lesson-16



1.

「大丈夫」

五条のその言葉には何故かホっとして、緊張が和らぐのを感じた。守るべき対象がいる現場は久しぶりで、気づかないうちに酷く緊張していたらしい。五条は後輩の状態にいち早く気づいていたようだ。

現代最強の先輩が近くにいるのだから大丈夫――。

その言葉を繰り返すと、は小さく深呼吸をして肩の力を抜きつつ気を引き締めた。

「では…行ってきます」

いつもの冷静な自分を取り戻したは生徒達が隠れている場所を見取り図で確認しつつ、先を歩いて行こうとした。その瞬間、腕を掴まれ、ぐいっと後ろへ引き戻される。何かを言う暇もなく、五条のくちびるがのと重なっていた。でもそれはすぐに離れていく。

「な…なにしてるんですか…っ」

一瞬、何が起きたのかと固まっていたは、キスをされたことに気づいた瞬間、ドンっと五条の胸を押し返した。当の五条は悪びれた様子もなく笑っている。

「いきなりこんな状況だけど、一応デート中ってことでお見送りのキス♡」
「し…しないで下さい…っ!任務中なのでデートも中断です――!」

真っ赤になりながらもはそれだけ叫ぶと、薄暗い廊下を走っていく。ただ瓦礫やゴミだらけの足場の悪い場所。すぐに足を引っかけ転びそうになっている。それでも五条を一度振り返り、ジロっと睨むとまた走って行った。その一連の動作をキョトンとした顔で見ていた五条はが見えなくなった瞬間、盛大に吹き出した。

「おもしれぇ~」

一級呪霊のいる場所へ歩き出しながら五条は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。いや、面白いのは忘れ去りたい過去の中で気づいている。あの頃の自分は偏った価値観を絶対的なものと思い込んでいた。でも目を覚まさせてくれたのは、五条の鼻っ柱をいい意味で折ってくれただ。五条にとっては恩人と言ってもいい。あの土台がなければ親友が裏切ったのを知った時、すぐに気持ちを切り替えることが出来なかったかもしれない。

(僕一人が強くても意味はない。未来の術師を育てるのはもちろんだけど…そんな彼らをサポートしてくれる存在も必要不可欠)

五条はそんな当たり前のことを、後輩の女の子に教わった気がしたのだ。そんな思いで伊地知も育てるべく色んな仕事を与えている。それを無茶ぶりと受け取られていることに五条は気づいていない。

「さて、と…は到着したようだし、こっちも仕事しますか」

軽く両腕を伸ばして体をほぐしながら、五条は大きな呪力の塊が見える部屋のドアを開けた。






2.

「みんな!どこ?補助監督のです!」

廃墟の奥の目的地に到着したは隠れているという生徒達を探すのに手間取っていた。何せ暗い。昼間だというのに建物は蔦に覆われ、窓からの光は遮断されている状態だ。は伊地知から借りて来た懐中電灯で前を照らしながら、生徒達を探した。さっきから低級呪霊が襲って来るがは自分の周りに結界を張っている為、身は守れている。

「この辺のはずなんだけど…」

先ほど五条が指し示した場所を見取り図で確認しながら、それらしき部屋を覗いてみたが、声をかけても生徒が顔を出すことはなく、人のいる気配すらしない。

「まさか…移動した…?」

そう呟いた時、ポケットの中のケータイが震動した。ビクっとなったものの、すぐに出してみると相手は五条からだった。

「はい」
?合流したか?』
「それが…どこにもいなくて…移動したんだと思います。先輩の方から確認できますか?」

しばしの沈黙の後、『あー…奥の方に更に移動してるっぽい』と五条が苦笑した。

がいる辺り、低級呪霊が多くて見づらいけど、かすかにアイツらの呪力が見えてる』
「分かりました。行ってみます」
『大丈夫か?』
「はい。結界で守ってるので。でも暗くて周りが良く見えない状況です。もし彼らと合流してもすぐに建物の外へ出られるかどうか…」
『マジか…』
「そっちはどんな感じですか?」
『ああ、こっちの低級は全て祓った。後は一番デカいの祓うだけ。ただ攻撃の規模がデカくなるから生徒達を非難させたいんだけど――』

