第二十六話...過去からの襲来



――家で待ってるから。早く帰ってきて。

どこまであの言葉が彼女に響いたかは分からない。は何も応えなかった。だけど、もう誤魔化しようのない彼女の本心に確信を得た今、きちんと向き合あいたいと思った。

怖かったのは僕も同じだ――。

家同士の思惑で強引な婚約、そして結婚。ガキの頃はたった一人の女の子が出来たことが嬉しくて、でも何となく照れくさくて、素直になれたことなんて一度もなかった。でも大人になるにつれ、その意地っ張りな性格が原因で彼女から好かれていない。いや、むしろ嫌われていると気づいた時、更に僕の意固地な性格は加速していった。思っていることの真逆を言ってしまうのは何の病気かと思ったくらい、僕は素直じゃなかった。
だから――やり直したかった。
結婚して、そこからと始めたいと思えたのは、僕が少し大人になったからだろう。なのに、女の子が喜びそうな言葉を言っても少しも彼女には響かない。だから余計に、一番大事な言葉を彼女に言えずにいた。言わなくても一緒にいればそのうち伝わるだろう。なんて考えが甘かったのかもしれない。夫婦になって変に安心したせいだ。夫婦といったところで、の気持ちが僕に向いていないなら何の意味もない関係だというのに。
だから、今夜こそちゃんと伝えなくちゃ、とそう思った。

「あれ、五条。早いね。もう帰るのか」
「…硝子」

学長に報告をした後、すぐに帰ろうと校舎から出ると、硝子が怠そうな顔で歩いて来た。彼女は今夜も夜勤のようだ。

「大事な用があってさ」
「…用?」

硝子は長い髪をかきあげながら怪訝そうな顔で僕を見上げた。まあ彼女には色々迷惑もかけたし、報告だけでもしておくか。

「今日は…きちんとと向き合おうと思う」
「え?」
「今後一生、共に過ごす大切な女性ひとだからね」

硝子はポカンとした顔をしていた。それも当然かもしれない。学生の頃から僕を知っている硝子からすれば、今更?と思ってるはずだ。案の定、硝子は「まだと話してなかったのか」と呆れたように溜息を吐かれた。そう簡単に出来ないからこそ、ここまで引き延ばしてしまったというのに。

「結婚したからってあっさり本心曝け出せるなら苦労はしないよ」
「…ったく。こんな男と結婚しなきゃならなかったが不憫でならない。サッサと告って本物の夫婦になれよ」
「相変わらず硝子は手厳しいね」
「可愛いを甘やかしたとしても、オマエにまで優しくする義理はないしな」

硝子は鼻で笑うと手をひらひら振りながら校舎へと入っていく。その背中をジトっと睨んだものの、言われて当然のことをしてきたんだから仕方ない。

「はぁ…せめて僕のテンションを下げないで欲しかったよ」

軽く自己嫌悪に陥りつつ、迎えの車が待つ門まで歩いて行く。に自分の気持ちを伝える。そう決心したら自然と足取りは軽かった。







――のいない家は寂しい。

悟の言葉を思い出すたび、胸がドキドキしてくる。早々に仕事を終わらせたわたしは、言われた通り自宅マンションへと向かった。今日の護衛は圭吾だ。他の護衛陣から聞いたのか「オマエ、家出したって?」と呆れた顔をされた。

「つーか数時間の家出って何だよ」
「うるさいなぁ…放っておいてよ」

助手席からわざわざ身を乗り出して揶揄してくる圭吾を睨みつつ、プイっと顔を反らして窓の外を見る。その時、いつも行く大型スーパーが視界に入った。

「あ、車止めて」
「え?」
「買い物したい。家に何もないの」
「ああ、了解」

家に帰って悟に自分の気持ちを伝える。そう決心がつくと、やっぱり夕飯を作ってあげたくなった。告白の結果次第ではいらなくなるかもしれないけど、でも今までも悟が家にいる時はきちんと夕飯を作っていたし、習慣みたいなものだ。運転をしている術師の人がスーパーの駐車場に入り、車は静かに停車した。もう一台、後ろについて来た車も同じように止まる。その車にも3人の術師が乗っていた。妻が妊娠したと悟がついた嘘のせいで、五条家からの護衛が増えてしまったのは心苦しい。そろそろ本当のことを話さないと大ごとにでもなったら大変だ。

