第十三話...花の夜




「で?遂にも五条に絆されたってわけだ」

気だるげな瞳をかすかに細めた硝子先輩は、魅惑的な笑みを携えながらおちょこに並々注がれた冷酒をくいっと飲み干した。


世間では華金とも称される平日最後の日。

"今夜ひま?そろそろ女同士でどう?"

硝子先輩から、そんな文面と共にキスマークのスタンプが送られてきたのは、珍しく仕事が早く終わったことで少しの解放感を覚えていた時だった。今夜は悟も名古屋に出張へ行っている為、家に帰ったところで一人ということもあり、わたしはすぐにOKのスタンプを送り返した。

「やった…久しぶりにのんびりお酒が飲める」

結婚してからというもの、硝子先輩には「新婚のオマエを誘えない」と言われ、七海先輩にも同じ理由で、誘っても断られるようになった。ついでに同期の伊地知くんからは「わ、私を誘わないで下さい。五条さんに殺されますので」と、しょーもない理由で断られる始末。ならば一人寂しく家飲みかと思っても、隣には全くの下戸がいるわけで。さすがにシラフの悟の前でベロベロになるわけにもいかず、ワインを一杯くらいに止めてしまうのがここ最近は多かった。でも今日、その邪魔者――もとい。下戸の旦那は出張で不在。仕事も早く終わったことで、ゆっくり大好きな先輩とお酒が飲めるというんだから、テンションも一気に上がってしまう。結婚してから一ヶ月はとうに過ぎたし、硝子先輩もお酒くらいは解禁してもいいと思ってくれたんだろう。

「お先に失礼します」

さっさと必要書類をまとめ、帰る支度をしてから席を立つと同僚の皆は「あらもう帰るの?」なんて驚いてる。

「五条術師は出張だった?寂しいわね」
「い、いえ……」

全く、とは言えず笑って誤魔化す。悟とは今も仮面夫婦のように外では仲良く見せているので、同僚たちからは物凄く夫婦仲がいいと思われているようだ。

「政略結婚だのなんだの言われてたけど、さんが幸せそうで良かったわ」

なんて言われた時は笑顔が引きつってしまったけど。それもこれも時と場所を考えず、イチャつきたがる悟のせいだったりする。最初はわたしの機嫌を損ねないよう気を遣ってるのかとも思ってた。わたしのことを好きなフリをしなくちゃデキるものもデキないだろうと、あの計算高い男が考えてたって何もおかしくはない。でも結果、夜の生活は順調にいってるんだし、そろそろ昔の悟みたいにそのうち塩対応して来るんじゃ、とは思ってた。なのに未だにその気配はなく。前以上にわたしに構って来るから困ってしまう。外でも家の中でも随分と過保護に扱われてる気がするし、いい加減わたしも勘違いしてしまいそうになる。

――これ読んでみたら、かなり面白かった。また何か貸して。

例の排卵日が終わりを迎える頃、悟に言われた通り、わたしの好きな本を選んで彼に貸した。忙しい悟がいつ読むんだろうと思っていたら出張の時の移動中に読むらしい。ただ実際に読んだのかと疑わしかったけど、きっちり感想まで言われた時は本当に読んでくれたんだと嬉しくなった。今は次、何を貸してあげよう、なんて考えたりするのが楽しくなっている。

――が好きなものなら何でも。

あんなこと言われて浮かれてバカみたいだって自分でも思うけど。でも――すごく嬉しかったんだよ。


…その話を硝子先輩に話したら、冒頭の台詞を言われたというわけだ。

「――で?遂にも五条に絆されたってわけだ」
「ほほ、絆されたわけじゃ……ない…ですけど」
「んー?何か声が小さくなったぞ」

からかうように耳に手を当てる仕草をする硝子先輩は、どこか昔の悟や夏油先輩に似ているなあと常々思う。さすが二人の同級生だ。

「と、ところで…珍しいですね。硝子先輩から誘って来るの。最近はいつも新婚は家に帰れって言ってお酒付き合ってくれなくなってたのに」

お通しの枝豆を口へ運びながら、ふと思い出したように言えば、硝子先輩は意味深な笑みを浮かべた。というか、ニヤニヤといった表現が正しい。

「まあ…旦那の方から言われたし、ならいいかと思ってさ」

硝子先輩も枝豆に手を伸ばしながら、キョトンとしているわたしへ視線を向ける。その言葉と意味ありげな視線で、生ビールの入ったジョッキを持つ手が止まった。旦那?今、旦那って言った?

