬、キョトンとした後、軽く吹き出した。

「まさか。そこまでは載ってなかったよ。泳げないってのは前にが硝子にそう話してるの聞いちゃっただけ。ほら、が高専一年の夏、硝子に誘われてたろ、海」
「あ…そう言えば…」

あの年の夏、硝子先輩に海へ誘われたけど、わたしは泳げない上に日焼けもしたくないから断った記憶がある。それに悟たちも一緒だと聞いて尚更、行きにくかったっけ。

「あの時は結局、僕らも海に行かなかったんだよねー」
「え、何で?」
「まあ…繁忙期でむちゃくちゃ忙しくなったってのがあって…だから秋のお祭り楽しみにしてたんだけどさ」
「………」

そうだ。海に行けないかわりに、秋には皆でお祭りに行こうって硝子先輩に言われたんだった。わたしもお祭りならって感じで約束したっけ。
でも、そのお祭りも実現はしなかった。夏油先輩の事件が起きたからだ。
何となく思い出して次の言葉が出てこなかった。悟も黙ったままだから、きっと同じことを考えてるのかもしれない。何となく気まずくなって、海の景色へ視線を戻す。どこまでも深い蒼の中を颯爽と泳ぐ魚たちが、陽の光の反射によってキラキラして見えた。その中に大きく長い魚も泳いでいる。

「うわ、見て、悟!あそこに大きな魚!」

見たことがない魚で思わず声をあげると、悟もそっちへ視線を向けた。

「あーあれは太刀魚かな」
「へえ、何か手で捕まえられそう」

そう思って手を伸ばしても海水には触れられない。それは不思議な感覚だった。五条家の、と言うよりは悟の術式を十分に勉強させられたから、どんなものかは分かっていたつもりだったけど、こんな魔法のようなことが出来るのが、ううん。してくれるのが意外だった。
中学の時は漠然としていたものが、高専に入って悟としょっちゅう顔を合わせるようになった頃、彼との未来を想像する時間が増えた。数年後には結婚しなきゃいけないリアルが徐々に近づいてくる感覚は、やはり少し怖いものがあって。でも今、あの頃に想像していた結婚生活とは180度違う毎日を送っている気がする。

「わ…」
「大丈夫?疲れた?」

悟の首にしがみついていた手が痺れて、するっと滑ってしまった。悟がすぐに腰を抱き寄せながら支えてくれたけど、一瞬だけヒヤリとする。

「ちょ、ちょっと腕が疲れたかも…」
はホント体力ないよね」

悟は身長があるから首にしがみついていると腕をずっとあげてる状態と変わらない。長いことそうしていると、だんだん腕が怠くなってしまうのだ。確かに体力もないけど、そのことを悟に笑われて少しだけムっとした。

「…自分と比べないでよ…」

高専での体力テストも結構テキトーにしてたという自覚はある。術師になる選択はなかったから、体術とかもそこまで真剣にはやった記憶がない。

「そんなに唇尖らせてたらキスしちゃうけどいいの?」
「……っ」
「そんな慌ててやめなくても」

思わず悟から目をそらしてしまった。サングラスを外した彼の顔を、こんな至近距離で直視することができない。いくら嫌いでも、人は自然と美しいものに惹かれてしまうんだという現実を思い知らされるからだ。
昔から、悟の美しさは一貫してて、子供の頃も、学生の頃も、そして大人になった現在も、何一つ変わっていない。この海よりももっと澄んだ透明な碧の瞳と、滑らかな肌、艶のあるくちびるでさえ、あの頃のまま。この美しい容姿からは想像が出来ないほど、辛辣な言葉が吐き出されるんだから驚いてしまう。ただそれも、夏油先輩の事件があった後くらいから、少しずつ減ってはきたけど、意地悪な性格は今でも時々顔を出すようだ。

「そろそろ戻ろうか」

悟は疲れたわたしに気づいたのか、ゆっくりと海上まで上昇し始めた。その間も目に焼き付けるよう、海中の景色を見渡してしまう。こんな贅沢な時間を悟がくれるなんて思ってもみなかった。

