lesson-08



1.

小鳥のさえずりが聞こえる中、カーテンの隙間から朝日が差し込むベッドの上で、は目も虚ろな状態で座っていた。酷い寝不足なのに、極度の緊張や羞恥心がグチャグチャで、眠りについたとしても夢の中にまで五条が現れ、すぐに目が覚める。そのたび動悸がして全身に熱が回り、眠れなくなった。その繰り返しで朝を迎えたので脳が疲れているといった感じだ。なるべく思い出さないようにして深呼吸を繰り返しながら、顔を洗い、歯を磨く。

(眠い…)

歯を磨いている間も、絶え間なく睡魔が襲って来る。これが夜の内に来てくれればいいのだが、何故か朝になってやってくるのは困りものだ。

(自ら望んで新ルールをお願いして、その影響も考慮していたのに…)

回らない頭でそんなことを考えたせいか、またしても夕べの行為が脳裏に浮かび、はぎゅっと自分の体を抱きしめるように胸元を隠した。五条に触れられた感触を思い出すだけで心臓が早鐘を打ち、顏が一気に熱く火照っていく。

(落ち着け…順調に進んでる…この進度を止めるつもりはない。短い期間での習得に向けて邁進まいしんあるのみ)

もう一度深呼吸を繰り返すと、少しだけ動悸が治まって来た。ホッとしつつスーツに着替えて、は朝食を済ませる為、食堂に足を運んだ。

「あ、おはよう。――って、アンタ、酷い顔じゃない…大丈夫?」

食堂に顔を出した途端、家入に声をかけられ、はふと顔を上げた。

「おはよう御座います…硝子先輩」

テンプレの如く挨拶をすると、家入は食堂を見渡し、の腕を掴んで端っこへと引っ張っていく。は力なくフラフラとついて行った。

「もしかして…夕べ…その…」
「はい…五条先輩の指導を受けました」
「……マジ?それでまた眠れなかったの?夜勤明けの私より酷い顔じゃない」
「そう…ですか…?」

は首を傾げながらも、小さく欠伸を噛み殺した。その状態を見て、家入はやはり心配になった。

「もしこれ以上、眠れないようなら薬出すから私のとこに来な」
「…でも――」
「ダメ。五条との関係を続けるつもりなら、そこは言うことを聞いて。じゃないとが心配だし医師として見過ごせない」

家入の顔は真剣で、彼女の優しさが伝わって来る。は目を伏せて「分かりました…」と素直に頷いた。

「私事で硝子先輩にご心配おかけしてすみません」
「そう思うならこんなこと今すぐやめて欲しいんだけどね」
「いえ…ここまで来たら最後まで続ける覚悟は変わりません」
「…全く。ホントにアンタは…」

頑固な後輩に苦笑しつつ、家入は小さく息を吐いた。ただ今のの様子を見ていて家入が一つ思ったのは、確かに結婚後にぶっつけ本番的に初夜を迎えた際、この状態になるのもそれはそれで大変かもしれないということ。五条とどんなことをしているのかまでは聞けないが、異性との接触でここまで消耗しているのだから、免疫がなさすぎる点では今から多少なりとも慣れておいた方がいいかもしれないとすら思えてきた。そこに相手を好きだという想いがプラスされてくれれば、なおいいんだけど、と家入は思う。とは言っても、相手が五条というのだけは勘弁して欲しいのだが。

「ま、あまり無理はしないでね」
「はい」

は僅かに笑顔を見せて、頷いた。




2.

今にも雨が降り出しそうな曇り空の中、その一級呪霊数体は五条の赫をもろに喰らって次々に消滅していった。

「…これで終了っと」

今ので午後の任務を全て完了した五条は両腕をぐっと伸ばして軽く息を吐いた。連日続く任務は五条にとって簡単なものでも、数があればそれなりにだれてくる。しかし明日は久しぶりに完全なるオフだった。それを思うと多少気分も軽くなる。

「さて、と…はどうしたかな…」

人気のない山道を下りながら、五条は車を止めた場所へ向かった。出発前に合流したがかなり疲れているようだったので無理やり車に置いて来たのだ。本人は不本意といった顔をしていたが、呪霊のいる現場でがやることはなく。千葉の外れにあるこの山林は避難させる一般人もいないことから、呪霊を祓うまでの間、体を休めてろと五条が説得した。本人も相当ツラかったのか、二つ返事でそれを承諾し、車に戻ったのは約30分前。ちゃんと寝てるといいけど、と思いながら五条はのんびりと歩いて行った。

(やっぱり夕べのアレが原因だよな…大丈夫か、のやつ)

