第十八話...後輩から一言




――帰ろうと思ってたけど一泊することにした。明日の朝には帰るしお土産何がいい?

仕事終わり、帰ろうとしたら悟からそんなメッセージが届いた。やっぱり泊りなんだ、とちょっと悲しくなったのは、元婚約者の存在が脳裏を掠めたからだ。こんな気持ちで家に一人でいたくないと思った。

「……で。何で私の家に?」
「だって七海先輩、今日はお休みだって聞いたからいるかなーと思って」

ニコニコしながら「はい、お土産」と酒の入った袋を押し付ける。そのまま勝手に「お邪魔しまーす」と室内に入れば「何勝手に入ってるんですかっ」と七海先輩が焦ったように追いかけて来た。

「前にも何度かお邪魔してるしいいじゃないですか。あ、先輩、グラス出してもいい?」
「ダメです。それに前は家入さんと一緒でしたよね。でも今日はアナタ一人。人妻と男の私が密室で二人きりというのは世間的に誤解をされる行為です」
「………相変わらずクソ真面目」
「何ですか?」

ぼそっとボヤいたら聞こえてたらしい。七海先輩も自宅では眼鏡を外してるから、もろ不機嫌そうな瞳と目が合う。相変わらず怖い。

「分かった。帰る」
「そうしてくれると助かります」
「む…。七海先輩のケチ…」
「ケチで言ってるわけでは――」
「いいよ、もう。伊地知くんちに行くから」

今日は無茶ぶりをする悟もいないし伊地知くんも通常通りに仕事を終えて帰って行ったのは確認済みだった。硝子先輩の秘密を教えてあげるとか言えば伊地知くんもホイホイ入れてくれるはずだ。そうだ、そうしよう。一人勝手に決めて七海先輩の家を出ようとした。

「え?」

いきなりガシッと腕を掴まれ、ギョっとして振り返ると、七海先輩は渋い顔のまま「伊地知くんに迷惑でしょう」と、またもや堅物さを発揮した。伊地知くんが迷惑を被ったところで七海先輩には痛くも痒くもないはずなのに。というかわたしの存在ってそんなに迷惑なのか?と少しだけ傷つく。悟の奥さんの前に、わたしだって一人の人間だし女だ。一人で過ごしたくない夜だってある。先輩に我がままを言うくらいには。
しゅんとしていると、七海先輩は小さく息を吐いて掴んでいた手を放した。

「はあ…仕方ない。二時間だけですよ。二時間経ったら帰って下さいね。私も五条さんに殺されたくはないので」
「……こ、殺すなんて大げさ」
「………」
「な、何?」
「いえ。五条さんが苦労してるのも分かるな、と」
「苦労…って?」
「いえ、別に」
「…??」

七海先輩は時々よく分からないことを口にする。でもハッキリとしたことは追及しなければ言ってくれない。人から言われるよりも自分で気づく方が大事なこともあると、前に言われたことがある。七海先輩はわたしに何を気づかせたいんだろう?

「ほら、早く入って下さい。せっかく買って来てくれたビールが温くなってしまうので」
「あ…はい」

どうやら本当にOKらしい。そんなに伊地知くんを守りたかったんだろうか、と首を傾げつつ、わたしは再び七海先輩の部屋へ上がった。

「チーズくらいしかツマミはありませんよ」

七海先輩はキッチンで冷蔵庫を覗きながら言った。でもそれを見越してしっかりツマミは購入済みだ。

「大丈夫です。その辺は買って来たんで」
「…ちゃっかりしてますね。もし私が不在だったらどうしてたんです?」
「そしたら…やっぱり伊地知くんとこかな」
「やめてあげて下さい。行っても私以上に迷惑がられるだけですよ。彼の方が五条さんに跡形もなく消されるでしょうね」
「何それ、大げさ。悟が何でそんなことするの?」

意味が分からず首を傾げれば、七海先輩は本気でウンザリした顔をする。わたしが誰と誰の家で飲もうが、悟は気にもしないと思う。いや、それとも嫉妬したフリでもするのかな。首を傾げつつ考え込んでいると、グラスを運んで来た七海先輩が溜息交じりで向かい側のソファに座った。

「………はあ。まだそんなこと言ってる段階なんですか。結婚してるのに」
「け…結婚してたって色々あるし…見えるものばかりがホントじゃないもん。仲のいいフリしてる夫婦だって世の中にはいるんだから」
「私には本当に仲がいいように見えますけどね」
「……それは…悟が努力をしてるからだよ」
「努力…?」
「そう…言ってたの聞いちゃったの。子供の為なら愛のない結婚でも努力はするんだって…。まあ…わたしもそう思ってたんだけど…」

