lesson-17



1.

「じゃあ生徒は頼んだよ」
「はい」

グッタリしている3人の生徒は、すでに伊地知が運転してきた車に乗っている。伊地知は彼らを見ていたが、ふと眼鏡を直して五条の腕に抱かれているへ視線を戻した。

「でも五条さんは…」
「僕はタクシー呼んであるからそれに乗って帰るよ。もこのまま連れてく」
「そ、そうですか。何かすみません。お休みのところ…」

伊地知が悪いわけではないのだが、任されたという立場上、不測の事態で特級呪術師である五条を呼び出してしまったことを深く反省していた。普段なら嫌味の一つを言われたとしても不思議じゃない。しかし五条は珍しく機嫌が良かった。

「いや、まあ僕が一時受け持った生徒のことだしね。連絡くれて良かったよ」
「え…」
「伊地知もお疲れ。帰りは安全運転で帰れよ」

言いながら肩をポンとされ、伊地知は驚愕した。あの五条が、昔から後輩いびりの酷い先輩だった五条悟が、ただの補助監督である伊地知にこんな優しい言葉をかけてきたことが、かつてあっただろうか。思わず空を見上げたのは、隕石か何かが落ちて来るのでは?と疑ってしまったせいだ。(!)

「ん?何で空を見上げたの?」
「い、いえ!いい天気だなあと…」
「いや、もう夕方だし薄暗いけど」

五条の指摘に伊地知も口元を引きつらせながら、「ですね…」と頷く。

「では私はこれで…」

そそくさと運転席へ乗り込む伊地知はこっそり額の汗を拭った。その時、後部座席にいた女子生徒が窓を開けて「五条先生」と声をかける。

「ん?どーした」
「あの…さんが気がついたらお礼を伝えてくれますか。"守ってくれてありがとう御座いました"って…」
「オレも…」

と男子生徒の井田も身を乗り出す。

「意識のない田中を守ってくれてありがとうって伝えて下さい…!」

田中は脳震盪を起こしているようで今も意識はないものの、他に外傷はなく。逃げられない田中を守ろうとがその場に留まっていたことは五条も気づいた。

「分かった。僕から伝えておくよ」

五条が頷くと、生徒達はホっとしたように笑顔を見せて、「また五条先生の指導を受けたいです」と言い残し、伊地知の車で帰っていった。

「指導ねぇ…。意外と僕、教師に向いてるかも」

独り言ちながら腕の中のを見下ろし、五条はふと柔らかい笑みを浮かべる。これまで呪術師として数えきれない任務をこなしてきた五条でも、他人から、それもかなり下の後輩からあんな風に言われたことはない。想像以上に嬉しいものなんだな、と初めての感覚に苦笑が洩れる。

「さてと…とりあえず、帰るとしますか」

迎えのタクシーが走って来るのを見て、五条はを抱え直すと、ゆったりとした足取りで公道へと歩き出した。





2.

パチっと目が開いた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。だがすぐに生徒達の顔が浮かび、慌てて体を起こす。

「え…?」

視界に入った部屋を見て、は一瞬呆気に取られた。てっきり瓦礫だらけの廃墟かと思えば、10畳ほどのやけに綺麗な部屋のベッドに寝かされている。目につく家具やカーテン、自分の寝ているベッドがやけに高級感溢れていて、どこかのホテルかと思った。

「ここ…どこ?」

混乱しつつ、はゆっくりと床へ足を下ろす。冷んやりとしたフローリングの感触がする。ついでに体のあちこちに痛みが走って顔をしかめた。

(そっか…わたし…呪力を使いすぎて…)

さっきの状況を思い出し、深い息を吐く。あんなに力を使ったのは今まで殆どなかった。

(わたしは…あの子達を守れたんだろうか)

最後、五条が助けに来たことは何となく覚えている。誰もケガをしていなければいいんだけど、と思いながらも、自分が置かれたこの状況も気になる。さっきはどこかのシティホテルかと思ったが、よく見ればここは誰かの部屋なんだろう。しかし開いたままのクローゼットにかけられた服を見て、それが誰の物か分かった時、痛みを堪えつつはドアの方へと歩き出していた。

「五条先輩…?」

ドアを開けると、そこは長い廊下。右を見ればこれまた広い玄関があり、そこに思った通りの人物の靴が置かれている。その隣には自分の穿いていたスニーカーがあった。それを確認したはとにかく五条を探そうと左へ向かう。そこは案の定、リビングだった。