「オレ達も行くよ」
「い、いい。そんなにかからないから」

車を降りようとする圭吾を制止して、わたしはすぐにスーパーへと入った。こんな人の多い場所に黒づくめの護衛がぞろぞろついて来たら目立って仕方ない。

(今日は何を作ろう…家出したお詫びに悟が好きだって言ってたケチャップ増し増しのオムライスにする?)

悟は意外と子供舌なんだよなぁと軽く吹き出しつつ、卵をカゴへ入れる。中身はチキンライスが好きだと言ってたから鶏肉やニンジン、ピーマンも忘れずに入れた。他にサラダ用の野菜を入れて、スープは何にしよう、と考えを巡らせた時だった。

「今夜はオムライス?悟の好物だね」

とすぐ隣で声がして一瞬、時が止まった。10年会っていなくても、耳がその声を覚えている。あり得ない。そう頭では思うのに、肌でその良く知った呪力を感じた。

「……夏油…先輩?」

ゆっくりと隣に立っている人物を見上げれば、懐かしい笑顔がわたしを見下ろしていた。

「久しいね、。元気そうで何より」
「ど…ど…うして…」

今は特級呪詛師として手配されてる夏油先輩が何故ここにいるのか。偶然にしては少し違和感がある。そして外にいる圭吾たちはどうしたのか、そこが気になった。

「ああ、何故私がここにいるのか知りたいのかな?それはもちろん君に会いに来たのさ」
「……わ、わたしに…?」

何故――?非術師を全滅させるという突拍子もない理由で高専を離反した夏油先輩が、わたしを狙う理由はないはずだ。知らないうちに頭で色々考えすぎていたらしい。腹部に温もりを感じて小さく息を飲んだ。見れば夏油先輩の手がわたしの下腹部に添えられている。触れられるまで気づかないなんて、と自分で呆れてしまう。

「な、何して…っ」
「ああ…何だ。妊娠したなんて嘘だったんだね」
「……は?」
「良かった」

夏油先輩は下腹部に置いた手でするりと子宮の辺りを撫でて微笑む。悟以外の人に触れられたことが恥ずかしくてカッと頬が熱くなった。

「そこから悟の呪力は感じない。妊娠は嘘なんだろう?」
「な…何でそんなこと…」
「そりゃあ君を見張らせていたからね。私の仲間に。懐妊したなんて聞いたから焦ったよ。もし子供が出来ていたら殺さなくてはならなくなるからね」
「な……何で…」

わたしを殺す――?夏油先輩は何をしようというのか。ゾっとして少しだけ距離を取れば、彼は楽しそうに笑った。

「はは。何でって…悟の術式を丸ごと受け継ぐ子供なんて邪魔に決まってるだろう。危険なものは先に排除しなきゃね」
「………っ?」
「さあ、私と一緒に来るんだ」

夏油先輩は昔と何ら変わらない微笑を浮かべてわたしの手を掴む。その冷んやりとした感触にドキッとして慌てて振りほどこうとした。

「ああ…無駄な抵抗はしない方がいい。この店内にいる猿どもを殺されたくなければね」
「―――っ」

その言葉にハッとして辺りを見渡せば、異様な数の呪霊が溢れて客たちの周りを囲んでいる。それは夏油先輩の気持ち一つで、ここにいる非術師たちを皆殺しに出来ることを示していた。

