第二十一話...オマエだけでいい



幼い頃、五条家で行われる形式的な宴に招かれることがよくあった。そこで初めて季利子さんを見た時、なんて綺麗な女の子なんだろうと思った。彼女が悟の元婚約者だと知った時の驚愕といったら言葉では言い表せない。まるで兄妹のように仲のいい二人を見て、悟のことは嫌いだったけど、わたしが狐憑きとして生まれてきたせいで二人を引き裂いてしまったような、そんな罪悪感を覚えた。だからもし、今も二人が想いあっているならわたしには太刀打ちできない。そう思ってしまうのは、この季利子さんと悟がお似合いだからだ。

「随分とべっぴんさんにならはったなぁ、ちゃん」
「い、いえ、そんな…」

季利子さんは気さくに話しかけて微笑んでくれる。でも心の中ではどう思われてるのか怖い。大好きな婚約者を奪った女。そう罵られてもおかしくはないのに、季利子さんは初めて会った時と同様に、その花のような笑みを絶やすことなく、わたしの肩へ手をかけた。

「今日のお披露目会、私の父が悟に頼んだことで急やったでしょう。ほんまにごめんなさいね」
「…え?そう、なんですか?」

その話を聞いて驚いた。急だとは思っていたけど、それを提案したのが季利子さんのお父さんだったなんて。

「あら、悟から聞いてへん?先日京都に来はった時、父が悟を呼んで今日の会を提案したんよ」
「…そ、そうだったんですか。悟ってば何も話してくれなくて…」

悟はいつもそうだ。肝心なことは何も話してくれない。今日の会だって、半分はわたしにも関係してるというのに。そんなわたしを見て、季利子さんは小さな溜息を一つ吐いた。

「全くもう…悟ってば何でも出来るから他のことに対してもだいたい自己完結するタイプやし、ちゃんも苦労してはるんちゃう?」
「え…あ…まあ…」
「何か悟のことで困ったことがあれば、いつでも私に言うてな?ビシッと説教してあげるし」
「はあ。ありがとう御座います。あ…じゃあわたし、戻りますね」
「あら、私ってば嫌やわぁ。主賓の花嫁さん引きとめてもーて。はよ会場戻らな悟が心配しはるわ。ほな、また後で」

わたしもそこで軽く会釈をすると、すぐに会場へと戻った。酷くドキドキして、手にじっとり汗が滲んでいる。圧倒的な敗北感かもしれない。書類上、わたしは悟の妻だけど、季利子さんの方が悟のことを知り尽くしている気がした。
会場の大広間に戻ると、さっきよりは砕けた空気の中、大勢の客が酒を飲み、談笑している。その中でも悟は一際目立っていて、いつの間にか華やかな着物を着た女性たちに囲まれていた。

「何、主賓が壁の花になってんだよ」
「…圭吾」
「――ああ、二つくれる?」

通りすがりのウエイターからシャンパングラスを二つ受けとると、圭吾は一つをわたしへ差し出した。

「ほら」
「あ…ありがとう」

それを受けとって一口飲むと、シャンパン特有の甘味と酸味が口内に広がる。悟がホテル側に注文してくれたシャンパンはわたしの大好きな銘柄だから、飲みすぎてしまわないよう気を付けなくちゃと内心思う。

「それにしても悟くんはずっと誰かに囲まれてんなあ。あれって遠縁の親戚連中のご令嬢だろ」
「そ、そうなんだ。まあ…悟は常に女性陣に囲まれてるよね…。高専の呪術師女性陣からは散々な割に他では凄くモテてるし…」
「そりゃあ…なあ。今ああして悟くんに群がってるのは悟くんの価値を十分に理解してる女達だよ。あわよくば取り入ってやろうってのが見え見え~」
「え…」

圭吾は指で輪っかを作り、そこから女性陣を覗き見て笑っている。わたしも視線を戻してみると、確かに妻帯者への接し方としては、少し距離が近いのでは?と咎めたくなるほど、女性陣は悟にベタベタしてるように見えた。