と、五条が言いかけた時、はふと考えた。生徒達を見つけたとして五条に言ったように、すぐに全員を外へ連れ出すのは難しい。今のこの状況で生徒達は軽いパニック状態だと仮定して、補助監督の自分の言うことをすんなり聞いてくれるか分からなかったからだ。何かしら手こずることを想定すると、答えは一つしかないと思った。

「五条先輩」
『え?』
「彼らと合流したら、すぐわたしの結界を広げて生徒達を守ります。なので五条先輩は気にしないで呪霊を攻撃して下さい」
『え…でもオマエの結界は呪霊から身を守れても建物が崩れたら――』
「大丈夫です」
『大丈夫って…』
「普段、術師の方と行動する時は全く使わないので五条先輩は知らないと思いますが、もう一つの結界を使います」
『もう一つの…結界…?』
「はい。わたしの術式は守ることに特化してるのは知ってますよね」
『ああ。そりゃ知ってるけど…』
「術式を展開すれば呪霊以外の、要は物体からの物理的な攻撃を拒否することが出来るんです。普通の結界は呪霊を弾いて人が通れますが、その結界はわたしが許可した人や物以外は入れません」

の言葉に五条は小さく息を飲んだのが分かった。

「五条先輩の無限と少し似たような効果の結界と考えて下されば。要は呪詛師対策用です」
『マジか…オマエ…そんなもんまで使えるようになってたのか』
「……夏油先輩に…自分の得意なものを伸ばすといいと言ってもらった時から母に教わっていました。でも普段、物理的なものを避けるようなことは起きないので、まだ使ったことはありません」
『…そうか。傑が…』

親友の名前を聞いて五条はかすかに笑ったようだった。あんな結果になってしまったものの、夏油は確実に後輩へ大切なものを残していってくれたことを喜んでいるような、そんな声色だった。

「生徒を見つけて保護したらケータイで五条先輩に知らせます。そしたら呪霊を攻撃して下さい」
『…分かった。オマエを信じるよ』
「………」
…?』
「いえ、すみません。…あと今、話した結界は物理的なものから身を守れますが、対呪霊への効果は薄まります。同時に扱えないのが欠点でして…。なので…五条先輩は呪霊を祓った後、すぐにこっちへ来て貰えますか?」
『お安い御用』
「では、今から奥に移動します」

そこで通話を終えた。しかしすぐに息を吐いて胸を抑える。心臓は素直に反応していた。

"分かった。オマエを信じるよ"

五条にそう言われた時、胸が震えたのは嬉しかったからだ。あの五条から、信頼してもらえたことが素直に嬉しかった。学生の頃を思えば、それはにとって大きな意味を持つ。

「よし」

再び気合を入れて、暗い廊下を進む。足元を照らしながら歩いて行くと、奥に非常口の扉が見えて来た。あとは上や下に続く階段が見える。しかしゴミや古いストレッチャーなどが散乱していて非常口は使えそうにない。その時、階段の下辺りで何かが動く気配を感じた。

「…誰かいる?補助監督のです」

下の方を照らしながら小声で声をかけると、息を飲む気配が伝わって来た。

「こ、ここです…!」

すぐに小声で返事をするのが聞こえて、はホっと胸を撫でおろした。どうやら3人とも無事のようだ。

「ケガしてる人は?」
「あ…平気です。擦り傷くらいで…」
「じゃあ、ゆっくりこっちに上がって来れる?」
「はい」

返事をしているのは女子生徒で、声の感じからシッカリしているとは思った。伊地知の話では女子生徒一人と男子生徒二人ということだった。少しして高専の制服を着た女子生徒が姿を現し、後ろに男子生徒一人が顔を見せる。

「あ、あの…その辺に呪霊が沢山いたんですけど…」
「ああ、今もいるけど大丈夫。わたしは結界が張れるから攻撃は受けないわ。だから全員わたしの傍に来てくれる?」
「はい!ほら、井田くんも田中くんも早く来て」

