第十四話...甘い嘘はいらない




――五条はさー。ちゃーんとのこと好きだよ。

硝子先輩に言われた言葉が頭から離れない。何もかも、これまでずっとわたしの中で燻っていたわだかまりみたいなものが、全て思い込みだったり誤解だったりと思い知らされたのだから、まず感情がついていかない。

(悟がわたしを、好き――?)

そんなの考えたこともなかった。顔を合わせれば憎まれ口を叩くばかりで、優しさの欠片もない。そう思ってきた。それが悉く覆されたのだからどう受け止めていいのかも分からない。
鏡に映る自分の顔を見れば、戸惑い、困惑、そんな感情がにじみ出ている。

「ハァ…ダメだ…考えすぎて疲れて来た」

ボヤきながらトイレを出る。でもその瞬間、背中をドンっとどつかれて前のめりになった。

「なーにシケたツラしてんだよ、
「しゃけ、しゃけ」
「ま、真希ちゃんと…棘くん」

振り返ると、そこには悟の生徒の真希ちゃんと棘くんがジャージ姿で立っている。汗をかいているとこを見ると体術の訓練をしてきたんだろう。二人の後ろからグッタリした乙骨くんとパンダくんも歩いて来た。

「おーじゃねえか」
「お疲れ様。体術訓練?」
「そ。悟のヤツ、朝から休みなしでやらせやがるからさー。もうクタクタ」

真希ちゃんは顔をしかめながら盛大な溜息を吐いた。今じゃすっかり悟のことを呼び捨てで、出会った頃「五条先生」と呼んでた時期が懐かしく思える。そう言えば今日は珍しく出張や任務がないと話してたから、悟は朝から生徒指導に当たっているようだ。4人と一匹で古い廊下を歩きながら「これからお昼?」と尋ねてみた。

「うん。もう腹減って死にそう…」
「しゃけ…」
「そっか。あー今日のおススメランチは回鍋肉定食だったよ」
「げ、何それ。美味しそう。え、それ食べたの?」
「うん。今さっき食べて来たとこ」

まだ12時前だけど、仕事がひと段落したから早めに食堂で食べてきたところだった。でも真希ちゃん達が「え、マジで」と変な顔をしながら互いに顔を見合わせてるのを見て「どうしたの?」と訊いてみる。わたしがランチを食べたら何かマズいことでもあるんだろうか。そう思っていると真希ちゃんとパンダくんが苦笑交じりに肩を竦めた。

「悟のヤツが昼はとランチするーって浮かれてどっか行ったから、てっきりこれからランチかと」
「えっ」
「何だよ、約束してたわけじゃねーのか」

真希ちゃんが笑いながら「悟のヤツ、どこ探しに行ったんだろ」とニヤニヤしている。

「え、えっと…五条先生、事務室に迎えに行ったんだと思う」

そこで乙骨くんが困ったように笑いながら教えてくれた。ということは…また同僚にからかわれる羽目になりそうだ。何せ悟は目立つし有名人だから、事務室に顔を出すとちょっとした騒ぎなってしまう。術師の女性からは散々な評価の悟でも、事務のお姉さま方からは意外と人気があるのだ。

「あ、ありがとう。乙骨くん。じゃあ事務室に戻ってみるね」

乙骨くんはシャイなのか照れ臭そうに頭をかいて頷いてくれた。でもその時、ざわりと肌が総毛立ち、わたしは本能的に後ろへ飛びのいた。それを見た乙骨くん、後ろにいた真希ちゃん達もギョっとしている。

「おい、、何だよ」
「え…ど、どうしたんですか…?」
「ご、ごめん…いま急に物凄い殺気を感じて……」

というか今も痛いくらいに殺気を向けられている。それは乙骨くんにまとわりついている恐ろしい呪いの塊からだった。

(特級過呪怨霊…だっけ。わたしの中の"妖狐"が反応してしまったかもしれない…きっと相手もそうだ)