「いいのかよ。オマエ、奥さんとして舐められてんだぞ?」
「……そんなこと言ったって…」

分かってる。わたしはたまたま"狐憑き"だったから選ばれただけだってことくらい。本当なら悟にはもっとお似合いの女性なんていくらでもいたはずだ。特にどの女性たちよりも群を抜いて美貌と教養を兼ね備えているご令嬢、季利子さんなら、悟の隣がお似合いだと思う。彼女はこんな光景を見たらどうするんだろうと考えてみたけれど、彼女ならきっと、さり気ない所作で悟の周りを飛び回る蝶たちを、コバエの如く追い払うに違いない。

「わたしがもっと…釣り合う奥さんなら良かったのかな…」

ぽつりと本音が零れ落ち、圭吾が息を飲むのが分かった。こんなことを言えば、心の奥にしまった想いを見透かされてしまう。そう思うのに、もう隠し通せるほど悟への想いは小さくないことを自覚した。

は…そのままでいいよ」
「…え?」

いつもみたいに「何弱気になってんだよ」と笑われるかと思ったのに、圭吾は真面目な顔で呟いた。

「こんな可愛い奥さんほったからして他の女を見るようなバカなら捨てちゃえばいい」
「…圭吾?」

いつもなら悟の立場を理解して擁護する圭吾が、不意に冷たい口調で言い放ったからドキッとしてしまった。思わず仰ぎ見ると、圭吾はハッとしたように「なーんてね」と笑顔を見せる。

「ああ、でも一つだけ意地悪なことを言えば…阿久津のオジサンはまだ自分の娘を悟くんのそばに置くことを諦めてない」
「…え?阿久津って……」
も知ってるだろ?悟の元婚約者」

言いながら圭吾はある方向を指さした。そっちへ視線を向ければ、そこには女性陣に囲まれた悟がいる。そして――。

「季利子さん…」
「あーあ。季利子が行った瞬間、周りにたかってた女どもが潮を引くように消えたな。ウケる」
「…季利子さんには誰も敵わないもの。当然だよ」
「ハァ…オマエが弱気になってどーすんだよ。本来ならアレはオマエの役目だろ。んなハニワみてーな顔で落ち込んでちゃ――」

と圭吾が言いかけた時、「悟くんの奥様ですか?」と知らない男性に声をかけられた。

「はい」

すぐに笑顔を見せて応対すると、隣で見ていた圭吾は呆気にとられたような顔で苦笑してる。どんなに落ち込んでいても、今は悟の奥さんとして招待客にきちんと接しないといけない。悟の隣が似合わなくても、これだけはわたしにしか出来ない役目だ。五条悟の妻として、今できることをきちんとやろう。そう心に誓って、改めて気合を入れ直した。

そして一通り挨拶や会話を終わらせた一時間後――。

「つ…疲れた…」

知らない人たちを一人で応対していた結果、無理やり作った笑顔のせいで顔の筋肉が少しばかりおかしなことになった。ついでに何度も乾杯をしたせいで、お酒を少々飲み過ぎた気がする。食事も殆どとれていないから地味に空腹だ。

「はあ…悟は凄いな…まだあんなに囲まれてるし…」

遠目で見ていても悟は常に誰かに囲まれていた。さっき季利子さんが追い払った女性陣ではなく、年配のご夫婦とその娘らしき女性。さっき挨拶を交わした程度の人達だったけど、悟はどことなく不機嫌そうに見えた。

(何であんなウンザリした顔してるんだろ…)

そう思いながら見ていると「奥様、おひとついかがですか?」とビュッフェコーナーで料理を振るっている女性のシェフに声をかけられた。見ればその場で焼き上げているひれ肉のサイコロステーキがじゅうじゅうと美味しそうな匂いをさせている。しばし見惚れること数秒。気づけば手に小皿を持っていた。

「い、頂きます」
「はい」

その女性はニッコリ微笑むと、焼きたてのステーキを小皿に乗せてくれる。一口食べるとほろほろと柔らかいお肉が崩れ、口内にうま味がふわとっと広がった。美味しい。その一言に尽きる。久しぶりに食べ物を口にしたせいか、その後も食欲は止まらない。テーブルの上に並んだ豪勢な料理は話と酒に夢中な客達は殆ど手を付けていなかった。

「もったない…わたしが食べても問題ないよね」

とりあえず一仕事を終えて気分が楽になったわたしは食に走ることにして、次々に料理を更に盛っていく。きっと季利子さんのこととか。モヤモヤした気分を吹き飛ばすためのやけ食いに近かったのかもしれない。