その女子生徒が声をかけると、一人は歩いて来たものの、もう一人は怯えたようにを見上げた。

「な…何で補助監督の人だけなんですか…?術師の方は?」
「もちろん来てるわ。今、五条術師が呪霊祓徐に当たってます」

安心させるように説明すると、3人は「五条って…」と驚いたように顔を見合わせている。

「五条先生が来てくれてるんですか?」
「ええ。わたしはあなた達の保護を頼まれてるの。わたしの結界にあなた達を入れたら五条術師が一級呪霊を攻撃する。その際、建物が崩れて来ると思うけど、わたしの傍にいれば大丈夫だから落ち着いて行動してくれる?」

の説明を聞いて安心したのか、最後の男子生徒もホっとしたように階段を上がって来た。だが、の結界に入る直前、真横の壁から伸びて来た手が男子生徒の腕を掴んだ。

「う、わぁぁぁっ」

男子生徒は自分の攻撃で呪霊の腕を振り払ったものの、パニックになった。階段を駆け上がろうとした際、体勢を崩し、足を踏み外した男子生徒の体が傾き、下へ転がり落ちる。

「ぅあぁっぁあ…!」
「田中!」

仲間が落ちたのを見て、もう一人の男子生徒が慌てたように結界から飛び出していく。

「待って!わたしのそばにいて!」

女子生徒の手を掴み、男子生徒を追いかけるようにも階段を下りていく。そこには転がり落ちた田中という生徒が気を失って倒れているのが見えた。

「おい、田中!しっかりしろ!」
「井田くん、さんのそばから離れちゃダメだよ!」
「でも田中が…!」

女子生徒に諫められた井田という生徒が、意識のない田中を揺さぶっている。この状態の生徒を運ぶ手段はない。はすぐに3人を結界に入れると、五条に電話をした。

『合流したようだな』

六眼で確認したのか、五条がホッとしたように言った。

「はい。でも田中という生徒が階段から落ちて意識のない状態です」
『え、マジで』
「はい。彼は大柄なのでわたしでは運べません。低級ですが呪霊も集まって来てます。なのでここで結界を展開します」
『分かった。なるべくそっちまで被害がいかないよう祓う。終わったらすぐ行くから、は生徒達を頼む』
「分かりました」
『じゃあ電話を切って僕の攻撃音がしたと同時に結界を切り替えろ』

それだけ言って五条は電話を切った。五条が攻撃をしたら結界を切り替える。それを頭に入れてその時を待つ。切り替えれば対呪霊への効果が薄まるので、長々とは使えない。

(ほんと不便な術式だわ…)

内心苦笑しながら、意識のない田中のそばへ屈んだ時だった。――突然、壁の中から大きな呪霊が姿を現した。

「…二級呪霊…?」
「きゃあぁっ!こ、こいつよ…ずっと私達を追いかけて来てたの…!」

さっき田中の腕を掴んだのと同じ呪霊のようだ。壁からすり抜け全貌が見えた呪霊は、その辺に浮遊している低級とは比べものにならないほどの呪力を感じる。

「え、コイツがあなた達を襲った呪霊なの…?」
「は、はい…ここへ入った途端、追いかけられて…私達の攻撃は効きません」

女子生徒が青い顔をしながら震えている。

(ということは…五条先輩が祓おうとしてる呪霊はコイツに引っ張られてきた…?)

てっきり五条が対峙している呪霊が本命だと思っていたが違ったようだ。

「うわぁぁっ」

目の前の大型呪霊がの結界を攻撃して来るのを見て、井田が頭を抱えてしゃがみこむ。しかし二級の攻撃くらいでは今の結界は破れない。

「大丈夫よ。この程度の攻撃では壊されない。とにかくわたしのそばにいて。範囲を広げれば広げただけ効果は弱まる。だからなるべく近くにいてくれると助かるわ」
「わ…分かりました」

二人が素直に頷くのを見てホっとしつつ、問題なのはこの後だ。五条が攻撃をした後、結界を切り替え、建物崩壊から生徒達を守らなくてはならない。でも今それをすれば、目の前の二級呪霊の攻撃をそれのみで防がねばならず、対呪霊に弱い結界ではすぐに破壊される恐れがある。

(五条先輩が向こうの呪霊を祓って駆けつけてくれるまでの数分間。どうにかして落下物とこの呪霊から生徒達を守らないと…)

その時、遠くの方で破壊音が響いて建物がガタガタと揺れ始めた。

(きた――!)

