第十五話...妻は夫を憂いて、夫は妻を想う



あの夜、思わぬ場所で抱かれることになって、眩暈がするくらいイカされて、最後にギュッと抱きしめてくれた悟のことがやっぱり愛しかった。
あんなことがあったせいか、悟のことが好きなんだって気づいたけど。でも、きっと悟には好きな人がいる。それでも、芽生えてしまったわたしの中の想いは変えられないから――。

「で?仲直りしたのかよ」

今朝、圭吾からそう訊かれて何も応えられなかった。結局あのまま寝てしまったせいで変なホテルに泊まって、朝方、慌てて二人で家に帰った後は、悟も任務のある京都へと出かけて行った。季利子さんのいる、京都へ。
だから特に何も二人では話していない。

「…何だよ。まだケンカ中?」
「そうじゃないけど…っていうか校舎まで来ないでよ」

くるりと振り返って睨めば、圭吾は「はいはい」と笑いながら肩を竦めた。でもふと書類を抱きしめるように持っているわたしの手をジっと見つめている。

、どうした?その手首」
「…え?手首?」
「少し赤くなってんじゃん。両方とも」

言われて視線を落とし、自分の両手首を見る。その瞬間、昨夜の行為を思い出して心臓が変な音を立てた。わざとじゃないって言ってたけど、結果的にSM専用なるラブホに入ってしまい、悟に手錠で拘束されたのだ。この手首の赤みはその時に擦れて出来たものに違いない。朝は慌てて仕事に行く準備をしたから全然気づかなかった。

「こ、これは…っぶ、ぶつけたのよ」
「両方とも?」
「う…」

圭吾はニヤニヤしながらわたしを見ている。この顔はどう見ても何かを悟った顔だ。

「まあ、夫婦でナニをしようとオレとしては一向に構わないけどね」
「…っ!!」
「ま、仲直りしたみたいだし良かったなー?」
「ち、違…っ」
「じゃあ、また帰りな」

圭吾は笑いながら手を振って駐車場へと戻っていく。それを見送りつつ、恥ずかしさでわなわなと体が震えてしまった。

(さ、最悪……朝からこんな恥ずかしい思いをさせられたのも全部、ぜーんぶ悟のせいだ…っ!外してって言ったのに予想以上に興奮したのか、最後まで悟は外してくれなかったし!あの変態旦那めっ)

あのヘラヘラした顔を思い出し、今度は怒りで体が震える。でもそこで時間を思い出して事務室へと急いだ。今日もたっぷり仕事が山積みだから悩んでる暇はない。

(でもこれどうしよう…圭吾はともかく高専の関係者にまで見られたら恥ずかしすぎる…!)

そこでわたしはなるべく手首が見えないようシャツの袖を出来る限り下げて、その足で倉庫へと急いだ。確かそこにアームカバーなるものがあったはずだ。服の袖を汚さない為、主に事務員の人達が使用する、あのダサいカバーだ。最近は可愛いデザインのものも売ってるのに、高専に置いてあるのは昔ながらの黒。でも文句は言ってられない。

(はあ、最悪…)

文句を言いたくても悟は泊りで京都だし、今夜は帰って来ない。それを思い出した時、一瞬だけ以前に挨拶をしたことがある季利子さんの顔が浮かんだ。五条家での集まりで顔を合わせた彼女は和服の似合う美人で、白くて細くてお人形さんみたいだったっけ。わたしが悟を奪ったようなものなのに、笑顔で話しかけてきて「悟を宜しくね」と言われたのは少しだけ驚いた記憶がある。文句の一つでも言われるかと思ったのに優しい人だなと思った。でも当時わたしは悟のことなんて大嫌いだったから、思い切り顔が引きつってたかもしれない。

(悟は今日、季利子さんに会うのかな…そりゃ、会うよね。京都への出張は久しぶりだし…)

一瞬、脳裏に二人の抱き合う光景が浮かんで、慌てて打ち消した。悟のことを嫌いなままなら、関係ないって笑っていられたのに。

「バカだな…」

泣きそうな呟きが、ふわりと掠めた朝の風に吹かれていった。







古都、京都。そこは遥か昔、794年の平安遷都より、日本の首都と呼ばれた歴史のある街。今でも観光地としては最も有名で風情のある場所も多く点在している。こういった歴史のある街は当然のように呪いも湧きやすい。その辺の低級呪霊なら京都校の呪術師たちでも対処は出来るが、それでも手に負えない呪いの場合、僕に任務が回って来る。今回も潰れて久しく放置されていた廃寺にデカい呪霊が生まれていた。しかも僕ですら久しぶりに対峙する特級と呼ばれるほどの呪霊。