――まだ自分の娘を悟くんのそばに置くことを諦めてない。

あれってどういう意味なんだろう。結婚させたいって感じの意味には聞こえなかった。彼女の父親がこの会を提案し、悟と季利子さんを近づけさせようとしてる?でもそれならお披露目会なんてまどろっこしいことはしないはずだ。それとも公の場で何か悟に仕掛けようとしてるとか?前なら気にならなかったけど今はちょっとのことでも気になってしまう。

(帰ったら悟に訊いてみればいっか…)

未だに捕まっている悟を見ながら、わたしは次の料理へと手を伸ばした。







「まあ、物凄く食べてる方がいるわ」
「ほんとだ。あれは悟くんの奥さまだね」

そんな会話がすぐ近くで聞こえて苦笑した。見れば話の通り、次々に料理を口へ運ぶが見える。思わず吹き出していると、背後から「圭吾」という声が聞こえて来た。

「季利子…」
「お久しぶり、圭吾。元気そうやね」

振り向けば幼馴染の季利子がニッコリしながら立っている。よそいきの顏は相変わらずだ。

「そうでもねえよ。こんなクソみたいなお披露目会のせいでな」
「あら、それはお父様に言うてくれへん?」
「…チッ。オジサンも面倒なことしやがって。やだやだ。こればっかりは悟くんに同情するわ」

視線を戻せばまたしても新手の家族が悟くんに媚びを売りに行っている。自分の娘を差し出そうと必死すぎて笑ってしまうが、既婚者相手に良くやるよって感じだ。これをメインにした今回のこのパーティを仕込んだのが、この季利子の父親だ。オジサンは未だに自分の娘を悟くんの愛人にしてでも傍へおいておきたいらしい。彼女にその気はないと知ってるクセに、よくやるよと呆れてしまう。おかげでオレまでモヤモヤする羽目になった。

「私かて迷惑やわ。何でうちが悟の愛人になんてならなあかんの。向こうかてそう思てるのに。それにわたしには…」

と季利子は言いかけて、ふと言葉を切った。

ちゃんはそのこと知ってはるん?」
「…いや。知らない。言えばまた無駄に傷つくだろうし…最近やっと悟に心を開いてきたところなのに」
「あらあら。圭吾は彼女に随分と親切なんやなぁ?」
「…は?」
「そう言えば昔から圭吾はちゃんの護衛をしてはったし…実は狙とるんちゃうん?」

じっとりとした目つきでオレを見上げる季利子にカチンときた。この女ときたら昔から悟くん以上に性格が捻くれている。

「…あのなあ。オレは――」
「ああ、ほら。そろそろ我慢の限界みたいやわー悟も」

不意に季利子が笑いながら指で示す方向へ目を向ければ、悟くんの顏があからさまにひきつっていくのが見えた。







「それでだね、悟くん。娘の気持ちを汲んでくれると僕としても――」
「申し訳ないんですが、このような場でそういう話はちょっと…」

言いながらも、だんだんと僕の顏が痙攣をおこしそうなほど引きつっていくのが分かった。この家族で4回目ともなれば当然だ。次から次に自分の娘を僕の愛人にしようと企むバカがひっきりなしに声をかけてくる。おかげでをずっと一人にさせてしまっているのが気になった。さっきはその娘たちに捕まっていたところを季利子の機転で助けられたが、今度はその娘たちが親を引きつれて舞い戻って来るんだから嫌になる。

(あのクソジジイ。下らないことを企みやがって)

ふと先日、京都で顔を合わせた男の顔が浮かぶ。

――お父様の仕掛けたことやから多少はぶち壊す協力してあげる。

季利子もウンザリした様子だったとこを見れば、彼女自身も来たくもないのにこの場に来たってとこだろう。今日のお披露目会という名目はただの建前。実際は五条家に関連した家の娘を僕の愛人に、と思っていた連中を引き合わせ、結果、少しでも多く六眼の子種が欲しいってとこか。考えることがクソすぎる。

――"狐憑き"にだけ独り占めさせるなんて、そんなもったいないこと考えてへんのやろ?