ついそんなことを口走って後悔した。七海先輩だってこんな話をされても困るだけだ。それに悟のことを好きになってしまったなんて今更だし先輩には知られたくない。

「って、こんな暗い話はやめやめ。飲もう、先輩」

出してくれたグラスにビールを注いで無理やり乾杯をした。何かを言いたそうな七海先輩に気づかないフリをして、ビールを喉に流し込む。その時ふと、悟も京都で夕飯でも食べてる頃かな…なんて脳裏をよぎったせいで、今日のビールはいつもよりほんの少しほろ苦い味がした。







静かな室内に小さな寝息が聞こえて来て、私は深い溜息を吐いた。まあ寝るだろうとは思っていたけれど。
寝室に行き、肌掛けを手に戻ると、テーブルに突っ伏して寝入っている後輩の肩へそれをかけた。飲みだして早々酔っ払い、最初は楽しそうに飲んでいたものの、だんだんと新婚の夫への愚痴へと話は移行していった。前から気づいていたものの、彼女は未だに五条悟という夫に対して大きな思い違いをしてるようだ。その原因は五条さん側にあったのも事実だが、あれから数年が経ち、遂に結婚、夫婦という形になっているのにも関わらず、まだ彼女の思考はその辺りを彷徨っているのか、と呆れてしまう、でもまあ先ほど彼女が愚痴っていた内容を聞けば、それは1000%、五条さんが悪いのは間違いなく。そしてそのことに対し、彼女が傷ついていることを考えれば、五条さんの長年の想いはとっくに彼女に届いてるんだろう。互いに素直になれば至極簡単な話なのに、始まりがこじれた二人だからこそ、大人になったところで簡単にはいかないということなのかもしれない。何とも面倒くさいものだと思う。

(まあ…五条さんがもっと頑張らないとダメということでしょうかね)

と言って、あの人が何かを言えば言うほど胡散臭く見えてしまうのは、ある意味同情する。
その時、私の部屋のインターフォンが鳴った。ふと時計を見れば、もうあと数秒で深夜0時になるところ。こんな深夜に尋ねてくる人物は彼をおいていない。

(やれやれ…本当に来るとはね)

今の音にも気づかず、眠りこけている後輩に視線を向けながら、私は玄関へと歩いて行った。しかしドアの前に立った時、一瞬ここを開けたくないという思いに駆られる。閉じていてもドアの向こうからは呪いと間違うようなどす黒い感情がピリピリと感じるからだ。

「はあ…」

でも開けなければドアを吹き飛ばされるのは確実。ここは我が家を守るためにも開けるしかない。そもそも彼に連絡をしたのは私なのだから。憂鬱な気分になりながら鍵を回し、ドアノブを掴む。でも開ける前に向こうからドアが開かれ、前のめりになった。

「おっそーい、七海」
「…すみません。開けたくなくなるほどの殺気を感じたもので」

そう言いながら目の前の目隠しに覆われている顔を見つめる。口元には弧を描いているものの、絶対に隠れている目は笑っていないだろう。

「最終、間に合ったんですね」
「そりゃー急いだから。それより…僕の奥さんは?出迎えがないようだけど」
「…寝ちゃいましたよ。ほんの数分前に」
「やっぱそうか。入っても?」
「どうぞ」

私がそう応えると、五条さんは真っすぐリビングへと歩いて行く。その手には京都土産らしき袋を持っていた。

「あ~あ…こんなに飲んだの」

テーブルの上にある空き缶や瓶を見て、五条さんは苦笑いを零した。

「困った奥さんだなぁ…。ま、そこが可愛いんだけど。七海もそう思うでしょ」
「勘弁して下さいよ。それにどう応えたらいいんです?」
「はは、まあ、可愛いと言われてもムカつくけど」
「でしょうね」
「こんな風に二人で飲むのもね」
「……でしょうね。だから最初は帰そうとしましたよ。でもじゃあ伊地知くんのところへ行くと言うので――」
「へえ。アイツ、命拾いしたな」

でしょうね、と今度は心の中で応えておく。全くもって理不尽極まりない先輩だ。彼女をそっと抱き上げる五条さんを見て、私は溜息を一つ、吐いてから口を開いた。やはりひとこと言わないと気が済まない。

「夫婦のことに口を出す気はなかったんですが…ひとことだけいいですか」

彼女を抱えて玄関に向かう五条さんにそう声をかけると、彼はふと足を止めた。

「……何?」
「彼女がそこまで飲んだのは五条さん、アナタのせいです」
「………やっぱり?」
「どうにかして下さい。そもそも妻に愛がないなんて思わせるのは夫失格では?」
「ひとこと以上言ってない?」
「それはすみません。まあ長いことアナタへの愚痴を聞かされてたもので」

そう、だからつい嫌味の一つも言いたくなる。けれど五条さんは意外にも「悪かったよ」と謝罪の言葉を口にした。これまで彼とは長いこと付き合って来たが、その言葉を聞いたのは初めてかもしれない。