本人からの申し出で早急に慣れたいと言われたものの、最初はゆっくり進めるはずだった行為を一気に進めたのはやはりまずかったか?と思った。五条にしてみれば夕べの行為はまだ入口にも立っていないさわり程度でしかなく、特に過激なことをしたという自覚はない。でも男に触れられることに全く免疫のないからすれば、更に眠れなくなるほどの衝撃だったようだ。

「あんなんで本当に慣れるのか…?」

触れるたびビクつき、身を震わせ、倒れるのではないかと思うほどに顔を赤らめるを思い出し、五条はふと笑みが漏れた。自然と、そんなが可愛いと思ってしまう自分に、少しだけ驚く。学生の頃から知っているが、これまでに対して女を意識したことがなかった。本来真面目なは見た目の美しさに反し、女をあまり感じさせない性格だったこともある。あの真面目なキャラが面白いと思うことはあれど、女として見たこともなかった。なのにここ最近はやたらと女の子に見えてしまう。それもあまりに可愛すぎて、つい欲情してしまうのだから嫌になる。

「お、ちゃんと寝てるな」

車が見えて来たところで、運転席のシートが倒れてることに気づき、五条は少しだけホっとした。しかも自分の術式でしっかりと呪霊避けの結界を張っている。

「さすが優秀だね、アイツは」

いくら五条が一緒でも、離れている時に呪霊が襲って来ないとも言い切れない。あれほど疲れていても、そこはキッチリしているに、五条は感心した。人は難なく通れるので、五条は車に近づき助手席のドアを開けた。座席へ座ってもは横になったまま、起きる気配がない。時計を確認すると、まだ午後の2時。あとは帰るだけなので、もう少し寝かせてあげたいと考えた五条は、自分もシートを倒して横になった。どうせ今夜も予定は入れていない。前なら休み前夜に会う女の一人や二人はいたが、今は何となくその気になれず、連日のトレーニングに付き合っていた。ただ夕べのように自分の方が我慢できなくなるといった状況は想定外だった。

「可愛い顔で寝ちゃって…」

の方へ体を向けて、しばし寝顔を見つめながら、五条は苦笑いを浮かべた。その時、フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちて来て、数分もしないうちに本降りへと変わる。朝の予報では午後から雨とのことだったが、遂に降り出したかと五条は少しだけ体を起こした。先ほどよりも濃い雨雲が空を覆い、山林のこの辺りは夕方のように薄暗くなって来た。

「すげー雨…帰りは僕が運転した方が良さそうだな」

そう呟きながら、ふとの方へ視線を向ける。未だ起きる気配もなく、気持ち良さそうな寝息を立てている。唇が薄っすら開いているところを見れば、熟睡しているようだ。

「無防備な寝顔…」

五条は静かにの方へ体を寄せると、上から寝顔を見下ろした。五条の方へ少し顔を傾けながら寝ているの長い髪は、シートへ垂れて白い首をさらけ出している。薄暗い雨の降る音が響く車内で、その光景はやたらと扇情的に見えて、五条はゆっくりと顔を近づけた。

(また時間外ですって…叱られるか?でも…任務も終わって誰も見てないし、これもトレーニングと思えばね)

そんな言い訳を作りつつ、僅かに開いた形のいい唇をやんわりと塞いで何度か軽く啄む。たったそれだけのことなのに、甘い疼きが胸の奥から腰にまで走ったような気がした。

(…触れただけのキスで反応するって…欲求不満か?)

思わず、唇を離し、視線を自分の下半身へ向ける。どう考えてもそんなはずはないのに、そこはシッカリ硬くなり始めていた。

「はあ……ヤバいだろ」

童貞じゃあるまいし、と自分に自分で笑ってしまう。その時、の瞼がかすかに動き、ふと目を開けた。

「お、起きた?」
「…ご…っ…五条先輩…?」

目の前に五条の顔があることに驚いたのか、は慌てたように体を起こした。

「な…何ですかっ」
「何って…寝顔可愛いから見てただけ」

ニッコリ微笑みつつシレっと言えば、の頬がカッと赤くなった。

「な…何かしましたか…?」
「ん?どーして?」

五条がシートを戻して座り直していると、が怪訝そうな顔で自分の唇に触れている。

「どことなく…湿っている気が……」
「あー可愛いから軽くキスだけしちゃったけど、ダメだった?」
「な…ダ、ダメに決まってるじゃないですか…っ今は任務中――」

と言いかけ、はふと窓の外を見た。

「あ…雨…いつの間に…」
「もうとっくに終わったよ、今日の任務なんて。まあ、だから…課外授業?」
「…だ、だからって何も寝ている時にしなくても――」
「ごめん。でも…こういうのもトレーニングにならないかなあと…」