あんなことを言いだした時点で気づけば良かった。季利子との婚約解消の時、ゴネなかった理由が分かった気がする。アイツらは昔から僕を只の商品としてしか見てない。呪術界の為などと言いながら、下世話なことを企むクソジジイどもの企みなど乗るわけないというのに。

「ああ、では場所を変えて今後の話でも――」

そう思いながら、目の前で期待を込めた顔をする連中にニッコリ微笑む。どうやったらコイツらを黙らせられるかと考えながら。

「お断りします」
「え…?」
「僕は妻を大切にしていますし、他の女性など考えられない」
「い、いや…それは君の建前だろう?知ってるよ?若い頃はあちこちで浮名を流してたって。どうせ落ち着いたら愛人の一人や二人、君も囲うだろう。だからその相手を娘にと――」
「いい加減にしてくれますか。若気の至りで遊んでいたことなど持ち出されても。言った通り僕は妻を愛してますし、特に今、彼女は一番大事な時期ですので余計な心配事はかけたくない」

あまりに頭に来て、つい口が滑ったのは僕の大失態だったかもしれない。相手の男と娘は互いに顔を見合わせ――。

「だ…大事な時期って…」
「ああ。大事な妻は現在妊娠中・・・・・でして――」

言葉にした瞬間、会場内がざわめいた。目の前の父娘、周りで聞き耳を立てていた連中さえ、驚いた顔で一斉に僕へ視線を向けるのが分かった。ふと視線だけで彼女を探せば、はビュッフェコーナーで一人黙々と食事を続けているのが見えた。あまりに食べまくっている姿に、これはマズいかも…と頬が引きつる。すぐ近くでは季利子と圭吾が溜息交じりで僕を見ていて、季利子に至っては「アホ」という形で口を動かした。
確かにこの時の僕はイライラしすぎて、究極のアホだったかもしれない。







(…ん?)

デザートの後に再びパスタを堪能していた時、突然会場内の空気がざわめき、今までの空気とは明らかに変わった。

(何か…さっきから物凄く視線を感じるんだけど…何…?食べ過ぎってこと?)

おかしな空気を感じ、何事かと食べる手を止めて周りの気配を探ってみると――。

「五条家当主の奥さま、おめでたですってよ」
「さっきからよく食べてられてると思ってたのよ。それならお腹が空くわよねえ」
「ねー。元気なお子さんが生まれるといいわね。悟さまと全く同じ術式を持ってる子が産まれてくるなんて、ほんと楽しみ」
「これで呪術界もさらに安泰だわぁ~」

「………は?」

今の会話は誰のこと?と首をかしげたくなったのは当然だった。だって、わたしは妊娠していない。なのに何故おめでたなんて思われてるんだろう。そこまで考えた時、答えは一つしかないことに気づく。錆びたブリキのおもちゃのように、ギギギっと首を回せば、遠くに悟が見える。何故か両手を合わせて顔の前で拝む仕草をした。

(ごめんのポーズ?)

その仕草を脳が理解した時、わたしの体は怒りで震えて、持っていたフォークがぷるぷると震えてしまった。







「なんで妊娠中だなんて嘘ついたの?!」

パーティ解散後、自宅へ帰った瞬間、文句を言えば、悟は何故かベッドの上で正座をして「ごめんなさい…」と素直に謝って来た。

「…暗に…"娘を愛人に"と言い出す連中があまりに多くて、それでイライラしてつい…最後の手段として言っちゃって」
「だ、だからってそんな嘘つかなくても――」
「いや…すぐ訂正しようかと思ったら、ちょうどがめっちゃくちゃ食べてたから説得力が増したと言うか…」
「食べまくっててごめんね!お腹空いてたんだもんっ」

怒鳴りながらも、すでに悟に愛人の話が出てるんだと思うとショックだった。以前はサッサと愛人を作って欲しいなんて思っていたけど、今はそんなのツラすぎる。考えただけで泣きそうになって、ぎゅっと拳を握り締めた。

…」
「な…何――」

不意に握り締めた拳に悟の手が伸びてそっと引き寄せられた。ベッドに腰を掛けた悟に倒れ込むようにしがみつけば背中に腕が回され、強く抱きしめて来る。

「本当にごめん…でも僕は愛人なんて作る気もないし、オマエがそばにいてくれるだけでいい」
「……っ」

どこまで本心なのかなんて分からない。なのに、凄く嬉しかった。季利子さんには敵わないかもしれない。でも、それでも。わたしは悟が好きだから――。