「それってどういう…」
「ん?ああ…まあ、そのままの意味。今日、僕はいないしも暇だろうから誘ってやってくれって」
「えっ」

週末で賑わう店の喧騒の中に、わたしの素っ頓狂な声が混じって溶け込んでいくのを、硝子先輩は愉しげに見ている。その表情を見れば、今言ったことは嘘じゃないと暗に示していた。まさか悟がそんなお願いを硝子先輩にしていたとは思わない。しばし呆気に取られていると、硝子先輩はすっかり空になった冷酒用の徳利を指でつまんで、店員に「同じものを」と注文した。

「愛されてんね、五条に」
「……は?」

まさか硝子先輩の口からそんな台詞を聞かされる日が来るとは想像すらしていなかった。まだ学生の頃からわたしや悟を身近で見て来た存在であり、悟に虐げられていたわたしを知っているはずなのだ。その硝子先輩の口から「愛されてる」なんて言葉が飛び出すのだから、わたしが驚くのも当然のことだ。

「硝子先輩、まさか悟に買収でもされました…?」
「何それ」
「だ、だって…ありえないこと言うから」
「ありえない?」

ツマミが足りなくなったのか、硝子先輩はメニューを開きながら、小首を傾げた。

「ああ、すみません。えっとこの"やみつきガーリック枝豆"を追加と、"ピリ辛タタキきゅうり"に、"鶏皮ねぎポン酢"とー。ああ、は?」
「………」

真面目な話をしてる最中も硝子先輩は至ってマイペースに食べたい物を注文している。わたしは小さく息を吐くと「生!それと"串焼きセット"に、"月見つくね"と"から揚げ"下さい」と一気に注文した。

「ははっ、見事に鶏づくし」
「いーんです。鶏はヘルシーだし美味しいし好きなんです」
「そーだったねー。じゃあ、それで」

メニューを閉じた硝子先輩は再びおちょこに冷酒を注ぎながら「で、何の話だっけ」と微笑む。覚えてるクセに絶対わざとだな、とちょっとだけ目を細めると、硝子先輩はまたカラカラと笑い出した。

「うーそ、うそ。ごめん。五条に愛されてるのがありえないってとこだったね」
「う…ま、まあ……」

改めて口に出されると少し恥ずかしくなり、ジョッキを口へ運ぶ。久しぶりに口にする生はこんな時でものど越しが良くて美味しいと感じる。家飲みの缶ビールも好きだけど、お店で飲む生ビールはまた格別だ。

「何でそう思うの?」
「え…?」

唐突に質問をされ、顏を上げると硝子先輩はさっきとは違い、真面目な顔でわたしを見ていた。

「だから何で五条に愛されてることがありえないって思うの?政略結婚だから?それとも……過去のアイツの言動がまだ許せてない?」
「……ど、どっちも…です」
「そうか。でも…」

と硝子先輩は言葉を切ると、おちょこをくいっと傾けて冷酒を煽る。それをテーブルにコツンと置いて、苦笑交じりの視線をわたしへ向けた。

「今の五条を見てれば多少は気づくと思ったんだけどな」
「……気づく?」
「だって…どう見てもにメロメロでしょ、あれ」
「め、めろ…めろって…」
「ああ、今はそんな言い方しないっけ。じゃあ…デレデレのデレ?」

くっくと笑いを噛み殺しながら、とんでもないことを言った硝子先輩はどこか楽しそうだ。悟と同級生で同期の間柄でもある先輩には、今の悟がそんな風に映って見えるのかとちょっと驚く。

「あ、あんなの世間体を気にしてるだけで――」
「本当にそう思うの?家じゃどうなのよ、アイツ」
「い…家でも…まあ…似たようなものだけど…」
「じゃあ世間体なんかじゃないだろ。そもそも五条が世間体を気にする男に見える?」
「……た、確かに」

自分の結婚式でもあんなとんでもないキスを仕掛けてきた人だ。今更、夫婦間が冷めたように見えたところで何とも思わないに違いない。

「五条はさー。ちゃーんとのこと好きだよ」
「…え?」
「私、前に聞いちゃったんだよねー。五条が夏油に話してるの」
「……っ」

頬杖をつきながら、ニッコリと微笑む硝子先輩は固まっているわたしを見て「聞きたい?」と訊いて来た。柔らかいブラウンの長い髪がはらりと垂れて、それを邪魔そうにかき上げながら、硝子先輩は「ん?」と返事を促すように小首を傾げてくる。つい頷いてしまったのは、わたし自身、悟があの頃、何を考えていたのか知りたかったのかもしれない。