「ひ、卑怯よ…」
「そりゃ今の私は呪詛師だからね。正攻法でなんて動くはずがないだろ」

夏油先輩は笑いながら強引にわたしの手を引いて行く。手に持っていたカゴが落ちて、中の物が床に散乱したのが見えた。卵が割れ、野菜たちが散らばり、転がっていく。

「あんなに嫌ってた悟の為に夕飯の買い物かい?健気になったものだね。ああ、それとも…やっと自分の本音に気づいた?」
「……本音…?」
「君は昔から悟のことが好きだっただろ」
「…え…?」
「よくは"悟さんなんか大嫌い"と言ってたけど…知ってるかい?"大嫌い"はね。"大好き"ってことだよ」
「……っ」
「本当に嫌いな相手にわざわざそんな言葉は使わない。あれは少しでも自分に関心を持って欲しい裏腹な女心だろう?」

違う、とは否定できなかった。あの頃のわたしの気持ちはどうでも、今は悟のことを愛してしまっている。それに、確かにあの頃、素っ気ない悟に苛立っていたのは事実だ。

「わ…わたしをどうする気ですか…」

悟の子供が邪魔だという心理は分かる。だけど妊娠していなかったのだから用はないはずだ。それとも、子供が出来る前にわたしを殺すつもりなんだろうか。脳内でアレコレ考えていると、夏油先輩はその考えを見透かすように笑った。

「妊娠していないなら殺すつもりはないよ。まあ妊娠していたら腹の子供を殺すつもりだったけど、そもそも自身を殺す気はない」
「……は?それってどういう…」
「分からない?」

意味深な笑みを浮かべて身を屈めると、夏油先輩はわたしの顔を覗き込んだ。

「君にわたしの子供を産んで欲しいから」
「―――っ?!」

その言葉の意味を瞬時に理解し、わたしはぞっとした。背筋に寒気が走り、脚がかすかに震えてくる。

「前に言ったよね。私がと結婚したかった、と」

話しながら、夏油先輩は再びわたしの手を引いて歩き出した。

「私の術式は極端に少ないレアなものでね。その辺の術師の女性を妊娠させても受け継がれるかは分からない。だから狐憑きの君の存在を知った時から興味はあったんだ」
「……嘘…夏油先輩はそんな――」

と、そこで言葉が切れた。そんな?そんな人じゃない?あれほどの呪殺をした男を、まだ信じてるのか、わたしは。

「だから手に入れたかった。悟から君を奪ってでも、ね」
「…イ、イヤ…放して…っ」

スーパーを出たところで掴まれていた手を振り払う。このまま夏油先輩について行けば、彼の言った通りになってしまう。どんなに拒否をしても、無理やり身体を奪われ、妊娠させられる。子供が出来るまで、きっと彼は諦めないだろう。

「一緒には…行きません」
「無駄なあがきはよした方がいい。は戦い方を知らないだろ」

ゆっくり後ずさりながら駐車場へと走って行く。でも夏油先輩は笑いながら「無駄だよ」と言った。その言葉の意味を知ったのは、乗って来た車の周りに倒れている護衛の人達を見た瞬間だった。

「…圭吾!」

傷だらけで倒れていた圭吾に駆け寄ると、かろうじて息がありホっと息を吐き出す。他の術師の人達も死んではいないが重症だ。

「…どうして…ここまでするの?!」
「邪魔だったから仕方なくね。でも殺さないであげたよ。優しいだろ?まあ……猿なら殺してたが」

ニヤリと笑う夏油先輩はもうわたしの知ってる優しい先輩じゃない。その楽しげな顔を見て心底そう思った。

「さあ、私と一緒に来なさい」
「…イヤ!わたしは……悟以外の人の子供なんて欲しくない…っ」

本音が零れ落ち、涙が溢れた。そうだ。わたしは悟以外の男になんて触れられたくもない。だってわたしは――。

「わたしは……悟を愛してるから」

その言葉を、本音を、初めて口に出来た瞬間だったかもしれない。その時――。

「よう言うた」
「―――っ」

背後から京訛りの言葉が聞こえてきて息を飲む。ゆっくりと振り向けば、そこには怒りの形相をした季利子さんが立っていた。