第二十七話...紡がれる言の葉



初夏の明るい月夜がふと翳った。わたしを挟んで夏油先輩と季利子さんが睨み合う。
何故彼女がここへ――?
突然の夏油先輩の襲撃と合わせて、分からないことだらけで少し頭が混乱した。

「久しぶりやねえ、夏油傑。京都で悟に紹介されて以来やわ」
「君は…阿久津季利子か。悟の前の婚約者の」
「またそれか…。ウチは悟のオマケとちゃうし。前の婚約者言われるんが一番ムカつくのやけど。悟の"元親友さん"」
「ははは。そうか…君と悟は悪友、だったかな?」

夏油先輩は季利子さんと面識があったようだ。一見、穏やかに話してるように見えて二人の会話はコッチが緊張するくらい、殺気が蔓延している。しかも――。

(季利子さんから激しい怒りを感じる…どうして?彼女は何に腹を立ててるの…?それに…悟と"悪友"って…どういう意味だろう)

良く話が見えなくて戸惑うわたしをよそに、季利子さんは静かな声で「ちゃん」とわたしの名を呼んだ。

「ゆっくりこっちにきぃ」
「え…」
「はよう。大丈夫やから」
「は…はい」

夏油先輩に背中を見せるのが怖い。だけど、季利子さんの"大丈夫"を信じて、わたしはゆっくりと彼女の方へ歩いて行く。一瞬振り返ってしまったけど、夏油先輩は余裕の笑みを浮かべてるだけで特に攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。季利子さんの実力は知らないけれど、強いというのは肌で感じる。ただ夏油先輩の強さは悟と同じく特級。学生の頃よりも格段に強くなっているのは、さっき感じた呪力で分かった。

「わたしの後ろに」
「はい」

季利子さんはわたしの手を引くと、自分の背後に押しやった。それを黙って見ていた夏油先輩は「おやおや…」と苦笑気味に頭を掻いている。

「悟の元婚約者と現妻の美しい友情かな。悟も罪な男だ」
「うるさい。それより…そこの術師をやったんはアンタか?」
「ん?ああ…彼女の護衛たちのことかい?それが何か?」

夏油先輩が応えた瞬間、季利子さんの呪力がざわりと波打つように乱れたのを感じた。その波が蜷局を巻くように禍々しい殺気へと変わっていく。

「ぶっ殺したる」
「はは、勇ましいね。女術師にしては強いようだけど、お手並み拝見と――」

と夏油先輩が言った瞬間だった。顔を歪ませた彼は「…ぐはっ」と口から唾液を吐き、苦しげに体を折り曲げたのを見て驚いた。季利子さんが何かを仕掛けたんだろうけど、わたしには分からなかった。

「な…るほど…君は真空が作れる…のか…」
「そうや。無下限持ちの悟には効果あらへんけどなぁ…同じ特級でもアンタには効果ありやね」
「…く…っ」

何がどうなってるのか分からない。でも夏油先輩は未だに苦しそうな顔で喉を抑えている。でもその震える手を前に翳した次の瞬間、彼の背後から大きな呪霊が数体、姿を現した。素早い動作でソレは季利子さんへ襲い掛かって来る。でも彼女に近づいたところで何故か蒸発するように呪霊が消滅した。

「え…消えた…?」
「ウチとちゃんの周りに真空を作った。雑魚い呪霊は効かへんよ」
「な…るほど…大した…ものだな…ならば……これならど…うかな…」

夏油先輩が言った瞬間、大量の呪霊がわたしと季利子さんの周りを囲んだ。それを見た季利子さんは小さく息を飲んでわたしの手を掴むと背後に倒れている護衛の人達の方へ走って行く。

「やはり…君の力が及ぶ範囲は…限られてるようだ…」

季利子さんが他へ意識を向けると夏油先輩は急に大きく息を吸い込み、にやりと笑みを浮かべた。

「…それでもオマエを近づけさせるようなことはしないで」

季利子さんは倒れている護衛の術師たちを守るように傍へ立つと軽く舌打ちをしている。わたし達の周りを囲んでいた呪霊は季利子さんの言うように一定距離に近づいて来ると消滅した。だけど夏油先輩は何かから解放されたように笑みを浮かべると、片手を天高く翳した。すると大きな鳥のような呪霊が出現し、夏油先輩は宙へと舞い上がる。

(上から攻撃を仕掛ける気だ…!)

季利子さんの力が及ばない範囲から狙ってくると気づいた時、彼女が「ウチから離れないでな」と呟いた。彼女の実力は想像以上に高い。だけどこのままだと消耗戦になり、周りにも影響が出るかもしれないと感じた。帳を下ろしていない戦闘は危険すぎる――。

――何で術式使わねえの?