悟が前に話していた。乙骨くんは結婚を約束してた幼馴染の女の子に呪われてると。これは――嫉妬の念だ。

「ご、ごめんなさい。きっと里香ちゃんです、よね」
「え、あ…うん。でもわたしの中のものに反応しただけだと思うから大丈夫だよ」
「……さんの…中のもの?」
「うん。わたし、"狐憑き"だから」
「……狐…憑き?」
「あ、知らないよね。ウチのご先祖さまが昔、人に化けた"妖狐"と交わって、そこから100年に一度だけ生まれて来る女の子が"狐憑き"と呼ばれるようになったんだけど、わたしがソレなの」
「え…妖狐……交わった?」

さくっと説明してみたけど、乙骨くんには未知の世界だったようだ。確かにこの前まで普通の学生してたなら理解が出来ないだろうなと思う。

「え、じゃあ…妖狐に呪われてるとは違うんですか」
「んー呪われてるとはちょっと違うかな。混じってるわけだし」
「でも術式…ありますよね」
「まあ一応。え、乙骨くん視える側の人?」
「い、いえ。僕は見えないですけど、里香ちゃんの影響なのか感じることは出来ます」
「あ、そっか」
「ってかさー。そーんな離れて、よく会話できんな、二人とも」

間に立っている真希ちゃんがケラケラ笑っているのも当然で、わたしは少しずつ乙骨くんから離れて、廊下の端と端といったレベルで距離を取っている。わたしの中の妖狐はともかく。あまり里香ちゃん?を刺激しない方がいいと思ったのだ。そこへ背後から「あ、こんなとこにいる!」という声が聞こえて振り向くと、悟が軽やかな足取りで階段を下りてきた。

「もー凄い探したし。、どこに行ってたわけ。学長室まで探しに行っちゃったよ」
「悟…ひゃ」

出会いがしら腕を引かれて抱きしめられたことで変な声が出る。つかさず頬にもちゅっとキスをされて「ぎゃ」と声を上げながら悟を突き飛ばした。すぐそばに生徒がいるのに何をしてくれてんだと顔が真っ赤になる。死角にいるとはいえ、六眼である悟に生徒達の存在が視えてないはずないからだ。

「何で突き飛ばすの」
「だ、だってそこに真希ちゃん達がいるのに…」
「いいじゃん、別に。不倫してるわけでもないし僕らは夫婦なんだから」
「そ、そーいう問題じゃ――」
「おぉー悟、堂々とセクハラかよ」

そこに真希ちゃん達が笑いながら歩いて来る。彼らの表情を見る限り、バッチリ見られたらしい。なのに悟はいつもと変わりなく、ケロッとしている。

「セクハラって愛しい奥さんにちょっとキスしただけでしょ。それもホッペに軽くだし」
「ヌケヌケと…ってか校舎でイチャつくな」
「いや、悟に言っても無駄だろ、真希」
「しゃけしゃけ」
「み、皆…夫婦のことに口出すのは良くないよ」

生徒達はそんな会話をしながら「腹減った~行こ行こ」と食堂の方へ歩いて行く。わたしは恥ずかしさで真っ赤になりつつ、ニコニコしながら生徒達に「午後は呪具使うからー」と叫んでいる悟を睨みつけた。

「あれ、何でそんな怖い顔してるの、
「あ、当たり前でしょ…校内ではそーいうのやめてって言ってるのに」
「僕、承諾してないよね」
「ぐ…」

ああ言えばこう言うって悟の為にあるような言葉だと思う。ちっとも反省してない顔を見て、これ以上相手にしてるのは無駄と歩き出した。案の定、悟はたった数歩歩くだけでわたしに追いつく。無駄に足が長い旦那も考えものだ。

、ランチ行こ♡」
「………」

そうだった。その問題があったんだ。ふと足を止めると当然悟も立ち止まる。「ん?」と腰を曲げてわたしの顔を覗き込んで来る悟の顔は、半分白い包帯で巻かれていて表情はそれほど分からない。でも何となく機嫌の良さそうな雰囲気だ。

