lesson-03

1.


(一睡も出来なかった…)

むくっとベッドから起き上がると、はハアっと深い溜息をつく。昨日もあの後は殆ど五条に運転してもらって現場まで移動した。

"今の状態で運転させられないよ"

五条がそう言ってに仕事をさせてくれなかったということもあれど、補助監督として情けない、と項垂れる。人生初めてと言っていい場面に遭遇し、激しく動揺した心は静まるどころか、五条と行動を共にすればするほど強まる一方だった。五条も申し訳ないという思いからなのか、文句ひとつ言わずにのフォローをしてくれたのは意外だった。とはいえ、フォローする立場の人間がフォローされてしまうという失態を犯したのは事実であり、は自分を戒めるように頬を叩き、よし、と気合を入れてベッドを出る。今日こそ、きちんと自分のやるべきことをしなければ、と気持ちを引き締めながら顔を洗い、歯を磨くと少しだけ頭がスッキリした。

(でも…やっぱり昨日の自分の狼狽えようは失態だった)

鏡の中の自分を見つめながら、溜息をつく。これまでは来たるべき時が来れば、自然と行えるもの。そういう風に捉えて来た。なのに蓋を開けてみれば、見ただけで腰を抜かして震えることしか出来なかった自分に、心底失望し、ショックを受けたのだ。

(おばあ様はそこまで教えてくれなかった…)

の実家は古くからある名家であり、躾の厳しい家だった。特にが高専に入学した年に亡くなった祖母は厳格な女性であり、女の貞操観念を大事にしている人だった。
「未来の夫の為に肉体的な純潔を守らなければならない」と幼い頃から何度も言われてきたは、時代の移り変わり関係なく、この歳までそれを大事に守っている。周りから古いだの今時だのと揶揄されても、特に気にしなかった。人は人。自分は自分と割り切って、何の迷いもなく祖母の言葉を信じて来た。だが、昨日の突発的な事故とも言える現場を見てから、これまで一度も迷うことのなかったの気持ちがかなり揺らいだ。いや、揺らいだというよりは、今のままでは祖母の言う未来の夫を前にした時、自分が何も出来ずに終わってしまうことが不安になったといった方が早い。

「やっぱり…今のわたしじゃダメ…どうにかしなくちゃ」

は夕べチラっと頭を掠めたことを実行するかどうか迷っていたが、遂に決心をした。スーツに着替え、出かける準備をした後、ケータイでメッセージを手短に打っていく。一度読み返し、誤字脱字がないかをチェックすると、送信するためスマホをタップしようと指を近づけた。やけに鼓動がうるさい。ついでに一瞬震えが来たものの、悩んだところで出す答えは一つ。ならば躊躇う必要はないとばかりに、はメッセージを送信した。

「ふう…これで…よし」

メッセージは送信された。もう後戻りは出来ない。は覚悟を決めると、いつものようにスーツのジャケットをきっちり着込んで、部屋をあとにした。





2.


ピロンと可愛らしい音が鳴り、五条は上着のポケットからケータイを取り出した。送り主は今から一緒に任務へ行く予定のだった。ふと時計を確認したが、約束の時間までまだ30分もある。ということは「早くしろ」などの催促ではない。何か任務で変更でもあったんだろうかと思いながら、五条はメッセージを開いた。

"五条悟殿"

そんな出だしから始まったメッセージは、お堅いらしい文面で綴られていた。

"おはよう御座います。任務出発前に折り入ってご相談が。旧校舎の医務室まで来られたし。"

「……医務室?それも旧校舎…」

内容を読み、五条は思い切り首を傾げた。

「しかも相談って…アイツが…僕に?」

こんなメッセージを送られたのも、相談を持ちかけられるのも初めてのことだ。いったい何事だと思った。思い当たることがあるとすれば、やはり昨日のこと。別に誘われたからといって毎回手を出すわけじゃないが、あの時は病院と看護師というシチュエーションで何となくその気になってしまったのがいけない。の性格を考えれば、少し遅れただけで探しに来るということも想定しておくべきだった。伊地知の場合、五条が戻らなければ息抜きが出来るようで、特に呼びつけなければ、わざわざ五条を迎えに来るということはしない為、少し油断していたかもしれない。

「まさか…僕の担当を下りる的な話じゃないよな…」

もしそうなら五条も多少困ってしまう。これまでも伊地知を始めとした補助監督には幾度となく無茶ぶりをしてきたせいで、五条と組まされるのを渋る人間が後を絶たない。そのことで夜蛾正道学長からも散々嫌味を言われているのだ。むさい男より、可愛い女の子なら優しく出来ると冗談で言ったところ、ちょうどが高専に戻ることが決まり、夜蛾が一縷の望みをかけて彼女に託したというのも何となく五条は分かっていた。なのにたった一日で愛想を尽かされたのだとすれば、夜蛾の全怒りは自分へ向けられてしまう。

(夜蛾学長の説教、しつこいからなー…)

ガシガシと頭を掻きつつ、どうやってを引き留めようかと考える。それに夜蛾の説教を抜きにしても、は優秀な上にちゃんと言うことを聞いてくれる。おまけに目の保養になるくらいの美人だ。愛想はないが、媚びた笑みを見飽きてる五条からすれば、そこも愛嬌に思えるし、元々少し変わっているのことを面白いと思うくらい五条は気に入っていた。出来ればこのまま自分の担当でいて欲しい。