何かわたしにも手伝えることはないかと考えた時だった。過去に悟に言われた言葉が脳裏をよぎって、次の瞬間には術式を発動していた。

「これは……」

宙を浮いている夏油先輩の動きが止まり、驚愕したような表情で辺りを見渡している。どうやら上手く幻覚状態に陥ってくれたようだ。

「…何やアイツ…明後日の方向見て何してはるん」

空中でキョロキョロと辺りを見渡し、全く違う方向を見だした夏油先輩を見て、季利子さんが怪訝そうに呟いた。

「わたしの術式です…」
「え?」
「…殆ど練習以外で使ったことなかったけど…昔、悟に言われたことを思い出しました…すみません。遅くなって」
「まさか…妖狐の術式…?」
「はい。でも戦闘は出来ません。わたしが出来るのはせいぜい幻覚を見せて敵を惑わせること。夏油先輩が手あたり次第、攻撃を始めたら防ぐことは不可能です。だから今のうちに退却しましょう」
「せやけど彼らを置いては行かれへん…!」

季利子さんは後ろに倒れている術師たちに視線を向ける。確かにわたしと季利子さんだけなら逃げることは可能かもしれない。でも意識のない彼らを連れて逃げることは無理だ。置いて逃げようとすれば、夏油先輩は必ず彼らを人質にするだろう。

(じゃあどうすれば――)

そう思った時だった。夏油先輩がふとある方向へ視線を向けた。今も幻覚を見ているはずなのに、まるでその方向から何かが近づいて来るのが見えているかのような動作に、わたしと季利子さんも自然とその方向へ顔を向ける。

「やれやれ…もう気づかれたか…」

夏油先輩は苦笑交じりで呟くと、「」とわたしの名を呼んだ。ドキリとして見上げると、彼は視線を彷徨わせながら「その辺にいるんだろう?」と笑いを噛み殺す。

「君の夫が来たようだから私は退散するよ。まだ悟と呪いあうには早いからね」
「……っ?」
「でも君を諦めたわけじゃない。年内にはまた迎えに行くからいい子で待っておいで」

夏油先輩はそれだけ言い残し、鳥の呪霊と共に夜空へと飛び去って行く。彼の気配が遠ざかっていくのを感じ、安堵の息を洩らした瞬間、どっと汗が噴き出してきた。知らないうちに酷く緊張していたようで、脚の力が一気に抜けていく。その時、ふわりと風が動いて、わたしの身体は何かに包まれていた。

「…さ…悟?!」
「良かった…無事で」

背後からわたしを受け止めるように支えてくれたのは悟だった。目隠しを外し、綺麗な碧が優しく微笑むから、昼間も会ったのに酷く懐かしい気がして涙が溢れてくる。

「…悟!」

悟の安堵した表情を見たら色んな想いが溢れてきて、わたしは恥も外聞も捨てて悟に抱き着いた。今になって震えがきた体を、悟も強く抱きしめてくれた。

「この残穢…傑が来たんだろ。数キロ先まで殺気が漂ってきた」
「…ん…わたし…を…連れて行こうとした…」
「…アイツ…僕に言ったことは冗談じゃなかったんだな…」
「え…?」

悟はわたしを抱きしめながら、ぼそりと呟いた。その言葉の意味が分からず、悟を見上げると、彼は濡れたわたしの頬をそっと指で拭ってくれた。

「昔…傑が僕に言ったんだ。もしちゃんが私の子を妊娠したら…私の術式を丸ごと受け継いだ子が産まれるのかって…。あの頃もやけに狐憑きの話に食いつくなとは思ったんだけど…」

悟は夏油先輩がわたしの前に現れたことで、すぐにその理由に気づいたようだった。

は僕が守るから心配しないで。大丈夫だから」
「…ん…うん…」

ぎゅっとしがみつくと、悟は優しく頭を撫でながらわたしの額にキスを落とした。でもそこでハッと息を飲む。

「あ、あのね…季利子さんが助けてくれたの…彼女が来てくれなかったらわたし確実に連れて行かれてた…」
「…季利子のヤツ…そうか」
「あ…ご、ごめん…」

そこで気づいた。すぐそばに季利子さんがいるのに悟に抱き着いてしまったこと後悔しながら体を離す。この時のわたしはまだ悟と季利子さんが愛し合ってると思い込んでいた。

「何で離れるんだよ…」

わたしの行動に悟がムっとした顔で口を尖らせるのを見て「だって季利子さんが…」と言った瞬間、悟は何を思ったのかわたしの顔を両手でつかむと、ぐいっとある方向へ向けた。そこには倒れている護衛の術師たち。そして季利子さんがその中の一人にしがみついていた。

「…圭吾!しっかりしいや!圭吾…!」
「え……」

圭吾――?と脳内でクエスチョンマークが量産されていく。季利子さんは気を失っている圭吾に覆いかぶさるようにして泣いているように見えた。どういうことなのか分からず、わたしの脳が一時フリーズする。その時、意識のなかった圭吾が薄っすら目を開けた。

「…ん…きり…こ…?」
「圭吾…!」
「いだだ…っ」
「圭吾のアホ…!めっちゃ心配してんから…っ」
「…い、いや…何で…オマエが…ここに…?」
「そんなん圭吾追いかけてきたに決まってるやん……今日はちゃんの護衛の日や言うてたやろ…せやから仕事終わりに一緒にご飯食べ行こう思たのに夏油のアホが彼女をさらおうとしとったし、こらアカン思て…」
「そう…か…悪かった…な…心配…かけて…」
「無事ならええねん…」
「季利子……」