「えっと…ごめん。実は少し早めに食べちゃって――」
「えっ!」
「そ、そんな驚く?」

想像以上に驚愕する悟にコッチがギョっとしてしまう。たかがランチを先に食べたくらいのことなのに何をそんなにショックを受けることがあるんだ。

「今日は任務ないし、せっかくとランチできると思って楽しみに午前中の訓練頑張ってたのに」
「頑張ったのは生徒達でしょ…。っていうか任務がないならせっかくだから皆と食べて来たら?」

そう言って先ほど真希ちゃん達が歩いて行った方向を指さす。

「ちなみに今日は回鍋肉定食がおススメ」
「…美味そう。いや、でも僕はと食べたかったんだけど」
「ごめんなさい」
「………」

つかさず謝ると、ジトっとした目で見られてる気配がした。美しい双眸は隠されているけど、包帯の奥から何となく圧を感じる。でも二回もランチは出来ないし、わたしは午後から仕事が山積みだ。補助監督たちが申請した場所の封鎖許可や警察への根回し、その他自治団体への連絡事項、もろもろの書類に全て目を通して提出しなければならない。たかが事務仕事と言っても意外と忙しいのだ。悟は不満そうな様子ではあったけど、小さく溜息を吐いて「分かったよ」と頷いた。

「その代わり、今夜はディナーデートしよ」
「…ディナー?」
、何が食べたい?」
「………食べたばかりでそんなもの思いつかない」
「じゃあ中華以外で僕が予約しておくから」

悟はそう言ってわたしの頭を軽く撫でると「この前、僕が見立てた服、着て欲しい」と注文をつけてきた。数日前、仕事帰りに二人でショッピングに行った際、悟が「これに似合いそう」と買ってくれたのは黒をベースに胸から裾にかけて入っているスリットのところが淡い紫の生地を使用したエレガントなワンピースだ。まだ袖を通さずクローゼットにしまったままだった。

「分かった…」

仕方なく頷くと、悟は嬉しそうにくちびるへ弧を描く。船上デート以来、夫婦で出かける初めてのディナーになりそうだ。

「じゃあ僕はの言う通り、可愛い生徒とランチしてこようかな」

ひらひらと手を振りながら歩いて行く悟を見送りながら、じわりと頬が熱くなる。何だかんだ言いつつ、会話が随分と夫婦らしくなってきた気がする。

「……はっ。ち、違う違う…。そうじゃないでしょ」

一人になった途端、我に返って首を振る。硝子先輩にあんな話を聞かされてから、どうも自分のペースが崩れがちだ。形だけの結婚のはずが、知らない間に悟のペースに流されすぎてるのもある。なのに、油断すると楽しみ、なんて感情が溢れて来るから嫌になってしまう。

(本当に…悟はわたしのこと、そんなに前から想ってくれてたの…?)

わたしには好きの一つも言わないクセに。先ほど口付けられた頬へ手を当てると、そこは今もしっかりと熱を持っていた。






仕事も無事に終わり、悟がいつものように迎えに来て、着替える為に二人で一度マンションへと戻る。予約しておくと言っていた店はまさかの焼き鳥店らしいけど、普通の赤ちょうちんの店ではなく。高級鶏をふんだんに使っているという、これまた高級焼き鳥店なるところだった。

、鶏が好きでしょ。昔から」

そう言われた時はそんなことまで知ってるんだと少し驚いたけど、確かにこの前の硝子先輩と行ったお店も鶏料理が豊富なお店だったことを思い出す。てっきり硝子先輩のチョイスだと思ったのに、実は悟が指定したんだと後で聞かされた時はちょっとだけビックリした。

「こんな感じ…かな…」

悟に買ってもらったワンピースを着て鏡の前に立つ。黒と紫の組み合わせは着たことがないけど、凄く素敵だった。大人っぽい色とデザインなので長い髪をアップにすれば、更に合う気がした。最後に薄めの口紅を塗ると、何となく色気が出た気になって来る。