笑って誤魔化すと、は更に目を吊り上げて五条を睨んだ。

「な、なりません…!トレーニングは医務室以外、認めないと言ったはずです」

は真っ赤になりながらシートを戻し、車のエンジンをかけてハンドルを握った。その手に五条が自分の手を重ねれば、細い指がビクリと跳ねる。

「な、なに――」
「運転は僕がする。、疲れてるでしょ」
「だ、大丈夫です。少し休ませてもらったのでスッキリしましたし、これくらいはしないと。五条先輩こそ、任務をこなしてきたんですから休んでて下さい」
「そう?まあ、僕は全然疲れてないけど」

と笑いながらシートに凭れた。はエンジンをかけ、ゆっくりと車を出す。だがこの雨なのに肝心なものを忘れているようだ。

「ワイパーしなくて大丈夫?」

と五条が苦笑気味に尋ねると、少し動揺していたのか、は「あっ」と声を上げ、慌ててワイパーのスイッチを入れた。

「す、すみません」
「いや、動揺させたの僕だし、気にしないで安全運転ね。慣れない山道だし」
「はい」

そこは素直に頷き、はスピードを落として、車をゆっくりと走らせた。雨はいっそう強まって来て、フロントガラスにバチバチと雨粒の当たる音が響く。しかし山道が泥濘になる前に、公道に出ることが出来た。もホっとしたのか、少しだけスピードを上げ始めた。ここから高専まで一時間以上はかかる。

「凄い雨だなー。前があんまり見えないし気をつけて」
「はい。あ、ライト付けますね」

昼間だというのに、雨雲に覆われた空のせいで少し先も見えにくい。はヘッドライトをつけて更に慎重にアクセルを踏み込む。今いる場所は時々畑や民家があるくらいで車通りも少ない。しかしそこから少し進んだ高速インターチェンジ付近で、が突然「あっ」と声を上げた。

「え、何。どーした?」

ケータイで任務終了の報告メールを打っていた五条は、ギョっとしたようにへ視線を向けた。

「ガソリン…」
「は?」
「ガソリン入れて来るの忘れてました…」

前方を注視しながらも唖然とした顔でが呟く。その顏は少しだけ青ざめている。見れば燃料警告灯、いわゆる給油ランプが点灯していた。これが点くということはガソリンが残り少ないことを示している。だが幸いなことに、だいぶ建物がある場所までは来ていた。五条は前方に見える高速道路に気づき、そこを指さした。

「マズいな。とにかくスピード落として、あそこに高速見えるから近くまでいって止めて。あそこまで行けばガソスタあるかもだし」
「は、はい…」

は動揺しながらもスピードを落とし、高速道路の高架下、ビルが立ち並ぶ一画に車を止めた。だがその瞬間、はシートベルトを外し、「ガソリンスタンド探してきます!」と言いながら車を飛び出していく。それには五条も慌てて車を降りた。

「待てって!こんな雨ん中、探し回ってたら風邪引くだろ!」
「平気です…!わたしのミスなので――」

と言いながら走って行こうとするの腕を五条が掴んだ。

「だったら僕も行く」
「い、いえ、それはダメです……って、あれ…?」

は驚いたように五条を見上げた。今の今まで降り注いでいた雨が急に当たらなくなったのだ。

「僕なら雨に濡れない。こうしてに触れてる限り、オマエも濡れない」
「あ…無限…」

思い出したようにが呟く。

「あーって言っても手遅れか…、びしょびしょ…」

滝のような雨の中を少しでも走ってしまったせいで、の髪からスーツから、すでにびしょ濡れだった。

「ったく…オマエ、こんな無茶するやつだったっけ?」

雨で額に張り付いた髪を、指で避けてやると、はドキっとしたように顔を上げた。普段のなら任務前に車のガソリンを確かめ、少なければしっかり給油してから出発したはずだ。普段の彼女だったならば、車の後ろに積んである予備の傘の存在にも気づいたはずだ。なのに今はそういった些細なことを見逃し、こんな状況になっている。

「すみません…うっかりしてました…」

悔しそうに項垂れるはどこか泣きそうな顔をしている。五条は小さく息を吐くと、辺りを見渡した。とにかく濡れ鼠のままではが風邪を引いてしまう。高速道路の高架下付近には気の利いたコンビニなどはない。だが代わりにいい場所があった。

「…とりあえずおいで」
「…え、ど、どこへ?ガソリンスタンドを探すんじゃ――」
「アテもなくこの雨の中、探してたら時間がかかるし、そこのホテルの人に聞こう。ついでにオマエは風呂に入って体を温めろ」
「…ホ、ホテル…って…」

自分の腕を引いて行く五条の背中を見ながら、ふとその先に視線を向けると、そこには煌びやかな建物が並んでいる。それの存在はでも知っていた。

「ラ…ラブ…ホテル…?」

五条は躊躇うことなく、その中へと入って行った。