「うん、素直」
「か、からかわないで下さい…」

くすりと笑われ、頬に熱を持つ。硝子先輩は「ごめんごめん」と言いながらも、少しだけ身を乗り出して話し出した。

「あれは高専1年の頃だっけな。が高専に来た帰りに呪詛師に襲われたことあっただろ」
「…あ…はい」

忘れもしない、悟にあの忌々しいファーストキスをされた日だ。

「あの日、が襲われたって聞いた時の五条の慌てぶりが酷くてわたしも覚えてるんだけど、ソッコーで高専飛び出して、まだ戦闘中だったとこにツッコんでアッという間に呪詛師集団を倒しちゃったんだよね、アイツ。夏油も驚いてたけど、私が行ったら殆ど全滅してたって笑ってた。でね、そんなに心配なら自分でを送れって夏油が言ったらしいんだけど…五条はそれは出来ないって。何でか聞いたら、自分が常にそばにいることによって余計にの存在が自分を攻撃するのに有効だと思われたくないからだって言ったらしいよ。何でか分かる?」

硝子先輩はジっとわたしを見つめながら訊いて来た。でもわたしはつい「わたしが襲われると…面倒だから…?」と言っていた。だって悟はわたしが襲われて怖い思いをしても、ケガをしても、わたしに会いに来たことは一度も―――。

「違う。五条が考えてたのはに怖い思いを何度もさせたくないってことだけ」
「……え?」
「呪詛師の奴らにこの女をさらったところで五条悟は痛くも痒くもないと思わせる為に、に会いに行かなかったんだよ」

硝子先輩の言葉に、わたしの思考は今度こそ止まってしまった。まさか、そんなはずはないという言葉がぐるぐるしているだけで、一向に先へ進まない。

「その時さ、夏油がそんなに大事なのかって聞いたら、五条は顏真っ赤にして――」

――当たり前だろ。婚約者なんだから。

嘘。悟がそんなこと言うはずはない。だっていつも顔を合わせるたび迷惑そうな顔で、わたしを睨んで来たのに。

「夏油が好きなんだって訊いたら、好きでわりぃかよって、それ聞いた時は私も驚愕したけどさ。まあちょっと見直したかな。からすれば五条の言動は酷く映ったかもしれないけど、アイツなりに心配してたよ。術式を使いこなせたら呪詛師も易々と襲っては来なくなるかもしんねーって」
「―――ッ」

その言葉を聞いた時、後頭部をガツンと殴られた気がした。確かにあの日。悟に言われたことを思いだしたからだ。

――何でそれ使わねえの?

あれは、あの言葉は、そういう意味で言ってくれてたんだと、今更ながらに気づいてしまった。

?どうした?」
「あ、あのわたし……」

今までわたしの見ていた景色は一方通行でしかなかったのかもしれない。そこに気づいた時、再び夏油先輩に言われた言葉が脳裏をよぎる。

――視点を変えてみたら?

あまりに自分視点でばかり見て考えていたあの頃のわたしに、夏油先輩は気づいてたんだろう。だからそれを気づかせるためにあんなことを?
考えも見方も変えて、これまでの悟の言動を素直に受け止めてみれば、全然違う景色が見えて来るんだろうか。そんなこと全く考えてもみなかった。

「お待たせー」

その時、背後から聞き慣れた声が聞こえてきて、心臓がドクンと音を立てた。向かいに座ってる硝子先輩が目を丸くしながらわたしの背後を見ている。何で?と思う前にわたしの隣に誰かが座った。

「五条?アンタ、何で――」
「何でって急いで終わらせて帰ってきたんだよ。を一人寝させるわけにいかないし。こう見えて僕の奥さん寂しがり屋だからね」

ポンと頭に手を乗せられ、そこでゆっくりと顔を上げれば、指でするっと包帯を外した悟と目が合う。あんな話を聞かされたせいか、いつも以上にドキっとさせられてしまった。

「あれ…、驚いてない?」
「え、あ…お、驚いてるよ…もちろん…」
「驚かせようと思って連絡しなかったんだよね」
「ちょっと五条!だからアンタ、この店進めたわけ?奢るって言ったのも?」
「当たり前でしょ。途中で合流する気満々だったし」

硝子先輩が呆れ顔で溜息を吐いている。そうか、悟はそんなことを言って硝子先輩にわたしを誘わせたんだ。

「ってことで僕も何か食べよ―かな。何が美味しかった?」
「……え?あ…」

ひょいっと顔を覗き込まれてカッと頬が熱くなる。何だろう。悟と目を合わせることが出来ない。もう結婚だってしてるのに、何度も抱かれてるはずなのに。まるで初めて恋をしているかのように、悟の顔を見ることさえ照れ臭い。

、真っ赤。もう酔った?」
「……よ、酔ってない…」
「そーだよ、まだ、全然飲んでないから」
「ふーん。あ、じゃあ…僕が迎えにきて嬉しいとか」
「………」

いつもの悟の軽口さえ、言い返すことが出来ない。ドキドキして、本当にわたしの心臓、どうなっちゃったんだろう。今日まで心を覆っていた強がりと言う名の鎧が、もろくも崩れ落ちる寸前だった。