「…あの、五条先輩…」

寝室以上の広さがあるリビングを見渡したが、五条はどこにもいない。ソファの上にはの着ていたモッズコートと、五条のジャケットが無造作に置かれていた。

「あれ、起きた?」
「……っ」

突然背後から声がしてビクっとした。振り向けば五条が濡れた髪をバスタオルで拭きながら立っている。

「あ…ご、五条先輩…」
「大丈夫?どこか痛いとこは」
「あ、いえ…ちょっと全身に筋肉痛みたいな痛みがあるくらいです」
「そう?なら良かったけど。ああ、もシャワー入っておいで」
「え?」

よく見れば五条はバスローブ一枚という姿。は慌てて背中を向けた。

「あ、あのそれより…生徒達はどうなったんですか?」

のんびりシャワーを浴びていた五条を見れば無事なのは明白だが、訊かずにはいられなかった。予想通り「全員、無事だよ」と五条が笑った。

「一人階段から落ちた生徒も軽い脳震盪だったみたいで、硝子から意識が戻ったってさっき連絡あったよ。他の二人もかすり傷で済んだ」
「そ、そうですか…良かった…」

全員が無事に高専へ戻ったことを知り、はホっと息を吐き出した。

「アイツら、にお礼を言っておいてくれって」
「え…?」
「守ってくれてありがとう御座いましたって。あと田中を守ってくれたことも感謝してたよ」
「そ…そう、ですか…」

五条からその伝言を聞いた瞬間、の胸の奥にじわりと暖かいものがこみ上げて来る。補助監督になって早数年。あんな風に誰かを必死で守ったことはない。守らずとも自分でどうにか出来る術師ばかりと仕事をしていたからだ。任務対象の近くにいた一般人を何度か結界で守ったことはあれど、相手は守られてることにも気づいていない。そんな風に守った相手にお礼を言われたのは初めてだった。

「ほんと、よく頑張ったな」

こんな風に優しく労われたことも。

「こ、この部屋は?」

背後に立った五条に頭を撫でられ、何となく照れくさくなったは、ふと思い出したように尋ねた。

「ん?ああ、ここは僕のマンション」
「…え、先輩の…?」
「前に話さなかったっけ?僕、都内にもマンション借りてんの」
「…え、何故そこにわたしを…?」

驚いて振り向いたを見て、五条はキョトンとしている。生徒達がいたのだから伊地知の車に乗れなかったことは分かるとしても。運ぶなら高専なんじゃないのかと思った。でも五条は苦笑しながら「だってまだデート終わってないでしょ」と肩を竦めた。

「デ、デートって…」

と言いながらリビングの窓へ目を向けた。すっかり日は暮れて――いや、すでに真っ暗だった。

「まだ7時だし」
「そ、そうですけど…」
「まあ映画は見損ねたけど、本当なら今はちょうど映画を観終わってディナーをしてる時間だし」
「ディナー…」
「ってことで、もシャワー入っておいで。廃墟うろついたから砂ぼこりまみれだし」
「えっ」

言われて自分の恰好を見下ろせば、確かに着ていたシャツやジーンズは所々ほつれて汚れている。

「あ、す、すみません…こんな汚れてるのに先輩のベッドで寝てしまって…っ」
「え?ああ、っていうか寝かせたの僕だし気にしないでいいよ。後で新しいのに交換しとくし。それより髪もボサボサになってるから洗っておいで」

五条は言いながらの手を取ってバスルームへと連れて行く。

「バスタオルはここの適当に使って」
「え、あ、あの…」
「ああ、着替えはが着れそうなの出しておくし。僕ので良ければ」
「…す、すみません。何から何まで…」
「何言ってんの。ここにを連れて来たのは僕だから。迷惑だったら最初から連れて来ないよ」

そう言って笑うと五条はバスルームを出て行ってしまった。取り残されたはとりあえず鏡で自分の姿を確認する。

「うわ…酷い恰好…」

五条の言うように髪は土埃で汚れたのか、あちこちが白っぽくなっている。これは遠慮している場合じゃない。こんな汚い恰好では高専に帰ろうにも帰れないと思った。仕方なく服を脱いでバスルームへと足を踏み入れる。先ほど五条が使ったことで中は湯気がこもり温かい。ふと五条がシャワーを浴びている姿を想像し、は顔が熱くなった。慌てて脳内の映像を打ち消し、シャワーのお湯を顔から浴びる。