「これでよし、と。バッグはこれでいいかなぁ…」

クローゼットから服に合いそうな小さめのバッグを取り出し、中に必要な小物をつめていく。その時、ふと思い出した。

「あ、本だっけ」

先ほど悟から「明日は京都方面に出張だから、また何かおススメの本を貸して」と言われたのだ。彼に本を選ぶのは意外と楽しいことに気づいた。自分の好きなものを共有してくれる相手がいるということは、そう、意外にも嬉しくて楽しい。特殊な家に生まれたせいで、普通の友達を作れなかったわたしは、何かを共有する相手がいなかった。だから悟がわたしの好きなことに興味を持ってくれた時は、本当に嬉しかった。

「あ、これがいいかなぁ。ミステリー要素もあるし、悟も好きそう」

以前、本は読まないと豪語してた悟が好きだと話してたのは漫画やゲーム。それ以外で好きなものは映画らしい。悟は何気にサスペンスやミステリー物を好んで見ていて、あれこれ謎解きをするのが楽しいと話していた。

「うーん…こっちも読んで欲しいなぁ…。あ、これも面白かったっけ」

自分の本がぎっしりと詰まった本棚から、ついつい数冊は手に取ってしまう。最初はあまり一気に多くの本を持っていったら引かれるかなと遠慮して一冊、二冊くらいに止めていたものの、予想外にもきっちり読んでくれるから、今では三冊ほど貸すようになっていた。悟は読むのも早いから、これくらいがちょうどいい。

「今回はこの三冊かな」

その本を手に部屋を出ると、悟の個人的な部屋へと向かう。互いにそれぞれの個室を用意したのは悟だ。

――私物とか自分のものを置く部屋が欲しいでしょ。

わたしの為なのか自分の為なのか分からないけど、わたし的には本が大量にあったから意外と助かっている。

「悟も着替えるって言ってたよね」

ということは私室に戻ったんだろう。そう思って悟の部屋がある反対側の通路を歩いて行く。無駄に広いマンションだと思いながら悟の部屋前に立つ。そしてノックをしようと手を上げた時だった。

「――ん?あー聞いてるよ、ちゃんと」

中から何やら話し声が聞こえて来て、ピタリと手を止める。

(電話中…?)

なら出かける前にでも渡そうか。そう思って踵を翻そうとした時。

「だから心配することないって、季利子」

「―――ッ」

季利子――。その名前を聞いて心臓がドクンと音を立てた。それはわたしの前に悟と婚約していた人の名前だ。

「言っただろ?僕はこの結婚生活はちゃんと続けるって。僕とは愛情のない結婚だ。今も…」

またしても心臓が嫌な音を立てた。今も、とは今現在のことを言っているんだろうか。

「全て子供の為だ。続けていく為なら多少の努力はするよ」

思わず息を飲んだ。多少?多少の努力ってどこまでのことを言うんだろう。わたしのことを知りたい素振りを見せたり。デートに誘って来たり、夫婦生活でわたしを何度も求めて来たり。

――そろそろ恋をしない?

今までの全部が、悟の言う"努力"なんだとしたら――。

――愛のない結婚。

ああ、そうか。悟の気持ちは何も変わっていない。初めて会った時から今日まで、わたしとは違って何ひとつ。そう思ったら自然とドアノブを掴んでいた。思い切り開け放つと、悟が弾かれたように振り向く。わたしを見た時の彼の表情は驚愕といった顔だった。

「…?」
「だったら…どうしてわたしにかまうの…?」

何の気持ちもないこの人の行動に、言葉に、振り回されてるのはいつもわたしだ。

「…好きじゃないなら必要以上に触れて来ないでよっ」

これは政略結婚。全て割り切った関係だから――。
改めてそう思った時、涙が溢れて来た。

「……――」
「悟なんてやっぱり大嫌い…!」

気持ちなんて何ひとついらない。そう、思っていたはずなのに。