「私より…彼女にその言葉を言ってあげて下さい」
「もちろん言ったよ。でもいまいち信じてないみたいでさ」
「それはそうでしょうね」
「…む」

そこで五条さんは不満げな様子でこちらを振り返り、「日を改めて、きちんと彼女とは話すよ」とハッキリ言った。

「そうして下さい」

私が最後にそう言うと、かすかに口元へ笑みを浮かべ、壊れ物を扱うよう優しく彼女を抱きながら五条さんは帰って行った。あの様子じゃ目覚めた時は軽い説教をされるんだろうなと苦笑しつつ、私は静かにドアを閉めた。







朝、目が覚めた時、普通に自宅のベッドで寝ていたからビックリした。いつ帰って来たんだ?と少し二日酔いの頭をフル回転させながら体を起こす。だけど視界の端にいるはずのない人物が見えて、ゆっくりと視線を向けた。

「おはよう、
「……っさ、悟?」

何で京都にいるはずの悟が家のベッドに寝転んでるの?と一瞬パニックになった。時計を見れば朝の7時。京都から始発で戻って来たにしては、随分と寛いだ格好だ。目隠しもサングラスもしていない。いや、その前にわたしは一体どうやって七海先輩の家から自宅へ帰って来たんだろう。そこも思い出せない。そう考えていると悟は体を起こしてわたしの腕をぐいっと引き寄せた。悟の脚の間に向かい合った状態で座らされ、朝から一気に体温が上昇していく。

「あ、あの――」
、オマエは僕の妻だよね」
「…へ?」
「いくら先輩だからといって、男の家に一人で行かないように」
「あ、え?」

何故か夕べの件がすでにバレている。これはもしかして叱られてる?そこで気づいたのは七海先輩が悟に連絡をしたのかもしれないということだ。

「あと僕が面白くない」
「……さ、悟…?」
「だいたいは無防備すぎでしょ。いくら七海だからって酒を飲んで男の前で眠りこけるなんて」
「……っ!」

どうやらわたしは七海先輩の家で酔っ払って寝てしまったらしい。そこで全て納得がいった。でも、それじゃあ悟は夕べのうちに東京へ帰ってきたことになる。

「ご、ごめんなさい…」
「ほんとに反省してるの」

綺麗な瞳がぐっと細められ、こくこくと何度も頷く。怖いけど、でも心配して怒ってくれるのが嬉しい、なんて意外なことを思ってしまった。それに――。

「悟…夕べ泊まらないで帰って来たの…?」
「そりゃそうでしょ。七海から家にが来てて一緒に酒を飲んでるから迎えに来いなんてメッセージ受けとったら。速攻で新幹線飛び乗ったよ。おかげで夕飯抜き」
「……ご…ごめん…」

どうしよう。悟が激甘でちょっとおかしい。この前ケンカした時、わたしが泣いたせいで、とりあえず愛情を注いでるフリでもしてるんだろうか。そんなことが頭の隅をチラっと掠めた時、悟の腕が伸びてぎゅっと抱きしめられた。悟からは白檀の優しい香りがする。今はこの匂いがわたしをホっとさせてくれるのだから不思議だ。

「…が僕だけを見ててくれたらいいのに」

その時、不意に耳元で悟が呟いた。本気じゃないと分かってるのに、勝手に心臓が反応して。あまりに優しく髪を撫でるから無意識に悟の胸に顔を押しつけてしまった。

…?具合悪い?」
「だ、大丈夫…」
「……じゃあ…したいの?」
「……っ?」

その問いに驚いてがばっと顔を上げると、悟が笑いを噛み殺していた。からかわれたんだと分かって顔がかぁぁっと熱くなる。

「嘘、冗談。もう仕事に行く時間だろ」
「え、あ…」
「僕のことはいいから早く用意をしておいで」
「……うん」

ダメだ。何故かやたらと照れ臭くて悟の顏が見れない。こうして腕に抱かれていると、本当に愛されてると勘違いしてしまいそうになる。

「あ、あの…じゃあ用意してくる――」

と言いながら離れようとした時、悟が屈んでくちびるを重ねて来た。いつもとは違う、触れるだけの優しいキスに、胸の奥が小さな音を立てる。それはすぐに離れていったけど、少し物足りなくて、今度はわたしから悟のくちびるへちゅっとキスを返した。悟が酷く驚いた顔でわたしを見つめている。

「…?」
「あ、あの…朝食作っておくから後で食べて」

夕飯も食べずに帰って来てくれたことを思い出し、照れ隠しに言ってからベッドを下りて部屋を出る。ドアが閉まる瞬間、「ありがとう」という悟の優しい声が聞こえた気がした。