(普通の女の子ならお洒落なレストランで食事をご馳走するだけで事足りるんだけど…はそーいうの興味ない子だからな…)

あれこれ考えたが、の機嫌を直す効果のあるものが浮かばない。そもそも五条はのことを殆ど知らないことに気づいた。

「そーいやって…何が好きなんだ?」

趣味らしい趣味もないようで、学生の頃には見かけるたび熱心に勉強ばかりしていたのを思い出す。の好きな食べ物さえ知らないことに気づいた。

「こうなれば直接、本人に聞くしかないか…」

あれこれ考えながら歩いて来たせいで、気づけば旧校舎前に立っていた。ここは五条が入学する以前に使われていた建物らしいが、かなりの年代物で、今ではすっかり物置と化している。任務関連の資料も今ではパソコンを使用しデータ化が進んだことで、補助監督たちもタブレットを使用している為、紙の資料は殆ど使われない。なので旧校舎には未だデータ化されていない古い資料なども山ほど置いてある。五条などはサッサと燃やせばいいのに、と思っているが、いつ過去の資料が必要になるか分からないからと、大事に取ってあるらしい。そういった過去の事案もデータ化すればいいだけの話なのだが、何せその作業をするのは補助監督の仕事だ。術師と同じくらい、いやそれ以上に細かい作業が多くて忙しい補助監督は、なかなかそこまで手が回らないのが現状だった。

「さて…どうやって引き留めるかな」

すっかりから三行半みくだりはんを突きつけられる気持ちになりながら、五条は旧校舎に入っていった。木造校舎だけに、一歩足を踏み出すだけで、ギィィっと苦しそうな音を立てる。

「えっと…医務室って言ったっけ…」

旧校舎の医務室は二階にあったのを五条は思い出した。入口正面の、これまた穴が開きそうな階段をのぼりながら、六眼でを探してみる。すると二階奥の部屋に彼女の呪力を捉えた。かすかに揺らいで見えるのは、やはり負の感情が強いせいだろうか。嫌な予感が当たりそうだと溜息を吐きつつ、五条は二階奥にある医務室へ歩いて行った。

(それにしても…何でここなんだ?担当を下りるって話なら別にこんな場所じゃなくても、それこそ移動中の車内でも出来るはずだ)

今更ながらにその違和感に気づき、五条は首を傾げた。

「まあ…行けば分かるか」

気を取り直し、なるべくいつも通りに、五条は医務室のドアをノックした。

、来たよ」
「…ど、どうぞ」

中から少し上ずったような声が返って来て、すぐに扉を開ける。このドアも建付けが悪いのか、ギィィっというホラー映画のワンシーンにありそうな音を立てた。

…?どうした?こんな場所に呼び出して。愛の告白でもしてくれんの?」

医務室の奥、窓の外を眺めている後ろ姿を見つけて、五条はなるべく普段通りに軽口を叩いた。もちろん言ったことは冗談で、が自分に対し、そういう感情を一切持ち合わせていないことは百も承知だ。女にモテるという自覚のある五条でも、だけは落とせる気がしない。そもそも職場の同僚に手を出そうとも考えていなかった。五条が求めるのは後腐れのない相手であり、身近な女性ではない。

「すみません。朝から呼び出してしまって」

五条が入って来たのを見ると、は振り返り、バカ丁寧に頭を下げた。その表情は少し疲れているようにも見える。

「いや、別にいーけど…行きの車ん中じゃダメな話?」
「はい。事故を起こしたくはないので」
「……事故?」

その言葉の意味が分からず、五条が眉間を寄せると、が真っすぐ五条を見上げた。

「五条先輩にお願いがあります」
「…お願い?相談じゃなく?」
「どちらもです」
「…えっと…それは僕の担当を下りたい、とか…そういう話?」
「…?いえ、違いますけど」

今度はが眉を寄せながらもキッパリ否定したことで、五条は多少ホっとした。

「そういう話なら五条先輩ではなく、直接夜蛾学長にお願いします」
「まあ…そう、だよね、うん」

真顔で言われ、ドキっとしたものの、今はのお願いの方が気になった。自分の担当を外れたいとかでないのなら、いったい何のお願いだろうと、首を捻る。は小さく咳払いをすると、再び五条を見つめた。汚れのない澄んだ瞳は、素直に綺麗だと思う。そんなことを考えていると、が不意に口を開いた。

「わたしは結婚する相手以外との性交渉はしないと決めています」
「……は?」

五条は本気で驚いた。突然、何を言い出すのかと思えば、いきなりの下ネタ的な話をされ、さすがの五条も頭が混乱する。

「え、っと……何の…話を――」
「わたしの貞操観念の話です。続けます。いいですか?」
「……い、いい…けど…」

唖然とした五条を、相変わらず感情のない顔で見上げながら、は話を続けた。

「子供を作る作業だと思っているので、婚前交渉には全く興味がありません。する時は結婚して子供を作る時と決めています」
「あ…いや、オマエの貞操観念が強いのは分かったけどさ…。それを何で僕に?」
「はい、では…単刀直入に言います」

は一呼吸置くと、両手を前に揃えて強く握りしめた。

「もし五条先輩に不都合がないようでしたら……わたしに生殖行為の方法を教えてくれませんか」
「…………」

何の冗談だと五条は聞きたかった。