"窓"からの報告で京都校の一級術師が数人で来たものの、直に見て自分達ではムリだと判断。僕にお鉢が回って来たというわけだ。最近はしょぼい任務ばかりで飽き飽きしていたから、少しは楽しめそうだ、とそう思ったのに――。

「あれ、もうギブアップー?根性ないなァ。最近の特級は」

廃寺よりも大きな巨体の呪霊は顔のど真ん中にある一つ目を何度か瞬かせ、左右に視線を走らせている。"蒼"で攻撃して数回振り回したら目を回したらしい。ウケる。

「ま、帳も下ろしてくれてることだし派手に逝ってよ」

フラフラと動けないデカブツに頭上から、今度は"赫"を放てば、特急と呼ばれる呪霊は呆気なく消滅した。ここまでで五分もかかっていない。たったコレだけの為に新幹線に乗って来たのかと思うと、そっちの方が疲れる。

「また呪いで遊ばはって…ほんまに悪いお人やわ~」

地面に降り立った時、聞き慣れた京弁が聞こえて振り返れば、そこには高専の制服に身を包んだ阿久津季利子が苦笑交じりで立っていた。彼女は幼馴染であり、僕の元婚約者。現在はただの――悪友だ。

「季利子…何しに来たんだよ」
「何しにって…悟を迎えに来たに決まってるやん。お父様が久しぶりに悟に会いたい言うから」
「フーン。でも僕的には新婚だし、日帰りしたいところだけど――」
「ハァ?させるわけないじゃん」
「いや、オマエ急に標準語になんのやめて。情緒不安定か」
「うるさいなー。悟と話してると標準語が移っちゃうのっ!それより…昨日頼んだもの、買って来てくれた?」
「ああ、車に積んでる」

そう教えると季利子はサッサと駐車してある車へ歩いて行く。中には京都校の補助監督が待機してくれていた。因みに季利子も京都校の教師であり、今は先輩である歌姫のサポートに就いているようだ。

「きゃー!これこれ!東京バナナ~。あー今すぐ食べたいわぁ」

季利子は補助監督に車のトランクを開けさせると、僕の荷物を勝手に漁って目当てのものを取り出し、大喜びしている。

「オマエ、ほんと好きだな、それ」
「えーだって美味しいやん。悟かて好きなくせに」
「ま、好きだけど」

いいながら後部座席に乗り込むと、季利子も勝手に隣へ乗り込んで来る。自分の乗って来た車の補助監督には「先に帰っててええよ」と言ってるのだから苦笑しか出ない。ただの私用で補助監督に車を出させる我がままさは相変わらずだ。僕の知らないところで勝手に婚約、そして気づけば婚約破棄になっていたけれど、つくづくが生まれて来てくれたことを感謝してしまう。こんな我がままな唯我独尊女と結婚なんて考えただけでもゾっとする。前にそのまんま季利子に言ったら、季利子も「あら、私も悟みたいな唯我独尊男なんてごめんやわ」と鼻で笑われた。同族嫌悪、とはこういうことを言うのかもしれない。

「ところで…夕べはあの子と仲直り出来たん?」

阿久津家に向けて車が走り出した途端、早速土産で買って来た東京バナナを食べながら、季利子が鼻で笑って来た。

「関係ないだろ、季利子には」
「フーン…私との電話中に"大嫌い"言われて泣かれて、昔の悟なら放ったらかしてたんちゃう?他の子ぉと何が違うの?あの子は」
「他の女と比べるな。は僕のたった一人の奥さんだから」
「……あらあら。今日はどうしよか迷てたけど、迎えに来て良かったわぁ」

季利子は心底楽しくて仕方がないといった表情で笑いながら僕へ視線を向けた。性悪女なのは相変わらずだ。

「政略結婚のお嫁さん相手に初めての好意を持て余してる悟なんてそうそう見られるもんとちゃうし…今夜はお酒が進みそう」
「…はあ。オマエ、性悪に拍車がかかってるな」
「そっちこそ。あれだけあの子を泣かせて傷つけて。これで好きだなんて言ったところで余計に嫌われるだけだと思うけど」
「放っといてくれる?僕らの問題だ」
「へえ。これまた悟らしくない。あの子のどこにそんなに惹かれたわけ?」
「……どこ?」

季利子の問いに、ふとの笑顔が過ぎった。初めて会った日、僕が彼女に酷い態度をしてからずっと下を向いてたが、一度だけ笑ってくれた時だ。あの笑顔がずっと忘れられなくて――。
笑って欲しかった。下を向く以外なら何でもいいから。見せてほしかった。出来るなら、僕の方だけを向いて。ただ、好きになって欲しかったんだ、彼女に。僕のことだけを。