(意識するな…ほんとのデートじゃあるまいし…)

と言ってよく考えてみればは男の家に上がり込むのも、ましてシャワーを借りるなどというのも初めてだった。前に付き合っていた男にどれほど誘われても家には行かなかった。相手のテリトリーに入れば、何が起こるか分からないと思ったからだ。なのでデートで会うとしても自分の部屋というのがの決めたルールのようになっていた。そう考えるとこうして裸で人様の、それも自分の先輩の家のバスルームに入っている状態はひどく落ち着かない。

(早く出よう…)

素早く汚れた髪を洗い、体も急いで洗うと、最後はシャワーで一気に洗い流す。そしてすぐに出ると脱衣所のバスタオルへ手を伸ばしたその時、いきなりドアが開いた。

「あれ」
「――っ!」
「もう出たの?
「な…何…」

いきなり入って来た五条を見て、は口をパクパクさせた。

「ああ、これ着替え。僕のシャツとスウェット――」

と言いながら五条は言葉をきった。は真っ赤になりながらバスタオルで体を隠している。毛を逆立てた猫のような姿に、五条も思わず吹き出した。

「今更隠さなくても前に一度見てるってば」
「な…い、いいから出てって下さい…っ」

苦笑いを浮かべる五条を睨みながらは着替えを受けとると、ジリジリと下がっていく。そんなに過剰反応されると五条の性格上、ついからかってしまいたくなるからタチが悪いと自分でも思う。

「別に前にあんなとこや、こんなとこも全部見てるんだし良くない?」

ニヤリとした笑みを浮かべて、下がっていくに五条が一歩、近づいて行く。するとが一歩下がる。それを三度ほど繰り返したものの、この攻防もの背中が壁にぶち当たったことで終わりを告げた。その壁に、五条が両手をつき、を閉じ込める。

「な…何ですか…」
「何ってが逃げるから」
「に、逃げてなどいません…」
「嘘つきだなぁ」

真っ赤になりながら五条を見上げて来るの瞳はかすかに潤んでいる。

がシャワーから出たら食事でもって思ってたけど…」
「……っ?」
「このままトレーニング、する?」
「……え…っ」
「さっき約束したろ」

五条にそう言われて、は思い出した。

――今夜…久しぶりにトレーニングしようか。

ウサギカフェで確かに言われたこと。そしてもつい頷いてしまったことを。

「あ、あれは…だって…」
「ここは僕の家だし…誰に気兼ねすることもなく出来るよ」
「……っ」

僅かに身を屈めた五条に耳元で言われて顔がカッと熱くなった。確かにトレーニングは進めたい。でもいきなり五条のマンションという逃げ場がほぼないという状況は少しだけ不安も残る。ただ五条はこれまでものペースに合わせてトレーニングを進めてくれていた。そこは信用に値するだろう。

「…わ…分かりました…っ。でも今は出てって下さい…着替えたいので…」

思わず言ったものの、最後は尻すぼみになってしまった。トレーニング中に肌を晒すのはにとって、もちろん恥ずかしい。でも自分でお願いしている手前、割り切ることにしていた。でもこの状況の中、全裸で対峙しているのは何とも言えない恥ずかしさがあるのだ。自分の身を守っているのがバスタオル一枚なのも少々頼りない。
五条にそんな気持ちが伝わったのか、小さく笑いを噛み殺している。

「分かった。じゃあ…ベッドのシーツは新しいのに交換しておくから着替えたらおいで」
「は…はい…」

内心ホっとして頷く。でも顔を上げた瞬間、唇を塞がれて目を見開いた。不意に落ちて来た五条の唇は、ちゅっと軽く啄むと、すぐに離れていった。

「…待ってる」

最後に真っ赤な顔で放心しているの頭をひと撫ですると、五条は片手を振りながら脱衣所を出て行った。一人になった瞬間、全身の力が抜けてはその場に座り込んだ。さっきされた時も感じたが、五条にキスをされるたび、前とは違うドキドキが襲ってくる。前は怖かったり、恥ずかしいという感情の方が強かった。なのに今はそれとは裏腹に、もっと触れていて欲しい、という思いが過ぎったのだ。

「……ありえない」

思わず呟きながら火照った頬を両手で覆う。の想像していた以上に、異性と触れ合うという行為は厄介な感情を生み出すものだということを、やけにリアルに思い知らされた気がした。