「………」

その二人のやり取りを延々と見せられ、戸惑いつつ悟を見上げれば、悟は苦笑いを浮かべながら「ああいうこと」とわたしをもう一度抱きしめた。

「え……ちょ、ちょっと待って……どういう…こと?」

何で圭吾と季利子さん?何がどうなってるの?と脳内が更にぐちゃぐちゃで、理解するまでに時間がかかっている。二人を見ている限り恋人同士の会話であり、季利子さんと悟は今も愛し合ってるんじゃないの?というところからして間違いだったってことになる。

「ったく。やっぱりまだ僕と季利子のこと、そんな風に思ってたんだ」
「…な…だって、え?あの二人…」

まだ戸惑うわたしを見て、悟は呆れたように笑った。

「季利子は昔から僕じゃなく、圭吾のことが好きなんだよ。そして圭吾も季利子が好き。ってことは?」
「…………悟は……無関係…?」
「そーいうこと」
「え…?で、でも季利子さんはそうでも、悟は季利子さんのこと好きなんじゃ…」
「ないない。誰があんな性悪好きになるかよ。誤解もいいとこ」

悟はうげっといった顔で舌を出している。そこへ「聞こえてるで、悟!」と季利子さんの怒鳴り声が聞こえてきた。花のように美しく、おしとやかなイメージとはかけ離れた季利子さんを見て、これまた少し呆気に取られてしまった。

「性悪はアンタやろ、悟」
「いやいやいや…オマエに言われたくないよ。圭吾の前でだけ猫かぶってるだろ」
「猫なんかかぶってへん。どうでもいい男にまで優しくする"優しさ"は持ってへんだけやし」
「あーっそう」
「あ~ほんまちゃんが生まれてくれはって良かったわぁ~。このクズと政略結婚しないで済んだんはちゃんのおかげやし」
「は?誰がクズだよ」
「悟しかおらんやろ」

またしても言い合いが始まってわたしは唖然としてしまった。それを見かねたのか、大怪我を負っている圭吾が「まあまあ…その辺にしとけよ」と間に入っている。この状態に慣れてると言った感じだ。

がビックリしてんだろ…?」
「あら、ほんまやわ。ごめんなぁ、ちゃん」
「……。これで誤解は解けた?」

圭吾、季利子さん。悟。3人の視線が一斉にわたしへ向く。そこでやっと理解が追いついた。同時に、わたしが今までとんでもない誤解をしていたことに気づき、顏が真っ赤になっていく。
悟と季利子さんは今も愛し合っている――。
そう思い込んでいた自分がとてつもなく間抜けに思えて恥ずかしくなったのだ。そしてその恥ずかしさに耐え切れなくなったわたしは――その場から逃げ出した。

「は?おい、!」

すぐに動けるとは思わなかったらしい。悟の驚いたような声が背後で聞こえた。だけどこの時は体が勝手に動いて、どこへ行くともなく街中を走って行く。驚きと、困惑。そんな感情が入り乱れて、同時に悟と季利子さんが何でもないと分かって嬉しくて、一気に色んな想いが溢れて綯い交ぜ状態だ。自分でもどうしていいのか分からない感情が次から次に溢れてくる。

(ダメだ…情報量が多すぎて何も考えられない――)

「はぁ…はぁ…」

気づけば家とは反対にある大きな公園の傍まで走っていた。でも息切れがして少しずつ走る足を緩めていく。逃げたってどうしようもないのに、今は一人でゆっくり頭の中を整理したかった。

(そう言えば…前にもこんなことあったっけ…)

悟から逃げて、あの時は悟がわたしの残穢を追いかけて来てくれた。残穢を残さないよう細心の注意を払いながら逃げたのにあっさり見つかって、あの時は本当に驚いた。悟の六眼には敵わない。そう思った。だからもし、今も追いかけて来てくれてるなら、またすぐに見つかってしまう。
だったら、もう言わなきゃ――。
悟と季利子さんが何でもなかったと分かったなら、後はわたしの中の問題だ。このまま何もしないで終わらせたくはない――。

「…!」
「―――っ?」

不意に手を掴まれ、引き寄せられる。振り向けば悟が不安そうな顔で立っていた。やっぱり追いかけて来てくれたんだと涙が溢れた。

(言わなきゃ…。もう躊躇う理由はなくなったんだ…)

「あ、あの…」

もしかしたら、呆れて受け入れてもらえないかもしれない。この後に及んでまだそんな小さな迷いが心に生まれる。だけど、今こうして手を握ってくれている悟を信じて伝えたいと思った。

「あのね、わたし…悟のこと――」

そう言いかけた時、わたしの言葉を遮るように悟の指がくちびるに触れた。一瞬、告白すら拒まれたのかと思った。でも悟は困ったような微笑を浮かべて「僕から言わせて」と、わたしに言った。

「――…オマエが好きだ」

それは初めて悟の口から紡がれた、想いの言の葉だった。