「わっな、なに?」

ボーっと群れで泳ぐ魚たちを眺めていたら、いきなり膝裏を持ち上げられた。いわゆるお姫様抱っこというやつをされたらしい。

「何って、腕が疲れたんでしょ。こっちの方が楽だよ」
「あ…ありがと…」

そこまで丁寧に運ばなくても、と思わないでもなかったけれど、悟の言うように捕まっている腕が疲れて来たのは本当だ。ここは悟に甘えることにした。悟はわたしを抱いたまま、一気に上昇して海面から空中へ浮かぶと、ざぱぁっと波が弾けて跳ねる。でも濡れないのだからやっぱり少し変な感覚だ。そして今の今まで海中にいたのに、今は空中に浮かんで下に広がる海を見下ろしている。これもまた味わったのことのない感覚だった。遊園地のアトラクションより刺激があるな、なんて子供みたいなテンションになった。

「はい、お疲れさん」

何の衝撃もないまま、ふわりと看板に下ろされる。でも波に揺られた船体が傾いて、少しだけよろけた体を悟の腕に支えられた。

「大丈夫?少し船内で休もうか」
「う、うん。そう、しようかな…」

朝から車での移動、そしてまさかのクルージング、そして海中散歩と、慣れないづくしで体が思ったよりも疲れているようだ。ここは悟の言葉に甘えて船内で休むことにした。

「じゃあ、ここに座ってて。今、冷たい飲みもの持ってくるから」
「え、わたしがやるよ」
「いいって。僕は慣れてるけど、はそんなに船も乗ったことないんだからムリしないの。船酔いしちゃうかもしれないし」

悟はわたしをソファに座らせると、キッチンのある船底に下りて行った。

(落ち着かない…)

悟が何でもやってくれるせいで、わたし自身は何もしていないことに気づく。来る途中も悟はきちんと飲み物を用意してくれていて、ここへ着いてからもずっとわたしのエスコートをしてくれている。昔を考えたら、驚くくらいに優しくされてる気がした。

「おかしいな…何か平和…」

少し前まで二人きりという状況など皆無だったし、いくら結婚をしてもまだ何となく慣れない。悟が変に優しいのもおかしな気分だ。

(でも会話の端々に昔の悟が多少は打ち解けようとしてくれてたのかなって思える内容があるんだけど…ホントなのかな)

もしそうなら過去の失礼な態度は、悟が言ってたように本当に照れ臭かっただけということになる。そしてわたしはあれを単なるイジメとして処理してきてしまった。

(お土産のことや皆で海に行こうって話もそう…悟はわたしに歩み寄ろうとしてたってこと?それって…わたしをちゃんと婚約者として意識してたってことなのかな)

だとすると、子供だったわたしはそんな悟の本心に気づかずに、ずっと冷たく当たって来た鈍感女と言える。

「いや、でも分かるわけないよ…。悟以外の男の子なんて知らなかったんだし、そんな微妙な男心なんて…」

と思わず呟くと、「何ブツブツ言ってるの」と悟が笑いながら戻って来た。

、アイスティーで良かった?」
「う、うん」

悟の手にはグラスが二つ持たれている。一つをわたしの前に置くと、悟は当然のように隣へ座った。何となく意識してしまって「ありがとう」というのが精一杯だ。

「今日は随分と素直だなー」
「…べ、別に…わたしはいつでも素直だし」
「まあ、そうとも言うか。じゃあ、海中散歩はどうだった?」

確認するように悟がわたしを見ながら首を傾げる。その問いには何の迷いもなく素直に「綺麗だった!」と笑顔で応えた。あの不思議な感覚は、これまでの人生の中で一番と言っていいくらい最高だったのは本当だ。

「………」
「悟…?」

急に黙り込むから顔を見上げたら悟はポカンとした顔をしていて、わたしの方もキョトンとなってしまう。でも数秒は経った頃、悟がかすかに微笑んだ。

「やっと笑ってくれた」
「……っ?」

綺麗な顔に優しげな笑みを浮かべる悟に顔が熱くなった。そういう顔はズルいと思う。今日、ここへ着いて来たのも夫婦の義務で、悟と仲良くなりたいわけじゃなくて。だからわたしは、"悟なんか大嫌い"だと、心の中で唱え続けてるのに――。