は生徒達の姿勢を低くさせ、自らもしゃがむと手印を結んで領域を展開。結界を切り替えた。地震のような地響きが続き、生徒達から悲鳴が上がる。二級呪霊も突然の揺れに驚いたのか、攻撃の手を休め、戸惑っているように見えた。は伊地知から受け取った式神を手にして、結界が呪霊に破られた時、少しでも時間稼ぎが出来るように準備をしておく。そのうち頭上からパラパラとコンクリートの欠片が、すぐあとにズンっという鈍い音と共に天井が抜け落ちて来た。でもそれは結界に当たり弾かれた瓦礫が周りの壁に当たり、騒音をたてる。

「きゃぁぁあっ」
「うあぁぁ」
「大丈夫!何が落ちて来ても当たらないから落ち着いて!」

叫びながらも、が懸念していたのは目の前の呪霊。少しすると落ち着いたのか、再び意識をたちの方へ向け始めた。獲物を前にして邪魔な何かに阻まれていることでイライラしているようだ。次第に攻撃の力が増していく。

(マズい…この状態で攻撃され続けたら結界が持たない…瓦礫がこれ以上落ちないならあっちの結界に切り替えた方が――)

そう思っている矢先、またしても壁が崩れ落ちて、結界の周りには瓦礫が山になっていく。でも目の前の呪霊はさっきほど驚く様子もなく、今はの結界を破壊しようと躍起になっている。その時、バチィっという嫌な音が聞こえた。結界の表面にヒビが入ったのだ。

(マズい、これ以上は…)

呪力を消費し続け、は体力的にも限界が近づいていた。その時、呪霊の大きな攻撃を受けてパァァンンと弾ける音と共に、たちを囲んでいた結界が消滅した。


「うわぁぁ!た、助けて…っ」
「下がってて!」

もう一度結界を張り直すのは間に合わない。はすぐさま式神を呪霊に投げつけ、呪文を唱えると、それが炎へと変わる。巨体が火に包まれ、呪霊が僅かながらもがきだした。しかし致命傷を与えるほどではない。すぐに消火され、呪霊は目の前まで迫って来ていた。手印を結ぶ隙がない。その時――の後ろにいた女子生徒が自分の術式で呪霊を攻撃し始めた。

「この呪霊、私達には倒せません!でも怯ませるくらいなら出来ます…!」
「オ、オレも…!これでも呪術師なんで!」
「アナタ達…」

さっきまでの怯えていた顔はすでに消えていた。呪術師としての責任を果たそうと、呪霊に攻撃を加えている生徒達を見て、はどこか懐かしい気持ちになった。生徒だった時のかつての自分を見ているような、そんな感覚だ。

(とにかく…五条先輩が来るまで時間を稼ごう)

意識のない生徒を庇いながら、目の前の呪霊を見上げたはもう一度式神を使おうとした。その時――。

!もう一度結界を張れ!」

どこからともなく五条の声が響き渡り、は考えるよりも先に最後の力を振り絞って対呪霊用の結界を張った。次の瞬間、大きなエネルギーの塊が呪霊ごと巻き込んでたちの方へ飛んで来る。

「きゃぁぁぁっ!」
「大丈夫!」

は女子生徒の体を抱きしめると、最後の呪力全てを結界の強化にあてる。ゴゴゴ…ッという音が響き、目の前の呪霊が五条の"赫"で消滅するのが見えた。だがその衝撃でまたしても頭上から大きなコンクリートの塊が落ちて来る。

(間に合わない…!この結界じゃこれは弾けない――!)

咄嗟に手印を結んだものの、すでに呪力はカラカラな上に体力も消耗している。意識が朦朧としてきたは「逃げて…」と小さく呟き、その場に崩れ落ちそうになった。その体を――ふわりと誰かが受け止めた。同時に遠くでドゴンっという音が響く。

「…よく頑張った」
「五条…せんぱ…い…?」
「アレは僕が弾き飛ばした。みんな、無事だよ」

ぼやける視界の中、五条が優しく微笑むのが見えたのを最後に、は意識を失った。